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SCENE.5

 左手に続いていた水軍基地の塀が途切れると、坂は大きく左にカーブしながら続いていた。ところどころ十字路や丁字路を挟みながら、道の両側には様々な物品を並べている建物が、相変わらずのように続いている。人間達の生活の中には、どれだけ豊かに物品が溢れているのか、エレジアはその色鮮やかさに驚くばかりであった。

 左に大きく曲がった坂を登り切ると、坂は今度は大きく右にカーブしていた。そのカーブの先には、通りから見えるように物品を並べているような建物はなく、高い塀で囲まれた、大きな建物が並ぶ風景に変わった。塀で囲まれた土地は広く、塀の向こうに建物だけでなく緑の葉を湛えた背の高い植物が見えた。

 樹木だ。木材の元になっている植物。エレジアはついに生きている木を近くで眺めることができたことに興奮していた。エレジアが住居にしていた沈没船に使われている木材も、きっとかつてはそのように陸上に生えていたのだろう。

 塀に囲まれた建物は、白だったり、茶色の煉瓦造りだったりと、それぞれ違った色や形をしていた。どれも一様にとても大きく、どんな暮らしをしたらあれほどの大きな建物が必要なのだろうと、エレジアには想像もつかなかった。

 両脇が塀の道になると、道端に立っている人間達の人垣は途絶えた。背後からはまだ視線を感じたが、住民達はそれ以上坂を登って追っては来なかった。

 やがてうねった坂道は、他の塀で囲まれた建物よりも、さらに広い土地を、真っ白な塀で囲っている建物の前に辿り着いた。大きな鉄の門が閉まっていて、槍を持った男性が、門の両脇に立っている。塀の向こうには樹木が建ち並び、その奥に、巨大な、エレジアがその都市で目にした中でも飛びぬけて巨大な、純白の建物が見えた。まるで山だ、と、エレジアは思った。

「拙宅へようこそ」

 レイデナットがエレジアに告げ、さも当然のように、門の両脇の男たちに、門を開けるように言った。

「お帰りなさいませ」

 門の両脇の男たちは短く答えると、慣れた動作で、両開きの門を、それぞれ塀の内側へ向かって押して開けるのだった。

「遠慮せずに入ってくれ。我等の街の領主館だから、見てくれは立派だが、住んでいるのは私だ。気軽に思ってくれていい」

 レイデナットはそんな風に冗談めかすが、エレジアからすれば気後れしない訳がない。人間の家というものについて、これが普通という訳ではないことは、ここまでの通りの景色で理解できていた。レイデナットの邸宅のような大きな建造物は、これまでに海の中で見たこともない。それに建物までの距離。

 それが本当に個人の敷地だということが信じられないくらいに、細かい石畳の道の両脇には、整然と樹木が並び、途中には大きな池まであるようだった。池の中では水流が空中に向かって幾筋も吹き出されていて、まるで雨のように水しぶきを池に降らせながら、放物線を描いていた。いわゆる噴水である。

「立派な……家? なのかな?」

 エレジアはその邸宅を形容する言葉が分からなかった。レイデナットが歩き出してしまったので、慌てて追う。居心地の悪さは軍港以上で、飲まれそうな窮屈さはまさに極限まで達していた。

 街の中でエレジアやレイデナットを取り囲んでいた水兵達は、門の外で止まったままでついては来なかった。彼等の役目はそこで終わりらしい。それが何故かエレジアの心細さを加速させた。

「海から出ていきなりこれでは、驚くのも無理はないのかもしれないが、慣れてもらわねば困るよ。しばらく君もここで暮らすのだから」

 レイデナットに笑われた。彼はエレジアに向かってこんなことも話した。

「今の君に私の地位を話しても、何のことか理解はできないだろう。いずれ人間の世界のことを学んでいけば自ずと分かることだから、自分で調べてみてくれ。といっても、おそらく、当面はまず文字を覚えることからなのだろうな。読み書きもできないのだろう?」

「文字。人間達が瓶に張ったりしている図形のことね。それに意味があるのだろうってことは理解しているけれど、海の底には確かにないものだわ。だって、描いても消えてしまうもの」

 エレジアは頷いた。人魚の世に文字はない。必要もないし、そもそも海中では文字による意思伝達は却って非効率だから、文字文化が発達しようがなかった。

「そうだろうな。理解できるよ。だが、箱を取り戻すために、陸上を旅するなら覚えておく必要があるものだ。文字が読めなければ、我々人間の世界を理解するのは、困難を極めるのだよ。それに、最低限自分の名前は書けないと、日々の寝床の確保にも苦労するぞ」

