出会い
マッチ箱の中がカラカラと音を立て始めた頃、岩肌がむき出した谷底に到着した。
左右に切り立つ崖は急勾配で、その上には草や木が多く生えているけれど、水分の少ない岩肌にはポツリポツリと枯れかけの雑草が生えているだけだ。
「…動物どころか虫すらいなさそう。本当にここ?」
この谷に来るまで川を越えた、森を抜けた、人は少なかったけれど道も歩いた。途中からは地図なんて頼りにならなくて。
夢の中で『早く早く』と訴えてくるのに眠った気もしなくなり、日数を数えるのも忘れてしまった。
文字通り野を越え山を越えの道中、どんな場所に声の主はいるのかと一周回って楽しみにしていたのにこんな不毛の地にいるなんて。私のワクワクを返して欲しい。
けれど私の中の『方位磁石』はここだと告げている。今は谷底の入り口にいるけれど、声の主はもっと奥にいるようだ。
声がする。声が聞こえる。声だけがずっと聞こえている
毎夜見る夢の中に出てきては『まだ小さい』と焚き火を見て不満そうにし、私が近づいていると知っては喜び、なぜ私なのかと聞いても言葉を濁されて。
不思議に思うし不安なのに、日が昇り始めると『助けてくれ』と繰り返し言う声に、毎夜覚悟が決まる。必ず助けると。
足を進めるたびに砂利が音を立てる。ただの風であるはずなのに寂しい谷底を通り過ぎる風音はつんざくような音で耳が痛い。飛ばされてきた砂粒が目に入って思わず手で擦った。
口の中まで砂に侵食されたくないので、口布を手で押さえながら崖を見上げたり岩陰を覗いたりする。
大きいはずなのだ。おそらく夢の焚き火で見る影の大きさそのままに。
縦に横に大きくて、夢の中で話せる動物。妄想かもしれない。
そんな不思議な動物、伝説の貘ぐらいなものだ。形は熊、脚は虎、鼻は象だというし、人の悪夢を食うというのだから本物かもしれない。
だって声の主と話し始めてから、あの悪夢を見なくなった。
「、?」
しばらく谷底を歩いていると、いきなり横風が髪を舞い上げる。谷底に風が吹くのは前か後ろだけだ。崖になっている横から吹くなどあり得ない。
けれどこの風はいまだに髪を横に通り抜けていく。となると、どこかに横穴があるのかもしれない。
どこから流れてきているのか、崖に手を当て耳を当て、横に吹く風を辿っていけば、私の身長より直径が大きな岩の裏から吹いているようだった。
「ここだ」
ただの勘だ。『方位磁石』の針がずっとこの岩の前でカタカタと揺れている、そんな気がする。当たっていたら私凄い。
我ながら理論的じゃない行動をしている自分をそう奮い立たせた。こうでも言い聞かせなければ『夢の中の声に従って無謀な旅をしている』など到底乗り越えられそうにないのだ。もし一緒に旅をしている人がいたならば頭がおかしいと切って捨てられている。
「しまった…自分に返ってきた…」
祖国から切って捨てられた結果が今である。頭がおかしいのなんて元からだった。
大きな岩にうなだれた私をめいいっぱい支えてもらい、気落ちした気分のまま岩を引っ張ったり横に押してみたり。
当たり前だけれど無理だ。腕力も足りなければ魔法も使えない非力な私では、自分より大きな岩を動かすなんてできるはずがない。
「…ノックしたら出てこないかなあ」
異国の神話には、洞窟に籠もってしまった太陽の女神を外に引っ張り出すために洞窟の前で宴会を開いたとあったけれど、怪我をしているなら話は違う。
そもそも中にいるのが神話やおとぎ話に出てくる生き物とは限らない。
(知性のある魔獣だったり…)
と、その可能性に思い至って、岩の前にしゃがみ込み、全力で頭を抱えた。
魔獣、そう、魔獣だ。
知性があって、魔法が使える魔獣なら、人をおびき寄せることだって出来るはずだ。
夢の中で話ができる。今いる場所を教えられる。何かの魔法を使ったに決まっているというのになぜ気づかなかったのか。何のために私を?決まっている。
(食べられる…!)
