第二章:初めましてお嬢さん、ここは危険地帯ですよ?
「ワンちゃん、ワンちゃん! お手!」
すっかり目が覚めた少女はとにかく元気で、好奇心がとにかく旺盛だった。
「む~だったらおかわり!」
(……それ、する立場が逆じゃないかな?)
差しだしていた右手から左手に変えるも、無反応であることにムスッと頬を膨らませる。
「もぉ! ワンちゃん遊んで!!」
小さな全身で不満を主張してくるが、一番に引っかかるのは呼び方だった。
(ワンちゃんっていうほどの愛らしさを感じるかな?)
この世界で目が覚めた時、記憶が正しければほっそりとした四肢をしていた。毛並みは鈍い銀色をしていて、よく晴れた雪原が照らされて輝くほどに艶もあった。
だが今は、陰をみるほどなく成長している。
鋭く尖った爪を突きたてれば獣達に傷を与え、四肢は雪原を駆けているうちに鍛えあげられ、ちょっとのことで体勢を崩すことはない。それどころか、垂直に跳躍すれば軽く針葉樹林の背丈を超えてしまう。毛色だって獣達の返り血を浴びては、キレイに洗い流せる場所がなく汚れたまま。
記憶にあるワンちゃんというよりも、本来のオオカミとして成長しているといえた。
「ねぇねぇ、遊んでってばぁ~ワンちゃん」
少女の頭部なんかは一口で噛み千切れるほど小さく、身体だって腕を振るえば軽々と吹き飛び、爪をたてでもしようものなら肉塊に一瞬で変わるだろう。
それをしないのは、途方に暮れているから。
そのために一つ、手を打たないといけなかった。
「グルゥゥ」
「く、くすぐったいってばぁ~」
それは少しでも少女を静かにさせる事。
でなければ獣達を引きつけることになり、庇いながら闘うことになる。今までそういった経験もなければ、そうしないといけない理由が思いつかない。
(そのはずなんだけど……)
真っ赤な頭巾に隠れていたが、少女が身にまとう防寒着は質感が良い。
頭からすっぽりとフワフワの白いファーがついた赤いポンチョを被り、シワと汚れの無い白のレースがあしらわれたブラウス。それに華奢な両肩からサスペンダーで留めているカボチャパンツを履き、ほっそりとした両足を黒のタイツで防寒していた。ほかにも雪原地帯を歩くには適していそうな、膝下まである革の濃い茶色のブーツを履いている。
ここに来るまで獣達に襲われるどころか、ぬくぬくと育てられてきた面持ちがあった。
「ワンちゃん、ワンちゃん! もっと遊んでッ!」
(はぁ~本当にどうしよう)
「グルゥゥ~」
右前足をだして、少女がよじ登ってきたので上下させる。
「すごい、すごぉ~い!」
いつまでも少女は元気いっぱいで、静かなはずの拠点が賑やかだった。
「ワンちゃん……」
それからしばらく経ち、少女は遊び疲れたのか眠ってしまった。
(よく遊んでよく寝る。……自由で元気な娘だなぁ)
夢の中でも遊んでいるのか、無邪気な笑みを浮かべている。右前足を枕のようにしがみつかれて動けず、だからといって眠りを邪魔したいという気持ちはおこらない。
出来ることなら健やかに育ち、弱肉強食の自然界という冷徹で冷酷な世界を知らなくていいのだ。
(……こんな時に)
少し前から気づいていた、こちらの動きを探るように身を潜めている獣の気配。
それがしかも複数と、種族も別なのかけん制し合っているようだ。
このまま相打ちになってほしいと願うことだが、そんな楽観視は油断を招くことになる。
短く息を吐き、足もとで眠る少女を見下ろす。
わざわざ守ってあげる必要もなければ、偶然ここで鉢合わせた少女だ。こんな雪原地帯の、生と死のやり取りが行われる環境に迷い込み。これまで無傷どころか、襲われなかったことが奇跡ともいえる。
だがそれもここまで。
「ん~」
寝返りを打ったタイミングで少女から解放され、ようやく自由が利くようになった。
(……ここも使えなくなるのかな。そうなると次は……)
視線を拠点の外に向けると、いつの間にか雪が降り始めていた。
そのせいで獣が発する独特な匂い、嗅覚というアドバンテージ頼りに行動が出来なくなる。それを補うためにも別の五感、視覚はなによりも必須になっていく。
そうなると、拠点をでないといけなくなる。
雲行きが危うくなりつつある状況での移動は控え、出来ることなら拠点に籠って体力を温存しておきたい。食事もついさっき済ませたばかりで、本来であればそうしている。
(この娘には申し訳ないけど、生き続けるためだから……)
ゆっくりと歩みを進め、姿勢を低くして周囲を警戒する。捉えていた気配の方を注視しつつも、他にも周囲に潜んでいないかと神経を尖らせていく。
