シンシャとシシー
相も変わらず金に銀に輝く離宮の部屋の中心、ふかふかの座椅子に体を預けてどれぐらい時間が経ったのか分からない。
昼と夜の境が曖昧な地下では太陽石の光と時計ででしか時間が分からないのだ。
ボーン、ボーンと幾度目かの時計の音が遠くで聞こえた後、どこかへ行っていたらしいズメイが窓の外に降りたって、のっそのっそと中に入ってきた。
薄暗い部屋の中で、黄色い目だけが満月のように浮かんでいる。
おかえり、と言いたい気持ちはあったけれど、喉は閉じたままぴくりとも動かなかった。
背の低い机をその体で押しのけ、目の前に背を伸ばして鎮座した黒い竜は、そんな私を咎めるでもなく、ただ一言。
「忘れろ、全て」
そう言った。
■
オドさんたちと別れた後、ずっとその場でうずくまって動こうとしない私を引きずるようにしてズメイに温泉街のあの温泉へと連れ出され、砂埃がついた服を着たまま湯船へと投げ込まれた。
鼻に入ったお湯に反射して咳き込んだけれど、あんなに心地よかったお湯がぬるく感じたのが悲しくて唇を噛む。
ズメイは、湯船の外でじっとそんな私を見ていた。
髪から肌から垂れる水滴をそのままに脱衣所に戻るも、服を脱ぐ気力も体を拭く気力もなくて、ただただじっと、備え付けの椅子に座り込んだ。
目の前に大きな鏡がある。
先日、自分の傷を確認するために使った鏡だ。
そこに写った姿はたしかに『人間』で、顔半分を覆う口布がなければ、顔に傷がなければ、モンロニアの人たちとなんら変わらない。
変わらない、はずだった
たしかに姉と比べて見劣りする顔立ちではある。
たしかに皇女と比べれば有象無象に紛れ込めるような、どこにでもいる人間だ。
実際、市井に行ってもバレなかったのだ。それほど貴族然としていない、ただの子ども。
なのに、他の人から見たら私は『獣』なのだそうだ。
何を話していなくても、何かをしていても、私といたら『いつ襲ってくるか分からない獣がすぐ傍にいる』と感じるなど、呪いではないか。
けれど一つ腑に落ちた。
幼い頃から動物に好かれやすい理由だ。
躾けられた馬にも野生の狼にも懐かれていた理由が、この『獣』の気配なんだとしたら、動物からも私は人間として見られていなかったことになる。
(動物に好かれるお姫様みたいだ、なんて)
小さな夢を見ていた。
子どもに語り、舞台になり、歌になる『お伽話』のお姫様や平民の女の子はいつも動物に囲まれている。
だから、いつか私もお伽話のように幸運に恵まれるのだと。
だって『お伽話』ではいつだって『主人公』が不幸であることから始まるから。
家族から虐げられたり、悪者に追いかけられたり。
今の私は幸運に恵まれる前だと、そう思いながら本の世界に未来を見ていた。
ズメイと出会って小さな夢は次第に大きくなり『ここから全てが始まる』のだと、てっきり。
それが、ずっと人として見られないだなんて、どこに幸運が訪れる兆しがあるというのか
メルグのヴィーリさんやセラフィーヌお姉さんたちはなぜ平気だったのだろうかと思ったけれど、あの頃の私は極力人と関わらないようにしていた。
勉強の時間はほぼ一人。セラフィーヌお姉さんたちと話していたのは数時間程度。ヴィーリさんはほとんど工房に籠もっていて『驚かせたいから』と私が工房に入るのを断っていた。
私と関わっていた時間は、もしかしたらオドさんたちより短いかもしれない。
違和感はあったかもしれないが、それが膨れ上がらなかったのだろう。
「シシー、乾いた服があった。着替えた方がいい」
「…」
「シシー」
ぬるかったお湯はとっくの昔に水となり、脱衣所の床をびしょびしょに濡らしている。
どこからか乾いた服を持ってきたズメイは角にそれらをひっかけ、頭を下げて差し出してきた。
拒絶することも億劫で、乾き始めた手でそれらを受け取る。
水を含んで重くなった服を脱いで新しい服を着たけれど、髪が濡れたままなのでいつまでも湿ったままだった。
呆れたようにため息を吐き出したズメイが炎を吐く仕草で口を開く。
赤い炎が飛び出すかと思われたそこからは、ただ硫黄の匂い混じりの熱い空気が出てくるだけだった。
熱風によって一気に乾いた髪と服にも、何も感情が動かない。
驚いたはずだった。すごいと言いたいはずだった。
ただ今は、何をするにも両の肩が重すぎて。
「…酷い顔だ。寝ていろ。寝床まで運んでやる」
「、うん」
ようやく返事ができたけれど、本当は『ありがとう』と言いたいのだ。
情けなくてごめんと言いたいのだ。弱くてごめんなさいと言いたいのだ。
