大賢者様の事情~大好きな師匠は、いつまでたっても私に振り向いてくれません!~
楽しんで頂けますと幸いです。
「アリアベル、お前、そろそろ成人だな」
大大大好きな私の師匠である大賢者様は、最近、いやここ数年少し様子がおかしい。
私が幼い頃彼に拾われて弟子にしてもらってから、今まで見たことがないくらい悩んでいるみたいなのだ。眉を寄せながら何か言いたそうにじっとこちらを見つめてきたり、ため息が多かったり、帰る時間が遅かったり。
優しく笑ってくれたと思ったら急によそよそしい態度を見せたりもする。名前を呼んでもらったのだって、かなり久しぶりだ。
今も私が一人で済ませた夕食後のお茶を飲んでいると、遅く帰ってきた師匠が目を泳がせながら私の対面に座り、いきなりそんなことを言い出した。
「はい、なんですか師匠。成人したら結婚してくれるんですか?」
「阿呆! お前な、俺は真面目に話をしようと思って……!」
ダン! と師匠がテーブルを叩く。
危ない。お茶が溢れるところだった。
今日も私はいつものように師匠にアプローチして、いつものように怒られている。私はいつだって大真面目なのに。
この大賢者様、目付きが悪いくせに変なところで真面目なのだ。あ、目付きが悪いと言っても師匠はものすごく格好いい。三十を過ぎて男っぷりは上がるばかり、長めの深い青の髪はさらさらつやつやだし、鼻筋はすっと通っていて切れ長の輝く金色の目はずっと見ていたいほど綺麗だ。
しかも若干二十歳で魔術師の中で最高の称号“大賢者”を得た魔術の天才ときたら、それはもう国中の未婚女性が師匠を狙っていると言っても過言ではない。
そんな師匠に私はもうずっと夢中なのに、師匠は全く相手にしてくれない。初めて会った時は子供だったから仕方ないかも知れないけど、私はもうすぐ十八になるのに。
「……セイルフリート様」
「!」
いつもは呼ばない、師匠の名前。師匠が嫌がるから呼ばない、師匠の名前。
「私は、あなたが好きなんです。何回も何回も言ってますけど、毎回本気なんです。私だってそろそろ成人になるのですから、だから、その……えっと……わ、私のこと、もっと……」
……うああああ! 顔から湯気が出そう! 真面目に気持ちを伝えるの、すごく緊張する!!
でも、いつもみたいに軽い調子で伝えて流されるのはもう嫌なんだもん! いい加減、女の子として見て欲しい。
けれど、師匠は顔をしかめて、ふいっと視線を逸らした。
「名前で呼ぶなと言っているだろう」
「……はい。申し訳ありません……」
ああ、今日も撃沈。
いつもこんな感じなのに師匠のことを諦められないのは、女の子としてではなくても、師匠が私を特別大事に思ってくれているのを知っているからだ。
師匠は国一番の、いや世界で一番の魔術師なのに私以外に弟子をとらないし、お屋敷には私以外の若い女性は入れないし、みんなの前では滅多に笑わないのに、私といる時は優しい顔でよく笑うのだ。
こんなの、こんなの、期待するなっていう方が無理だからー! 師匠が私だけに見せる笑顔を見る度に惚れ直しちゃうのは当然だからー!
けれど師匠はやっぱり今日も私の気持ちに応えてくれないのだ。私は思わずため息を吐いてしまった。
そんな私を気遣わしげに見ながら、師匠はとんでもないことを言い出した。
「……実はお前に、見合い話があって」
「……はい?」
師匠が綺麗な装丁の釣書と思わしきものを取り出した。
「向こうが是非にと言っていて……俺もいい話だと思う」
師匠が目線を逸らしつつ差し出した釣書を呆然と見つめる。
……ええと、これは何? どういうこと?
つまり、私はついに師匠に引導を渡された、ということ?
駄目だ。目の前が真っ白になってきた。やばい倒れそう。
……いやダメだ、しっかりしろ私! 師匠が心配しちゃうでしょ!
