少女B
2/22 過去シリーズに合せてジャンルを変更し、再投稿しました。
2/21に読んでくださった方、ごめんなさい。
少しまどろんだらしい。
私は眼を開けて、暗い天井を見上げた。
ふかふかのベッドで眠る夢を見たようだ。
もう一度目を閉じて、体に残る感触を味わう。
気持ち良かったな・・・。
あ、ゆっくりしてはいられない。
早く起きて、井戸へ水汲みに行かなくちゃ。
私は勢いよく起き上がり、水瓶を持って外へ出た。
水道がないから、煮炊きするのも、顔を洗うのも、水瓶の水を使う。
路上には、私と同じような薄汚れた身なりの子供、女性が歩いている。皆、バケツやポリタンクを持って、共同井戸へ水汲みに行く。持って行く器にもよるけれど、一日に何度も、家と井戸を往復する。これは、かなりの重労働なの。水汲みは、女子供の仕事と昔から決まっているらしい。
水は貴重だから、どの家にも風呂はない。その代わりに、川か海で水浴びをする。
この辺りはトイレも共同で、これがびっくりするほど汚い。私はそれが一番キライ。
お世辞にも生活環境が良いとは言えない、とお母さんは思っているみたい。口癖のように「せめて水道があれば」という。私には、よく分からないけれど。
大人も子供も、毎日が生活することで精いっぱい。
だから、学校へは行かなくてよいと言われている。
本当は、お金がないから行けないだけ。文房具や教科書を買うにもお金がいるし。そういう子供は、私だけじゃない。近所の子供は、ほとんどがそう。
勉強をするって、どんなかしら。本当は、ちょっとだけ学校へ行ってみたい。自分の名前くらい書けるようになりたい。でも、両親を困らせたくないから、想像するだけで終わらせるの。
学校へ行く子を見ていたら、なんとなくモヤモヤするけれど、私に他の選択肢はない。たとえあっても、私は知らなかった。
今日も朝から暑い。
空はどんよりと曇って、空気が湿っている。いきおい、私の気分も湿りがち。
こういう日は、ゴミ山の悪臭もキツイと感じる。
井戸に並び、いざポンプを使おうとして、私は左腕がないことに気づいた。
「あ・・・」
眼が覚めて、私は思わず左腕を押さえた。
「ある・・・よかった」
夢の中では、左肘から先がなかった。
それは現実じゃない。
にも関わらず、私は脂汗をかいていた。
「ひどい。あんまりだよ」
知らず知らずに、私は涙ぐんでいた。
ついこの間まで、自分のベッドは天国だった。何もかも忘れて、身も心も休める唯一の場所だったのに。
それが、安息の場ではなくなってしまった。
どうしてこうなるの?
退屈な日常を繰り返すだけの奇妙な夢は、毎晩のように続いた。
陰鬱な夢を見たくない一心で、寝ずに頑張ろうと、机にかじりついたこともある。
それも無駄だった。いつの間にか意識を失ってしまう。しかも、おかしな姿勢で寝落ちしてしまえば、起きた時に体まで痛い。仕方がないから、ベッドで横になるしかない。
どれだけ足掻こうとも、夜は必ず来る。
逃げたくても、逃げられない。
だんだんと、私は夜が恐いと思うようになった。
正確には、夢を見るのが恐かった。
毎晩、少しずつ、自分が夢の中に取り込まれていく。そんなバカげたことを考えてしまうほど、夢は余りにもリアルだった。私は、得体の知れない恐怖に怯えていた。
考えられる原因は、一つだけ。
あのビー玉だ。
バカバカしい。そんなことってある? 少し冷静になりなさいよ。
理性的な自分が否定する。
けれど、他に心当たりがない。
いったい、どうしてこうなったの?