何も言わないズメイに甘えて、申し訳ないと。
言いたいのに言えない。とてもじゃないが、自分の周りに目を向けられない。
竜の背にまたがって、緩やかに上昇していく景色にもう心は動かない。
眼下で手を振ってくれている人たちに応える気力がない。
(今も、あの人たちにも私は『人』じゃないんだろうか)
嫌だ。ひねくれたくなんてない。私は人なのに。獣じゃないのに。
なぜか目の奥が痛んで、咄嗟に目を固く閉じる。
鞍のないズメイの背中は安定しないけれど、今なら落ちて死んだって良いかもしれないとぼんやり考えた。
■
「忘れろ、全て」
そう言ったのは、唯一の相棒のためだった。
オドたちからの話を聞いた後、シシーは出会ったばかりの頃より塞ぎ込んで、誰の誘いにも乗らず、赤い竜からの呼びかけにも応えず、ずっと部屋にいる。
自分は『獣の気配』を持っている、と知った日から今日で5日。
一度熱が出た。
シシーの一大事とあって、すぐに医者が飛んできて診たところ、旅の疲れが出たのだろうとのこと。
高熱ではあったが一日寝れば元に戻ったシシーは、けれどより一層不安定になって。
意志の炎がどんどん小さくなっていき、夢の中でも一言も話さない子どもに焦った。
このまま行けば話ができなくなる。背に乗せたくなくなる。
そうなったら故郷に一緒に行けない。
竜とはそういうものだから。
どんな理由であれ、炎が無い人間と共にありたくない。
それは血に体に刻み込まれた本能で、どれだけ頭で考えても体が拒絶する。
俺まで離れていったら今度こそ、シシーは。
生まれてきた瞬間から『人じゃなかった』と思って、今まで学んだこと、励んだこと、悔しかったこと、耐えたこと、その全てが無駄だったと叫んでいる子どもの声。
大勢の人間に囲まれ、笑顔で幸せに暮らすなど無理なのだと分かりすぎている子どもの声。
こんな風に生まれてきた自分が悪いのか、ちゃんとした人間として生まなかった親が悪いのか、と自分を責めては他者を責める、行ったり来たりしている子どもの声。
死にたくない、と泣いている子どもの声も、死んでしまいたい、と嘆いている子どもの声もちゃんと『聞こえている』
どうしようかと考えた。どうすれば炎が大きくなるだろうかと。
何度も空を飛び、カザンビークを空から眺めて、たまに地上に出て人間の町を観察した。
一度だけ、道の途中で人を襲っていた人間たちが目について後を追いかけたことがある。
そいつらは違う町に堂々と入って、また暴れ出すのかと思いきや、悪いことなど何もしていないと言わんばかりの顔で闊歩しはじめたではないか。
ずっとその事が頭にこびりついていた。
ずっとずっと考え続け、そしてたどり着いたのは『シシーは一度死んだも同然じゃないか』ということ。
シシーが『シンシャ』だった頃を知る人間はいない。
あの腹立たしい国の人間もいない。
今、周りの人間が知っているのは『竜の背に乗る人間の子ども』
カザンビーク全てに歓迎される『客人』
大人を投げ飛ばせるほどの腕力を持った『強者』
モンロニアの『大罪人』はどこにもいない。
人を襲った人間たちがやったことをなかったことにして生きていけるなら、シシーにだってできるはずだ。同じ人間なんだから。
忘れろと言ったって今すぐは難しいだろう。
大勢の人間に囲まれるのも、大人も、苦手なのは変わらないだろう。
けれど『死にたくないけど死にたい』は叶えられる。
別の人間として生きていけばいいのだと、そう言えば虚ろなシシーの目がようやく俺を見た。
俺の鱗と同じ色をした瞳にろうそくの光が反射する。
「『シンシャ』はもういない」
「、いない」
「『シンシャ』はあの国を出て、俺に食われて死んだ」
「でも、私は」
「お前は『シシー』だ。その名付けたあの日に新しく生まれたのだと、そう思えばいい」
「……………それでも、私の気配は変わらない」
膨らみかけた炎は、それでも一つのことを思い出して元の小ささに戻って行った。
静かに焦ったが、話しはまだ終わっていない。
「そうだ」
「なら何も変わらな「『シシー』は『竜の乗り手』」…え?」
「『シシー』は『誰にも負けない冒険者』」
「ズメイ、何を言ってるの…?」
「『シシー』は、『竜と絆を結んだ者』」
「うん…?」
絆を結んだ夢と同じ位置にいるなと今さら思った。
ほんの少し前のことで、その前は人間と話なんてしたくもなかったのに、不思議なことがあるものだ。
炎に火種を足すようにシシーへ顔を近づければ、黒い瞳に俺が大きく映り込む。