(なんだか久しぶりだな)
思い返す、最初の頃。
獣達――生肉を食べるという行為に不快感はあった。今となっては生きるため、当たり前の事となりつつある。
だからといって、最初から狩りが上手くできたわけではなかった。
右も左どころか、人間としてではなく獣としての生。誰かが生き方を教えてくれるわけでもなく、この世界の事すら定かじゃない。少女という存在が、更なる可能性を広げている。
一面には銀世界、どれだけ進んでも景色は変わることがない。だからここがどこで、どこに向かっているのか。辛うじて遠近感は周囲に自生する針葉樹林のお陰で保てて入るものの、何をすればいいのかわからない。
ただ純粋に、生きなければいけないという事実だけが根底にある。
……それだけ。
生きるためには獣達を狩って喰らわないといけないが、その方法がわからない。
何よりもどんな獣達が生息していて、身の振り方――戦い方すらも全て自分任せ。一歩間違えれば身の、命の危機に晒すことになる。
今回はその内の一つ、戦いで疲弊した獣を襲う。
そうすることで最小限の労力だけで食事にありつける。
だが今はお腹も満たされ、身を危険に晒すどころか逃げの一手。そのために少女を囮にする方法だってあるのだが、そうしていない。
空気を引き裂くような甲高い鳴き声、それに負けずと威嚇し返す遠吠え。
(群れ同士か。意外と珍しいな……)
針葉樹林の上を素早く動き回る赤茶っぽい毛並みの獣。それぞれに個体差は有れど統率のある動きで相手をかく乱、その隙を突いて攻撃を仕掛けていくのだろう。
片や灰色の毛並みが層をなす、四肢を持つ獣。一見すると種族が似ているのかと思えば、後ろ脚で立っては相手取る構えや、軽々と針葉樹林をよじ登っていくではないか。
跳躍とは違った方法で、制空権を得る獣を狩るために学んだのだろう。
狙いを定めたように針葉樹林の上を移動する獣に襲いかかっていくと、それを待っていましたかのように背後から数体が飛びかかる。
それすら想定済みで、数匹が守るような攻防が繰り広げられていた。
どちらかがやられれば容赦なく息の根を止められ、そこらに転がっている。
群れとしての抗争。
その原因は少女なのか、もしくは偶然か。
(この場合は静かに見守るしかできないかな)
第三勢力として割って入ったところで、群れという数には敵わない。一方的な袋叩きにされて、真っ先に逃げなかったことを後悔するだろう。
ただそれは、命を落とした後での事になる。
一度死んだ身としては、後悔している暇すら与えてもらえなかった。
何よりも逃げなかったという行為。
(天候も悪くなりつつあるし、このままだと似た獣が寄ってくるな)
身を危険に晒してまでの行動とは思えないほど消極的で、状況を見定めている余裕はない。なし崩しに巻き込まれては意味がなくなる。
そうならない為には動くしかない。
「ヴガァ!!」
放った咆哮は周囲の空気を震わせ、降り始めた雪すら吹き飛ばしていく。
たったそれだけで圧倒的な存在感を示し、抗争に割って入るという強者か。もしくは命知らずの愚か者と映るだろう。
集まる敵意の籠った視線、獲物を横取りしに来たことへの対抗的な姿勢。中には群れとして行動している内に培った、数という有利を理解しての嘲笑。
獣とはいえ、僅かながらの知性を兼ね備えていた。
(……って、それはこっちもか)
言葉は通じなくとも、その場を支配する雰囲気が物語る。
これまで生き残るためにしのぎを削り、群れとして行動を共にする選択をした。
同じ種族とはいえ自らを優先、それどころか喰らうという野生の本能をむき出しで行動する獣もいるくらいだ。
こうして生存しているという事実が、群れとしての実力を示す。
時間にして数秒。お互いの出方を推測し、力量を図るには十分過ぎた。
「キィィ!!」
「バァウ!!」
合わさる獣達の耳を劈くような叫び声に臆さず、四肢に力を込めていく。
(数はわからない。……けど、ヤルことは一つ)
「ヴガァ!!!!」
さっきよりも相手を威嚇するために咆哮を放ち、地面を力強く蹴った。
狙うは、群れの中から一番に飛びかかってきた獣。ではなく、その後ろで隙を伺い控えている複数といる方だ。
手始めに針葉樹林の上、姿をみせずとも群れの中で一番の存在が潜む場所。群れの抗争から近すぎず、それでいて遠く離れていない一本の針葉樹林。一見すれば周囲と特に変わった自生の仕方をしているわけでもなく、ただただ変哲もない。
だがそれが露骨で、違和感を拭えない。
まるでそこの何かを隠すように近づかせない、どころか示し合わせた統率性。
(見つけた!)
