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SCENE.3

 ラノルド医師は、木棚から瓶を取り出し、開けた蓋を棚に戻してから、次に、グラスを手に取った。そして、レイデナットに断ることもなく、瓶の中の液体を、グラスに注いだ。

 一度棚にグラスを置き、瓶の蓋を取って栓を戻すと、瓶をそのまま棚に戻し、グラスだけを手に、エレジアの側に戻って来た。エレジアとレイデナットに見せびらかすように、グラスを掲げて揺らす。

「原因は、これだよ」

「酒は確かに積まれていたろうが、海水に既に溶けてしまっている筈ではないか?」

 レイデナットが尋ねる。人間の男たちは、酒というものを知らず、理解できないでいるエレジアを放置して、彼等だけで通じる会話を進め始めた。

「その無知は浅はかだったと言うんだよ。無論僕も含めてね。アルコールは確かに水に溶けるが、分解されてなくなる訳ではない。また、通常海流が存在する海中では、拡散、撹拌作用が大きく問題にはならないが、水流が発生しにくい、つなり、一定の海水が長時間滞留しやすい沈没船の閉鎖空間では、一定時間アルコール濃度の高い海水が溜まり続けていても不思議はなかったんだ。僕達はそれを見落としていた。そして先程、僕はアルコールは水に溶けると言ったが、あくまでそれは真水の話だ。海水はそれそのものが、もともと様々なものが溶けている水溶液だよ。溶け切らなかった酒精があったとして不思議はない。バッグは物が入るものだが、既に荷物でギュウギュウ詰めのバッグには、それ以上物は詰め込めないものだよ。溶け切らなかった酒精がアルコール溜まりとして船内に残留していても不思議はなかったんだ。そこへ何も知らずに、君は彼女を、何の備えもない彼女を、無策で突入させてしまったんだよ。それは殺人的行為だ」

 一気にまくし立てるように、ラノルド医師はレイデナットに放言すると、グラスを机の上に置いた。

「謝罪すべきは彼女ではない。むしろ僕達だ。僕達は危うく彼女を酒池に放り込んで殺すところだった。つまりはそういうことだ。分かるよね、レイ」

「お前の回りくどいい方はともかく」

 と、レイデナットが頷く。

「内容は良く分かった」

 そして、今度はレイデナットが机のグラスを手に取り、ゆっくりと振った。

「これは、我々人間が嗜む飲み物で、酒という。おそらく人魚である君達の、いわゆる水中の世界にはないものだろう。こうやってグラス一杯入れて楽しむ分には、人生を豊かにしてくれる効果があり、健康にも良いと言われている」

 そして、訳が分からないでいるエレジアに向かってグラスを突き出すと、徐に説明を始めた。エレジアは初めて見る液体を、しげしげと見つめることしかできなかった。とても興味深く、反面、それが自分を殺しかけた液体だと言われたことに、実感は湧かなかったが、漠然とした恐怖も感じた。

「だが、瓶一本など多量を一時に痛飲すると、様々な異変が身体を蝕み、意識を失い、時に命を落とす羽目になるとも言われている。あの沈没船は迎賓や貴族、王族などを乗せる為の船で、食事などの際に振舞うために、樽単位で様々な酒も積まれていた。その樽が沈没の衝撃で破損し、中身の酒が混ざり合った状態で、船内にまだ充満していたのだろう。君は人魚だ。水中で暮らしている君達は、海水を飲んで呼吸することができるのだろう。そして、酒の恐ろしさを知らない。君はおそらく、沈没船の中に充満していた酒を、日頃、海水を飲むのと同じように、そうとは知らずに暴飲してしまったのだ。我々の落ち度だった。本当に申し訳ないことをした。心からお詫びする」

 そして、ひと口グラスの中身を舐めるように眺めてから、

「詫びている最中に、口にするものではないな」

 名残惜しそうに、グラスを机に戻した。

「そして、これではっきりした。箱を奪われたのは我々側の注意不足で、君の失敗ではない。君は気にしないでくれ。と言っても、無理なのだろうな。君はそういう類の人物の目をしている。つまりだ。いや、私も十分回りくどいな。君がもし、まだ我々に力を貸してくれると言うのであれば、箱を取り返すのに協力してもらうことは可能だろうか」

