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青いワンピース

ついに佐橋は休暇を取って白壁の過去を追う事になのだが・・・

第2章――青いワンピース


第2章――その1 六甲颪


平均時速二百十七キロで走るのぞみに、東京駅を朝六時十六分発の始発に乗った佐橋は七時五十七分には名古屋の駅の辺りだった。その名古屋の朝のいつもの出勤風景を佐橋は見ている。

一昨日、井原から二日間の休暇を与えられ、今、尼崎へ向かっているわけであった。

目的は白壁の過去に当然出てくるであろう西岡との接点である。それと見坊が見抜いたように昨年の八月に尼崎か岡山に姿を現したのではないか、というその事実である。

調べた限りでは白壁は尼崎にも岡山にもその姿を現していない。が、藤原がした捜査とは、捜査依頼を岡山の西大寺署と尼崎の西署に送付して、その返答をもらった、というだけの事なのである。当然、依頼を受けた署は通り一辺の事しかしていない。

そんな事もあって、佐橋は自分が行く必要を感じていたのだが、本部の捜査方針とは相容れないものがあり、休暇という非常手段に出たのである。

それにしてもよく許可を出してくれたものだと思う。井原は井原の立場で悩んでいる、という事をその一事でも痛切に判る気がする。

列車に揺られながら佐橋は堀井の事を思う。

佐橋は西岡の先手、先手と立ち回った動きに一驚したが、堀井の行動力には更に驚いた。堀井の裏取りをしていると、理由はどうあれ、西岡の動きを事前に読み、問題点を確実に捉えて動いた形跡がある。佐橋は堀井の、その的確さに驚いたが、もし西岡が犯人ならば堀井の行動は恐怖の対象であったろう。

身柄を拘束されるという突発事がなければ、ことごとく西岡の痛点を衝いていた堀井の行動はどういう結末を迎えていたのだろう。

―― 初動を西岡に握られ、主動を回復出来なかっただけ堀井の負けか

しかしこの場合、主動を握るとは即ち仕掛けた側という事になるわけだが、そうすると

―― 堀井は西岡に謀られたわけか?

ついつい、そういう考えに陥ってしまう佐橋であった。


阪奈製鋼の尼崎工場は、堺にある本社工場に次ぐ規模を誇るだけあって、受付のある正門から事務所ビルまで百メートル近くも離れていた。

応接室に通されてしばらくすると、四十半ばの男が入って来て、自分が昨日電話で話した課長の水野です、と挨拶した。

「私では判らない事が多いでしょう」

だからこの間の刑事さんに会ってもらった佐野が来るから、彼から話を聞いてくれ、という事だった。佐野と聞いて、佐橋は先日送られてきた尼崎西署の調査報告書を思い出す。あの書類では、当時の白壁の上司だという事だった。

水野は要領よく、如才なく話した。

そして佐橋にお茶を勧め、先日も同じような用件で刑事が来たが、今回は白壁の私生活も知りたいという事なので、佐野が白壁の元同僚も連れて来るはずだと、やはり要領よく話した。

少し話が途切れると、窓から見える六甲山を指して

「中腹に白い建物が見えるでしょう。あれが当社の保養所なんです」

と言ったりした。

しかし佐橋には六甲山を覆っている白い雪が鮮やかな印象をしているだけで、自慢の保養所が何処なのか判らなかった。

六甲山を見ていると、後ろの方でドアーが開く音がして、振り返ると二人の男が帽子を手に持って、頭を下げて入って来た。

ネクタイをした水野課長と違って、ポロシャツの上に作業衣を着けた姿であったが、上場企業の社員にふさわしい物腰で

「私が班長の佐野で、こちらが白壁君と同僚だった谷君です」

と言った。

佐橋は机の上に白壁と西岡の写真を並べ、白壁が殺害された事を述べてから

「当時の彼の事が知りたいのですが・・・」

と言った。

二人は写真に目をやっていたが、ほとんど同時に顔を上げてから佐野が、私が知っているのは先日の刑事さんに話した通り、白壁君が夫婦で突然いなくなってしまったという事だけです。しかし、家庭的な事でしたら同じ家族寮に住んでいた谷君が詳しいでしょうと、谷の顔を見た。

谷は写真の一枚を指して

「これは白壁君や」

と言い、もう一人は知らないと言った。それから

「白壁君はややこしい事に巻き込まれてもうて、もうわややったんですわ。ほんま、ああなったら可哀相なもんや」

と、語り始めたのだった。


平成六年十二月半ば、久方ぶりに雪の降った日であった。白壁が仕事を終えて帰宅すると、結婚して一年半になる妻の明子が、電気も点けずぽつんと六畳の居間に正座していた。

蒼い顔をしている明子に

「どうしたんだ?」

と声を掛けると、明子はわっと泣いた。

明子が言うには、今日勤め先の美容院を所用のために昼に終えて、国道二号線を右折し武庫之荘方面に向かっていた時、折からの雪のため車がスリップし、前で信号待ちをしていた車に追突したのである。

明子の車はカムリのセダンであったが、相手の車は年式の古いスカイラインであり、改造車だった。中から降りてきた相手はまだ二十歳にもならないような少年が三人であったが、どう見ても剃りを入れた暴走族風な少年たちである。