枝を足場に迷いなく駆け、辿り着いた幹の裏側に潜む一体。群れの個体と比べて体格が一回り大きく、赤茶っぽい毛並みの色合いも濃い。頭部の左側には負傷した痕があり、生き残ってきた猛者という貫禄が似合う。
「ギィィ!!」
ガサついた喉から発せられる声色には驚愕、それでも焦りを一切感じさせない余裕のようなモノがあった。
それ故の、群れとして上に君臨してきた実力を有する。
咄嗟の事とはいえすぐさま動きが、その場からの逃走を図っていく。移動の速さについてこれずに追いかけてくる群れのいる方へ、まるで盾にでもするかのように針葉樹林の上を移動する。
群れとしても動揺、飢えを守らなくてはという必死さが窺えた。
だからといって一体ずつ相手にはせず、統率者を叩くために速度を上げて駆ける。
四方から襲いかかってくる群れをその空間に置き去りか、時には足場として蹴りながら進む。
便乗するようにさっきまで争っていた獣達が加わり、数を減らしてくれる。
様々な叫び声に耳すら傾けず、群れの統率者に追いついた。
そして躊躇なく、両前脚で後頭部を抑えにかかる。
「ギィィ!?」
自らの逃走する勢いと、背後から飛びかかってくる力。それが合わさって針葉樹林の幹に全身を打ちつけられ、頭部を中心に小さなクレータが出来上がった。
そのまま群れの統率者は動かなくなり、両前脚を離すと地面へと落下していく。
それが決め手となったのか群れは追いかけるのを止めて逃げだすも、それを好機と襲いかかる動きが目につく。
三つ巴に近かった構図は一転して、ただ刈られ始める一つの群れ。
そんな末路を横目に、気づけば少女が眠る拠点近くまで戻って来ていた。
(ヤバい!)
地を駆けて追いかけてきた獣達の一部が脚を止め、何やら周囲を見渡している。
いくら天候が悪化し始め、風も強くなってきたとはいえ、近づかれては隠しきれない少女の人間としての匂い。
まだ気づかれていないようだが、場所を特定されでもしたら終わり。
そうなれば、眠り続ける少女は抵抗なく喰われるだろう。
(……って、何がヤバいんだ?)
ほんの一瞬我へと返り、視線の先は雪に埋もれて隠れる拠点を見据えた。
(偶然とはいえあの娘からこっち側、自然界に迷い込んできた。何か目的があってかはわからないけど、その手助けをしてあげる義理もなければ、助けに向かう必要ってあるのかな?)
目が覚めたらここにいて、誰にも頼ることなく生きてきた。
身の危険を感じればその場から逃げ、好機と思えば隙を窺い警戒しながら獣達を狩る。一定の場所を縄張りに留まることも考えたが、逆に標的にされる可能性もありそうで止めて今に至っていた。
そのお陰なのか奇襲のようなものはなく、身を休める拠点も数か所に築くことができている。
例えこの拠点をダメにされたところで、まだ他があるから問題ない。
ただ、今もこの騒ぎを知らずに眠る少女が命を落とすだけの事。
いたって単純に、身の危険から回避できる。
そうなると、いよいよ自らの行動に疑問を抱かざる得なくなってしまう。
(……どうして助けてあげようなんて思ってるんだろう)
短い時間、ただ少女から無邪気にじゃれつかれただけ。下手に騒がれても獣達に居場所を知らせるようなもので移動するの手間、休むだけのつもりがこうして動き、少女を守ろうとしている。
そこに使命や義務感があれば別だろう。
だから一瞬の判断を鈍らせ、動きに迷いが生じていく。