に。
地球温暖化が進んだのか。それとも地殻が損傷したのか。
人が住む街は、海の底に沈んでいた。人が空という呼ぶ場所には、ひれをひらひらと動かす魚たちが泳いでいる。そこに住まう人間にとっては、海が空で、魚が鳥で。大空を優雅に泳いで、時に泡の雨を降らせるクジラたちが雲なのだ。
地面には真っ白い砂が溜まっていて、人々が触れたことのない水面の波が映っている。水底の砂紋を遮るように、雑に沈められているごつごつした一枚岩の上を自転車の歪んだ車輪が転がっていく。
車軸が所々歪んでいて少々不恰好だが、まだまだ走れる。
少年が着用する真っ黒な手袋は、二の腕まで伸びていて少年の腕を隠していた。水で満たされたこの世界にも夏は存在する。暑い暑い水が、長袖の少年の身体に纏わりついていた。
「そっか、もうΦとはもう別れたんだった」
少年は手袋を外す。じっとりと汗をかいていた。
自転車を崩れたビルの隣につける。
倒れる際に臓物ごと吐瀉物をぶちまけたように、ビルは崩れた穴ぼこからガラクタを吐き出していた。壊れた車や折れた鉄骨。泥の入った冷蔵庫。画面の割れたテレビ。それらがビルの残骸とともにぐちゃぐちゃに積み上げられた山の上を、少年は四つん這いになってよじ登る。
すすなのか、泥なのか、灰なのか。よく分らない汚れが少年の衣服にこびりつく。それでも少年は、瓦礫をよじ登っては、それを掘り返していく。画面の割れたテレビを投げて、中のドラムが外れてしまった洗濯機を転げ落として。
少年は、瓦礫の中からボロボロになった皮財布を掘り出した。
中から日本円の紙幣を盗み取る。一万円札が三枚と、千円札が四枚入っていた。さらにジッパーを開いて小銭入れの中に指を入れて、皮のつなぎ目の底を撫でるようにまさぐった。百円玉が二枚。十円玉が四枚。そのうちの二枚が転がって瓦礫の中に消えた。
「くそっ!」
少年は瓦礫の隙間に手を伸ばすが、届きそうにない。やがて諦めて、後ずさりの格好で瓦礫の山を下りていく。スクラップの山の横につけた自転車にまたがり、再び漕ぎ出していく。
街は、街といいながら、そこにあるのはかつて栄えていたであろう残骸だけだ。空っぽになった家が立ち並び、中には横倒しになったものや、崩れてただの山のようになったものもいくつもある。
一枚岩を何個も沈めて作られた小道を外れて、大きな通りに出る。白い砂に覆われた地面。砂の深さは浅く、ところどころから、アスファルトが顔を出していた。遠い昔の道路がその下に埋まっていることを告げていた。
一定間隔に、電柱や街灯の残骸が道に倒れていた。道を横切ってしまっているものもある。それを少年は蛇行してかわしていく。
そして、しばらく道なりに走ったところで、自転車を降りた。
地下鉄の駅の入り口に自転車を着けた。もちろん今は、鉄道は動いてなどいない。少年は懐から懐中電灯を取り出す。スイッチを押すが、ついてくれない。ヘッドの部分をいくらか叩いて、やっと点いた。
こつこつと固い靴音を鳴らして、地下への階段を下りていく。
「リャンおじさん、リャンおじさーん。金持って来たぞ」
少年はリャンという男の名を叫んだ。
懐中電灯の光が、薄暗い闇の中にぼんやりと光るランタンを捉える。かつての地下鉄の駅のホーム。そこはガラクタ置き場のようになっていた。人間の腕の形や、脚の形に組まれた機械たちがごろごろと無造作に転がっている。
火花が飛び散って、金属が削れる耳障りの悪い音が鳴り響く。溶接用のヘルメットを上げて、男が少年の方を振り返る。呆れがちな溜息をひとつ。
「トーヤ、またお前か」
「約束は、三百万だろ。あといくらだ?」
「五百万に吊り上げるよ」
「はぁあ? 金を探すのも大変なんだぞ! それも前史の金なんて!」
少年が集めてきた日本円。この世界に日本とい国は、形跡があるという形でしか存在していない。いや、ドイツやアメリカ、オーストラリア、イランもアフガンも中国も、とっくにない。
ただ、崩れたビルの山の中に、形跡が埋もれているだけだ。
少年は、その金を集めていた。集めては、リャンというこの男のもとに持ってきている。リャンは丸眼鏡をかけたアジア系の顔立ちをした男で、でっぷりとした腹の縦にも横にも大きい大男だ。まだ成長中途の少年と比べると、巨人と小人のような体格差だ。
それでも、男の大柄さよりも、彼の半身を覆う金属の身体の方が印象に強い。いや、彼の身体が大きいからこそ、余計に機械化された部分が目立つのか。
「お前はいくら値を吊り上げても、懲りないな」
「当り前だ。俺はΦと同じでなきゃいけないんだっ」
二の腕まで伸びていた手袋を外した、その皮膚は太陽の光を知らない真っ白な色をしていた。接合部など見受けられない、滑らかな若い人間の美しい肌だ。
「あの機械娘にまだご執心か……、変わり者だな。お前といい、あの女といい、機械になりたいだなんて」