明子は瞬時、困惑した。

「姉ちゃん、気いつけえや」

と言ったリーダー格の少年は自分の名を洞貝清仁と名乗り、明子の住所と電話番号を控えてから、修理費用はあとで請求するからと言ってそのまま行ってしまった。

追突といっても大した事故ではなく、バンパーにも傷が付かないような、そんな軽微なものであったので、ほっと胸をなで下ろし明子は明子で帰宅した。

四時ごろ洞貝から電話が入った。

「あの後な、身体の具合が変なもんやから病院へ来たんや。そしたらな、三人とも入院せなあかんのやてー―」

普通こういう事態になった場合は最終的には金銭で解決する。具体的には保険会社が損害金を払い、加害者は被害者に対して幾らかの慰謝料を支払うという形で解決を見るわけである。

しかし白壁夫婦の場合、金銭の解決は難渋を極めた。今年十八になったばかりの洞貝は揉め事自体を楽しんでいるところがあり、鬱屈した精神構造の持ち主であった。

そればかりではない。洞貝は「瑠琵亜」という暴走族グループのリーダーであり、後で判った事であるが暴力団「村井組」の構成員でもあった。その暴走族のメンバーが、面白半分に昼夜の区別なく白壁の社宅の回りを走り回り、何度も白壁の家に押し寄せた。

最初白壁は警察に事情を話し、助けを求めた。

しかし警察は彼らに注意をしてもそれ以上の事はしなかった。見解としては、事件は発生していないのだ。

そのうち事故から十日ほど経過した時であったが、明子が連れ去られそうになる事が起きた。連れ去られては一大事である。

白壁は明子を岡山の実家に帰した。

それが裏目に出た。

明子は昭和四十五年三月二十三日生まれで、事件の起こった年は二十三歳の終わりに近い歳であったが、背丈は百六十四センチ、均斉の取れた肢体に少し小さめの端正な顔を持ち世慣れないためかいつも堅い印象を与えていた。そしてはにかんだような笑顔を作ると左側に笑窪が出来、白目の美しい女だった。

実家には両親と兄夫婦、そして大学に通う三つ違いの妹がいた。

明子が実家に帰り、年が明けて二週間ほどした夜、何の連絡もなく突如として明子が帰宅し、白壁に

「逃げよう」

と言った。

洞貝はどこでどう調べたのか、明子を岡山の実家まで追いかけ、事故で入院していたという弟分である十六歳の金森誠三こと、金誠三と共に

「示談の話をしよう」

と、明子を電話で呼び出したのである。

「何をされたんだ」

と言う白壁に、明子は弱々しく首を振るばかりだった。

「警察へー―」

と言う言葉にも弱々しく首を振り

「逃げよう・・・」

と繰り返した。

警察の今までの対応振り・・・事件じゃないからねえ、と何度いわれた事か。しかし、事件は起きてしまった。どうする・・・

白壁がどうしたら良いのかと思っていると、明子が後ろから抱きつき

「ねえ、逃げよう」

と泣きながら繰り返す。

そう言って繰り返している明子の右腕が不自然に垂れている事を白壁は見逃さなかった。

白壁がブラウスの腕をめくろうとすると、明子は

「いや!いや!」

と、激しく抵抗した。

見ると注射痕が二つ。

白壁はそれを悲しく見詰めながら、どうして良いものかと思った。明子の言っている事が判らないでもないのだ。相手は分別の出来ない子供と呼んでいいような連中が十人はいるのだ。怒りに任せた解決は出来るだろうが、その時は自分の破滅も覚悟しなくてはならない。それを本能的な自己防御として、事件が起きる事を楽しみにしている子供たちー―。

