とある子どもの目撃談
もうすぐ日が暮れる森の中で、あろうことが迷子になった。
ぼくの住んでいる村は年中雪が降り、春が来てもようやく雪が解けるぐらいで寒さは変わらない。
変わらないから、夜になると昼よりずっとずっと寒くなる。
だから早く家に帰らなきゃならないのに、食べ物を探して今までより森の奥に入ってしまっていたみたいで、帰り道が分からなくなった。
足首まで覆う雪はまだ靴の中に入ってこないけど、もっと寒くなって、動けなくなったら冷たい水になって染み込んでくる。
早く、早く帰らなきゃ、父さんと母さんが心配してる。
木々の暗がりで何かが動く音と動物の唸り声が聞こえてバクリと心臓が跳ねた。
狼か、熊か、魔獣だろうか。どうかうさぎであってほしいけど、うさぎはあんな唸り声を出さない。
道もわからないのに走れば、後をついてくる足音が一つ、二つ、三つ。
背負ったカゴの中身は少しのキノコと木の実だけど、カゴごと投げたら帰ってくれないかなとバカなことを考えている間にどんどん日が落ちてきた。
急に足がもつれてその場に倒れてしまう。
追いついた足音の主たちが怖くて後ろを見れず、ぎゅっと目を閉じて来るであろう爪と牙を待ち構えていると、キャイン、という可哀想な鳴き声が数回して、足音が遠ざかって行った。
どうやら狼だったらしい。
なんでいなくなったのか分からず恐る恐る目を開けると、さっきより大きな足音がした。
ザッザッ。こっちに歩いて来る。
(ああ、狼より怖いやつが来たんだ…!)
目を開けたことを後悔しながらまた体を丸くしていると、首根っこを掴まれて体が宙に浮く。
「!?」
何かに掴まれてている。
このまま食べられるんじゃないかと思うと叫び声もでなくて、流すうちに冷たくなっていく涙を止めることもできず、喉をしゃくりあげた。
すると、ぼくの足についた雪をはらった何かは掴んでいる手を下げて地面に降ろしてくれる。
「?、??」
何が起きたか全くわからなかった。
振り返って魔獣がいたらどうしようと思うけど、はたして魔獣に雪を払う奴がいただろうか。
しゃくり上げる喉のまま地面を見れば、月明かりに浮き彫りになった人影が一つ。
人。そう、人だった。
「怪我はないか」
女の人の声だった。男みたいな喋り方だったけど、高い声は確かに女の人で。
ゆっくりゆっくり後ろを振り返れば、月の影でよく顔はわからなかったけれど、顔の半分をマスクで隠した女の人がいた。
ここらでは見かけない黒髪黒目にびっくりして後退りすれば、また雪に足がもつれて尻餅をつく。
じわり。溶けた雪がズボンに染み込んだ。
首を傾げた女の人はそのまま膝をついてしゃがみ、ぼくの目を覗き込んでくる。
「どこか痛むのか」
「えっ、あ、い、痛くないよ!」
黒髪の女の人は『そうか』と言うと立ち上がって背を向けた。
どこかへ立ち去る素振りに、慌ててのびた手が女の人の膝まで伸びている上着を掴む。
「?どうした」
「た、助けてくれて、ありがと」
「…ん、どういたしまして」
目元しか見えないけど、確かに和らいだ声と下がった目に笑ったんだと分かる。
知らない人にびっくりしたけど、たぶん、たぶんだけど、良い人だ。そう思う。
ぼくも立ち上がって女の人の後ろに続けば、なんで付いてくるのかと言いたげな目が見つめてきた。
「帰り道、分からなくなって、あの、」
「…迷子か」
足跡が刻まれている雪の上を見つめて口籠もっていると、困ったような、呆れたような声音が降り注いだ。
女の人だと分かるぐらいには高い声だけれど、女の人にしては低めの声に『迷子』とはっきり言われてしまうと、なぜだか目に涙が溜まってくる。
『これぐらいで泣くな』と父さんは言うだろう。
ぐっと鼻と口に力を込めて、涙があふれ出ないようにしながら頷いた。
「親は」
「む、村にいる!もしかしたら探してるかも…」
もしかして案内してくれるんだろうか、と期待を込めて顔を跳ね上げれば、いつの間にかぼくの方を振り向いてしゃがみ、目線を合わせてくれていた。
ここらの村でも町でも、たまに来る行商人のおっちゃんも、茶髪だったり金髪だったりが多くて黒い髪も目も見たことがない。
明らかに『よそ者』で、光を反射しても黒にしかならない色と、村の人たちと比べても横に細い目が少し怖い。
わざわざしゃがんでくれているんだから、良い人ではあるんだろう。
「これから吹雪くから、探してたら親も共倒れになる」
「え!?」
吹雪く。その怖さをよく知っている。
雪の冷たさと風の冷たさが合わさると人は死んでしまう。去年もそれで村のじいさんが死んだ。
