SCENE.7
それから、姉弟の間で是非自分の自室の側に、エレジアの自室を、というひと悶着がさらにあった末に、エレジアは屋敷の東翼の奥から二番目、リネーラの自室の隣に決まった。女同士、部屋が近い方が何かとエレジアが暮らしやすいだろうという一家の計らいで、また、リネーラと部屋が隣同士であることで、セリネ達、侍女の目も届きやすい筈という理由からであった。エレジア自身、人間の家の中については、触っていい物、触ってはいけない物の区別すらつかない状態だから、一家の配慮に素直に任せることにした。
エレジアには部屋に置くような荷物はない。一旦部屋の場所だけ確かめたあと、自室に落ち着くことはせず、レイデナットに招かれるまま、すぐに彼の書斎へと場所を移した。
レイデナットは書斎に入ると、男性の使用人が持ってきた、銀の水差しとグラス二つが乗った盆を受け取り、机に向かい、机の前に浮いたエレジアに、まず水を一杯飲むように勧めた。
エレジアはそのグラスを受け取り、喉を潤すと、すぐにグラスをレイデナットに返した。グラスの中の水は、海水とは違う、塩気が全くない清冽な味がした。
部屋の中にはリネーラ、シグニルト、それにセリネはいない。レイデナットが、政治の話だといって、リネーラとシグニルトを同席させなかったのだ。リネーラが一緒でない以上、当然、セリネも同席する理由がない。
レイデナットの書斎は、家の中の他の場所と同様、優美な絨毯が敷かれ、ダークブラウンの机と椅子があり、同系統の色のキャビネットや棚が並べられていた。窓にはレースの付いた白いカーテンが閉められていて、外の景色を窺うことはできなかった。
「まず、箱のことから説明しよう」
と、レイデナットは話を切り出した。
「あの箱自体は、危険物を収容しておく為のただの封印箱だ。さして珍しい物でもない。中には、デロクロア隕塊と呼ばれる遺物が納められている。空の果てから降って来たとされる、この世界には存在しない、謎の物体だ。その正体は、誰にも分かっていない」
それから、エレジアが使ったのとは別の方のグラスに水差しから水を入れて、自分も喉を湿らせた。
「分かっていることは、大量の魔力をため込んでいるということだが、取り出す方法は分かっていない。しかし、何百年前の文献からその存在は残されていて、中には、取り扱いを誤って、大陸一つが海中に没したという伝説も残っている。どのような取り扱いをして、そのような悲劇に繋がったのかは不明だが、大量破壊に転用されかねない危険物である疑いがあるということだ。その為、我が国で封印の上、保管を考えていたのだが、その輸送中に、王家所有の特別船が沈没してしまったという訳だ」
レイデナットの話に、エレジアは頷いた。
「あなた達の船が沈没したのは、ヒドラに襲われて破壊されたことが原因よ。沈没船に絡みついていて邪魔だったから、退治したわ」
「そういうことだったか。記録しておこう。事故原因も分からず、実のところ困っていた」
レイデナットは、なるほど、と声を上げてから言った。そして、しばらく説明の言葉を選ぶようにしてから、
「君と合流するまでの間に、我々の軍の偵察艇から、海上にクロスザールの私掠船団を見つけたと、報告が入っている。海賊ディングの船団のようだ。君達が箱を奪われたのも、奴ということで間違いないかな?」
「ええ、そうよ。間違いないわ」
苦い思いを感じながら、エレジアは頷いた。最後に出し抜いてメアンナと脱出することはできたとはいえ、箱は奪われたままで、エレジアが船から叩き落としたディング達も、その後、他の私掠船に助けられたことだろう。何の解決もできていないし、総合的に見たら、敗走させられた、と表現するのが正しい筈だ。
「そうか、難敵だな。しかし、それであれば、私の判断も無駄ではなかったか」
と、レイデナットが呟く。
「君と私が遠話で落ち合う相談をしていた頃、ディングは手下の船に救出されたのだろうと思う。我々の軍が、奴らの船団を見つけた時には、潜水員に海中をまた探らせていたらしい。報告を聞いて、私も嫌な予感がしたから、軍の船団を派遣して、奴らの妨害をしておいた。結局、奴等は、我が国の軍船団に気付き、その海中探索では手ぶらのまま、国へ引き返して行ったとのことだ。放置していたら、君の知り合いの人魚が捕まっていたかもしれん。奴は執念深い。軍にはしばらく警戒させよう」
「ありがとう。助かるわ。あの下品な男に同族が捕まったらと思うとぞっとするわ」
「その意見には同意だな」
レイデナットも難しい顔をする。