「わかりました、後で確認します。今日は疲れてしまったので、もう寝ますね。失礼します」
「え、おい……」
私はなんとか笑顔を作り、師匠の言葉を無視して部屋を出た。まだ寝るには早いけど、自分の部屋に戻ろう。もうあと一秒だって、笑顔を作ってなんていられなかったもの。
私と師匠が出会ったのは、私が十歳、師匠が二十五歳の時だ。
実は私は、十歳より前の記憶がない。
一番古い記憶は、泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれる師匠のこと。
『大丈夫だ、俺がお前を引き取る。一緒に暮らすぞ、アリアベル』
膝をついて抱きしめながら私の頭を撫でる師匠の手がどこまでも優しくて温かくて、すごく安心したのを覚えている。
どうやら私は自力で魔力を使えない体質らしく、魔術が使えないと知るや親に捨てられてしまったらしいということを後で知った。貴族は魔力がない子を産むことは恥だとされているから、もしかしたら私の親は貴族だったのかもしれない。
ひどい親だと思うけど、そのおかげで師匠に会えたのだと思うとむしろ感謝したいくらいだ。会いたいとは思わないけど。
師匠は捨てられた私を拾って育ててくれて、一般的な魔術を使えない私に召喚術を教えてくれた。
召喚術は私に向いていたようで、今では国で一番の召喚師だと言われたりしている。
『召喚した精霊たちは勝手にお前の魔力を吸いとって使ってくれる。だからたくさんの精霊と契約できれば、お前だって他の魔術師と何ら変わらず魔術が使える』
師匠が私に教えてくれたことや与えてくれたことは数えきれない。
……なのに私は師匠に、何もあげられていなかった気がする。そりゃあ師匠もうんざりするよ、面倒ばっかりかける弟子が毎日のように気持ちを押し付けてくるんだから。
……うん、もういい加減、面倒をかけるのはやめよう。
師匠は私が他の人と結婚すればいいと思ってるのかもしれないけど、そんなのは無理だ。絶対無理。師匠以外の人を好きになれるわけがないもん。
でも、師匠はつまり私を他所へやりたいということなんだから、他の人と結婚しなくてもここから出て行けば同じことだよね。
そばにいたら絶対に気持ちを誤魔化せないから、迷惑をかけないようにするためには、もうそうするしかない。私が師匠の屋敷を出ていったら、いい加減諦めたんだと、一人立ちしたんだと、師匠はホッとするはずだ。
師匠は最近ずっと、この屋敷では私を避けていたもんね。ちゃんと気づいていたのに、往生際が悪い弟子でごめんなさい、師匠……。
私が師匠にできる最大の恩返しが離れることだなんて、本当に情けない。でも、師匠はお金持ちだし、一人で何でもできるし、私が他にしてあげられることなんてないのだ。
ならば、私は喜んで出て行こう。うすうす感じてはいたから大丈夫。師匠が私に向ける気持ちはあくまで家族愛で、いつまで待ったって、私と同じものにはならないんだって。
私は今夜の内に屋敷を出るべく、荷物をまとめはじめたのだった。
「メリル」
『はあ~い!』
私が喚ぶと、まんまるな体に円らな目をした精霊が魔法陣からぴょんっと現れた。
まんまるな体からは、丸っこい手と足と耳が、申し訳程度についている。
「これ、全部収納してくれる?」
『もっちろん! ぼくにまっかせて!』
メリルはまとめた私の荷物をしゅるしゅると小さな手に吸い込むようにして取り込んでいく。
メリルは空間の中位精霊で、こんな風に物をいくらでも収納してくれる。もちろん、出し入れは自由だ。召喚している間は魔力を使うけれど、一旦精霊界に帰してしまえば荷物を預けていても魔力は消費しない。
精霊は普段精霊界にいる。どこにあるかもわからないそこには、実体を持たない様々な精霊たちが棲んでいて、気まぐれに気に入った魔力の人間と契約する。その魔力をもらって、こちらの世界で実体化するらしい。
「ありがとう、メリル」
私はメリルの丸くてふわふわの体をぎゅっと抱きしめた。短くて手触りのいい毛がもふもふしてて気持ちいい。
『ううん、いつでも喚んでねっ! ぼく、アリアの魔力だーいすきだもん! もっちろん、アリアのこともねー!』
まんまるな体がスリスリと私に甘えてくるのが可愛すぎて、涙が出そうだ。
「ありがとう、私もメリルのこと大好きだよ」
『やったー!』
……こんな風に、師匠とも気持ちを交わしたかったな。
ダメだ、本当に往生際が悪いぞ私。もう師匠に迷惑をかけないって決めたんだから、ちゃんと諦めなきゃ。
メリルを精霊界へ還す。
私物がなくなった私の部屋は、今の私の心みたいにもの悲しい。
私はすっかり寂しくなった部屋のベッドに座り、師匠から預かった釣書を取り出した。
……これ、もしかして師匠だったり、しないよね?