襲われた時の光景と痛みが全身を凍り付かせた。
涎を垂らした大きな牙。変異したばかりでまだ歪な形をしていた鉤爪。狼のような形の、けれど狼よりさらに大きく禍々しく、黒い体が、私に向かって飛びかかってきた時の、あの恐ろしさ。
また呼吸がおかしくなった。首を絞められたような苦しさが喉を突く。
しゃがみ込んでいた腰をそのまま地面に落として、背を丸めて必死で口を塞ぐ。
あの魔獣は今はいないのだと証明するために目を開け、『大丈夫』と自分の心臓に言い聞かせる。
いつもならこれで収まるはずなのに、一向に呼吸は落ち着かなかった。
「ゲホッ、ぅ、っは、っは…!」
苦しい。苦しすぎてどう呼吸していたか分からない。
いよいよ混乱を極めてしまい、勝手に流れる涙のせいなのか、気絶しかけているからなのか、視界もぐにゃりと歪み始めた。
それでも生存本能だけが動いていて、必死に呼吸をしようと浅く、早く、口と鼻が動く。
丸まった背をそのままに、四つん這いになっているのが揺れる視界から分かる。
むしろそれしか分からない。
もしかしたらこの場から逃げようとしているのかもしれなかった。
ここで気絶したら、岩の中にいる何かが出てきて食べられてしまうと思って。
(はなれなきゃ、ここから、)
そう思った時、背にした岩の奥から地響きのような、叫び声のような、雄叫びのような、今まで聞いたことのない轟音が私を貫いた。この音はきっと、岩の中にいるであろう声の主のものだ。
「な、に?」
バレたのか。遂に目の前にのこのこと餌がやってきたと。
こんなに大きな鳴き声をしているのか、この魔獣は。
手足をなるべく早く前に動かしながら肩越しに振り返る。
そうして今度こそ息が止まった。
私が触った時は岩と崖壁の間に指一本も差し込めなかったのに、鋭い爪が5つ、岩の上の方を掴むように飛び出ている。
その爪が力を込め、ゆっくりと岩を横へ横へと動かしていった。爪の力に負けてゴロリと転がった岩の向こう側は、いつの間にか真上になっていた太陽の光が差し込むことは無く真っ暗だ。5本の爪を持つ、その魔獣の腕だけ照らされている。
さっきまで視界が歪んでいたのに、息が止まったからだろうか、鮮明に動きが追える。
あのまま気絶しておけばと、のっそのっそと暗闇から現れたその姿を見て心底後悔した。
鱗があった。真っ黒で、鉄のような光沢のある鱗が全身に。
トカゲを数十倍禍々しくしたような顔にも鱗があり、黄色い両目の少し後ろから一本ずつまっすぐな黒い角が突き出している。
「りゅ、う…?」
すっかり腰が抜けた私がそう呟いた時、ぼたぼたとその大きな口から涎を垂らした真っ黒な竜は大きく口を広げて。
――――――、――――!
地面どころか空気を揺らすほど大きな音が、いくつも牙が生えた真っ赤な喉奥から飛び出してくる。崖の上にある森の中から鳥が何羽も飛び去っていく音がした。きっと近くにいるであろう動物たちも我先にと住処を飛び出しているだろう。
怖い、なんてものじゃない
品評会会場にいた魔獣とは比べものにならない大きさとそれに比例した威圧感。
音が大きすぎると風が起きるのだと実感しながら、あまりにも現実離れした光景に頭が真っ白になった。
一つ吠えて満足したのか、大きな口を閉じて竜が動く。
ず、ず。足だろうか、それとも未だ洞窟の中にある尻尾だろうか。重い物を地面が引きずる音をさせながら私の目の前まで鼻先を近づけ、黄色い眼光でじっと見てくる。
何をしているのか分からないが、私はといえばあまりに近い竜の頭に血の気が引いて、歯の奥を震わせるしか出来ない。
どれだけ時間が経ったのだろう。何かが確認し終わったかのように近づけていた頭を少しばかり離して、ふん、と一つ鼻を鳴らした。
(あ、だめだ)
硫黄の匂いが少しする独特の鼻息に前髪が舞い上がった瞬間、遂に限界を迎えた私はそのまま後ろに倒れる。
暗くなっていく視界の向こう、夢の中で見た影がこの竜であることを証明するように、同じシルエットがことりと首を傾げるのが見えた。
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