王子
本日12話投稿予定、内02話です。
あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。
日差しの入り込む掃除の行き届いた部屋の中。
上等なベッドの上で覚醒しつつあるマリウスは、女神アルテアとの邂逅を思い出していた。
最後に意識を失ってからどれくらい眠っていたのか、体の節々に走る痛みがまだ生きていることを感じさせた。
マリウスは弱った体をなんとか起こし、辺りを確認する。
ここは石壁で囲まれた、質素だがそれなりに高価な調度品の置かれている部屋だった。
マリウスは自分の部屋では無く、療養のための部屋に移っていたことを思い出す。
外に向けられたガラス張りの扉はバルコニーに通じ、そこから入る風はまだ冷たさを含んでいた。
それでも、爽やかな風が運ぶ新鮮な空気は、眠りから覚醒しつつあるマリウスにも感じられるほどだった。
エルドリア王国に現れた上位魔人との戦いによって重傷を負ったマリウスは、肉体が回復してなお死の淵を彷徨っていた。
容態が良くなるどころか日に日に衰弱していくマリウスに、専属の医師たちも手を尽くしていた。
しかし原因がわからず、古い文献を漁り知己を頼り、それでも打つ手が見つからず、誰もがマリウスの生命力に頼っていた。
そうして三ヶ月が過ぎると、はじめはしっかりしていた意識も次第に朦朧となり、ついには昏睡状態に陥ったマリウスは死を感じていた。
もちろん周りのみんなもだろう。
恐らくもう数日と持たない、誰もがそう思っていたはずだ。
寄り添うように泣き続ける妹や、心配そうに様子を窺う弟には辛い思いをさせた。
死に行くものを見送るなど母親が亡くなる時だけで十分だっただろうに。
薄れゆく意識の中、マリウスは誰かに助けを求めていた気がする。
自分にはこの手で片付けるべきことがあり、まだ死ぬ訳にはいかなかった。
それははじめ重荷でしかなく、与えられた責任であり義務であったが、いまマリウスの生を繋ぎ止めているのもそんな気持ちだった。
それでも、いよいよかと朧気な意識の中でマリウスが死を感じ取っていた時、それは現れた。
青く慈愛に満ちた光は、かつて礼拝堂で一度だけ見たことがある三柱の女神像の一つ、女神アルテアの姿を形どっていた。
マリウスは信仰心というものを持っていなかった。
だから礼拝堂に訪れたのは生涯で一度だけ、それも成人の時に受ける祝福の時だけだった。
この世界に神といわれる存在がいることはマリウスも知っていた。
実際にその奇跡を見たこともある。
ただ、それは一つの魔法としか思えず、姿を現すことのない神々の存在は、いるとは思っていても漠然とした何かであって、いま目の前にいるような儚くも美しい容姿を持った人のような存在だとは思っていなかった。
女神アルテアはマリウスに語り掛けてくる。
もし、この魂魄を受け入れるのであれば、マリウスの魂の器を修復し、再び元のように動けることを約束すると。
ただし、受け入れる魂魄の願いを聞くこと、その願いを叶えるまでが生きられる時間であると。
魂魄とはなんだ?
そんな疑問が浮かんだ時、女神アルテアと寄り添うようにもう一人の存在に気が付いた。
それは女神アルテアとは違い見ることは出来ない何かだったが、それが誰かの魂魄なのだと直感が物語っていた。
マリウスは考えた。
たとえ短い生の時間であったとしても、やり残したことのいくつかはやり遂げられるだろうと。
泣いてやまない妹に、いま一度死に行くものの姿を見せるのは心苦しくもあるが、次は一人どこかで朽ち果てばいい。
死に様を晒す必要は無い。
ただ、その魂を受け入れることで、自分の中にもう一人の人間が存在するということに戸惑いもあった。
もし自分が自分でなくなれば生きることが出来たとしても、意味のないことだった。
女神アルテアは言う。
魂の器と結びつきの強いマリウスの意識が依代たる肉体を得るだろうと。
女神アルテアに寄り添う魂の欠片、そこから伝わる思いが声になる。
「みんなに……会いたい……」
マリウスはその思いを素直に受け入れた。
自分がそうあるように、その魂の欠片もまたやり残したことがあるのだろう。
最後に得る自分の生と引き換えに、その願いを叶えることに何の戸惑いがあろうか。
「わたしも、まだ死にたくない。
力があるのなら貸して欲しい、私の願いが叶うなら、そなたの願いも叶えよう」
瞬間、魂の欠片の強い生命力を感じ、それと混ざり合うように青く白い光に包まれ、マリウスは覚醒した。
◇