そんな万が一、億が一の可能性に無意識にすがりながら中身を確認する。
「まあ、そんなわけないよね! 知ってた!」
当然のごとく、中の写真には別の男性の姿が写っていた。師匠が自分の写真を釣書として持ってくるなんて、そんな面白いことするわけがないよね。
あれ? でも待って、この人どこかで見たことあるな。
……あ、もしかして、この前仕事の依頼で会った人? でも、どこの誰だか全く覚えてないや。
釣書に書かれている彼の情報を確認して、思わず目を見開いた。
「こ、侯爵家嫡男……!? バカですか師匠、いくら私が賢者の称号を持っているからって、私に侯爵夫人が務まるわけないじゃないですか! いくら向こうが是非にとかアホなこと言ってきても、大賢者の権力があればいくらでも断れるでしょー!?」
魔術師の称号は下から順に、見習い、魔術師、大魔術師、賢者、大賢者だ。ちなみに大賢者の称号を持つのは現在では世界で師匠一人だけ。
賢者の称号を得ることさえ、魔術師の生涯の目標と言われるくらい難しいことなのだ。私は運良く師匠に出会い召喚術を教わり、召喚師は中位精霊と一匹でも契約できれば優秀と言われるところ、上位精霊三匹と契約することができている。
それが認められて、昨年めでたく魔術師連盟から賢者の称号を賜ったのだ。
けれど大賢者とは、歴史上師匠を含め三人しかその称号を得ておらず、その力は国家権力にすら匹敵すると認められた者にしか与えられない。それは魔術師連盟の幹部全員の推薦と、世界連盟を代表する五つの国のうち三つの国の承認を必要とするものすごく狭き門なのだ。
確かに、師匠はやろうと思えば一人で国を落とせるだけの戦力を持っている。そんな気を起こさせないため、そんな災害級の強さを持つ魔術師を囲い込むため、大賢者には国王に次ぐ権力と十分すぎる財産が与えられる。それがたとえ平民でも。
師匠は公に出自を明らかにはしていないけれど、それでも国王に次ぐ権力者とあってはそんなことを気にする人は誰もいない。
馬鹿にでもしようものならどんなことになるかわからないからと恐れている人もいるけれど、大抵の人はみんな師匠が少し目付きが悪いだけで悪い人じゃないって知ってるし、すごい人だって尊敬もしているし、もちろん女性にだって大人気だ。それなのに、師匠は結婚どころかここ数年恋人すらいる気配はない。
……昔、師匠が知らない女性と親しげにしているところを目撃して、それが恋人だと知った時は一晩中泣いたっけなあ。あの時に、私は師匠を異性として好きなんだと気づいたんだっけ。
そういえば、あれからかもしれない。師匠が女性といるところを見なくなったのは。
……はっ!
もしかしたら私に気を遣って隠していただけで、本当は恋人がいたんだろうか!?
考えてみたら、一緒に住んでいる面倒を見ている子が自分を好きだと分かっていたら、恋人がいても連れてこられないよね……。
私は思わず両手で頭を抱え天を仰いだ。
うわあ、もし本当にそうだったら、師匠とその恋人にとって、私ってすごく邪魔な存在だったんじゃない!? 私がいるせいで屋敷にも入れないし、結婚もできなかったんだから。
うう、あり得る。師匠は時々訳がわからないくらい過保護になるからな……。
でも、私が師匠離れしたら、師匠もきっと堂々と恋人といられるようになるはずだ。もし今は本当にいないのだとしても、すぐ恋人ができるに決まってる。だって師匠だもん。実際に師匠を狙っている人を、私は十人くらい知っている。きっと彼女たちは私がいなくなったら「邪魔者が消えた!」と言わんばかりに師匠にアプローチをかけまくるんだろうな……。
賢者や大賢者は貴族ではないけれど、貴族と結婚することが多い。賢者と結婚することは家門に優秀な魔術師の血を入れることと同義なので、貴族にとって望むところであるし名誉なことだとされているのは知っている。でも私とお見合いをしたいというこの侯爵家嫡男のこの人、少し話したことがあるという程度の私を是非嫁にだなんて、どれほど賢者と結婚したいんだろうね? 魔力でしか人を測れないなんて、貴族になんてなりたくないよ。
私は師匠へ、ここを出て行くことと、今まで迷惑をかけてしまったことのお詫び、そして、私を引き取って今まで育ててくれた感謝の気持ちを込めて手紙を書いた。
そしてそれと釣書を、テーブルの上に置いた。