家だって吹雪が三日三晩続けば家の半分が雪に埋もれるし、家に籠もっている間は凍えないように薪を使い、同時にいつ切れるかと不安になる。
食べ物だってそうだ。
領主様に『おさめるぜいきん』は大人たちが言うに他の土地より安いらしいけれど、寒すぎるここらは食べるものも少ない。
家に籠もれば食べ物を探しに行くこともできないので、自然と吹雪の間は食べる量を減らすのが習慣になっている。
そんな『吹雪』の中、どこに行ったかも分からない子どもを探すのにどれだけ食べ物がいるだろう。
吹雪の中でぼくを探し回ったりしたら。
探しに来るならきっと父さんだ。
考えたくない父さんの姿を考えてしまってゾッとした。
「………はあ、野宿の用意は?」
「、ない」
「分かった。…触るぞ」
「え?わ、!」
何かを諦めたようにため息を吐きながら頭をかいた女の人は、細いのにどこにそんな力があるのかぼくを軽々と片手で抱え上げ、もう片方を軽く添えてからどこかに歩き出した。
ぼす、ぼす。雪の中を進む時の音が暗い森の中でこだまする。
すぐ右で何かが落ちる音がしたので肩が跳ねてしまった。
ただ木の枝が降り積もった雪の重さに耐えかねて、雪をふるい落としただけだと分かると安心して体から力を抜く。
「ど、どこ行くの?」
「野宿できる場所だ」
「でもぼく帰らなきゃ」
「今歩き始めたら凍え死ぬぞ。朝になったら送ってやるから、今日は野宿だ」
「…お姉さんも一緒?」
「ああ。しょうがない」
「………ありがとう。ぼく、ニック」
「私はシシー・ルー」
ししるー。変な名前だと思った。
そんな名前聞いたこともない。
上下に揺れて落ち着かないぼくの体を、背中に回った手の平がしっかり支えるよう力がこもった。
シシルー。首を傾げて一度呼ぶと、違う、と言われた。
シシルーではなく、シシーとルーで分かれているらしい。
「シシー・ルー…?貴族様?」
「違う。…そんなに青ざめなくてもとって食いやしないから安心しろ」
名前が二つ以上ある人は貴族様なんだと教えられたから体がかちんこちんに固まってしまった。
けどシシー・ルーは貴族じゃないと言う。
(なら大丈夫なの、かな…?)
そっとシシー・ルーの首に腕を回し掴まってみる。
嫌そうな感じじゃなかったのでそのまま抱きついた。
コート越しだけど、人がいると暖かい。
倒れた木をひょいと飛び越え、高さはないけれど急な坂道を雪を巻き上げながら滑り落ち、雪の重さなんて感じないぐらい身軽に歩いて行くので、シシー・ルーは狩人かもしれない。
そうやって抱きかかえられながらしばらく歩いていると彼女の言う通り、洞穴があった。
けれど、その中から真っ黒なドラゴンが顔を出した。
「!!!!????」
「暴れるな、大丈夫だから」
「だ、大丈夫じゃないよ!ドラゴンだよ!ドラゴンは人を食べるんだ!」
「食べない。私の相棒だ」
「…………………相棒?」
抱きかかえられたまま手足を動かしてもシシー・ルーはびくともしない。
何で。お姉さんとはいえこんなに細いのに。
母さんだって僕が暴れれば文句を言いながら手放してくれるのに。
手を伸ばせば触れる距離で止まった黒いドラゴンは、黄色くて大きな目をぎらつかせ、大きな鼻の穴から白い息を吐き出しながら喉を唸らせた。
グルルルルル。
お祭りで聞いたドラゴンの鳴き真似とそっくりで、ひ、と叫び声が漏れる。
そんなぼくを無視して、シシー・ルーは『中に熊とかいなかったか?』と聞きながらドラゴンに手を伸ばして鼻筋を撫でた。
まるで馬か何かとでも言うように。
もしかしてシシー・ルーは目が見えないんだろうか。
「そうか、いないか。助かったな、ニック」
「え?え?」
「今日の寝床だ」
「………ど、ドラゴンと寝るの!?」
「そうだ」
もしかして餌にされるんじゃないかと腕から抜け出そうともう一度暴れるも、本当にどこにそんな力があるのか、シシー・ルーは離してくれなかった。
ドラゴンが後に続いてくるのをビクビクしながら見つめ、こうなったら絶対にシシー・ルーから離れないぞと手に力を込める。
「ちょっと離れてくれ。火を起こすから」
「やだ!」
「危ないぞ」
容赦なく引き離されてしまったけれど、さっとシシー・ルーの背後に回り込みドラゴンから離れる。
手際よく薪を組んでいくシシー・ルーと反対方向に体を丸めて座ったドラゴンは、まるで僕を笑うように見てまた唸った。
「ズメイ、からかうな」
「グルルルルル…グゥ…」
「カザンビークの子どもとは違うんだ、手加減してやれ」
「ガァ」
(ドラゴンと話してる…?)