明子は声なく泣きじゃくり

「あなた・・・あなた・・・」

と、闇に向かって語るがごとく呟き、白壁に両手を差し伸べた。

白壁は明子と共に失踪した。

平成七年一月十五日、阪神大震災の前々日の事である。

折からの低気圧のため、六甲颪が一段と吹きすさぶ冬の日の事だった。


「その後白壁夫妻がどうなったのかは判りませんか?」

と佐橋が尋ねると、谷は困った顔をして

「刑事さん、チンコロしたんとちゃうんですよ」

と言い、実は白壁が逃げる時、退職金とか他にも煩雑な用件が残っており、それを当時隣に住んでいた谷が代行したのだという。

「すると谷さんは白壁夫婦が何処に逃げたか知っていたわけですね?」

「いいえ、私も家内も白壁君の銀行の口座しか知らなかったんです。けれどーー」

半年もした時に、家内に連絡があったという。

「すると・・・」

「荷物を送って欲しい、という事でした。荷物ちゅうても、クリーニングに出してあった服ですけど・・・」

それと符帳を合わせるようにして洞貝が現れたという。

「隠せんやないですか。あんな連中やし、白壁君がどないな目におうたか考えてみて下さい」

と言って苦り切った顔をして、作業服の胸ポケットから紙切れを取り出し

「昨日班長に、明日警視庁の方がみえるからって言われてー―」

と所在なく言った。

白壁と西岡の写真が並べてある横に、紙切れが置かれた。紙切れには

  名古屋市熱田区沢上町二丁目××××

    コーポ波石 205号室

と、白壁夫婦が潜んだであろう住所が写されている。

谷は紙切れを見ている佐橋に

「ですけど」

荷物を送ってしばらくしたら刑事が来たと。言う

「刑事ー―?」

「ええ、洞貝が来て一月くらい経っていましたか、夜、社宅に訪ねてきました」

何処の? と尋ねる佐橋に、覚えていないが

「みんな同じ事聞くんですわ」

やはり名古屋の住所を教えたと言う。

そのやり取りを聞いていた佐野が

「そういう事なら二年くらい前に白壁君の事を教えてくれと言って、興信所の方が来た事がありますよ」

と言う。

「興信所?―― 二年前?」


その後三十分ほど話をしたが、それ以上の収穫はないようだった。

佐橋は礼を言って阪奈製鋼を後にし、そのまま阪急の塚口駅から大阪に向かい、名古屋を目指した。

二時過ぎに名古屋に着き、地下鉄に乗り換えて金山駅で降りてから十分ほど歩くと、コーポ波石にたどり着いた。きっかり三時だった。

青い屋根を持つ二階建てのアパートだった。住人に大家の住所を聞くと、隣の大きな家がそうだと言う。

佐橋は言われたように大きな門灯のある家の門をくぐり、波石悟郎と書かれた家の呼び鈴を押した。庭が広く、少し早いがどこからか沈丁花の匂いがしている。

対応に出た二十二ー三歳の娘に用件を伝えると、五十歳半ばの白髪の主人が額をぴしゃぴしゃやりながら出てきて

「どうぞ」

と、佐橋を応接室に案内した。

「白壁さんなあ」

と、佐橋が並べた二枚の写真を見ながら、あの年の八月終わりにやはり同じ事を聞きに刑事が来たと言う。

「けれども部屋だけ見て帰りましたよ」

「―― と言うと?」

「居なくなってしまったんです」

部屋を貸して半年もした七月半ば、荷物もそのままにして消えてしまい、自分は本当に迷惑をしたのだと言い、その荷物がまだ少し残っていると言った。

佐橋は波石の言い方に少し引っかかる物を感じた。

「少し残っているとは?」

波石は癖なのか、額を手でぴしゃぴしゃやりながら

「いやあ、始末に困ってね、電化製品なんかは家で使っている物もあるから・・・」

と言った。

波石は白壁が居なくなってしまった後、勝手に荷物を処分した事を気にしているようだった。

「残っている物で結構ですから、ちょっと見せて下さい」

と佐橋が言うと、傍らで話を聞いていた娘が、奥から白壁と書かれた蜜柑のダンボール箱を持って来て

「これです」

と、佐橋の前に置いた。

開けてみると中には持ち主を失くした白壁夫婦の衣類が詰まっており、他に残ってる物は

「植木だけです」

と言う。

「植木――?」

「白壁さんが居なくなってしまったのは七月の中頃でしたか。家賃を払ってくれませんので、保証金の三か月分を家賃に繰り入れましてね、残っている家財は十月に処分しました。その時に窓辺においてある鉢に、萩の花が咲いていたんです。不思議な気がしましたよ、誰も居なくなってしまった部屋に花だけが咲いているなんてー―」

そして、門灯の脇に植え替えてあるのがそれだと言う。

ダンボール箱を開けてみると、男物のスラックスが二本と、淡いブルーのワンピースがひとつ出てきた。

実は白壁が消えてすぐ尼崎からこれが送られて来たため、何となくこれだけ保管してあるのだと言う。

佐橋が、白壁に関して他に判る物がないだろうか、と尋ねると、波石は娘に

「帳面持って来てくれ」

と言った。

娘は何も言わずにまた奥へ消えて行き、しばらくして戻って来て

「はい」

と言って、市販のノートを波石に渡した。

帳面と言っていたが、それは波石が書き込んだ居住者名簿であった。

細かい几帳面な字が並んでいる中に、白壁貢、明子と書いた欄があって、そこに出鱈目な前住所や本籍が書いてある。そして勤務先の欄に「金龍」として電話番号も載っている。

波石に断わってノートを借り、自分の手帳に写してから電話をかけてみた。すると、白壁はうちで働いていた、と言う返事である。それからちょっと待ってくれと言い、店の主人らしき男に代わった。その男は、あなたが刑事さんなら是非話したい事があると言って

「伏見の錦通りに面しているからすぐ判りますから」

という事だった。

佐橋は波石の家を辞し、地下鉄で今度は伏見へ向かった。

地下鉄に揺られながら、佐橋は白壁夫婦のことを思う。「追われる」という初めての恐怖の経験の中で、夫婦は一生懸命に知恵を絞ったのであろう。嘘の前住所や本籍を書きながらなお本名を名乗るというアンバランスが、その辺りの事情を偲ばせる。どこまで徹底して良いのかと、逡巡している夫婦だけの姿が、佐橋は判る気がした。恐らく、一年か二年、ほとぼりの冷めるまでという気持ちがあったのであろう。