「……さよなら、師匠」
ぽそりと呟き、私は自分の初恋と、約八年過ごしたお屋敷に別れを告げた。
師匠は過保護だから、もしかしたら私が出て行ったって知ったら連れ戻そうとするかもしれない。自分のことより私を優先してくれる人だから。
でも、私は帰るわけにはいかない。
私はどうしたって師匠のことが好きなのだから、はっきり引導を渡された以上、もう一緒にいない方がいいのだ。
またお見合いを勧められるのも嫌だし、これ以上師匠の人生にとって邪魔な存在になりたくもない。だから、落ち着くまで身を隠す必要がある。
「ありがとね、アルカ」
氷の上位精霊である巨大な水色の鳥の姿をしたアルカに乗り、師匠の屋敷があった街からだいぶ離れたところにある、小さな村の前に降り立った。
アルカは鳥にしては少し首が長く、しっぽも自分の体より長くてふさふさしている。このしっぽは絹のような綿のような不思議な触り心地でとても気持ちいいんだよね。
『うふふ、いいのよ』
こんな優しげな顔をして笑っているけれど、アルカは小さな街一つくらいならあっという間に凍土へ変えることができちゃうというとてもすごい子なのだ。そんなことをする機会は、今までもきっとこれからもないけれど。
アルカのふわふわの羽毛をたっぷり撫でた後、お礼を言って精霊界へ還す。
そしてある家の前まで行き目立たない場所へ移動すると、また別の精霊を喚び出した。
「クロウ」
『はいは~いなんですかぁ?』
ぽん、と、二足歩行の猫の姿をした時の中位精霊、クロウが現れた。この子はいつもお気に入りの貴族の紳士服を着ているという、お洒落好きな精霊だ。
「時を早めて欲しいの」
今は深夜。誰かの家を訪ねるにはあまりにもふさわしくない。
『おっけ~! いつぐらいまで?』
「そうね、朝の遅い時間くらいまでお願い」
『りょーかいっ』
クロウは対象が感じる時間の感覚をずらすことができる。完全に時を止めることはできないけれど、止まっているように感じさせることはできるのだ。
今回は私に魔術をかけてもらって、時が過ぎるのを短く感じさせてもらう。
見る間に空の様子が変わっていく。するすると星や雲が流れていき、明るく色づいてきたと思うと間もなく眩しい朝日が昇り始めた。
『これくらいかな~?』
「うん、ありがとうクロウ」
『アリアのためなら何でもないよ! いつでも喚んでよ!』
クロウが還っていったのを見送って、玄関の前に立つ。
ドアをノックすると、しばらくしてパタパタと足音が聞こえてきた。
「はいはーい、どなた?」
ガチャリとドアを開けて現れた親友の姿に、私の緊張の糸はブツリと切れた。
「……フェリスう~!」
「アリアベル!?」
私はがばりと彼女に抱きついて、朝からわんわん声をあげて泣いてしまった。長年想ってきた相手からお見合いを勧められるという出来事は、思っていたよりずっと私の心に大きなダメージを与えていたようだった。
「しんっじられないわ! 大賢者様ってもっと人の気持ちが解る方だと思ってたのに、見損なった! 最低よ最低!」
居間に通され、ぐすぐす泣き続ける私に温かいお茶を出して落ち着かせてくれたフェリスは、昨夜の出来事を話して聞かせると私のために憤慨してくれた。
フェリスと知り合ったのは、二年前、たまたまこの辺りを通りかかった時にフェリスが魔物に襲われているところを私が助けたのがきっかけだ。お礼にと家でもてなしてもらいながら話をしている内に、気がついたらすっかり仲良くなっていた。それ以来、ここへちょくちょく遊びに来るようになった。もちろん、私の師匠への気持ちとか、状況なども全て知っている。
「……フェリス、しつこい私も悪かったんだよ、師匠をずっと困らせてたんだもん」
「もしそうだとしてもこんなやり方はひどすぎるわ! きちんと伝えればいいだけなのに、はっきり言いづらいからってこんなことされたら傷つくのは当たり前じゃない!」
フェリスがそう言葉にしてくれたことで、心が軽くなってくる。
そうか。それなら、私が師匠を好きになって、気持ちを伝えたことで困らせてしまっていたのだとしても、自分をそんなに責めなくてもいいのかな。むしろ、師匠ひどいですって、怒ってもよかったのかもしれない。
「ふふ、そうかも。ありがとうフェリス」
私が笑顔を見せたことで、フェリスも少しだけ落ち着いたみたいだ。