私は制服のポケットに入れっぱなしだったビー玉を手に取り、矯めつ眇めつ眺めた。
どう見ても、ただのガラス玉なのに・・・不可思議な安息を感じる。
そう、なぜか安らぐのよね。
学校にいる時の不安が、これを持っているだけで消えてしまう。経験的にそれを知ってからは、ずっとビー玉を握ったまま授業を受けていた。
私は小さなビー玉を、天井の照明にかざした。七色に輝くビー玉は、どことなく温か味がある。
それはまるで・・・・・うん、もし眼に見えたら、魂ってこんな感じかな。
やっぱり、手放せない。
私は学校の苦痛と悪夢を天秤にかけて、悪夢を選んだ。
不思議と後悔はなかった。
数か月余りも夢を見続けた頃、私は恐怖でゲッソリと痩せ細りながらも、果敢に夢と闘っていた。
根性とは無縁の私がそこまで頑張ったのは、それだけ学校生活を嫌い、恐れていたことの証拠でもある。
鏡に映る自分を見ては、少なからずショックを受けて、何度もビー玉を捨てようと思った。実際、庭の隅に捨ててしまったこともある。
しかし、結局は拾いに戻ってしまった。
玉に魅入られたかのように、持つことをやめられない。そして、持っていると昼間は安息が訪れ、夜は悪夢を見る。
ただし、夢自体に特別な恐怖は何もない。恵まれない生活が延々と続く、ただそれだけの夢なのだ。
両親は痩せ細った私を心配して、病院へ行こうと言ってくれたけれど、医者に治せるものではないと、心のどこかで分かっていた。
どうやらこの夢は、私とは別の少女が経験する日常であるらしい。きっと私は、夢を介して少女の現実と向かい合っているのだろう。
この生活を送る人が、地球上のどこかにいる。奇妙な話ではあるけれど、私は、それを確信していた。年齢の近い少女に、少しずつ、親近感も湧いていた。できるなら、不遇な少女をどうにかして助けたかった。
ちょっと待って。
私が誰かを助けようなんて、思い上がりじゃない? 自分の面倒さえ見られないのに。
でも・・・助けたいと思う気持ちに嘘はない。だから逃げるわけにはいなかい。そうよね? ささやかな、私の反攻ってとこかな。
それに、夢から逃げるようでは、本当の現実に立ち向かうことなど、到底無理だもの。
立ち向かう?
これまで、そんなふうに考えたこともなかったでしょ。あんたなんかに、立ち向かえるの?
理性的な私が、揶揄する如く自嘲する。
一度くらいは、頑張ってみようかなって、そう思うの。ダメ?
学校から逃げ続けている私が、そうまでして夢に相対したのは、なぜだろう。今になって考えても、確たる理由は見当たらない。無意識に、これが最後の砦と思っていたのかもしれない。
今日こそは、負けない。負けるもんか。
夢を見る度に、毎晩そう思った。
でも、無理なの。
心の中では、負けを覚悟していた。
だって、どこにも救いがないんだよ。
何を楽しみに生きるのか、何が希望なのか、私には理解できない。
寝る前までは闘うのだと自分に言い聞かせるものの、夢の中では早く目が覚めて欲しいと、それだけを願っている。情けないけれど、それが自分なの。
はあ・・・。
この夢には一つの約束事がある。ビー玉を手にして何日か後に、私はそのことに気がついた。
最初の晩から一貫して、過去へ遡っている。時間を逆行しているのだ。そのスピードが少しずつ、遅くなっている。ここ数週間は、一晩に一日しか進まない。
夢の中の私は今、たぶん三歳になるかならないか、それくらいの年齢だと思う。
問題は、今夜。
おそらく、今日、私は左腕を失う。
なぜなら、夕べの私は血に染まった包帯を巻いて、うなされていたから。
燃えるような痛みは、起きた後でさえ残っているように感じられた。生々しい血の匂いが、脳裏に甦る。
今までとは比較にならないくらい、辛く、苦しい夢。想像を絶するほどに、過酷だった。自分が同じ立場なら、そのまま死んでいたのではないか。
許せない。
幼い子供に、なんてことをするの。
私は逃げないと決めた。マリアと呼ばれる異国の少女と一緒に、彼女の悪夢に、私も挑む。
その夜、私は斎戒沐浴のつもりで、ゆっくりと全身を洗い、身を清めた。
洗いたての下着とパジャマを身に着け、ベッドに入って祈りを捧げた。
私は意を決して横たわり、息を整えて目を閉じる。
「恐くない、負けない・・・負けるもんか」
いざ、尋常に勝負。
私はいつもの小屋で目が覚めた。
暗い天井も、悪臭も、すでに馴染みつつある。
幼い私は、父に呼ばれて部屋の隅に座った。
そこで待て、という。
私はガタガタと震えながらも、敵を待った。
犯人は誰なのか。この眼で見極めてやる。
「マリア、おいで」
ガラスのない窓から差し込む光の帯が、暗闇にうずくまる人物を浮かび上がらせた。音もなく立ちあがった男性の手には、鈍く光る刃物が握られている。
嘘でしょう?