「もとより、そのつもりで来たわ。あなた達が何と言って慰めてくれたとしても、私が箱を奪われてしまったという事実は変わらないもの。それに、デカンタも、中身を全部零してしまったわ」

 エレジアが全く迷いのない声で同意すると。

 小さく頷き、レイデナットは、

「そう、それだ」

 と、言った。

「その話もある。君が突然飛べるようになった理由は、それだ。君は中身を浴びたのではないかな」

「浴びたというより、服に染み込んで、ほら、ここ真っ青な染みが」

 と、自分の服をエレジアが見て、初めて気づいた。鮮やかな青い染みは消えていた。

「あら?」

「いや、疑いはしない。間違いなくあったのだろう。そして、あった筈の染みがなくなっていることが、何よりの証拠にもなる」

 レイデナットはまた頷き、そのことについても説明を始めた。それはエレジアにとっては驚くべき内容であった。

「あのデカンタの中身は、願叶がんがの秘薬と呼ばれている。その名の通り、一つだけ願いを叶えてくれる非常に強力な魔法薬だ。邪な野心を持った者に渡れば非常に危険な代物でもある。その為に、あの箱と一緒に、我が王国で保管、管理する為に運んでいたのだ。君のような人物の望みが叶えられ、それが、邪なものではなかったことは、我々にとっても幸運なことだったと言える。私掠船団に渡るくらいならずっと幸運だ。君は、今のように空を行ける力が欲しいと願ってなかったかな」

「ええ、確かに、日頃から、海を出て、陸や空を旅する能力があればと願っていたわ」

 エレジアの頷きに、レイデナットは満足したように少しだけ笑みを浮かべた。

「そうだろうな。君が空を求めたから、秘薬がその願いを叶えたのだよ。その薬品の効果は永久に消えない。君は空を往く能力を手に入れたのだ。おめでとう」

「でも、そんな強力な秘薬ということは、とても貴重なものではなかったの?」

 しかし、エレジアは、自分が得た力の見返りを、自分が支払えるのかということを心配した。きっと他の物品で代償になる代物ではないのだろうと。

「嘘は言わない。世界に幾つもない、非常に貴重な秘薬だ。そして、先程も私が言ったように、とても危険な代物でもある。私自身、そして、我等の国の国王も、扱いに苦慮していた代物でもある。ある意味、あの箱よりもよっぽど質が悪かった。失われたということが残念である気持ちがないとは言わないが、それ以上に、厄介払いができたことにほっとしている気持ちが大きい。あの薬品は、我々には荷が勝ち過ぎた品だった。そして、私が思うに、君のような子に希望を与えたというのであれば、失われたということも惜しくはないと言える気がしている」

 レイデナットは笑い、

「つまり、僕達が君と知り合えたことに比べれば、安いものではないかという予感がしているよ、お嬢さん」

 ラノルド医師もそう言って頷いた。

「ありがとう」

 自分にそこまでの価値があるとは思えなかったが、エレジアはただ二人の優しい視線に目頭を熱くした。そして、やはり彼等の為にも奪われた箱は絶対に取り戻さなければならないと思うのだった。

「あなた達の優しさに応えるためにも、私は、必ずあの箱を取り戻すわ」

「うむ。頼りにしている。だが」

 と、レイデナットは机の上のグラスをまた手に取った。

「その意気込みの前に教えてほしい。君は我々人間の世界のことをどのくらい知っているのかな?」

「あ」

 そう。エレジアは陸上のことを何も知らない。彼女はそのことをどう弁解したものかと迷った挙句、正直に答えるしかないという結論に達した。

「何も」

「そうだろうな」

 グラスを口に当て、レイデナットは中身を舐めるように一滴だけ飲んだ。

「うん、うまい」

 と、言ってから。

「君には世界のこと、人間の世の中のこと、我々の国のこと、連中の国のこと、何より、君が相手に仕様としているものの大きさを知ってもらわねばならないと、私は考えているよ。まずは、我々と一緒に来てもらえるかな。君に必要な知識を学ぶ機会は、私が用意できる」

 レイデナットはグラスを揺らして、エレジアに提案した。エレジアにも、何にせよ必要なことだと思ったから、頷く以外の選択肢は浮かばなかった。

「では、早速我が街に招待しよう」

 レイデナットはそう告げると、扉の外の水兵に声を掛け、船団を港に戻すように指示を出した。


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