「アリアベルはこーんなに可愛くて中身もいい子なのに、大賢者様は一体何が不満なのかしら!」
「可愛くなんてないよ。師匠から外見を褒められたことなんて一回もないもん」
そう言うと、フェリスは目を見開いた。
「はあー!? どれだけ朴念仁なの! このルビーみたいな綺麗な赤髪にこのぱっちりした緑の目、白い肌はすべすべもちもちだし、アリアベルが可愛くないわけがないでしょ!? 初めて会った時はどこのお姫様かと思ったわよ!」
「は、はなひひぇ!」
ぐにぐにとほっぺをいじられてしまい、慌てて距離をとる。
「か、髪とかお肌は師匠が雇ってくれてるメイドたちがなぜか毎日気合いを入れて磨いてくれてるからそこそこ綺麗なはずだけど、師匠が褒めてくれたことは一回もないから、やっぱりそれほどでもないってことでしょ?」
「一緒にパーティー行ったこともあるって言ってたじゃない! その時めかしこんだあんたを見ても何も言ってくれなかったの?」
「うーん、『まあいいんじゃないか』とは言ってくれたけど」
「くっ、それは褒め言葉に入らないわよ!」
なぜかフェリスが悔しがっている。
「じゃあ、他の男から褒められたことは?」
「うーん、あったような気もするけど覚えてない」
「どこまで大賢者様一筋なのあんたは!」
フェリスが頭を抱えたけれど、他の誰に褒められても師匠に可愛いと思ってもらえないなら、意味がないんだよね……。
「でも、これからどうするの? 大賢者様、過保護なんでしょ? 以前仕事で不測の事態が起きて帰りが遅くなった時、例の兵士たちを大量に作り出して迎えを寄越してきたって言ってたじゃない。手紙を置いてきたとはいえ、勝手に出てきたならまた兵士使ってそこら中探し回るかもしれないわよ?」
「うう、やっぱりそうかな。放っておいてくれた方が師匠のためにもなるのに……」
それは師匠を大賢者たらしめた、師匠にしか使えない魔術だ。空気中の魔力に少量の核となる自身の魔力を合わせるだけで、人型でも動物型でも質量すら自由自在に、忠実な兵士をほぼ無限に作り出せるという反則級の魔術だ。
これを使えば、師匠は部屋でお茶を飲みながらノーリスクで国を落とせるだろう。そう言うと、師匠は「そんな面倒くさいこと誰がするか」って嫌そうな顔をしていたけれど。
でもそれが可能な実力があるならば、そりゃあ大賢者として満場一致で認められますよね。
「でも大丈夫、屋敷を出た時からずっと、この子にいてもらってるから」
『……』
ひょこっと私の肩の後ろから姿を現したのは、小指程の大きさの、幻の中位精霊ピュアラだ。
恥ずかしがり屋で、長い前髪でいつも顔を隠していて、赤いほっぺが可愛い小さな女の子の姿をしている。隠すのと隠れるのが得意で、この子にかかれば、誰にも見つけられることはない。
「きゃ~可愛い! この子がいれば、大賢者様にも見つけられないの?」
「本人が来たら無理だけど、兵士からなら隠れられると思う」
フェリスと出会った頃にはもう師匠と友人関係の話なんてほとんどしなくなっていたので、この場所のことを師匠は知らない。本人がここまで探しに来ることはきっとないだろう。
「だから、申し訳ないんだけど、しばらくここに置いてくれないかな……?」
「……馬鹿ねえ、あなたは私の命の恩人で親友なのよ。遠慮なんかしないで、気が済むまでいていいのよ!」
そう言って明るい笑顔を見せてくれたフェリスに、私は心から感謝した。
師匠、私があなたをきちんと忘れられるまで、どうか探さないでくださいね。そんな日が来るかは、わからないけれど。
……と思っていたのに、どうしてこうなっているのでしょうか。
私はついさっき、フェリスに余っている二階の部屋を使ってと言われ、昨夜は寝ていないことを思い出して昼間だけどベッドにもぐり込んだところだったはずだ。もちろんピュアラを召喚したまま。
それなのに、目を覚ますと見覚えがありすぎる師匠の屋敷の私の部屋のベッドの中で、メリルに預けていたはずの荷物も元の位置に戻っていて、すぐそばには師匠が椅子に座って、うなだれるようにして落ち込んでいるという謎すぎる状態。
え、なにこれ? 見つかるにしても早すぎない? いつの間にかピュアラも強制送還されてるみたいだし、師匠そんなこともできたんですか? というか、どうして弟子に家出されたくらいでそんなに落ち込んでいるんですか?