地下鉄を降りてから、ネオンが瞬き始めている繁華街の中に、広東料理「金龍」

と赤く光る文字を見つけ、佐橋は店の中に入った。店は客でごった返している。

金龍の主人は姫野と名乗り、ここでは話しは出来ないからと言って近くの喫茶店に佐橋を誘い、この時間帯が一日で二番目に忙しいからと笑った。

姫野は佐橋が聞きもしないのに、積極的に語った。

「誰かに話をしたかったんです」

と言って、姫野は平成七年六月の出来事を語ったのだった。



平成七年六月中旬、その日は白壁の早番の日であった。

午後四時に店を上がった白壁が、鼻血を出し、唇を切って店に戻ったのは六時過ぎであった。胸の辺りを血で染めて、車で戻って来たのである。白壁は店に戻ると刃渡り四十センチもある菜切り包丁を片手に

「ちきしょう!」

と言って、皆の止めるのも振り切り、表に停めてあったカムリに乗って何処かへ行ってしまった。

「とにかく凄い形相でしたよ」

店では理由も判らないまま、二日三日と経ち、心配でアパートへ様子を見に行こうとしていた矢先の四日目の昼、白壁は蒼白い顔で店へ戻ってきた。正午を少し過ぎた時刻で、店内は客で混雑し始めていたが、通用口に現れた白壁は四日前と同じ服装で、やはり胸元に血痕がこびり付いていた。

しかしそればかりではなく、左太ももには新しい怪我らしく、ズボンにまだ乾ききらない血が滑っている。

「・・・どうしたんだ!」

「ちきしょう・・・」

白壁は涙を流し、呻いて土間に座り込んだ。

早速病院へ連れて行くと、入院が必要だという。このままでは歩行が不自由になるという。白壁はそのまま入院した。医者は鎮静剤を打ったからもう眠るでしょうが、しかし明日には手術をしないといけません、と言った。

が、その翌朝、白壁のベッドは空になっていたのである。

「どこへ行ってしまったのでしょう。何があったんでしょう? 私は、あれは事件に巻き込まれたのではないかと思うんですよ」

「その後、何の連絡もないのでしょうか?」

姫野は波石と同じように、八月だか九月だかその辺りに刑事が来たと言い、佐橋が何処の刑事だったのかと尋ねると、刑事の名前は覚えていないが、署は

「姫路のシカマ、だったですよ」

と言って、自分の名前と似ているから覚えていると言った。そして、その後白壁はどうなったのか、というような事を頻りに聞いた。


第2章――その2 頬ずり


佐橋はその日は名古屋に泊まり、翌朝早く名古屋を発って午前十時半に兵庫県警飾磨警察署へ行き、当該の事件があるかどうか尋ねた。

「平成七年ちゅうたら震災の年やな、それで・・・七月か八月やて」

と言って事件記録を調べていた痩せぎすの事務官は、しばらくページをめくってから

「ああこれや、白壁って書いたあるわ」

と、八月十二日付けの事件記録を佐橋に見せた。

訴人欄は金井章介、被訴人欄は金森誠三と書かれているが、事件概要等は空白になっている。そして担当検事名が訴人欄と同じ金井章介となっておりその横に裁判官などの名前が記載されている。そして担当刑事の名前は用紙の裏に遠慮勝ちに書いてあった。