 なんとも人間の世界というのは面倒なものらしい。エレジアは、レイデナットの言葉に口の中が苦くなるような気がした。覚えられるだろうか、という、不安が胸中に渦巻いた。

 彼女が狼狽えていると、前方から、人間の少年が走ってくるのが見えた。金と白の上品な服を着た、レイデナットと同じ、薄い金髪と茶褐色の目をした、一四、五才の少年だった。

「父上、お帰りなさい!」

 元気な声を上げて走ってくる。そして、彼はエレジアの姿に気付くと、口をあんぐりと開いて立ち止まった。

「うわあ」

 という、驚嘆とも呆れともとれるような声を上げて。少年はすぐに表情を引き締めて、態度を改めた。

「父上、そちらの方はどなたでしょうか。人魚、ですよね。このような陸上にお連れして支障はないのですか」

「ああ、問題ない。通常、人魚は陸上でのまともな移動ができないというだけで、海から離れて生きていけないという訳ではない」

 レイデナットが立ち止まって答える。エレジアも彼に倣って隣に並んで止まった。少年が不思議そうに、宙に浮くエレジアを見つめていたが、その視線には奇異の感情はなく、エレジアにとって嫌なものではなかった。

 レイデナットは人魚のことを良く知っているようで、少年にはして聞かせる内容に間違いはなかった。彼等はきっと人間の中でも博識なのだろうと、エレジアには感じられた。

「ええ、問題ないわ。心配してくれてありがとう」

 と、エレジアも少年に笑いかけると、少年は少し照れくさそうに視線をエレジアから外した。

「いえ、そんな。初めまして、僕はシグニルトと申します」

「あら。ご丁寧に」

 その様子が可愛らしくて、思わずエレジアはますます顔が綻ぶのを感じた。むくむくと悪戯心が湧き上がってきて、少しからかってみたいという気分になった。

「私は、エレジア。はじめまして、シグニルト。でも、挨拶は相手の目を見てするものではなくて? 人魚の世界では、そう教わっているけれど、人間の作法は違うのかしら?」

「いえ、ごめんなさい。その通りです。人間でも、変わりません」

 シグニルトは素直だ。少し紅潮しながらも、しっかりとエレジアの瞳を正面から見て、誤った。茶褐色の瞳は純粋で、綺麗な色だと、エレジアは思った。

「ごめんなさい。私こそ、少し冗談が過ぎたわ。気にしないで」

 エレジアも、素直にそう思った。

「シグニルト、彼女は今日からしばらく私達と一緒に住み、お前と一緒に勉強することになる。彼女は我々人間の世界のことも、我々の文字すら知らない。何かと助けてやってくれるな」

 それから、レイデナットが口を開いた。口調は厳しいが、声はどこか優しい響きがあった。それから彼は、エレジアに向かって、こう説明した。

「息子のシグニルトだ。私は四人の息子と、三人の娘がいる。もっともそのうち上から二人の息子、一番上の娘は既に独立して一緒には暮らしていないが、三男、四男、次女、三女についてはまだこの家で暮らしている。シグニルトは四男だ。夕食の時には、三男のエイリット、三女のミリルも紹介しよう」

 レイデナットに手で促され、エレジアはまた屋敷に向かって進み始めた。レイデナットとシグニルトも並んで歩いている。

「それで、人魚のエレジアさんが、どうして陸上に来られたのですか?」

 シグニルトの興味津々の質問に、エレジアはどう答えていいものか、しばらく言葉に詰まった。レイデナットが箱のことをどこまでシグニルトに教えているのかも分からず、話していいものか判断がつかなかったからである。

「これから、我々の国に協力してくれることになったのだ。彼女の善意、あるいは、好意かもしれないが、いずれにせよ、エレジアには感謝しなくてはならないな」

 見かねてレイデナットが代わりに答える。勝手に返事をしなかったエレジアに対して、小声で、

「シグニルトは、まだ国の問題の話をするには早い。気遣い感謝する」

 と、レイデナットは囁くように礼を言った。そうかもしれないと思っていたが、やはりそうだったか、と、エレジアは頷いた。

「そうなんですか。ずっといるのですか?」

 当のシグニルトはそんな風に、期待を込めてエレジアを見上げるだけであった。

「それは、分からないわ」

 エレジアには、あいまいな回答しかできなかった。


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