彼女の父親が、大ぶりの鉈を持って近づいて来る。
茫然とする私は、為す術もなく左腕を強く縛られ、床に押さえつけられた。
恐い。
無理、無理無理無理無理。
必死で抵抗した。
でも、逃げられない。
強く殴られたような衝撃の後、熱を伴う強烈な痛みが、左腕から脳天へ突き抜けた。
「ギャアアアアアアア」
私は覚悟も虚しく叫んでいた。
ここにいるはずの幼女は、きっと何も知らずに待っていたのだ。
父親のことを信じて、ただ待っていた。
大人しく、言いつけを守って。
そして、彼女は・・・。
その光景を思い描くと、私の心はズタズタになりそうだった。
「誰か、助けて!」
気がつくと、私は自分のベッドで横になっていた。
枕元に、両親がいる。
悲鳴が聞こえたので、慌てて駆けつけたのだという。
カーテンの隙間から、朝の光が覗いている。
「大丈夫?」
母は少しばかり涙を浮かべていた。
その隣で、父が苦笑いをしている。
「ずいぶん、うなされていたよ」
何も言わずに、母は背中を撫でてくれた。
父は私の肩に手を乗せ、黙って見守ってくれた。
いつまでも震えながら、私は二人の温かさを噛みしめ、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい」
謝ることはない、と二人は口々に言って、部屋を出て行った。
私は肘の上を撫でて、ほっと溜息をついた。まだ左腕が痺れている。
本当に、恐かった。
肉厚の刃物が迫る、あの恐怖。忘れたくても忘れられない。
しばらくして、頭の片隅に残る少女の記憶が、ぼんやりと思い出された。
父親は娘に物乞いをさせようと考えたらしい。少しでも効率よく物乞いができるように、より同情してもらえるようにと、幼い娘の腕を切り落としたのだ。
酷い。酷過ぎる。
これは親なんかじゃない。人間でもない。ケダモノ以下だわ。
その直後、怒りの炎は驚きにかき消された。
信じられないことに、それでも彼女は父親を慕っていた。
これも生きるため。だから仕方がない。
後になって、彼女はそう思ったのだ。
食えないから、育てられないから、予定外の子は生まれてすぐに殺す。そうした慣習が、昔の日本にあったと聞いたことがある。
そういう選択をする大人が、現代にもいる。他の国にもいる。
哀しいけれど、それが現実。
でも、どうして?
彼女が何をしたの?
何も悪くないよ。理不尽だよ。
私は涙が止まらなかった。
夢を見たのは、その晩が最後。
ヨーコちゃんと半纏のオジサンに会って、一年が経とうとしていた。
日一日と寒くなり、景色が色褪せてゆく、暗鬱な季節。
私の嫌いな秋が、またやって来た。
朝になっても、まだ外は暗い。
でも、寝坊をするわけにはいかない。
私は日の出前から起きだして、身支度を整えた。
大切な日だもの。夜明け前までには、公園に着かなくちゃ。
一年前の今日、私はヨーコちゃんに会った。
今も覚えている。
少し翳りのある大きな眼。手入れの行き届いた髪。小さくて紅い唇。とても可愛らしい笑顔。
ヨーコちゃんの保護者であろう、半纏、股引、草履履きの男性。暗い表情とは裏腹に、とても穏やかな語り口だった。
はっきりと思い出せる。
その男性から渡されたビー玉が、手の中にある。
私はそれを握りしめた。
二人から預かった、このビー玉。きっと大切なものなんだわ。何もかも、これが始まりだったのよね。
暁の曙光が、裸になった木々の梢を染め上げ、くっきりとした影が路上に模様を描いた。
外へ出た少女の頬に、うっすらと朱が差した。
「会えるといいな。会いたいな。会えるまで待とう」
死神は空を仰ぎ、傍らのヨーコに微笑みかけた。
「今日も良い天気だな」
「そうね」
笑って答えるヨーコの歩みが、ふいに止まった。
「どうしたね?」
「お姉さん」
ヨーコの視線を追えば、公園のベンチに制服姿の少女が座っている。
昨年の今日、ここで会った子のようだ。
見覚えのある少女を見つけ、駆け寄ろうとするヨーコの手を、死神はつかまえた。
「お待ち」
死神はヨーコに言いきかせた。
「今日はやめておきなさい」
「どうして?」
「もう、あの子に私たちは見えない」
「そうなの?」
「ああ、もう見えないだろう」
少女へ向けられたヨーコの瞳が揺れる。
「その方がいいのだよ。わかるだろう?」
ヨーコは小さく頷いた。
こうした経験は、今日が初めてではない。
哀しいことだが、ヨーコにもその辺の事情は薄々分かりかけている。
「玉を持っているようだ。もらっておいで」
「うん。行ってくる」
「よし、よし」
私は白い息を吐き、手をすり合わせた。
寒い。
ふと、去年の出会いを思い出す。
ヨーコちゃんと出会ったあの日。
あの日から、私の冒険は始まったわ。どれほど恐くても、たとえ夢の中でも、生まれて初めて逃げない選択をした。
