SCENE.8
レイデナットとの会話のあと、エレジアは、夕方過ぎまで自室に籠っていた。好きで籠っていたのではなく、セリネから部屋の中の物品の説明と、注意しなければいけないことを細かく聞かせれていたら、日が暮れてしまったのである。
「物品によっては危険ですから、少なくとも数日間は、ご自身で身の回りのことを無理にしようとせず、あちらのティー・テーブルの上のベルを振って鳴らしてください。すぐに手が空いている使用人が参りますので」
セリネの説明は丁寧だったが、事務的で、反論を挟ませない頑なさがあった。調度品の名称、ベッド、クローゼット、ティー・テーブル、机など、部屋にある調度品の一通りを教えるものの、例えば、
「この、ポットでお茶を淹れたいときにはどうしたらいいのかしら」
というエレジアの質問に対するセリネの答えは、
「使用人をお呼びください」
であった。全く取り付く島もない。
部屋には、セリネが教えてくれた通り、一通りの調度品が揃っている。ティー・テーブルや机の前に置かれた椅子は、人間達が使う背もたれのあるものではなく、クッションの効いた、テーブル並みに大型のスツールに取り換えられていた。エレジアが使いやすいものに、という配慮である。
「でも、悪いわよ、その程度のことで」
「使用人をお呼びください」
セリネが何故そこまで意固地になったように、エレジアに何もさせたくないのかが、当のエレジアには理解できなかった。
まだ幼が残る黒髪の少女は、はあ、と小さなため息をついてしばらく視線を床に落とし、それから、まるで誰にも聞かれたくないといわんばかりの小さな声で告げた。
「隣はリネーラ様のお部屋なのです」
当然エレジアも知っている。というより、リネーラの隣の部屋だから、この部屋がエレジアが入ることになったのだから。
「ええ、そうね」
釈然としないまま、エレジアは頷いた。しかし、次のセリネの言葉で、やっと言いたいことが、エレジアにも腑に落ちた。
「リネーラ様が真似をします」
「なるほど」
そういうことか、と、エレジアは頷いた。箱入り娘が自分で身の回りのことをしようとして、大惨事になることを恐れているのだ。実際、人魚の世界でさえ、同じようなことが起きることはある。
「そういうことね。気を付けるわ」
おそらくエレジアができるかどうかの問題ではないのだ。リネーラができないから問題なのだ。エレジアはそう結論付けた。
「呼ぶようにするわ。教えてくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ。ご理解いただいて、有難う御座います」
そんな風に共感しあっていると、エレジアの扉がノックされた。
「夕食のお時間です。ご主人様から食堂にご案内するようにと申し付かりまして、お越しいただけますでしょうか」
扉の外から、女性の声がした。落ち着いた控えめの声に、
「侍女の一人です。ご安心ください」
と、セリネは教えてくれた。そして、彼女はエレジアに深々と一礼してから、
「私はリネーラ様をお連れしなければならない為、一度失礼致します。迎えの侍女と一緒に、食堂へご移動ください」
そう言うと、セリネが部屋の扉にさっと近寄り、開けてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
笑顔を向け、迎えの侍女にも、
「わざわざありがとう。案内お願いするわ」
エレジアは礼を言って頭を下げた。
セリネは侍女と軽く会釈を交わすと、隣のリネーラの部屋をノックして入って行った。その姿を眺めた後、エレジアは侍女に促されて食堂へと移動した。廊下で話をするのはマナー違反なのだろうか。静まり返った廊下を、次女はただ黙々と先に立って歩いた。二〇才代半ばの、背が高く、痩せ型の女性というほかは、金髪碧眼というくらいしか特徴が捉えられない女性であった。
食堂は一階にあり、扉は開いていた。白いテーブルクロスが掛けられた長テーブルが並んでいる広い部屋である。中では既にレイデナットが待っていて、侍女はエレジアをレイデナットの後ろまで連れて行くと、
「ご主人様が家族の方々に紹介されるとのことですので、それまでこちらでお待ちください」
とだけ言い残して離れて行った。
