第2話 奪われたぬくもり
『――紫苑』
誰か―とても懐かしく、それでもよく知っている少女の声に呼ばれた気がして紫苑は背後を振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「おにいちゃん?」
「なんでもないよ」
首を傾げた紫亜に顔だけを向けて微笑んだ紫苑は、もう一度視線を戻して自分の奥底を揺さぶる“彼女”の面影にふたをした。
一方、自分の発した声で目覚めた紫歩は、天井に向けて伸ばされている手に気づいて苦々しげな表情を浮かべた。
―お前は、必要ない―
誰が口にした訳ではない。実際に紫歩がその場にいたとしても、そう言われはしなかっただろうその言葉は、現実で隔たれた場所にいる“紫歩”だけを確実に拒んでいるように、他の誰でもない紫歩は感じた。
胸の奥深く、心の奥底から形容できないような感情がわきあがってきた紫歩は、体を起こすと頭を振ってその感情を無視した。
「キモチワルイ」
今、一番的確に自分の心情を言い表す言葉を低い声で吐き捨てた紫歩は、ため息を吐いて立ち上がり、凝り固まった体を解した。
枕元に書物を見つけた紫歩は、苦笑しながらも書物を拾い上げてページをめくった。その本は、何年か前に紫歩が写本したものだった。
今の紫歩からしてみると拙い字で書き写されたそれは、紫歩が監禁されるように東堂の家に閉じ込められて初めてやらされた事だった。
震える字にはその時、初めて過ごす場所でたった一人きりでいる事の恐怖と、閉じ込められた哀しさがありありとにじんでいるようだった。
カタン
深い闇の中で響いた微かな物音に、紫歩は訝しげに蝶番の掛けられているはずの妻戸に視線を向けた。
××××
漆黒の闇の中に、光が入り込んできたのを感じた紫歩は“目を覚まして”褥から起き上がった。近くに無造作に置かれていた水干に着替えた紫歩は、妻戸を開け放って部屋の前の庭に足を下ろした。
二年前、十三のあの夜。
夢の中で家族の情景を見せつけられて鬱々としていた紫歩は、当時の東家の長老-東長の名を拝命していた男に乱暴をされた。
酷いショックを受けた紫歩の潜在的なガードが緩んだ隙に、師と呼んで慕っていた最丞紫月に思考を読まれ、紫織たちには追っ手がかかった。
紫歩に乱暴をした男と最丞紫月は、そのことを知った姫蜜月華から央雅本家の長に報告が行き、地位を剥奪された上で黄泉の牢に投獄された。その謀に加担していた祖父母も投獄。同じ頃に紫織たちも捕まり、全員が殺されたと聞かされたが、紫歩は何も知らない。
その事実を紫歩が知ったのは、全てが終わった後だった。 紫歩を除いて「東堂」姓を名乗るものはいなくなり、紫歩はそのゴタゴタが片付いた直後に洗礼名“最丞紫月醒藍天女”を受け継いだ。
予見師たちの頂点である洗礼名を受けた三巫女の一人となった紫歩だが、予見詩人も経験せず、変則的な形で洗礼名を受けた事と、元々の生まれの事も手伝ってじゃれあうような友人もいなかった。
あれから、二年間――
紫歩は、孤独の中で生きてきた。
「……最丞紫月醒藍天女様」
紫歩の背後、渡殿から僅かに驚いたような女の声で呼ばれた紫歩は、視線だけを動かして相手を確かめた。
―側仕え
特殊といってもいい生まれと、変則的に継承したその立場のために、紫歩個人に付く側仕えはいない。紫歩自身が必要しないという事もあったが、紫歩と関わろうとする存在がいなかったことも原因だった。
「最丞紫月醒藍天女様、当主様がお呼びです」
「わかりました。すぐに向かいます」
蒼と薄浅葱の髪紐。その色は東家の人間を示す時に用いられることが多い色であると同時に、その側仕えの言う“当主”が、東家当主―東長―だという事を表していた。
洗礼名を受けた巫女の名を持ってはいる紫歩だが、紫歩の立場は誰よりも曖昧で定まってはいない。そのため紫歩は手早く袿に着替えると、中央の間へ足を向けた。
部屋の前で深く呼吸を繰り返した紫歩は、中で待っているのが一人ではないことに軽く首を傾げてから両膝を廊下に付け、声をかけた。
「最丞紫月です……お呼びとの事で参上いたしました」
「どうぞ」
当主のその言葉に紫歩は軽く体を震わせたが、軽く息を吐き出してから戸に手をかけた。
「失礼いたします」
下げていた頭を上げて部屋の中に視線を向けた紫歩は、部屋の中に東家当主―蒼羽水炉の他に、姫蜜月華―志央姫密月華仙女がいたことに驚いて目を丸くさせた。
男と紫歩だけの構図にならなかったことに内心、安堵の息を吐いた紫歩だが、そんな内心はおくびにも出さずに部屋に足を踏み入れた。
「紫歩は初めて顔を合わせることになるかしら……知っているとは思うけれど、こちらが蒼羽家の御当主、水炉様よ」
“紫歩”
そう呼ばれたことで、何のために呼び出されたかを正確に理解した紫歩は、再び水炉に向かって頭を下げた。
「初めてお目にかかります。最丞紫月醒藍天女……東堂、紫歩です」
「初めまして、紫歩」
掛けられた声は男のものだったが、紫歩の事情を知っているのか、それとも元々の性格なのか、その声は紫歩にとって優しかった。