プロローグ:こんなお姉ちゃんでごめんなさい。
(人は死んだら、何処へ逝くのだろうか?)
そんなことを朝から考えてしまうほどに、鳶世綾の心は擦り切れてしまっている。
朝、キッチンに立つ母親がいつものように作ってくれる食事を摂りながら、リビングのソファでテレビを付けたまま新聞を読む父親の後ろ姿が目に留まった。
それはどこかありふれた光景のようで、綾にとってかけがえのないピースが欠けている。
原因は去年の夏、綾の二つ下の妹――鳶世舞衣が亡くなったから。
たまたま近くにある海へと遊びに来ていた家族の子供が、浮き輪に乗ったまま沖へと流され、それを助けるために舞衣は動いていた。
本来であればライフセイバーに任せるべきなのだが、その事態に気づかず出遅れた。
何よりも、舞衣も誰かに一言伝えたわけでもない。
どうにかその子供を浜の方まで届けるべく、舞衣は子供が乗る浮き輪を押して泳いだ。
その時に足をつって溺れた。
子供と一緒に舞衣も助けられたのだが、人命救助が間に合わず息を引き取った。
当時の事を人伝に聞かされた綾を含めた、鳶世家はその事実を受け入れられるまま葬儀の手続きを。地方のニュースにもセンセーショナルな事故として取り上げられ、悪意ないバッシングに係だったライフセイバーの方々に向けられた。
だからといって舞衣が戻ってくるわけでもなく、無情にも月日だけが流れていく。
しばらく学校に通えなくなった綾だったが、復帰すると周囲のクラスメイト達が気遣うように優しく迎え入れてくれた。そうじゃなくても学校外で心配してくれる友人達からは様々な声をかけられたというのもあって、少しでも前に進もうとした行動の結果だ。
ただやはり、そう簡単にいくわけでもない。
元もと綾自身の性格が内気だったというのもあったが、舞衣を亡くしたことで拍車をかけ、精神はかなり不安定。教室にいるのが苦痛となって保健室へ、それすらも嫌になって学校に行くのは週に一回程度と減った。
せめてもと学期の節目くらいは登校しようと、気分が重いながらも制服に袖を通して今に至る。
(お父さんとお母さん、どうしてそんな平気そうにしてるの?)
食べる手を止めてリビングを見回す綾は、急に胸を締めつけてくる感覚に唇を浅く噛む。
「ご馳走さま」
「え、もういいの」
母親の驚いた声を無視して、綾はリビングを足早に立ち去った。
今から登校するにもギリギリで焦っていたように映ったのだろうか、ソファに腰かけていた父親は視線を向けるだけで声をかけてこない。
それが余計に綾を悲しませ、何も持たぬまま家をでていく。
(ねぇ、舞衣。どこにいるの?)
玄関の扉を開けば、春の空気に混じって磯の香りが鼻腔を擽る。
綾は上着の一枚でも欲しいかと身を竦ませるが、踏み出した一歩に迷いはない。
自然と綾の足が向く先には広大な海があり、産まれてから今日までを見守ってきた場所。それは決して綾だけに当てはまるというわけはなく、父親に母親も、同じ学校に通う友人達や一部の教師もそうだ。
これといった特別で神聖な場所として崇めてはいないが、生活の一部として身近に接してきた。
それは鳶世姉妹にとってもそうで、楽しい時や悲しい時、両親には打ち明けられない二人だけの秘密を共有したりと、様々な思い出が詰まっている。
そこには舞衣の命を奪ったという、目を背けたい記憶はまだ新しい。
「いるとしたら、やっぱりここかな……」
何かあれば浜辺で海を眺めてきた。
独り言のように呟く綾の声音は、どこか弾んでいて表情も穏やか。
まるで今から舞衣の事を迎えに行くかのような覚悟を決め、海の中をゆっくりと進んで行く。
いつも無邪気で明るく、中学生にもなっても女の子らしさよりも、元気いっぱいな少年のような舞衣。それもあって男子からは人気で、女子からは妬まれるかと思いきやそうでもない。何かと話が合うどころか、自然と輪の中に引き込んでいってしまう。だから気づけば口々には『舞衣ちゃんだから』と許され、誰からも嫌われるようなことはなかった。
そんな立ち居振る舞いは精巧な計算ではなく天然で、常に周りを笑顔に、自身も笑みを絶やすことがない。
「いつまでも悪ふざけが過ぎると、いい加減私も起こるんだからね」
だから綾もちょっとしたフリで怒ったりはしたが、姉妹でのケンカは記憶にない。
寄せては返す海水が、綾の膝下まで濡らしていく。
中には舞衣の言動に後ろ指をさす生徒もいたが、結局はヤレヤレといった態度で対応を軟化せざる得なかった。
その延長線上、両親や友人達を巻き込んだ大掛かりなドッキリなのかと疑った時は数えきれない。
それを今日、終わらせるために舞衣を見つけだす。
そしたら初めての姉妹ケンカをしよう。
いくら舞衣が謝っても絶対に許すどころか、しばらく口だってきいてあげない。これに懲りて少しでも態度を変えるなら考えてもあげなくもないが、それは全て舞衣次第。
少しくらい姉としての威厳を振りかざし、両親ですらも心配する徹底的に。
ちょっとは良心が痛むけど、それくらいのことを舞衣はしたのだ。
海水はすっかりと綾の腰までつかり、オフシーズンというのもあって寒気が背筋を震わせる。
「手のかかる妹がいると、ホント大変だな」
ゆっくりと踏み出す一歩は、波の影響もあって危うい。
言葉ではそう言いながらも、口もとはどこか微笑んでいる。
「……ごめんね、こんなお姉ちゃんで」
舞衣が亡くなって以降、流し過ぎて枯れた涙が頬を伝っていく。
急な高波に綾の全身は襲われ、その拍子で足もとも滑らせてしまう。どうにか必死に浮かび上がろうとするが、海水を擦った制服は重くて自由が利かない。決して泳げないわけでもなければ、もしもの場合に備えた授業も毎年のように行われている。
けどそれがまったく役に立つどころか、嘲笑うかのように見えない何かに海中へと引っ張られていく。
(く、苦しい……)
水中でいつまでも息が続くわけもなく、次第に遠のいていく海面に手を伸ばしながら綾の意識は薄れていった。