しばらく言われた通りにエレジアが待っていると、まず淡い青色のドレスを着た女性が食堂に入って来た。癖の少ない赤髪が美しい、小柄な女性である。入ってくるなり、深い碧眼がエレジアを不思議そうに見つめていたが、特に言葉を発することなく、レイデナットの傍らの席に着いた。年齢は、レイデナットより少しだけ若そうに見える。
続いて、黒と金で彩られた衣服を着た、大柄の若者が入ってきた。男性は、エレジアに気付くと軽く一礼して、レイデナットから距離をとって、長テーブルのほぼ反対側近くの席に座った。レイデナットによく似ているが、日に焼けておらず、肌の色が白い。
それからしばらくして、シグニルトが、彼よりも若い、黒い子供用ドレスを着た少女を伴って入って来た。赤髪、碧眼という、レイデナットの側に座っている女性と似た容姿をしているが、目元にはレイデナットの面影があった。女の子はエレジアを見て、
「こんにちは」
と、快活そうな声で挨拶をしてから、シグニルトに促されて、テーブルの一番奥に座った。シグニルトはそのすぐそばの席に着いた。
最後に入って来たのはリネーラだった。彼女は全員に軽く一礼し、シグニルトの隣に座った。
「今日は食事の前に皆に話がある」
リネーラが座るのを待って、レイデナットが切り出した。椅子から立ち上がり、エレジアの隣に立った彼は、
「紹介しよう。詳しい理由は言えないが、今日から皆と一緒に暮らすことになる、エレジアだ。皆、仲良くしてやってほしい」
と、一家にエレジアを紹介した。それから彼は、一家の一人一人を、エレジアに紹介した。
「まずは、妻のシェリアだ」
レイデナットの言葉に促され、そばに座った青いドレスの女性が立ち上がって一礼をする。言葉は発しなかった。それでも、控えめな笑顔から、優しそうな雰囲気だけは、エレジアも感じ取ることができた。
「次に、うちの三男の、エイリットだ」
女性が座るのと入れ代わりに黒と金の衣装の若者が立ち上がった。一礼して、
「エイリットです。貴女が人魚のエレジア殿ですか。同僚や部下たちから、噂には聞いていましたが、なるほど。たいした女傑殿とお見受けしました」
そう笑った。自分の名前を知っているエイリットの素振りに、エレジアが驚いていると、
「エイリットは船には乗らんが、水軍の司令部で働いているのだ。君の名前は、水兵達の間ではかなり有名なのだよ」
レイデナットに笑いながらそう告げられた。それから、リネーラとシグニルトについては、
「さて、次女のリネーラと、四男のシグニルトは昼間紹介したな」
という言葉で済ませ、二人も軽く会釈をするだけで立ち上がりはしなかった。そして、最後に、レイデナットはぽん、と手を打って短く唸るような声を上げた。
「さてはて、では、我が家の、皆の最愛にして、一番の問題児の紹介だな」
やけに歯切れの悪い前置きをして、レイデナットは、テーブルの一番奥の少女を手招きした。
少女が席を立ち、やってくる。歳は、シグニルトとほとんど変わらない。一二、三才といったところだろう。肌は子供らしく瑞々しいが、よく見ると手足は細かい擦り傷だらけで、せっかくの子供用の可愛らしい黒いドレスも、あちこち解れが目立っていた。
「ミリルだ」
苦々しく、レイデナットが言う。
「ミリルです。よろしくお願いします、エレジア様」
可愛らしく笑うしぐさは丁寧だが、髪の毛に細かい枝が絡みついている。エレジアは、一家がこの子をいじめているのでなければ、とてつもないお転婆なのだと、それだけで理解することができた。
「我が家の名誉のために弁解しておくぞ。この子の衣装だが、今日卸したての新品だ。誓って私達がこの子にぼろを着せている訳ではない。一日でこのありさまなのだ。で、ミリル。今日はどこを探検してきたんだい?」
「はい、お父様。今日は、クラウン・オード・ステップで農家の方々を困らせているゴブリン達を懲らしめてきました。五匹を見つけ、成敗できました」
との言葉。自慢げな態度は可愛いが、内容はかなり物騒であった。
「ああ、こういう」
エレジアが納得してレイデナットに頷く。
何となく他人の気がしなくて恥ずかしかった。このまま放っておくと自分の同類になるのだという印象を持った。
そして。
彼女との出会いが、デロクロア隕塊の探索よりも先に、陸上での最初の、別の冒険を呼び込んだのだった。