SCENE.4
初めて上陸した陸は、エレジアが思っていたような美しい景色ではなかった。石壁と鉄で彩られた、武骨な、あまりに武骨な色彩に乏しい港の風景に、彼女は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。心細い気持ちで、彼女は船が横付けされた桟橋に降りた。
「軍船だからな。一般港には入れんよ。はじめて目のあたりにした陸上の景色が、こんな殺風景で申し訳ないな」
エレジアの隣を歩くレイデナットが言う。彼は上着とコートを着込んでおり、きちんと身だしなみを整えた彼からは威厳すら感じられた。
ラノルド医師はいない。彼は船に残った。乗組員が一部でも残っている以上、船医が船を離れる訳にはいかないそうだ。
「これは軍港という。一般の船の進入が許されていない、水軍の為の基地だ」
港に種類があることを、エレジアは初めて知った。海にもまだ自分が知らないことがあったのだと、彼女は驚きながら説明を聞いた。
「これから基地を出て市街地を抜けた先にある、私の拙宅に招待されていただこうと考えている。街並みの景色は、その間に楽しめるだろう。本来であれば馬車を用意させるところなのだが、きみの体格では逆に馬車は窮屈だろう。私も歩こう。たまには街並みを眺めて歩くというのも、乙というものだ」
レイデナットは軍港の中を知り尽くしている筈で、迷いなく基地内の道を歩いていく。当然エレジアには道など分かり様もないうえ、ここでは人間ですらない部外者であることは認識していたから、おとなしくレイデナットに同行する以外になかった。
エレジアとレイデナットの周囲に、ごく自然なように歩幅を合わせた水兵達が集まってくる。彼等はレイデナットの船の乗組員と同じ服装をして、どのような構造になっているのかエレジアには想像もつかない金属の筒のようなものを担いでいた。
「君は本当に人間の世界のことを知らないのだな。しかし、私掠船という言葉は知っていた。興味深いことだ」
レイデナットに言われ、
「海の上や、海中で起こっていることや、それに纏わるもの種類であれば分かるわ。あまりに陸に近すぎると分からないけれど」
エレジアはあくまで海に関係していることだからだと言いう為に、そう答えた。レイデナットは短く唸るような声を漏らし、納得したようにそれ以上の質問はしなかった。それから、彼が話を変える。
「箱の正体についても、聞かないのだな」
「知る必要があれば話してくれるでしょう?」
エレジアは海賊ディングにも聞かれたなと思い出した。その時と答えは変わっていない。
「教えてくれないなら、今はまだ知る必要がない、または、知らなくて良い、ってことなのではなくて? いらないことを詮索するべきでないって分別はあるわ」
「なるほど。しかしそれは改めた方が良いな」
しかし、レイデナットの答えは、海賊ディングとは真逆だった。
「情報は力だ。詮索と言われようと、野暮と言われようと、君の身を守るためにも、ぎりぎりの情報を引き出す駆け引きはした方が良い。世の中には聞かない方が悪いという、こすい理屈を捏ねる食わせ者は沢山いる」
「だとしたら、これはその駆け引きなのかしら?」
エレジアは口元だけで笑った。
「世の中には、言わない方が悪い、って言葉もあるでしょう? 大人数の集団の中にいるのであれば、情報は力になるでしょう。知り得た情報の危険から守ってくれるもの。でも、個人では、知りすぎたことから守ってくれる盾はないわ。好奇心は身を滅ぼすのよ。言われなかったことで、失敗するのは私のせいじゃないわ。あなたのことを言っている訳ではないけれどね。まあ、ともかく、知りすぎたことで追われるよりも、情報を隠されて断念するくらいの方が、ずっとマシだってことは多いのよ」
「見た目に反して、アングラだな」
レイデナットの目に、憐憫が浮かんだ。
「人魚の世界というのは、もっと童話のようなクリーンなものだと思っていたよ」