「『シシー』は『竜と生きる者』だから『竜に近い』」
「っ、」
それは諦めを促す言葉。
『そうであるなら仕方が無い』と『受け入れろ』と言う言葉。
酷だったろうか。無慈悲な言葉だったろうか。
他になんと言えばいいのか。
それでも『獣の気配』と言われるより『竜に近い』と言われる方が、今のシシーならマシなのではと。
くしゃくしゃに歪んでいくシシーは両の目から涙をこぼしていく。
人でないことの絶望と、『シシー』の生とがごちゃ混ぜになっているのが分かる。
やっぱり酷だったかと焦りが顔を出し、慌てて人間と関わるなと言っているわけじゃない、と。
「関わらん方が生きやすいだろうがな」
簡単に信用した後どうなるか、こいつはよく理解したはずだ。
大人しく頷いたシシーはようやく感情の整理をし始めたようで、目元の涙を拭いながらスン、と鼻を鳴らす。
じわじわと次第に大きく、明るくなっていく意志の炎に一息ついた心地だった。
はっきりと上を向いた黒い瞳が語る。
『シンシャ』は死んで『シシー』として生きる、その意味を。
「…『シシー』は『竜に近い』」
「ああ、そうだ。『シンシャ』は『人間』、『シシー』は『竜』」
「『シシー』は、…『ズメイと生きる者』だから『人間が苦手』」
「その通りだ」
「………『シシー』は『泣き虫』ってことにして」
「考えておこう」
もう泣かないと言ったのは『シンシャ』だろうか『シシー』だろうか。
それは分からないが、スンスンと鼻を鳴らしながら小さく笑った子どもは、たしかに泣き虫かもしれない。
「忘れろ、シシー。『シンシャ』のこと全て。あいつは死んだ。俺が食った」
■
『獣の気配がするシンシャ』は人間で、ズメイに食べられて死んだ
そう言われたばかりの時は意味が分からなかったが、ズメイから伝わってくる感情は優しい藍色をしているから。
名前を付けるなら、おそらく『切望』だろうか。
何を願っているのか、獣の気配がする私に。
生きていて欲しいと思っていたとしても、私は人と暮らせない。
『末永く幸せに暮らしましたとさ』なんて夢のまた夢だ。
人と暮らすのは諦めろと、冷めている自分もいる。
もっと親しく、もっと深くと欲深い自分もいる。
二人の自分がずっと喧嘩をしている状態でズメイは『忘れろ』と言った。
過去を忘れて生きられるのだろうか。
こんな私を無かったことにして『竜に近い』からと生きていけるんだろうか。
死んだことにして、良いんだろうか。
(…………良いに、決まってる)
ズメイの言う通り、私を知る人はもういない。それだけ遠い場所に来た。
全く違う生き方を、これまでと違う生活を、咎める人は誰もいない。
獣の気配を持ち、動物に好かれ、獣医を目指し、何もかもを諦め、国を追放された『シンシャ』は死んだ。
代わりに、竜の背に乗り、強い冒険者で、ズメイの相棒である『シシー』が生まれた。
『シシー』は竜に近いから、ズメイと生きているから、人間が苦手。
彼女は空を飛ぶのが大好きで、色んな土地の景色を見るのにワクワクする。
それで良い、と思えた。
苦手なだけなのだ。関わるのが。
付き合い方や距離の取り方をこれまでと変えれば、夢見たようにならなくても『人』として生きていける。
(さようなら、)
もし双子の姉妹で生まれて、片割れがいなくなったらこんな気持ちなんだろうか。
今すぐなかったことにするには難しいけれど、少なくとも『死んだ』と受け入れられた。
さようなら、シンシャ。
夢が叶わず、ひとりぼっちのままだった、可哀想な人。
私は、私だけは、あなたの夢が綺麗だったと、そう思うよ。
シシーの気持ちを考えに考え、ズメイがどうするのか考えに考え、悩みに悩んでおりました。
心理描写難しい…
ズメイはシシー第一です。たまに自分の願望が横槍入れてくるけど。
シシーが幸せになれば、それでよし。他は知らん。
生まれてきてから頑張ってきたこと、やってきたこと、諦めたこと、それら全てに区切りを付けるのがこんなにあっさりなんだろうか?と思いながら書き進めてましたが、シシーが泣き止まないと話が進まない(暴論)(作者都合)
大変お待たせしてすみませんでした…
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沢山のPVと評価をいただきありがとうございます。
とても励みにさせていただいています。
不定期更新で申し訳ないですが、
必ず最後まで書き切りますのでどうぞよろしくお願いします。




