SCENE.6
両脇に整然と植えられた樹木の間の私道を抜けて建物の前にやって来たエレジアは、その優美さに目を奪われ、思わず、しばらく息を飲んで、玄関扉の前で見上げていた。
海の中には、これほど複雑に造形された建物はなかった。外壁に沿って並んでいる柱はのっぺりとしておらず、幾本もの筋が刻まれているように装飾されているし、両開きの扉には何かの植物を模したのだろう彫刻が施されている。建屋のあちこちには建物を保持するのに必要な部品が突き出ているが、どれ一つとして武骨にただあるだけに留められていなかった。何らかの陸上の生き物や、鳥類を模した飾りも随所に彫られていて、それらが互いに主張をぶつけ合うのでなく、調和して一つの完成された建物の景色を構成しているのだ。
潮流のある海の底で再現しようにも、それらは容易く潮の流れに削られて、繊細な美しさは忽ち失われてしまうだろう。水の満たされていない陸上ならではの美がそこにあった。
「これが、陸上の技術なのね」
エレジアの呟きに、レイデナットとシグニルトは幼子を見るような目をして見守っていた。そんな彼等に、また別の人物の声がかかった。
「少しは美について共感するなり、自分なりの感想を答えるなりしなさいな」
エレジアも、ようやく玄関扉が開いたことに気付く。開いた扉から、薄黄色の生地に、白いレースや装飾が施された、スカートの大きなドレスを纏った女性が発した声だった。年齢はエレジアと同じ、一七、八才くらいで、レイデナット達よりも少しだけ色の濃い、やや癖のある金髪を長く垂らし、薄い茶色の瞳をした女性だった。
女性は自分で扉を触ってはいない。彼女の向こうで、暗い色彩の衣服を着た人物が、
扉を押さえているのが見えた。女性や扉の陰になってよく見えないが、どうやら少女のように見える。女性も大きい方ではないが、扉を押さえている人物は、更に小柄なようであった。
「初めまして。私は、そこにいるレイデナットの娘、次女のリネーラと申しますわ。男共が芸術を解さなくてごめんなさいね。宜しければ、お名前を窺っても宜しいかしら」
扉から表に出てきた女性が名乗る。女性はやんわりと謝罪の言葉を口にしながら、控えめに微笑んだ。
「いえ、私こそ、間抜けみたいにぽかんとしてしまって恥ずかしいわ。私はエレジア。よろしく、リネーラ」
エレジアも我に返ってリネーラに名乗った。彼女の弁解に、リネーラが静かにかぶりを振る。
「いいえ、美に心を奪われるということは、心が豊かである証拠ですわ。何も恥じることはありませんことよ。人魚の方にお会いしたのは初めてで、もし私共に粗相があったらごめんなさいね。その時は遠慮なく気分を害したと、教えてくださいましね。是非仲良くしていただけると、私も嬉しいですわ。よろしくお願いしますわ、エレジア様」
その物腰は優美で、口調もとても優しかったが、同時に芯を感じさせるものだった。おそらくととても聡明な女性なのだろうと、エレジアが感じた、リネーラに対する第一印象はそんなものだった。
「セリネ。あなたも出ていらっしゃい。あなたも私の大切な身内なのだから、お客様に紹介させて頂戴」
リネーラはそれから、扉を押さえている人物に軽く振り返って声を掛けた。
「畏まりました、お嬢様」
扉を閉めながら、女性の陰にいた少女は出てきた。綺麗な黒髪と黒い瞳をした少女だった。濃い紺色のワンピースドレスを着ていて、片手には白色の薄い上着のようなものを大事そうに抱えていた。年は、シグニルトよりもさらに下かも知れない。
「彼女は、私の世話をしてくれている、セリネ・アマガノという子です。エレジア様、私共々、どうか仲良くしてくださいましね」
少女がリネーラの側に控えるように立ち止まると、リネーラは少女の肩を片手で抱くように自分の隣に並ばせて、エレジアに紹介した。
「ええ。こちらこそ。よろしくね、セリネ」
エレジアは地面近くまで下がって少女に視線を合わせると、にっこり笑ってみせた。しかし、セリネは笑顔を見せず、ただ会釈だけをして表情を崩さなかった。