彼からしたら、エレジアがまだ、それだけ危険な男を敵に回したのかを知らないことの方が深刻な問題であり、一日も早く人間の世界のことを覚えてもらう必要があると考えていたからである。
「しかし、同時に、これは私個人の意見でしかないが、君には私達のことも、私達の口から話すのではなく、君自身の目で確かめてほしいと考えている。勿論その為に必要な、日常生きていく上で必要な知識は、我が家で責任をもって伝授しよう。それ以上のことは、君自身が納得いく形で、自分で調べてみてほしいのだ」
「それは、構わないけれど。随分回りくどいことをするのね」
エレジアには魂胆が分かりかねた。協力関係を築くのであれば、直接話してくれても良いのではないかという疑問を感じる。
「それは君が、こんな筈ではなかった、という事態を避けるためだ」
レイデナットは椅子を軋ませて深く腰掛け直して言った。肘掛けに肘を乗せて、胸の下で手を組んで、ため息をつく。
「分かってほしいのだが、そもそもデロクロア隕塊を確保しておきたかったのも、別に我々も世界平和や人類の為を考えているからではない。どのような国に対しても脅威になる品だけに、当然私たちの国に対しても脅威になる品だ。そんなものを他国に握られたくなかったというだけの話なのだ。私達の国が善良で、クロスザールが邪悪な国という、簡単な訳ではないのだよ。私達と彼等は静かな対立関係にある。直接的な軍事衝突が起こっていないだけで、互いの利害が噛み合わないために敵対しているのだ」
「それは理解できるわ。でもあなた達は正々堂々と国の船で海底調査を行ったけれど、彼等は、国とは一見無関係を装っている海賊を向かわせて掠め取った。どちらのやり方に理があるかは明らかだわ」
エレジアが答えると、
「それは少し短絡的な思考だ」
と、レイデナットはかぶりを振った。
「彼等が彼等の国の船を用いて沈没した私達の国の船を漁ったら、それだけで外交上問題になる。彼等が私達の国に引き上げの協力でも打診しない限り、な。そして、よしんば彼等が協力をもし出てきたとしても、私達がそれを受け入れることはない。彼等には他に選択肢がなかったのだよ。もし、逆の立場であったとしたら、私達もそうするしかなかっただろう」
「面倒臭いのね」
エレジアの顔に苦笑いが浮かぶ。世界が綺麗事だけではできていないことは彼女も良く知っていたから、陸上も理想郷ではないということも、理解できた。そもそも私掠船というものが、そういう、人間の国が、国として表立って手を出せない事物に手を出す為の手段なのだということも、彼女自身、海の中で可能な限りの情報を集めて、十分分かっていた。
「ああ、面倒臭いな」
レイデナットも頷いた。
「だからこそ、君に一元的に、私達が味方、彼等が敵、という洗脳を、私が行う訳にはいかないのだ。君を使い捨ての駒のように扱い、自分達に都合のいいことだけを吹き込む訳にはいかない。それは、私と私の家族の立場を危うくする行為なのだ」
「どういうこと?」
そこまで立ち入った話は、エレジアには分からない。あくまでエレジアに分かることは、海で起こっていることだけで、それが何故レイデナット達を窮地に追い込むのかは理解できなかった。
「無知で可哀想な人魚を誑かし、非人道にも手先のように使っている」
とだけ、まず、レイデナットは返した。
「え?」
一瞬何のことなのかと、エレジアが短く疑問の声を上げて首をひねる。そんな彼女を、レイデナットは静かに声を上げて笑った。
「噂というものは厄介でね。そういうゴシップが大好物なのだ。想像が想像を呼び、少しでも、そうかもしれない、という疑念があれば、それを餌に、勝手にどんどん成長していく。そして、往々にして、そんな眉唾な物語が、私と一家を失脚させる力を持つのだ。だからこそ、私は君に行動を指示することができない。後援者になることは可能だが、手を出せるのはそこまでだ。あとは、自分でやってもらわねばならない。人間という国は、本当に面倒なものでね、一枚岩という訳ではないのだ。ゴシップを利用してでも、私の一家をここから追い出し、自分がこの椅子に座ろうと虎視眈々と狙っている者達は、私達の国にもいるのでね、私は私の一家を路頭に迷わせない為に、君の行動を細かく縛っているように見られる訳にはいかないという訳だよ」
「難しいのね」
分かったような、分からないような。
複雑な思いで、エレジアは答えた。
「何、君のことだ、文字が読めるようになれば、すぐに理解できる筈だ」
レイデナットはそう言って笑った。