それからどれくらいの時間が過ぎたのか、マリウスは部屋に差し込む眩しい光の中で、久しぶりに色々な物を感じていた。
眩しいという感覚、少し乾燥した空気、肌にあたる少し冷たい風、背中には上質で温もりのあるシーツの感触があり、肌触りもある。
そして、重く自由の利かない肉体の感覚が、マリウスを安心させた。
「生き……てい……る」
声は掠れ、耳をそば立てていなければ聞こえないほどの声だった。
それでもそばに仕えていた侍女が気付く。
「マリウス様?!」
侍女は一瞬自分の空耳かと思ったようだが、薄らと目を開けるマリウスを見て空耳じゃないと知ると、駆け寄り、次いで触れることに戸惑い、思案し、駆けるようにして部屋を出ていく。
王族付きの侍女とは思えない行いであったが、今それを咎める者は誰もいないだろう。
マリウスは覚醒しつつある中で、最後に見たものが夢なのか現実なのかを考えていた。
ただ、すぐにそれが現実だったとわかる。
マリウスは、自分の意識の中にもう一つの意識の存在を感じていた。
それは意識というよりは知識の塊のようであって、それ自体がマリウスに語り掛けてくることは無い。
それでも自分が経験、体験したことのない知識が確かにあった。
自分の知識のようで他人の知識。
意識しなければその知識を覗き見ることが出来ない不思議な感じだった。
それでも、これが現実なら女神アルテアとの約束――いや、彼との約束を果たさなければいけない。
その為にはこの知識の中から、その望みを見出す必要がある。
マリウスは、深く、深く……、その知識を探るように覗き見る。
その知識は時間を遡るようにしてマリウスに知覚出来た。
初めはマリウスの魂と同化するところだった。
そこから遡ると、その魂の欠片は長いこと何も存在しない空間で、ただ自分と繋がる魂の器を探し彷徨っていたことがわかる。
さらに遡ると、マリウスは不死竜エヴァ・ルータと出会う。
そして、その不死竜エヴァ・ルータが上位魔人を屠ったのを見た瞬間、マリウスは涙した。
それはマリウスが追い続けた上位魔人の最後だったからだ。
一度は見つけ出し、戦いを挑むも返り討ちにあったマリウスは、そこで受けた怪我のため命を失い掛け、今に至る。
女神アルテアとの約束、短い命。
その中で今一度上位魔人に挑むのは難しいと思っていた。
だが、上位魔人を討つという願いは図らずも叶えられていた。
マリウスはそこで記憶を閉じる。
その記憶はマリウスにとって耐えられない苦痛の連続だった。
仲間を助ける為に魂の器となった青年――名はアキト。
一振りが死を纏う戦いに身を置き続け、仲間を失う恐怖を背負い戦い続けるアキト。
絶望的な上位魔人との戦いの中で何とか活路を見出そうとするアキト。
無力感に苛まれるアキト。
それらの思いがまるで自分の思いのように、マリウスの精神を蝕む。
期待されて育ち、その期待に応えるべく鍛え、それなりに自負出来るくらいの技量をもって魔人族を倒したこともあった。
期待通りの結果を出したことに増長していなかったとは言えない。
結果として上位魔人に返り討ちにあった。
それでも自分では油断したからだと思っていた。
もう一度戦えば倒せると思っていた。
だが、知識の中の上位魔人の強さは自分の想像を上回るレベルにあった。
アキトの仲間はその歳に見合わず、誰もが優れた技量を持ち、王族である自分の周りにもそれほどの技量を持つ者は少ないと言えるほどだ。
それでも上位魔人の生命力はアキト達を上回り、その仲間の命を奪うに足りる。
かつて自分の仲間が殺されたように。
抗うアキト達の前に突然現れた不死竜エヴァ・ルータは、強力なブレスを上位魔人に放ち、一撃の下に屠った。
それが追い求めた宿敵の最後だった。
驚くべきことにアキトは、仲間の為にその身に不死竜エヴァ・ルータの魂魄を受け入れる決断をした。
しかし、アキトの魂魄は強力な不死竜エヴァ・ルータの魂魄を抗えずに魂の器からこぼれ落ちる。
アキトの望み。
それは再び自分の肉体を取り戻し、仲間と共にあること。
その願いは実にささやかな物だった。
マリウスは自分に近寄る数多の人々の欲望に晒され続けていた。
だから魂の欠片を受け入れるとき、それがどんな俗物的な物かと、それを立場のある自分が叶えることの影響に戸惑いを持っていた。
でもアキトは本当に、ただ純粋に仲間との再会だけを追い求めていた。
マリウスは一時の生としても、その願いを叶えることに、何の抵抗もなかった。
むしろ、その願いこそ自分の願いでもあるかのように、今はアキトの為に生きようと思った。