どうやら私は師匠の実力をまだまだ甘く見ていたようだ。その過保護っぷりも。
でもこの状況、少し驚いたけれど納得はしてしまっている。師匠がちょっとおかしくてわけがわからないくらいすごいことは、嫌というほど知っているから。
……あの後何があったのかわからないけれど、後でフェリスに謝りに行かないとね。
「ええと、おはようございます、師匠」
「………………おはよう」
師匠の声はとても暗い。相当落ち込んでいるようだ。落ち込みたいのは私の方だよ……。
でも、話を聞いてくれたフェリスのおかげで、この屋敷を出た時より私は冷静になれていた。こうなったら、師匠に出て行くことを納得してもらうしかない。
「……師匠、手紙にも書きましたが、私が好意を伝えることで師匠にそこまで迷惑をかけていたとは思わず、今まで申し訳ありませんでした。ですが、私の気持ちは変えられないのです。どうか、出て行くことを許して頂けませんか。師匠から見ればまだまだかもしれませんが、私も賢者です。ここを出ても、もう一人で生きていけますから」
「…………」
師匠は一瞬びくりと肩を震わせたけれど、何も言おうとしない。正確には、何か言おうと口を開いては、また閉じるのを繰り返している。
……何がそんなに言いづらいんだろう?
師匠の気持ちはもう分かっているんだから、そうか、わかったって言ってくれればそれでいいのに。
「……師匠」
「俺は」
私が促すと、師匠がようやく口を開いた。
「俺は……お前に話していなかったことがある」
「……?」
そんなの、たくさんあることは元々知っている。
そもそも師匠はあまり自分のことを話してくれないし、話したくないならそれでいいと思っている。
私は、私と出会って、私を拾ってくれて、私に全てを与えてくれた、私から見た師匠の全てを好きになったのだ。
「別に話したくないことまで聞こうとは思いませんよ。どうしてそんなことを気にしているのかわかりませんけど、言わなくてもいいですよ。私のことはもういいですから」
私がベッドから出ようと足を下ろすと、師匠が思い詰めた表情でバッと顔を上げた。
「お前は……十歳以前の記憶がないだろう」
……どうやら師匠が言いたいのは、私が忘れている十歳以前のことらしい。
「はい。でもそんな昔のこと、私は気にしたこともありませんよ?」
「……それが、お前の親のことでもか?」
親?
「全く気にしてないですよ。自分を捨てた親のことなんて、気にしても仕方ないじゃないですか」
「だが……昔のお前は、そうじゃなかった。親に認められようと、必死で努力していた」
えええ。何が言いたいんだろう、師匠は。
「昔の話じゃないですか。子供が親に認められようと頑張ることは当たり前でしょう? 今は会いたいとも思いませんよ。私に親はいません。育ててくれたのは、師匠です」
「……」
これだけ気にしてないと言っても、師匠はまだ難しい顔をしている。何がそんなに問題なの?
「お前の親は……ある国の、国王夫妻だ」
「……へ?」
あまりに予想外な事実に思わず固まる。
ええと、つまり私は、どこぞの国の王女だったということ?
……すごいよフェリス、私、本当にお姫様だったみたい。
「俺はたまたま用があってその国に訪れていた時にお前に出会った。お前は魔術が使えないと兄弟たちに蔑まれ、悩みながらも、一生懸命努力していた」
「……」
「それなのに、奴らは刺客を差し向けて、お前を殺そうとしたんだ。魔術を使えない王族など国の恥だと」
……な、なんて親なんだ。兄弟たちも。今まで気にしてなかった人たちだけど、嫌悪感すら湧いてきたよ。
「俺は刺客たちを始末して、お前を攫ったんだ。そして俺の弟子にした。お前は殺されかけたショックでそれまでの記憶を失ったんだ」
……ええと、確かに少しばかり衝撃的だったけれど、それが何だと言うのだろう。殺そうとまでした娘のことなんて、攫っても誰も困らないし、むしろ師匠は私を助けてくれただけですよね?