弱虫の私には、精一杯の冒険。
蒼穹を見上げて、私は何気なく呟いた。
「私ね、学校が嫌いで・・・死にたかったの」
去年までは、本気でそう思っていた。これ以上の苦しみはない、もう人生なんて終わらせたいって。
今は違う。
私が為すべきは自殺じゃない。
もっと他に、やるべきことがある。今はまだ見つからなくても、きっとそのうちに見つかるはず。その機会が、私にはいくらでもある。
生きているのだから。
貴方のおかげで、私みたいなおバカさんでも分かったの。
「ありがとう、マリア」
感謝の言葉が、自然に口をついて出た。
助けてあげられなくて、ごめんなさい、と胸の内で告げた。
「マリアは学校に行きたくても、行けなかったのよね」
正直に言うと、学校は今も好きじゃない。
彼女がここにいたなら、そんな私を見て何と言うだろう。
私は胸の奥から湧き上がる罪悪感を抑えられなかった。
私の家には、酷い悪臭もなければ、過酷な肉体労働もない。飢えることもないし、誰も私を殺そうとはしない。学校へ行けとは言われても、行くなと言われたことはない。
それが当たり前だと思っていた。しかし、そうではない世界があると知ってしまった。
「もう、一年か・・・」
去年のヨーコちゃん、季節外れだけど、半袖の白いブラウスを着ていたっけ。シックな茶系のスカートとローファーが、よく似合っていた。今年はどうかしら。
ヨーコの可愛らしい笑顔が、懐かしく、とても愛おしく思い出された。
「さよなら」
女の子の声が聞こえた。
「ヨーコちゃん」
確かに聞こえた。
私は咄嗟に立ち上がり、声の主を探した。
しかし、周りには誰もいない。
朝日が公園の広場を隅々まで照らし出す。動くものは何もなかった。
そこかしこで秋風が舞い、枯れ葉がカサコソと音を立てた。
「あら・・・私、どうしてここにいるの?」
早朝の公園で、自分は何をしているのか。
辺りを見回しても、空のベンチがポツンと佇むだけである。
「おかしいわね」
なぜかしら。
誰かを待っていたような気がする。
でも、思い出せなかった。
何かを持って来たような気もする。
だけど、思い出せなかった。
ポケットを探っても、空だった。
少女は首をかしげ、思い出したように踵を返した。
帰って学校へ行かなくちゃ。
後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りつつ、少女は家路を急いだ。
遠ざかる少女を、死神とヨーコが見送っていた。
振り返る少女に向かって、ヨーコが手を振る。
少女が手を振ることはなかった。死の影を脱ぎ捨てた彼女の眼に、もう二人の姿は映らないのだった。
二度と会うことはあるまい。おそらくは永遠の別れである。
死神は、小さく息をついた。
おまじないが効いたようで、よろしゅうございました。
貴方様と同い年で亡くなられた、異国の少女。その生涯は、いかがでしたかな。
ええ、言わずとも分かりますでございます。
驚かれましたでしょうなあ。
そうでございましょう。そうでございましょうとも。
ところ変われば、生活も価値観も変わります故、少々理解に苦しまれたことと思います。もちろん、貴方様から見れば幸せには程遠い人生でございましょう。
しかしながら、広い世界を見渡せば、この少女だけが特別に不幸というわけでもございません。
哀しいかな、下には下があるのでございます。
死神はヨーコの頭をそっと撫でた。
生きていれば、理不尽なことに出くわす時もあるでしょう。残念ながら、貴方様が悪くなくとも、そうしたことは起こるのでございます。正面から受け止める必要もなければ、闘う必要もございません。もちろん、逃げてよいのです。
ですが、自らを殺すことだけは、おやめなさいまし。理不尽の度に死んでいては、命がいくつあっても足りません。それもまた、殺人なのでございます。寿命を全うすること、これこそ無数の命を犠牲にして生きる人間の義務でございます。
少々差し出がましいことを致しましたが、ご容赦くださいませ。これも何かの縁でございます。
貴方様の魂が成熟した頃、またお会いすることがあるやもしれませんな。五十年後、あるいは百年後になりましょうか。その時まで、健やかにお過ごしくださいませ。
では、ごきげんよう。
死神はベンチに座り、ヨーコへ問うた。
「さて、今日は店仕舞いだ。なにを食べようか」
ヨーコの双眸に明るさが戻った。
「ええと、ええとね・・・」
指を折りながら食べたい物を挙げてゆくヨーコが、とても愛らしい。
さながら天使のようである。
今だけは、ここが天国だと、死神は思った。
小春日和の柔らかな光が、二人の上に降り注いでいる。
了
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