人の言葉とドラゴンの鳴き声がまるで会話をしているよう。びっくりして何も言えない。
ズメイ、とドラゴンを呼んだシシー・ルーが笑いながら手のひらを擦った。
途端、手のひらに真っ赤な火がついて。
「火!火が!火傷しちゃう!」
「平気だ」
「でも!」
「大丈夫、大丈夫」
火がついていない左手で僕の頭を撫でた彼女は、右手に息を吹きかけて薪に火種を移す。
最後に、右手を揉み込むように左手で包めば完全に火が消えた。
慌てて手のひらをみるも、火傷一つない。
というより、手袋をつけて当然の寒さなのに手袋すらなかった。
かじかんで赤くなるはずの指先も、ない。
家の中にいるような普通の肌色で、冬の寒さで氷のような冷たさでもなく、暖かい温度のまま。
「なんで…?」
「私の体は人より丈夫なんだ」
丈夫っていうもんじゃないと思う。
カカと笑ったドラゴンにまた体が跳ねた。
こら、と言うシシー・ルーに視線を戻せば、さっきは見えなかったものが見えてくる。
異国の人のような形の服は首元にふわふわの毛皮が巻かれている。たぶんうさぎだ。
上着は青く染めた毛皮で作られ、裾の部分には白い線で六角形がいくつも並んだ模様がある。
火の明かりがあると宝石のように七色の光が映る黒い目は、さっきは怖いと思ったのに今はちっとも思わない。
ドラゴンの背中にくくりつけられている荷物から包みと手鍋、コップを2つ取り出した彼女は、まず包みを広げた。その中は獲ったばかりと言わんばかりに新鮮な魚たち。
燃えていない枝を腰から取り出したナイフで削り、まっすぐな棒にするとそこに魚を突きさしていく。
棒に刺さった魚を地面に突きさして焚き火にかざした。
手鍋を掴んでさっと立ち上がったシシー・ルーは洞穴の入り口まで行って雪をこんもり掬ってくると戻ってきて焚き火の上に置く。
しゅわ。雪があっという間に溶けて水になった。
ズメイ、と優しい声でドラゴンを呼んだシシー・ルーは、ぱかりと開かれたドラゴンの口を怖がりもせず焼いていない魚を手に取り、ドラゴンの口に放り込む。
噛んでいるんだか分からないが、たしかに口の中を動かして『ごっくん』と飲み込む音までさせた黒いドラゴンが長い舌を覗かせて口の周りを舐めた。
父さんと母さんから、村長から、何度も言われてきた。
ドラゴンと出くわしたら必ず逃げろ、と。
今も逃げたい気持ちはある。あるけれど、シシー・ルーがいるからだろうか。
もう少し見ていたい。
目を細めたり翼を動かしたり、爪で地面を引っ掻いたり、小さい音で唸ったりされるとやっぱり怖くて体が固まるのだけれど。
焼き上がった魚を一本手に取り、白い粉を振りかけた彼女はそのまま僕に渡してくれた。
食べて良いのかなと見上げると、マスクを首の方から上へ押し上げて口元だけ出しながら、大きく口を広げて食べているシシー・ルー。
食べる時もマスクを外さないのか、と驚いたけれど『食べないのか』と言われて慌てて魚にかぶりついた。
ただ焼いているだけの魚なのに、今まで食べた魚の中で一番美味しい。
歯の間から漏れ出てくる汁まで美味しくて、舌で唇を舐めた。
(あ、ドラゴンと同じ事してる)
それに気づいておかしくなったのと、美味しいのとで何だか怖いのまで吹っ飛んだ。
お腹が空いていたのもあってあっという間に食べ終わってしまう。