「師匠、私を助けてくれてありがとうございました。師匠は何も悪くないのですから、そんな顔をしないでください」
さっきから師匠はずっと辛そうだ。そんな師匠を見ていると、私も辛い。
そっと手を握ろうとして、思い止まる。
師匠はたとえ慰めるためだとしても、あまり私に触れて欲しくなんてないはずだ。
「俺は……お前が王女として生きる道を奪ったんだ」
「……はい?」
師匠が搾り出すようにして言った言葉に、思わず気の抜けた声を返してしまった。だって、王女として生きる道なんて、殺されかけた時点で閉ざされていたも同然のはずだ。
「あの、師匠?」
「お前はすぐに召喚師の才能に目覚めた。初めて上位精霊と契約した時には、その優秀さは公に明らかとなった。その力があれば、お前の両親たちはお前を王族として認めたはずだ。それなのに、俺はこのことをお前にも誰にも話さず、お前を国へ返さなかった。俺の、お前を離したくないっていう、身勝手な思いで、お前の本来いるべき場所を奪ったんだ」
私は今度こそ動けなくなった。師匠が言った“離したくない”という言葉に、私が期待する意味も込められているような気がして。
「最初は奴らへの怒りと頑張ってたお前への尊敬と同情から引き取っただけだったのに、お前は無邪気にひたすら俺を慕ってくるし、だんだん女らしく綺麗になってくしで、ただの弟子だと思い込むのも難しくなってきた。お前が王女として得られるはずだったものを全て奪った俺が、お前の未来も全て奪うなんて許されると思うか?」
どくんと心臓が跳ねた。
師匠は私のこと、女の子として見てくれていた? 罪悪感から、撥ね付けていただけで?
「師匠、私は、王女としての人生なんていりません。欲しいのはあなたと生きる人生なのです」
「……それだって、お前は十歳の頃からずっと俺を好きだと言ってるんだぞ。それは親を失った時に拾ったのが俺だったから、俺を親や兄のように思ってるんじゃないのか? 俺はお前より十五も年上だぞ」
んなー!?
あ、あれだけ好意を言葉で態度で示していたのに、ちゃんと伝わっていなかったとかありますか!?
「そんなんじゃないです! いや、確かに始めはそうだったかもしれないですけど……」
拾われたばかりの時はそうだったかもしれない。けれど私が恋心を自覚したのは十二歳のあの時だ。あの時から、私ははっきりと師匠を男性として好きなのだ。
私が必死で反論しようとすると、いきなり視界がぐるんと半転した。
……へ?
ぼすんと背中がクッションに押し付けられる。
とっさに何が起きたのかわからなかったけれど、どうやらいつの間にか距離を詰めていた師匠が私の肩を軽く押して、ベッドに押し倒したようだった。
師匠の思い詰めたような、それでも美しさは損なわれない綺麗な顔がものすごく近くにある。
「お前の言う“好き”は、こういうことをされても平気な“好き”か?」
私は固まって動けなくなっていた。
師匠が私の手をベッドに縫い付けるみたいに押し倒しているので、動こうとしても動けたかどうかはわからないけれど。
師匠の綺麗な顔があり得ないくらい近くにある。私が少し顔を上げたら、唇同士がくっついてしまいそうだ。
本当に? 本当に師匠も、私と同じ気持ちなの?
感動と困惑で目がまわりそう。
だっていきなりすぎて展開についていけないよ!
いつまでも返事をせず戸惑ったような私の様子を見て勘違いしたのか、師匠は自嘲するようにふっと息を漏らし、私からスッと身を引き私に背を向けてベッドに腰かけた。
「やっぱりな。安心しろ、予想はしてたから、俺は……」
「わーっ! 違います違います!」
そんな簡単に身を引かないでください、師匠!
私は真面目で頑固で鈍感で少しヘタレな師匠にはっきり気持ちを伝えるため、師匠の肩を引っ掴んでこちらを向かせ、無理やり唇を重ね合わせた。
──のだけれど。
「っ!」
「~~っ!?」
……痛ったぁ!
勢いが良すぎたようで、がつんとお互いの歯が当たってしまった。
なにこれ、こんなことあるの!?