刑事の名前は、宮下卓郎となっている。

「この事件が知りたいのなら裁判所に行ってもしゃあないなあ。宮下君に会うて話を聞くより仕方ないやろ」

と言った。

「傷害事件となってるけど・・・なんせ不起訴やからねえ。詳しゅうは判らんなあ」

そして書類のあちこち見ていて

「これは・・・放火と薬物事件も絡んどるようやな・・・被疑者不明になっとる・・・小さな事件だけを立件したんやなあ」

と真剣な顔付きをした。

「・・・その宮下さんは何処におります?」

「ちょっと待ってや」

事務官はそう言って近くにある電話機を取り上げ、二−三電話をした。仲間への電話なのか、笑ったりして長い電話だった。

所在なくカレンダーなどを眺めていると、受話器の下の部分を押さえながら佐橋に向かって

「今はな、加古川署やて。お客さん抱えてるから今日は署に一日おる言うてるわ。どないする?」

と言う。

佐橋は、すいませんと断わり、受話器を受け取って電話の相手である宮下に、今から会いたいと伝えた。

電話の向こうで宮下は事務官から何か聞いているのか、佐橋には何の用事かも聞かず、なるべく早く来てくれと言った。


加古川署に着くと正午だった。

宮下は見たところ五十年配にみえたが、佐橋の来訪を知ると

「おお、待っとたで」

と腰の低い言い方をした。

「明日お客さん、送検しんならんねん。時間は二時間がぎりぎりやけど、ええか?」

と言って

「込み入ったるさかい、ここでは話もされへん。ちょうど昼時やし」

と、佐橋をすぐ近くのファミリーレストランへ誘った。そして席に座るや、白壁の事をどうして知りたいのかと聞き、佐橋がその理由を手短に話すと

「ああ・・・白壁は死んだか・・・」

と言って、遠いところを見るような顔付きをした。そして昼食ランチをフォーク一本で食べながら、佐橋が出した白壁と西岡の写真を見て

「ん、これは白壁やな。もう一人のこれかあ、知らんな」

と言ってから

「あらあ、ごつい事件やでー― ほんまなら十人はぶち込めた事件や」

と、宮下は話し始めた。

佐橋は宮下が短く刈った胡麻塩頭をがりがりやるので、ふけが落ちるのではないかと、そんな事を気にしながら聞いた。


六月二十九日夕方五時、飾磨警察署へ一人の男が姿を現した。白壁貢と名乗ったその男は脚を引きずりながら、姫路の町の何処かに自分の女房が監禁されている、助けて欲しいと言った。対応に出た宮下が話を聞くと、十日ほど前に名古屋で誘拐された女房が今はこの町にいる事が判ったのだと言う。そして何故もっと早く警察に来なかったのだと言う宮下に

「三日前にも京都の宇治署に行ったんだ」

と言って、とにかく早く助けて欲しいと、そればかりを繰り返した。

宮下としては宇治署がどんな動きをしているのか判らず、事件の管轄が宇治署になっているなら尚更、迂闊な動きは取れない。

しかし目の前の男の必死さは放っておけない。

ある程度の事を聞いてから、宮下はとにかく宇治署に連絡を入れた。すると

「そうや、確かに三日前にこちらに来てるけど、その前に愛知県警の中署にも行ってるんや」

と言う。そして

「愛知の方もな、連絡がないし、といってこちらから連絡も取れんて言うて困ってたで」

宮下はその一言で大方の予想が付いた。

おそらく、事件が宙に浮いているのである。

第一に攫った女を暴走族の二人組みが、あちらこちらと連れ回している事。

第二に追っかける白壁がその時々の各警察署へ駆け込んでいる事。

第三に全ての時間の間隔が短い事。

宮下は白壁から詳しく状況を聞こうと取調室に案内したが、白壁は気が気ではないのか、途中で何度も立ち上がってはとにかく探しに行くと宮下を困らせた。

経緯としては

1 名古屋のアパートへ帰ると自分の女房が洞貝と金森に連れ出されるところであった。

2 探し回った末に一宮のラブホテルで洞貝たちの車を見つけた。

3 ドアを蹴破って喧嘩になったが、反対に打ちのめされた。

4 撲られた時の言葉から、京都のラブホテルを探した。

5 京都の宇治で見つけて今度は包丁で切りつけたが、また反対に脚を刺された。

6 姫路の金森のアパートで車を見つけ、窓ガラスを割って入ったが裏から逃げられた

それがまだ三時間ほど前だと言う。

宮下は何とかしなければと思い、防犯の人間に助けを求めた。ところが色んな刑事が出入りしている間に、白壁は消えてしまった。

宮下の音頭でとにかく緊急の、とりあえずの捜査体制が敷かれたのが夜八時過ぎだった。

まだ本格稼動するには時間が足りないし、白壁本人が居なくなってしまっている。

ところが十時前、その本人である白壁から電話が入った。

「居場所が判りました」

と、息せき切って言って余部のマンションの名前を告げ、待つように、と言う宮下の声を振り切るように電話は切れた。

宮下は手の空いている三人の警察官と現場に急行する。

現場は、大混乱であった。

火事である。

そして火事場のすぐ横にはシーツにくるんだ明子を抱きかかえて、白痴のように表情を失くしたその明子に、頬ずりをして哭いている白壁の姿があった。


「佐橋はん、出火したんは明子が監禁されとったマンションや。マンションゆうてもアパートに毛が生えたようなもんやが、しかしや、三軒が類焼、焼け出された世帯が十一世帯や。幸い怪我人はおらんが、火事と別な所でな、金森が瀕死の重傷で見つかったのや」

「―― やはり白壁が?」

「判らん。判らんちゅうのはや、翌朝病院から消えてもうたんや」

「金森がですか?」

「ちゃうよ、白壁や。集中治療室に入れられていた明子を持ち出して行方知れずやでー―」

「集中治療室?」

「ヤク漬けやー― シャブとちゃうでえ」

「・・・」

「まあヤクもシャブもごちゃごちゃやったらしいけど、攫って来たハナからばんばん打っとた言うこっちゃ。病院の先生もな、よう生きとった言うてな」

「・・・」

「そればかりやない、足の裏が焼けとった」

「・・・逃げられないようにしていた訳ですか?」

「それが、違うんや。当時洞貝は暴走族の頭を張っとたやろ、十五から十八歳位の子供たちと明子を輪姦してな、遊んどったんや」

「それが足の裏の火傷と何か関係が・・・?」

「明子はヤク打たれてめろめろになってる訳や。抵抗できる状態やない。そこをみんなで好き勝手に犯して責め立てるわけやが、普段の何倍も敏感になった身体が勝手にびんびん反応するだけや。そいでな、犯してる時に他の奴が煙草の火を足の裏に押し付けるんや」

