さん。
変わり者。
リャンは、機械になりたいと言ったトーヤに苦い顔を向けた。
トーヤも、むすっと口をへの字に曲げる。
「リャンおじさんだって、身体を半分機械に替えているじゃないかっ」
トーヤの言う通り、リャンの恰幅のいい身体の左半分は機械で造られていて、無機質な金属に覆われていた。一目見れば、彼がサイボーグやアンドロイドの技術に詳しいことはすぐに分かる。彼自身の半身が機械なのだから。
「わしだって、機械になれればいいのにと思ってたことがあったよ」
彼は、のしのしと大股で歩きながら、部品棚に向き合う。工具やネジ、ナットの入った箱がぶっきらぼうに詰め込まれているだけの棚の一角に、額に入った一枚の写真があった。
三十代半ばの女性の姿がそこにあった。少年からすれば、自分の母親くらいの年齢だ。目鼻立ちがくっきりと整っていて、写真の中からでも力強い意志を感じさせる透き通った瞳をしている。
「……、わしの妻は身体が弱かった。でも、わしは妻を愛して気付いたことがある」
リャンの肩が震えて、声も震えていた。
だけど涙を流すことはない。何かを噛みしめるような微笑みを、彼は写真の中の彼女に投げかけていた。
「わしは、身体はこの通りふてぶてしいほどに丈夫だが、妻がいなくなることに耐えられないほど、心が弱かった。妻とは正反対だったのだよ」
そして彼は、その写真たての中から、マイクロチップのようなものを取り出した。写真の裏に挟み込んであったのだ。
「これは、彼女の記憶を書き出したメモリチップだ」
「……リャンおじさんは、その人を助けたかったんだろ?」
「ああ。でもそれは、妻を助けたいという気持ちじゃない。わしが、妻にいつまでも自分の傍にいて欲しいというただのエゴだったのだよ。わしは、妻の記憶を取り出して、人間の身体を機械の身体に作り替える行程も研究した。自身の身体をつかってね。でも、ぎりぎり踏みとどまったよ。もう少しで何か大切なものを失う気がしてね」
マイクロチップを再び写真立ての中に戻す。もし、彼の思惑が変わらなかったなら、それは妻を作り替えたアンドロイドの中に入っていただろう。今は、彼女の生きた証として、彼の中の彼女の象徴として、写真たての中で息づいている。
「俺にはそんなの分からねえよ」
「今は分からないかもしれない。けれど、そのうち――」
「――分かったら死ぬんだろ」
しかし、トーヤはそれを、息づいているとは捉えなかった。
「機械の身体がなかったら、俺はいつかおっさんになって、じじいになって死んじまうんだ。あいつは金剛石で造られたアンドロイド。死という言葉も知らなければ、自分以外の存在がやがて死んで行くことだって知らない。……、俺はあいつに……、Φにひとりになって欲しくない」
「――お前は、Φがずっと夢の中を生きているとでも思っているのか」
リャンは静かな重みのある声で返した。
「彼女は、魚が好きだろう」
しゃがみ込んで部品棚の一番下の段から、オイルサーディンの缶詰を取り出した。他にもツナやコンビーフの缶詰も中に入っている。彼の常備食の中のひとつだ。
それを自分で食すわけではなく、リャンは缶を開けて中のニシンの身を手でほぐして、宙に泳がせた。香味の効いた油が缶の中身から、水の中に散らばって、油滴がもわもわと拡散していく。
ランタンの仄明るい光を反射して、淡い虹色に揺らめく油滴がゆっくりと溶けていく。そのかぐわしい匂いが、闇に埋もれていた魚を誘い出す。
ずんぐりとした丸っこい小さな体を、黒く濃い線で縁取りをされた鱗が覆っている。きょろきょろと頻りに動かす目の玉が、宙にふよふよと浮いているニシンの肉を捉えた。やがて、その黄色い松ぼっくりのような形をした魚は、一匹、二匹と後から加わっていき、ニシンの肉を、バレーのトスをし合うようにして、突っつき合う。そして、肉のうまみに喜びを噛みしめるようにして、身体をうっすらと光らせる。
しばらくすると、ぼんやりとしたその光に吸い寄せられたかのように、別の魚たちも加わり始めた。
ウナギのようににょろにょろと細長いもの。イカやエビなど魚類ではない海の生き物も混ざり始める。
リャンはそれら生き物の群れと戯れながら、オイルサーディンの身を宙にほぐす。優し気な瞳を、彼らに投げかけながら。
一方そんな様子を、トーヤは冷めたような表情で見つめていた。
「俺は魚が嫌いだ……」
「どうしてだ? なかなかに可愛いぞ」
「底で生きている俺たちのことを見下ろして、笑っていやがる。俺たちにない自由が、こいつらにある。それに……、こいつらは自分がいつか死ぬなんてこと、分かっちゃいないんだろ。そんなやつらに笑われてるって、考えるとすごく腹が立つ」
「――お前は、死から逃れることこそが英知とでも言っているような口ぶりだな」
口を歪めるトーヤ。トーヤは、リャンがそうするようにニシンの身をほぐして、生き物を餌付けして愛でようとはしない。リャンが、トーヤに目配せをしながらも、身の回りを踊り舞う魚たちに、視線を注いでいるのに対して、トーヤは彼らから意識的に目を反らそうとしていた。
「人は死から逃れることだけを必死に考えているとき、目が死んでしまっているんだよ。妻にそれを指摘されてね。『そんなあなたを、見たくない』って。以来、機械の身体を手に入れる研究も進まなくなっちまった。代わりに、妻が最期を迎えるまで、わしはその横に寄り添った。妻は言ったよ。『研究を止めてくれて、ありがとう』と、『私を人間として愛してくれてありがとう』と」
「それで死んじまったんだろ。リャンおじさんを置いていっちまったんだろ。リャンおじさんが、研究を進めていたら、生きていたかもしれないじゃないかっ!」
「それでも妻は、それを望まないさ」
落ち着いた声で、トーヤを諭そうとするリャン。
しかし、トーヤは自分の考えを曲げることはなかった。
「わかるかよ、そんなこと。だってもう、奥さんは亡くなっちまったんだろ。死んだら何もかも無くなって、それだけなんだ。生きていることが全てで、死には何の意味もねえ」
ついにはへそを曲げて、瓦礫の山から拾って来た皮財布を、作業台に乱暴に置いて、「つけておいてくれ」と背中で言い放った。
リャンはそれを、呆れ調子のため息をつきながら受け取る。
「また吊り上げるかもしれないぜ」
地下鉄の出口の階段を登りかけたトーヤの背中に、リャンは呼びかける。
「……、いくら吊り上げても、金はあつめてくる。絶対に集めてやる。俺は、あいつを失うのも、あいつの中で俺が失われるのもごめんなんだ」
振り向くことなく、階段を登るトーヤ。
コンクリートの階段を打つ靴音に、食事に勤しんでいた魚たちは、いっせいにトーヤの背中を見つめる。
生命を謳歌する魚の群れは、鋭い靴音の主を一瞬だけ見やる。しかし、自分たちに背中を向けていると分かると、もとの通り目の前の肉に夢中になるのだった。