SCENE.1
青い。
どこまでも青い。
頭上から差す光はカーテンのように揺らめいていて、白い帯を作って辺りを照らしていた。
青い。残酷なまでの青が、まるで薄靄か薄闇のごとく遠くの景色を霞ませていて、光は差しているのに視界は広くない。
そこはとても浅い、海の底だった。海底には珊瑚礁が広がっている。流れる波の中を泳ぐ、青や黄色の色鮮やかな小さな魚の群れを追って、大きな周遊魚が緩慢な動きで、しかし、高速で泳いでいく。
少女が一人、そんな光景の中で、テーブルサンゴの上に、ぼんやりと仰向けに寝転がっていた。その深い翠玉色の瞳は、海面に向けて伸ばした左手の指の隙間から見える、光を反射してきらきらと輝いている水面を捉えていた。
あの向こうには、世界のすべてを覆っている空がある。それは少女のあこがれで、翼がある訳でない、水の中しか知らない彼女にとっては、いまだ手の届かないほどに高い現実だった。
少女の名は、エレジア。
上半身は十代半ばの乙女の姿をしている。
下半身は、淡く青くも見える、銀の鱗に覆われた魚である。少女は、人魚だった。
彼女は普通の人魚とは、ずいぶん違っていた。元来、人魚という者は衣服を好まず、貝殻や真珠、珊瑚などで拵えた簡単な装飾品を身に着けるくらいなのだが、エレジアは地上の人間のように、薄桃色の衣服を上半身に纏っていた。
いつもならこの上に青い鱗片を編んだ防具と、得意武器である矛で武装して家を出るのだが、その日は水深の深い海域に出る予定はなかったし、武装はどちらも家に置いてきた。
ぼんやりと海面に揺れる光をエレジアが眺めていると、すぐそばを通りかかった三人の人魚が泳ぎを止めた。
「あら、ごきげんよう」
社交辞令に近い、感情のあまり籠らない声で、先頭を泳いでいた娘がエレジアに声を掛けた。その声は冷たく、抑揚の薄さから、エレジアに対しての距離感を置いた扱いが窺えた。
「メアンナ。何か用かしら?」
エレジアの声はそれよりもさらに静かだ。社交辞令の挨拶もなしに、話がしたい気分ではない、という雰囲気を滲ませて、返事だけはとりあえずした、という態度である。海面に向けていた腕をつまらなそうに下げて、声を掛けてきた人魚を見もしない。
「いえ、用はないわ。生きているならそれでいいの。では、さようなら」
エレジアにメアンナと呼ばれた人魚が泳ぎ去ろうとする。そんな彼女に、エレジアは、
「今日は東へは行かない方が良いわ。シー・エクスプローラー達が来ている」
視線を向けもせずに、抑揚の少ない声でそう告げた。
「あら、そう。南はどう?」
お互いに抑揚のない声。しかし、エレジアの頭上が陰る。青い瞳と、赤みを帯びた金色の、緩やかなウェーブのかかった長髪の人魚がエレジアの上から彼女を覗き込んだのだ。メアンナである。彼女の表情は、冷たい声とは裏腹に、しかし、うっすらとほほ笑みすら浮かべていた。
「暗いじゃない」
エレジアが困り顔で文句を言うと、
「知ってる」
と、メアンナは満面の笑顔で答えた。実際の所、人魚同士、仲は悪くない。ただエレジアは人魚に興味がなくて、人魚の一員としての反応はいつも希薄だった。
「貴女がそうやってぼんやりしているってことは、コロニーに危険はないのでしょう?」
「ええ。沈没船調査ですって。邪魔をしない限りは大丈夫よ。近づかない方が無難だけど」
半分目をそらしながら、エレジアが答える。正直なところ、彼女はメアンナのことが苦手だった。嫌いという訳ではないけれど。メアンナはある程度はエレジアの意思を尊重してお互いに干渉しない態度をとってくれているが、実際には他人との距離感が近い娘だからだ。
エレジアも、メアンナがもっと親しくしたいと考えていることは知っている。だが、エレジアは、人魚に留まらず、海の中の生物には、興味が持てないのだった。それは生まれた時からずっとで、彼女にとっては、海の世界はいつだって、まるですべて答えが分かっていることように退屈の種でしかなかった。
「いつも助かってるって、皆言ってるわよ。もう少し、皆のねぎらいをちゃんと受け取ってあげなさいな」