「・・・?」

「洞貝はな、きゅうっと締まってええ気持ちやねん、て、笑ってたわ」

「・・・」

「気違いやで」

「しかしそれにしても不起訴とはー―」

「あかん。儂が言うてる事は洞貝が言うてる事をそのまま言うてるだけの事や。証拠はみんな燃えてもうたし、白壁は行方不明やで・・・」

「しかし・・・」

「被害者の特定も出来んのや。白壁明子ちゅう証拠は何処にもないねん。科学捜査もみんなやったし、儂かて二ヶ月間走り回った。しかし、あかん。検事は起訴できん言うんや。病院のカルテかて白壁明子という名で作られたわけやない。放火かて白壁と思うよ、しかし何も残ってないねん」

「・・・」

「被害者も被疑者も不特定では起訴は難しいんや。金森の怪我の件だけをとりあえず起訴して、事件を延ばそうと思ったんやけど・・・不起訴やし・・・」

「・・・」

「普通、ヤクザかてそこまでせん。いや、ヤクザやからそこまでせんのやろうけど、洞貝はな、やりたい事やって何であかんのやってー―。子供やろ、程度というもんがないねん」

最後に佐橋は金森が重傷を負っていたのは何故かを聞いた。

「鍵や」

白壁は金森が部屋の鍵を持っていると思ったらしいと言う。

「マンションがな、金森の親父の物なんや。それで奪おうとしたのやろう。車で川に突き落としたわけや。川、言うても今日日はコンクリートの塊やで」

顔面に陥没裂傷を負って半年入院していたと言い、その後の金森の容姿を

「お化けになってもうた」

と表現した。

しかし、金森は鍵を持っていなかった。そこで白壁は灯油を六十リットルとガソリンを二十リットル買って来て火を点けたわけだ、と言う。

「洞貝も無茶やが白壁も無茶や」

「・・・今、洞貝はどうしてます?」

「消えた。あの事件から二年も経っていたかな? 五年前やな、お袋さんから捜索願いが出て判ったんや」

「金森は?」

「金沢や」

「金沢?」

「あれもばりばりの組員になって、三年前に恐喝と傷害で挙げられたんや。あと二−三年で出てくるのやないかな」

「・・・」

「携帯でもあったらなあ。あの事件も変わってたやろうが、まだあの時はポケベルの時代やったし・・・白壁も洞貝を追っかけている時に警察と連絡が取れんかったんや・・・明子は、死んだんやろか・・・」


宮下は悔いが残る事件なのであろう、予定の二時間を大幅に遅れても席を立ちそうになかった。

窓から見える空地に、背の高い枯れ草が固まって朽ちており、その穂先を冷え切った風が重そうに吹いている。

佐橋はいつも軽妙な語り口で人気のあったタレント弁護士が「人生なんていい加減なもんや」という書置きを残して自殺した苦衷が判る気がした。あれは、妻の浮気だった。誰でもが例外者に違いないのだ。人と接する笑顔の裏に、焦燥にやつれた姿が漂っているのが大人の顔なのかも知れない。

佐橋は六時に会う約束になっている明子の兄の事が気になっていた。



第2章――その3 白いハンカチ


岡山駅を降りると、風が一層強く吹き募っていた。

佐橋はタクシーに乗って西大寺にある明子の実家に向かった。六時を回って真っ暗であったが、タクシーの運転手は誰にも道を聞くことなく明子の実家の前に停めた。その事を疑問に思っている佐橋に気がついたのか

「西大寺浜の加野って言えば、あんた、昔の名士だよ。死んだ先代は議員さんだったはずだ・・・俺のような古い人間は知っているよ」

と、お釣りを渡しながら言った。

昔ながらの長屋門をくぐると広い農家のような庭があり、その向こうに真新しい母屋が見える。犬に吠えられながら庭を横切り玄関に立つと、白いエプロンを掛けた女性が、何処にいたのか佐橋の後ろから小走りに駈けて来て

「お待ちしておりました」

と、佐橋を明子の兄である加野民雄の待つ客間へ案内した。

枯山水の掛け軸を背にした民雄は、無口であった。

「この間の刑事さんにも言うたが、明子の事で話すことは何もありません。警視庁かて何かて一緒です」

と、のっけから言い、後は口をつぐんで滅多に喋らなかった。

そして、白壁と西岡の写真を一瞥して、白壁は知っているがもう一人は知らない、と明確に答えた。

佐橋は民雄の態度から推して、警察沙汰になっているような妹を持った事を民雄は不運に思っているらしく、明子を決して赦していないようであった。

「明子にはもう七年も会うとらんです・・・会いたいとも思いません」

と、民雄は取り付くしまも無いような口調で言う。

佐橋は話の接ぎ穂を失った。

何となく対決しているような具合になり、無口な二人がそれぞれ腕を組んでいると

「民雄、刑事さんがお見えになったんか?」

とう声と一緒に八十歳近いと思われる父親が姿を現した。そして挨拶をしてから

「明子の事じゃあ、と聞きましたが明子のおる所が判りましたか?」

と言い、佐橋がそれはまだ判らないと答え、白壁の死んだ事や来訪の目的などを差し障りのない範囲で話すと、父親は片手をぶるぶる震わせて言った。

「白壁ん奴あ赦せんのじゃ」

自分は白壁を憎んでいる、死んだから良いというものではない、というような事を繰り返し話した。そしてこちらは民雄と違い、明子のことは自分では何とも出来ないので世間様に宜しくお願いしたいと言った。

