第五章:平穏だった日々は遠のいていく。2
それから始まった色々と。
温室に運ばれてきたリビングの丸テーブルとは別の、四つ角のテーブルと椅子。
(……何が始まるんだろう)
そこに座らされて、正面で腕を組むアークエル。
「まずはこれからだよ」
「……ん?」
テーブルの上に積まれた紙の束と羽のついたペン。
意味が分からず小首を傾げてしまう。
「聞くことはできるようだけど、文字も書けないとね」
「……そんなに重要なの?」
「これも観察の一環さ。とりあえずこの用紙に文字を書き写しな」
「はぁ……」
そう言われてしまうと、返す言葉がない。
手渡された一冊をとりあえず開き、脇に置かれていた羽のついたペンに触れる。
(これは、どっちに持つんだろう)
まずは右に、なんかしっくりこなくて左に持ち替えてみる。
さらに右へと持ち直して、アークエルへと視線を向けた。
「どうしたんだい」
「これは文字を書くために使うんだよね?」
「その先っちょをこのインクが入ったツボに付けて用紙に書くんだよ」
「……どっちに持つべき?」
「ああ、なるほど」
アークエルは思い出したように手を打った。
「それぞれあるだろうが、主に右が多いかね」
手本のように、アークエルは羽のついたペンを持って文字を書いていく。
(……ふむふむ)
羽のついたペンを返されて、改めて手にする。
「……ん?」
「まぁ、最初はそんなもんさ」
見様見真似で、冒頭の一文字を書いたつもりだった。
だけど、アークエルのように文字の形を成していない。
グニャグニャとした黒い線が、初めて書いた文字となった。
「さ、続きだよ」
励ますように肩を叩かれ、再び用紙と向かい合う。
そんな文字を書く事とは別に、この世界の歴史についても教わった。
「この大陸は横にもだが、縦にも広い。そしてここがあたしのいる場所さ」
リビングの丸テーブルを覆うほどの地図を前に、アークエルが指差す一点を見つめる。
「実際にここなの?」
「いや、大まかだよ」
「……なんだ」
実際の尺度と違うのはわかるが、現在地を知っておきたかった。
ただどうやら、この雪原地帯以外にもあるようだ。
「この大陸としての名前はないが、恐らくそれ以外は存在していない」
「恐らく?」
妙に引っかかる物言い。
視線で理由を問うと、アークエルは嘆息した。
「左右には広大な塩辛い湖が広がり、上下には山々が連なる。あたしの知る限りではその先に行った者は帰ってこず、生死も不明となっているんだ……」
アークリルは苦虫を嚙み潰したような表情で、テーブルにつく手を握り締める。
(……何かあったのかな?)
気にはなったが、安易に触れることはしない。
軽く咳払いをするアークリルは説明を続けた。
「だいたいの人間がいる場所は、地図の真ん中にある中央都市。左に位置するのはドワーフ、手先が器用な種族が多く住んでいる。その逆の右にはアンタと似た獣人が多いかね」
「種族によって住みわけてる理由は?」
「特にないんだが……問題はエルフでな。ここの雪原地帯とは異なって、鬱蒼と生い茂る青々とした森林地帯なんだ。そこは他種族に排他的で、一部分の王族、貴族や魔女としか交流をしていない」
「ちなみにアークリルは?」
今さらではないが、アークエルは【雪原の魔女】と呼ばれている。それも自他共に認めているのであれば、交流があってもおかしくない。
「ない。……訳ではないだが、かれこれ何十年と連絡をとっていないな」
「それ、大丈夫なの?」
「……どうだろうな」
乾いた笑い声を発しながら、アークエルは片頬を人差し指でかいた。
(これ、絶対何かあったな)
あまりにも分かりやすいリアクションに、ひっそりと息を吐く。
「ッ!?」
「……」
そんな時、不意に尻尾を掴まれた。
何事かと振り返り、視線を下へと向ける。
「リ、リル……?」
「モフ、モフ」
「う、うん」
目をパチクリと、リルの行動を見守ってしまう。
リルの小さな身体で抱き着くように、時には頬を擦りつけては何かを確認している。
「ん」
「リル?」