「私のことは、リネーラ様がいらっしゃるときは、どうか空気のように扱ってくださいませ。私はオーセンディア家にお仕えする使用人に過ぎませんので、あまり懇意にされても私も対応に困ってしまいます」
「困らせたくはないけれど」
エレジアは少なからず不満を感じた。あまりに雑談に興じてしまって務めがおろそかになるのであれば問題になるだろうが、セリネがそのような安易に流されるような子には見えなかったからであった。もう少し愛嬌があっても然るべきではないかと、肩肘を張って無理をしているのではないかと心配になるのだ。
「私はあなたのお話も聞いてみたいわ。ずっと他人行儀も寂しいじゃない」
「ほら御覧なさい」
と、リネーラも穏やかに笑った。それから、エレジアに礼を述べた。
「ありがとうございます、エレジア様。私もいつも、堅くならなくて良いと、言い聞かせているのですが。エレジア様も、もう少し、年相応のセリネであっても良いと、思われますでしょう?」
「そうね。何だか窮屈そうに見えるわ。心配になるわね」
エレジアも頷く。セリネの年で表情を隠すことを覚えてしまうことは、自分の感情を素直に相手に伝えるということができなくなってしまうことだと、エレジアにも理解できた。人魚の世界では少なくともそう言われている。人間の世界でも違いはないだろう。
「でも、いきなり変われって言われても、セリネも困っちゃうわよね? それがあなたらしさということなら、私も慣れる努力をするわ。無理はしなくていいの。ね?」
エレジアはそれだけ告げて、それから、レイデナットに、
「変に時間を取らせちゃったわね。待たせちゃってごめんなさい」
そう謝っておいた。何となく、いわゆる、族長とか、戦長とか、そういった立場の者と同類で、人間の街の何らかのリーダー的な役目についているひとなのだという推測はつき始めていたから、本当は忙しいのだろうということも、想像できてきていた。これ以上時間を使わせてしまうのは申し訳ないのだろうと、エレジアは感じた。
「いや、気にしないでほしい。君のような子に気を遣われてしまう方が、私としては至らない気持ちになるからね」
笑いながら、レイデナットは扉に歩み寄った。すかさずセリネが駆け寄り、扉を開いてレイデナットとその家族が家に入るのを助ける。レイデナットはまず先に玄関ホールに入ると、すぐに立ち止まり、
「さあ、どうぞ」
とエレジアを招き入れた。
シグニルトとリネーラも先にエレジアに入るように促し、自分達は外で立ち止まって待っていた。
「ありがとう」
礼を言って、エレジアは建物に入った。建物は外観も素晴らしかったが、内装もとても美しかった。床には落ち着いた赤色の絨毯が敷かれていて、残念ながら、その絨毯を踏みしめる感触をたのしむための足はエレジアにはなかったが、視覚的にその美しさを、目で堪能することはできた。そして、入ってすぐの両脇には、壺に活けられた色とりどりの植物が飾られている。天井は二階に吹き抜けて高く、窓から差し込む日差しが、絨毯の模様の一部のように床を照らしていた。玄関ホールは広く、天上からは大きな金属の輪が吊るされていて、輝石が並べられてほんのりと光っていた。
「これが、人間の、暮らす家」
エレジアが呟きながらホールを見回していると、
「ここはまだお客様を迎える為の玄関先ですよ。父上、エレジアさんはどこの部屋を使っていただきましょう。僕がお部屋に案内したいのですが、構いませんよね」
レイデナットに良いながら、シグニルトがエレジアに続いて入って来た。
「あら、ずるいですわよ、シグニルト。ご案内したいのは私も一緒ですのに。抜け駆けは卑怯ですのよ」
そう言いながら、リネーラも入ってくる。彼女が完全にホールに入ると、ほとんど物音を立てずに、慣れた動作でセリネが扉を閉めた。
「それならば、皆で案内してあげようじゃないか」
レイデナットも、自分が案内するつもりだったらしく、そう言って姉弟を宥める。そんな三人を、何処か呆れたような、何処か敬愛するような視線で、静かにセリネが眺めていた。