普段なら家族3人で一匹を分け合うので、野宿だけれどご馳走だ。
手渡されたコップは中にお湯が入っていて温かい。
かじかんだ手をコップで温めながら、焚き火に新しい木を足しているシシー・ルーを横目で見る。
「ねえ」
「ん?」
「聞いてもいい?」
何を?と言いたげに、器用に片方の眉を上げた彼女からパッと視線を外し、焚き火の火を見ながら何を聞こうとしたのか、忘れそうになったそれを必死で思い出す。
「シシー・ルーは違う国から来たの?」
「そうだよ」
「今はここに住んでるの?」
「いや、山に住んでる」
「山に?ここらにある山って、ヒュミル山だけだよ?」
「そこに住んでる」
聞かれたことに怒るでなく、シシー・ルーはあっさりと教えてくれた。
ヒュミル山の中にドラゴンが住む村があるんだそうだ。
空を飛んでしか入れないけれど、山の中には湖も川も、森も畑もあるという。
彼女の口から語られる全てが物語のようで、行ってみたいと思ったけれどドラゴンがいるならやめておこう。
シシー・ルーはドラゴンと話ができるらしい。
話ができるどころか背中に乗って飛ぶこともできるんだとか。
思わず『嘘だ!』と叫んでしまった。
静かに指差された先には馬に乗せるような鞍とは違うけれど、確かに鞍がついた黒いドラゴンがいる。
信じられなくて目が丸くなった。
「どうやって?ねえ、どうやってドラゴンと友だちになったの?」
「内緒だ」
「えー!」
もっと色んなことを聞きたくて青い上着の袖を引っ張ったけれど、くすくすと笑いながら彼女はぼくの頭を撫で、寝る時間を告げる。
荷物の中に毛布もあったようで、それを引っ張り出すとぼくを抱っこし、そのまま横になるかと思いきや、なんとドラゴンの足の間に座ってしまった。
「!!??」
「こうしてたら凍えない」
「で、でででも、ドラゴン…」
近すぎる、とも怖すぎる、とも言えず『ドラゴンが、ドラゴンが』と言うぼくに毛布を回してさっさと目を閉じてしまう。
耳のすぐ近くでグルグルと唸り声がした。
焚き火の音に集中するけれど、それでもやっぱり唸り声の方が大きい。
怖がって中々目を閉じないぼくを片目を開けて見たシシー・ルーは、黒いドラゴンに手を伸ばす。
「ズメイは私の相棒だし、好物は魚だ。ニックは食べない」
「……………魚なの?」
「ああ」
意外だよな。
そう言って笑う彼女のおかげで、少しだけ体から力が抜ける。
手の平がぽん、ぽん、と赤ん坊を寝かしつけるように優しくぼくの背中を叩いた。
そうっとシシー・ルーの腕から顔を覗かせて黒いドラゴンを見る。
黄色い目は閉じられ、牙も口の中に隠れ、鼻息だけが地面に積もっている枯れ葉を飛ばしては引き寄せていった。
(…あんなに強そうなのに、魚が好きなんだ)
魚が好きなら人間は食べない。そう思えたことで瞼がゆっくり落ちていく。
ぱちぱち。ぐうぐう。とくんとくん。
焚き火と寝息と心臓の音が聞こえてきた。
洞穴の外が吹雪いているのか、入り口の方からひゅるりひゅるりと風の音も。
(母さんの歌みたい)
眠れない時に歌ってくれる子守歌を聞いているような、安心できる時間。
一度大きく空気を吸い込んでみた。
かいだことのない匂いがする。香りのついた木を焼いている時のような、薬草を燻している時のような、深い深い森の匂い。