小一時間、気詰まりな会見を終え、古い明子の写真などを見せてもらってから帰ろうと靴を履いている時、先ほどから何となく気になっていた匂いの事が口をついて出た。

「線香かー―」

それは波の下で漂っていた小魚が、不意に波の上に躍り出た姿に似ていた。

―― そう言えば宮下刑事が、明子は死んだんじゃないかと言っていたが・・・

佐橋は靴べらを渡そうとしている民雄の奥さんに

「あれは・・・?」

と聞くと、答えは佐橋の推測とは全く違うものだった。

今日が三年前に死んだ義母の命日だと言う。

佐橋が墓のある場所を聞くと「信覚寺」という名前を出し、町外れにある場所を言って訝し気な顔をする。

―― 明子はこの家には帰って来れまい

これは確信である。

―― しかし、母親の死を知ったなら・・・

明子は一度は墓参りをしているのではないか。親類と連絡が取りずらくなっても、友人とか何らかの方法で身内の動静を知っていると考えるのが普通だ。自分の人生の利害関係の埒外の誰かと連絡は取っているはずだ。

聞けば歩いて二十分くらいだと言う。


広々とした田んぼが続く広域農道を烈風に吹かれて二十分も歩くと、確かに信覚寺であると思われる屋根が黒々と寒天に姿を現した。

信覚寺は吉野川の堤防の傍らにあった。

対応に出た青年に用件を伝えると、しばらくして素足の住職が現れ、上がれ、と言う。

青年が座布団を持ってきたり、扇風機のような赤外線ストーブを用意したり、お茶と受け菓子などを出したりした後、指図していた住職が立って見ている佐橋にようやく座れと言う。佐橋は身体が冷え切っていたので有難かった。

人心地ついて大きな座敷で住職と向き合うと、住職は、今までビールを飲んでいたから顔が赤いかも知れんがと、おかしな断わり方をして

「あんた、ほんまに刑事さんやったら警察手帳お持ちやろ、見せて貰えまいか」

と言って、佐橋が取り出した警察手帳を繁しげと覗き込んで考えている様子であったが、やがて、口止めされているんだが、と言った。

「典子さんに口止めされているやだが、あんたなら良いやろう・・・いや、あんたになら言った方がええ気がする」

と頷いて、去年の夏、明子さんに会ったよと言う。

「あれは墓参りにおいでたんやと思うが・・・あれは明子さんやと思うよ。何せ、儂を見よったら逃げるようにして去んでもうたしな」

しかし子供の頃からよく知っているからまず間違いはないだろう、と言って

「余ほど儂に会うのが嫌やってんなあ。黒いセーターを忘れて行きよった」

「・・・黒いセーター」

それを明子の妹の典子に渡したと言う。

佐橋はすぐさまその場で携帯を取り出し、民雄に典子の住所を尋ねた。民雄は不承不承典子の住所を言ってから

「あんた、もう明子の事は放っといて下さい」

と言って一方的に電話を切った。


倉敷にある典子の婚家に着いたのは、十一時だった。

吹きすさんでいた風に、雪が混じり始めている。

本普請の民雄の家も大きかったが、住宅街の真ん中にある鉄骨三階建ての典子の家は更に大きかった。道路沿いに間置石が三十メートルほど続き、その端に玄関に続く階段がある。

その階段を上がりながら、佐橋は思う。

―― これで明日の会議は絶対間に合わない

井原の不機嫌な顔が浮かぶ。


二十六歳だという典子を見て、まず佐橋は、先ほど見た明子の写真に似ていることに驚いた。目鼻の筋が通っていて、くっりとした目。

一昔前の美人の顔やな、と宮下刑事は言っていたがそのようだ。

「寒うございましたでしょう」

そう言って典子は佐橋と、主人である坂口一郎の前に熱いコーヒーを置いた。そして自分の前にはお茶を入れた湯飲みを置く。

「何ですか、典子に聞きたい事があるとかー―」

そう言う坂口はムートンの掛けてあるソファーに腰を下ろしている。

年齢は佐橋と変わらないが、声が割れている。学生時代にスポーツをやっていたのであろう。

「ええ、白壁明子さんの事を少しお聞きしたいのですがー―」

と言って簡潔に要点を述べると

「どうなんだい?」

と、坂口はガウンの裾を叩いてから典子に向かって言った。坂口はパジャマの上からガウンを羽織っているのだが佐橋に対して全く臆したところがない。育ちのようだった。

電話を受けてから化粧をしたのか、典子の口紅に光沢がある。

典子は少し困惑した様子を示したが、頭を軽く下げ

「ごめんなさい、あなた」

と言った。

実家のごたごたを婚家に持ち込むのに遠慮があるようである。

「いいよ、気にしなくてもー― やはり何かあったのかい?」

短い言葉の端々や動作に、坂口の典子に対する思いやりが読み取れる。

典子は佐橋に向かって言った。

「去年の夏、義兄さんここへ来ました」

「やはり、ここへ来ましたか」

「義兄さん、可哀想に、ここへしか来る所がないんです。父も兄もあんなんでしょう。顔、出せませんもん」

坂口は頷いている。

去年の八月十三日の午後一時ごろ、外出先から帰ってくると炎天下の中、白壁が家の前の木陰になった階段に座って、白いハンカチで汗を拭いており、典子を見て懐かしそうに笑顔を見せたと言う。