それで満足したのか、リルはスタスタと温室の隅っこに戻っていく。
「な、何だったんだろう」
匂いも嗅がれた気がして、念のため獣臭がしないかと確認してしまう。
(……うん。毎日念入りに洗ってるから大丈夫だ)
ここ最近、リルとまともに会話をしていない。
用意された寝室では一緒に寝起きはしていて――、
「リル、起きる?」
二人で寝るには広すぎるベッドの上、リルにほぼ抱き枕にされる形でいる。
「……起きる」
寝惚け眼を擦るリルの様子を見守りつつ、上体を起こす。
「もうちょっと……」
「……ハイハイ」
だけど今回は、すぐには起きるつもりはないようだ。
今回だけに限った事でもないが、時々尻尾にしがみついたまま動かなくなる。二度寝をしているわけでもなく、頬擦りでもしているのか小さな頭部が微かに動く。
(頑張ってくれてるもんね……)
名前決めは難航を極めていて、リルは常に本と睨めっこをしている。
その姿勢は必死で、嬉しくもあり心配が勝ってしまう。
だからといって、安易に言葉をかけてもいいものか。
むしろ、どんな言葉をかければいいのかわからずにいる。
(あんまり無理はしないでね)
小さな頭部を優しく撫でてあげ、リルが起きようとするまで待つことしかできない。
他にもリビングで食事を摂っているが――、
「リル、行儀悪いよ」
「ん~」
丸いテーブルには二人分の食事が用意され、それらを準備してくれた魔物達がちょこちょこと働いてくれている。
アークエルとはたまにではあり、基本はリルと二人っきりだ。
特にアークエルの何かを手伝うわけでもなく、ただ住まわせてもらっている。しかも食事どころか身の回り、入浴道具や寝室のベッドメイクまで世話してくれるのだ。
至れり尽くせりではあるものの、最低限の事はするようにしている。
だけどリルは、大皿に盛られた料理を取り分けてもらう。
だけに留まらず、フォークに料理を刺して、それを口元にまで運んでもらっている。
その間、リルの視線は譜面台に置いた本へ。ページを捲るのですら、魔物にしてもらっている始末だ。
「キュキュ」
「あ~ん」
「もぉ……」
衣類は汚れないようにエプロンを、口元はソースで汚れるたびに拭いてもらう。
まるでお嬢様。
いや、度が過ぎた我儘なお嬢様だ。
(さすがに注意した方がいいよね……)
魔物達は気にするどころか、世話を焼けることに生き生きと働いている。
「リル、お行儀悪いよ」
少しだけ口調を強めて指摘すると、リルはいったん食べる手を止めた。
「……」
(ちょっと、強く言い過ぎたかな……)
黙り込むリルを目の当たりに、胸の奥がざわついてしまう。
ただ、そんなのは杞憂だった。
「……」
「キュキュ」
再び食べ始めるリル。右手にフォークを、左手にはナイフをしっかりと握っている。魔物達に取り分けて貰ってはいるが、自身の手で食べていく。
それは普通の事なのだろう。
「次」
「キュキュ」
食べたモノを咀嚼し終え、魔物に本を捲るように指示をだす。
(そう、きたか……)
要するに、リル自身は指摘された通りに正した。
だが、視線は譜面台に乗せた本を向いている。
ながら食い。
「はぁ」
そんなリルの姿に、短い溜息を吐いてしまった。
ただ、そんな悩みを解決できるわけもなく。
「今日は勘定について教えるよ」
起きてきたアークエルに連れらえて、いつも通り温室に来ていた。
そして、温室の隅っこではリルが一心不乱に本のページを捲っている。
「……どうしたんだい」
「……ん?」
不意に声をかけられ、アークエルに視線を向ける。
「どうも心ここにあらずって感じだったけど、何か悩み事かい?」
「悩み事……」
そうかと問われると、首を傾げてしまう。
リルには名前を考えてもらっているのだ。
それ故に毎日のように本を捲って、真剣な姿を目の当たりにしている。
今さら止めるのも変な話だ。
「これじゃあ埒が明かないね。……少し、場所を変えようか」
「わ、わかった」
一つの事を考え始めてしまうと、次々と疑問が湧いてきてしまう。
結局、何一つ解決することがなかった。