まるで家にいる犬と一緒に眠っているようだ。ペットのジャック。
ジャックと一緒に眠っている時も、森の匂いがする。
シシー・ルーからしているんだろうか。
とても良い匂いだな、と考えた時、遂にぴったりと瞼が閉じてしまった。
そこからのことを覚えていない。
揺らぐ暗闇と、体を包む寒さにパッチリ目を覚ますと、涙も鼻水も流した父さんと母さんが目の前に飛び込んできた。
「ニック!ああ、ニック!良かった、無事だったのね!」
「お前、吹雪の中を、どこ行って、ああもう、心配したんだぞ!」
言いたいことが次から次に出てきて言葉にならないように、わんわんと泣きながら父さんと母さんがぼくをぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
わけが分からないなりに、目の前に広がる景色が村のすぐ近くにいることが分かった。
自分の体は毛布に包まれているけれど、雪の上にいるからかじんわり冷たくなってくる。
ようやく目が覚めてきた頭が、黒髪の女の人と黒いドラゴンのことを思い出した。
「シシー・ルーは?」
「シシー・ルー?何だそれは?」
「女の人だよ。助けてくれたんだ」
「お前を見つけた時には一人だったぞ」
「その人が助けてくれたの?」
「うん!あのね、狼から助けてくれてね、魚も焼いてくれてね、そうだ毛布、毛布返さないと!」
元気いっぱいの体で立ち上がり、振り返る。
けれど誰もいない。森の入り口にも、雪の原っぱにも、黒髪も、黒いドラゴンもいない。
いないのが不思議で首を傾げると『とにかく無事で良かった』『家に入って暖かくしなさい』と母さんに抱き上げられた。
(そうだ、ドラゴンに乗ってるのかも)
母さんの肩から頭を上へ。右に左に頭を動かして空を探していると、コウモリみたいな形の大きな影を見つけて、あ、と指を差す。
「いた!いたよ!シシー・ルーだ!」
「「え?……!!??」」
父さんも母さんも、集まっていた村の人たちもぼくが指差した方を見つめて目を丸くした。
口に手を当てたり、座り込んだり、後ろに下がったり。
黒い影はぼくのことに気づいたのか、どんどん大きくなって地面に近づいてくる。
そのまま降りてくるのかと思ったけれど、家より少し高い場所をひゅるりと飛んで、また空の高い場所まで行ってしまった。
けれど確かに見た。
黒いドラゴンの背中に乗ったシシー・ルーがぼくを見て、何かを確かめるように頷いたのを。
慌てて大きな声で『ありがとう』を叫べば、黒いドラゴンの鳴き声が、返事をするように一つ、冬空から聞こえてくる。
「に、ニック、い、いい、今の」
「うん!すごいよね、ドラゴンに乗れるなんて!相棒なんだって!」
「…」
「ヒュミル山に住んでるんだよ!また会えるかな?あ、毛布、返し忘れちゃった」
自分の体で温まっている毛布は洗って返そう。
いつ会えるか分からないけれど、ヒュミル山に住んでいるならまた会えるはずだ。
毛布と母さんの腕の中でにこにこ笑っていると、大人たちが詰め寄ってきた。
「ドラゴンに助けられたのか!?」
「いや待て、さっき人が乗ってなかったか!?」
「あの人がシシー・ルーなの!?そうなのニック!?」
そうだ、とずっと言っているのに『ちゃんと答えなさい!』と怒られてしまった。
何でだろう?