メアンナが、頭上から退いた。一緒に行動していた二人の人魚達の所へ戻りながら、エレジアに告げる。
「貴女今年の誕生日の贈り物も皆に断っていたじゃない。勿論私のもね。ちょっと悲しいわ」
「だから、気持ちは嬉しいって、言っているじゃない。でも、もう家に入りきらないもの」
エレジアは変わり者で、人魚に興味はなかったが、少なくとも薄情ではなかった。いつも一人で人魚達の海を守っているのだ。
そして、人魚達の中でも、とにかく荒事に強かった。海の中では負け知らずで、ヒドラを一人で追い返したこともあるほど、その実力は確かだった。槍を得意としていて、魔法も習得している。何より海神すらも眠らせると仲間達から称賛される、彼女の眠りの歌の力は絶大だった。幽霊船の眠ることのない筈の亡霊達を一斉に眠らせて座礁させたという冗談のような本当の逸話まである。
仲間達の危機を救ったことも一度や二度ではない。その為、エレジアの家には、仲間の人魚達から贈られた珊瑚や真珠などの装飾品で一杯であり、人間の世であれば、すでに、一生暮らしていけるほどの財産を築いていた。
「いつかこの美しい宝物をお金に変えながら、世界を旅するのって言ったら、許してくれる?」
贈り物をくれた仲間達に、エレジアがそう切り出したことがある。皆答えは同じだった。
「お気に召すまま」
エレジアはエレジアなりに仲間達のことは大切に思っていた。たとえ距離感は分からなくても。そんな彼女を、仲間達も受け入れてくれていた。それでもエレジアの視線はいつも世界を見ていたし、その方法を探していた。
ふと、エレジアが我に返り、上半身を起こしてメアンナ達に視線を向ける。
「何を探しに行くの?」
エレジアはそれを聞いていないことに気が付いた。目的次第では南へ行ったら見つからないなんてことは十分あり得ることだ。
「ヒトエグサを摘みに」
「ああ」
エレジアは頷いた。それならば干潟まで行けばいくらでも生えているからだ。危険は地上や空の生物に襲われることがあるくらいだが、そういったものに襲われたという話も稀である。ヒトエグサは人間達も食用にしていて、集めに来る漁村の人間も多いから、そういった海の生き物ではない危険な生物は、人間達が退治していると聞いている。人魚がヒトエグサを採る量は非常に少ないため、人間達との間で問題になったという話も、エレジアが記憶している限り、聞いたことはなかった。
エレジア達が暮らしている海は、穏やかな内海で、東西に五〇〇キロメートル、南北に五〇キロメートルほどの長細い形をしている。海の南東部辺りにある幅五キロメートルほどの海峡で外洋と繋がっていて、水深は深いところでも二〇〇メートルに満たない。珊瑚が発達していることからわかる通り、温暖というよりも、むしろ、かなり水温が高いと言って差し支えない場所だった。珊瑚の多い浅瀬や、海藻類の多い岩盤の干潟も、いくらでもあった。
「たまに、近くに悪食の草河豚がいることがあるから、齧られないように気を付けてね」
こちらからからかって手を出さない限り、そんなに危険な生き物ではないけれど。動くものを目にすると、なんでも口に入れようとする河豚もいるので、油断はならない。噛まれても命に別状はないものの、結構痛いのだ。
「それは怖いわね。気を付ける。ありがとう」
メアンナは手を振って去って行く。普段通り、穏やかな海だ。その代わり、ここにはそれだけしかない。
幅の狭い海峡は、潮の流れが速く、複雑で、人魚の泳力では外洋まで辿り着く前に力尽きてしまう。この海に閉じ込められているエレジア達だが、幸いなことに何よりも貴重な平和がある。
どこか遠くから、大型の船舶が波を割いて航っていく響きが感じられた。
かつては人間達も、海峡の複雑な潮を超えることができなかったという。内海と外洋は長く隔たれていて、内海のみに面した地の人間達も、エレジア達と同じように長い間、内海のみの航海しか行えていなかったそうだ。しかし、エレジアが生まれた時には、すでに人間達は海峡の複雑な荒潮を克服していて、エレジア達には出て行かれない外洋へと舳先を向けて出て行くのだ。
エレジアは、複雑な思いで、船舶が水面を進む音を聞いていた。