「生存競争から逃れられる生物はいないわ。人魚の世界でも、平穏な皆の暮らしの裏に、薄汚れた暗い部分はできるものよ。私の場合は、皆と同じ暮らしには興味がなかったから、自ずとそういう世界にどっぷりよ」
エレジア自身は、それを苦しいとも、辛いとも思ったことはない。いつか世界の神秘を見に行くための、予行演習みたいなものだ。
「人魚が空を求めるのは綺麗事ではないわ」
「君が秘薬の恩恵を授かれた理由が分かる気がするな」
レイデナットが基地の中の道を、十字路で右に曲がった。エレジアも宙を泳いでそれを負う。前方に、市街地に繋がっている門が見えた。
門を抜け、市街地に至る。門の外の道は、よく整備された石畳の道が左右に延びている。海から離れる方に向かって、坂道になっていた。
基地の反対側には何か茶色い塊を並べている、大きな窓が特徴的な建物があった。その隣には、衣服を並べた建物。そんな風に、違った物品が綺麗に並べられた建物が、道に沿って並んでいた。それらは統一されたように赤みのある煉瓦造りで、整った景観を形成していた。
「丘方向に向かう」
レイデナットに言われて、初めて見る人間の街並みを見回していたエレジアは少し遅れて彼を追った。勿論、人魚であるエレジアはすぐに人の目を引いた。それでなくとも、水兵に囲まれて歩いている人物がいるのだ。道行くひとや、建物内のひと達の目を引かない訳がなかった。
あっという間に、通りはちょっとしたパレード状態になった。人々は見ただけでエレジアの種族が皆分かるらしく、
「人魚だ」
と、口々に漏らしていた。物珍しさと奇異の目に晒されたエレジアが、恥ずかしくない訳がない。
「何か、迷惑になってない? 大丈夫?」
レイデナットに問いかけると、
「まあ、仕方ないと諦めるしかない。私の知る限り、街に人魚が上陸したことはないからな」
と、彼に笑われた。
人間達は様々な反応で、あるものは建物の中から、ある者は道端で足を止め、通りを進むエレジアをじっと眺めていた。エレジアは見世物になった居心地の悪さを感じながら、それでも頭の中は妙に冷静だった。
そのおかげで。
人垣の陰で、怪しい動きをしている男がいることに、エレジアはすぐに気づいた。
手頃なもの、と探し、道に落ちている小石を見つけると、すぐに水兵達の頭の上を飛び越え、路上の小石へと速度を上げる。
エレジアは小石を尾鰭で跳ね上げて右手に掴みつつ、まるで掌で打ったかのようにノーモーションで投げた。石は人垣の上を放物線を描いて飛び、建物の間の細い路地に消えようとしていた男の後頭部にクリーンヒットした。
人々から見たら、目の覚めるような一瞬の動作であった。男に石が命中するのと同時に、エレジアの声が通りに響いた。
「そいつを捕まえて! それと、そこから左に三人目の女の人、自分の荷物から何かなくなっていないかすぐ確かめて!」
人々は一瞬遅れて反応した。エレジアが指定した女性は荷物を漁り、
「ない! 私のコイン袋がない!」
「こいつが怪しい袋を持ってた。これじゃないか?」
エレジアの声に従ってくれた若者が、男から小袋をもぎ取っているのが見えた。その袋を見た女の人が、
「ええ、それ。それよ」
と、若者の側に駆けて行った。
その様子を眺め、エレジアは満足して頷いた。
「人の物を盗ってはいけないなんて、人魚でも知っているわ。あとのことは、人間達の間で、始末をつけて頂戴」
エレジアは彼等に声を掛け、レイデナットの側に戻った。街の人々のうち、一部の目の色が変わったのを感じながら。特に、若い人たちの視線が変わったように、エレジアには思えた。
「かっこいい」
そんな声も聞こえてくる。思わず反応して男を攻撃してしまったが、そのことについて、恐れや怒りといった表情は、ひとまず街の人々には見えなかった。怖がられても仕方がなかった行いに、エレジアは若干安堵した。
「騒ぎを起こしてごめんなさい」
一応、彼女はレイデナットに謝っておいた。しかし、レイデナットも、
「コソ泥の被害を防いだんだ。立派なものではないかな」
そう言うだけで、エレジアを責めるような素振りは見せなかった。