■
ノードリッチの領都には領主が住む『城』がある。
砦の役割もあるこの町の中央にあるその城は、他の地方にある領主館より堅牢な造りをしており、居住区画の他に騎士たちが訓練する鍛錬場も城内にあるため今日も建物の外からはそれなりの営みの声がする。
いつから、誰がそう言ったか分からないが、いつのまにか『ノード城』と呼ばれ始め、それがあまりにも広まってしまったので地図にも『ノード城』と記載されるようになった。
そのノード城で響く声に休憩がてら耳を傾け、今日も平和だな、と胸中で呟き、再び手元の書類に視線を戻す。
スノッリに近い村の遭難していた子どもがドラゴンに助けられた、と領主への定期報告書に書かれていた。
嘘か真か分からないような眉唾ものの事件。いや、そもそも事件でもない。
報告書なのだから事件といったら土地の異変や、盗賊の出没だ。
こんな些細なことは書かなくて良いし、そもそもここに上がってくるまでに弾かなかったのかと書類を片付けていく手が止まる。
一応最初から最後まで読むと、は?と思わず声が出た。
「どうされました?ジークハイン様」
「………村の子どもが遭難したらしい」
「それは…痛ましいことですな」
でもなぜそれが気になるので?と紅茶をポットからカップに注ぎながら、執事のエミールが首を傾げる。
白髪が交じり始めた黒髪の一房が、後ろに撫でつけられている前髪から垂れた。
寒さが厳しいノードリッチだ、日頃の礼として新しいコートでも贈ろうか。
それはさておき。
エミールに報告書の内容を説明するべく、一つ咳をして口を整える。
「その子どもがドラゴンに助けられたらしい」
「ほう、奇跡ですな」
「そのドラゴンに人が乗っていたそうだ」
「…………………………………は?」
入れすぎた紅茶がカップからあふれ出す。
ソーサーに零れてしまったので、慌てて新しいものを用意しながら、エミールはもごもごと口髭を動かした。
「つまり『竜の民』が戻ってきたとお考えで?」
「報告を素直に読むならな」
さてどうしたものか。
子どもについての報告書を指先で叩き、その存在を思い出す。
シドニア騎士王国にかつて存在していた『竜の民』
ドラゴンと共存し、その背に乗って空を駆ける、シドニア騎士王国随一の戦闘民族。
その体はドラゴンと同じ肌と肺、目を持ち、簡単な魔法や剣では傷一つつかない。
ヒュミル山脈のどこかに村を作り、時代によっては騎士と共に戦いに赴くこともあったという。
けれどある日突然、その『竜の民』は姿を消した。
山の中に閉じこもったとも、他の地に移住したとも伝えられている。
子どもが一度は目を輝かせて聞く冒険物語、それが『竜の民』だ。
「ワイバーンに乗った人間かもしれない。ノードリッチにワイバーンが来る予定があったか?」
「いいえ。ございません」
「そうか…」
ドラゴンの亜種とされるワイバーン。
どちらも空を飛ぶことはできるが、四つ足を持ち、火を吹くドラゴンと違って、ワイバーンは二本足。さらに火を吹くことはできない。
ただ、卵を孵すところから調教できることもあって、数は少ないもののワイバーンに乗る騎士はいる。彼らは『竜騎士』と呼ばれている専門の騎士だ。
本物のドラゴンではないので正しい『竜』ではないが、そこは印象の問題である。
国内で育てられているワイバーンは管理されており、各領地の上空を飛ぶ際は事前に連絡が入る。
野生のワイバーンと間違えて攻撃されないようにするためだ。
その連絡がないということは国内のワイバーンではない。
(最近ビザンチンが騒がしいようだが、そのせいか…?)
ノードリッチの東側、ヒュミル山脈を含む国境線を挟んで向こう側にある隣国・ビザンチン王国。
かの国はここ数十年は大人しくしているけれど、父の若い時は小競り合いが絶えなかったと学んだ。
戦争という戦争には至らなかったものの、ノードリッチへ盗賊を装った襲撃は日常茶飯事だったとか。
かの国は豊かとは言えないが、それでも国民全員が飢えるような土地ではない。
だというのにことあるごとにシドニアを含む他国にちょっかいをかけ続けるのは、もはやお国柄なのか。
そのビザンチン王国が、最近きな臭い。
あちこちの国に探りを入れているとか、新しい武器を製造しているとか、うっすらと流れてくる情報から察するにまた何かを仕掛けようとしていると思われる。
スパイ、あるいは先兵の可能性が頭に浮かんだが、同時に疑問も浮かんだ。
敵国の子どもを助けるだなんて情の深いやつである。
それに本当にドラゴンだとしたら、そんな目立つ真似をして何がしたいのか。
こめかみを指先で数度叩き、実際に見てみるのが良いだろう、と今後のスケジュールを思い出す。
港町の方へ視察に行く予定を後回しにし、先にスノッリへ視察に行けば問題なさそうだった。
エミールに予定の変更と、念のため、護衛以外の騎士を何人か連れて行くことを告げる。
承知しました、と胸に手を置いて下がった執事を見送り、もう一度、ドラゴンについての報告書を読み直した。
「…竜の民か」
詳しい見た目は書かれていないが、少なくとも黒髪黒目ではあるらしい。
ただ、子どもが言うには『顔半分にマスクをしていた』という。
顔を隠す『竜の民』と思しき、謎の人物。
調査するには十分な理由だろう。
沢山のPVと評価をいただきありがとうございます。
とても励みにさせていただいています。
不定期更新で申し訳ないですが、
必ず最後まで書き切りますのでどうぞよろしくお願いします。