思わず両手で口を押さえながら師匠を見ると、師匠も痛そうに口元を押さえている。
ど、どうしよう、怒ったかな。
「ご、ごめんなさいししょ……」
師匠の顔が近づいてきて、気がついた時にはまだ痛む唇を師匠の唇で塞がれていた。
驚いたけれど、師匠からしてくれたキスは優しくて、柔らかくて気持ち良くて、痛いのなんてあっという間になくなってしまった。
ちゅっと音を立てて、唇が離れた。
……もっとして欲しかったのにな、と無意識に思ってしまい、そのことに気づいて顔に熱が集まってきた。
わああ! 私、何考えてるの! ていうかさっき、自分から師匠に……!
恥ずかしさに思わずパッとうつむくと、師匠が両手で私の頬を押さえて上を向かせ、再び唇を合わせてきた。
「……!」
ぎゃーっ! いきなり積極的すぎませんか師匠! ときめきすぎて死にそうです!
ゆっくり離れた師匠の顔は、見たことがない表情をしていた。やばい。ドキドキしすぎて胸が痛い。こんな顔を他の人に見られたら、その人たちは全員師匠を好きになっちゃうよ。
「……もう、嫌だっつっても逃がしてやらねえからな」
力強く抱きしめられて、嬉しくて倒れそうだ。
それに、いつもより少し口調が荒くなっていませんか。本当はそれが素なんですか。
「い、嫌だなんて言うわけないじゃないですか! 師匠こそ、もう他の人とお見合いしろなんて言わないでくださいよ!」
「……悪かった」
あれ、珍しく素直だ。まあ、あれにはかなり傷つきましたからね。
「あいつは賢者としてのお前じゃなくお前自身を気に入ってるみたいだったし、何より年が近い。それに王族ではないが、身分も高いし」
「もう、世界一の魔術師が一体何を言っているんですか! あの人には悪いですけど、私はあの人のこと覚えてすらいませんでしたから。写真見て『あれ、見たことあるかも?』くらいですよ! 私が一緒にいたいのは、年が近い人でも身分が高い人でもなく、師匠だけなんですからね!」
「……っ、本当、お前は! 俺の理性を試してんのか!?」
「え? 理性?」
……何の話?
「正直、二年くらい前からいつ襲っちまうか気が気じゃなくて、出来るだけ家ではお前のこと見ないようにしてたくらいなんだぞこっちは! お前が成人したら絶対すぐに結婚だからな、文句は聞かん!」
師匠が照れたように視線を逸らしながらやけくそという感じでそう言った。
意外な事実に目を瞬く。私を避けていたのがそんな理由だったなんて。
私の胸がぶわりと喜びで満たされていく。
今の言葉は全然プロポーズっぽくないけれど、師匠と結婚できるなんて嬉しすぎてそんなことは全く気にならない。
「はい、師匠! それであの、ひとつお願いがあるんですけど」
「……なんだ」
……そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいのに。別に変なこと言わないよ?
「名前で呼んでもいいですか?」
「駄目だ」
若干被せぎみに返ってきた答えに唖然とする。
「なんでですか! 私たちは結婚するんじゃないんですか!?」
「うるさい。結婚したらいくらでも呼べばいいが、それまでは我慢しろ。次名前で呼んだら本当に襲うからな」
「……」
どうやら師匠は、名前で呼ばれると襲いたくなるらしい。あまり私の名前を呼ばなくなったのも、もしかしてそれが原因だろうか。
結婚前にそんなことになるのはさすがにまずいと思うので口をつぐむ。
「……わかりました。でも、せめて師匠からも、“好き”の一言くらいあってもよくないですか」
師匠は“離したくない”と言っただけで、私ばっかり好きと言わされている。これで名前も呼べないんじゃ、やっと関係が変わったというのに実感が湧かない。
師匠はものすごく嫌そうに顔をしかめたけれど、私は諦めきれずにじっと師匠を見つめた。
「……ふー」
すると師匠はぐっと眉を寄せながら、心の準備をするかのように深呼吸した。
……魔物の大群に一人で向かって行く時だって、そんなに緊張してなかったじゃないですか、師匠。
そしてたっぷり時間をかけたあとようやく私に向き直ったと思うと、顔を寄せて、私の耳元で小さく囁いた。
「……愛してるよ。アリアベル」
「!!」
そう言って、師匠は再び私に唇を落とした。