典子は、その時なにか言っておりませんでしたか、と言う佐橋の問いに、どう答えたら良いのかとずい分迷っている風であったが、結局

「―― 何も」

と言った。

「別にこれといって話らしい話はありませんでしたが」

新婚旅行の話を懐かしそうにしたと言う。

「新婚旅行?」

「ええ、姉さんたち凄い反対を押し切って結婚したでしょう。家柄が違うって、そりゃあ大変でしたの。だから四国へ行った新婚旅行だけが楽しい思い出だってー―」

そう言って坂口を見て微笑んでから

「僕は明子を守ってやる事が出来なかったって、そう言ってました」

と言った。

佐橋は別な角度から尋ねた。

「明子さんが今何処にいるのか知っていますか?」

「全然―― 義兄さんにもそんな事を聞かれましたけど、私には連絡が一切ありません。私が知っているのは尼崎に住んでいた当時の事だけで、その後の事となると全く判りません。私も大学生でしたしー―」

そう言って坂口を見ると、坂口が

「典子には一度話した事があるんだが」

と言って、コーヒーを飲んで続けた。

「いや、刑事さん、私から言うのも変ですが、私の両親も家にこだわる人間なんですね。そこで二年前に典子と一緒になる時に仲人に頼んでその辺りを詳しく調べたらしいんです。どこぞの興信所に頼んだらしいんです。資料は貰っていませんが尼崎でヤクザに絡まれて何処かへ行ってしまった。その後の事は判らない、という事でしたよ。そうだよね、典子」

坂口がそう言うと、典子はため息をつき

「あなた、本当にごめんなさい。隠そうと思っていた訳じゃないんですが、私にも判らなくて・・・」

と言って、実は失踪してから半年ほどして刑事が岡山の実家に来た事があると言う。

「姫路で何かあったらしいんでけど、私たちには何があったのか判りませんもん」

そう言って佐橋を見て

「刑事さんは何があったのか知ってますの?」

と聞いた。

「・・・いや、知りません」

と、とっさに佐橋は答え、反対に質問をした。

「去年の盆にお墓参りに行きましたね?」

「ええ・・・その時セーターを預かったんです・・・」

と言って口ごもる。

先ほどから佐橋はその話の辺りになると、典子が何か言いにくそうにしているのを感じていた。坂口も同じ思いだったのであろう。

「典子、何も無理に話す事はないよ。話さなければならない義務なんてないんだから・・・そうでしょう、刑事さん」

と坂口が言うと、典子が

「いいえ」

と強く言った。

「隠す事なんて何もないんです。そんな事じゃなくて・・・話すという事は、何か義兄さんたちの大事な秘密を話すような気がするんです。だから私、どう話して良いのか判らなくて・・・」

典子の後ろにある出窓が、温度差のためかびっしりと水滴を付けている。窓の向こうに白い影が流れているのは、雪だろう。そしてその脇にある鉢植えの春蘭が微かに揺れている。

「義兄さんにあのセーター見せたんです」

態度が一変したという。

「義兄さん、私に何か話があって訪ねて来たと思うんです。おそらく市役所かどこかでここを調べて来たと思うんですけど、あの時の話振りでは・・・別れを言いにここへ来たような感じでした。私に別れを言うという事は、きっと、姉さんとの間の事で、何かあったと思います」

「・・・何かあった?」

「心に変化が起きたんだと思います。―― 義兄さん、詳しい事は何も言いませんが、姉さんの事、探していたと思うんです。何処かで、何らかの理由で、姉さんが行方不明になってしまった・・・それを、六年間ずっと探していたと思うんです」

「・・・」

「私はあの二人の事、判る気がするんです。あなたにもお話したように、あの二人の出会いは私が原因だったでしょう」

典子がそう言って坂口を見ると、坂口が言った。

「典子と白壁さんとは尼崎の病院で一緒だったのですよ」

「ええ、私が高校の修学旅行の帰りに急性盲腸炎になって、尼崎の病院で手術を受けたんですけど、同じ日に盲腸の手術をしたのが義兄さんだったんです。大阪の美容師学校にいた姉さんが私の付き添いになったんですけど、それがきっかけで急に親しくなって・・・」

「・・・」

「ですから、初めから義兄さんたちの事を見てたでしょう。私、判る気がするんです。六年間、姉さんを探したけれど見つからない。どうやって探しても見つけられない。だからもう姉さんとは縁を切ろう、それが姉さんの為にもみんなの為にも良いんだって、そう決心して私の所へ来たと思うんです。きっと、そうだと思います―― 可哀想な義兄さん・・・」

典子はそう言って涙をぽろぽろこぼし、話を続けようとした。

坂口がハンカチを渡す。

「―― それが、義兄さん・・・セーターを見せたら・・・義兄さん・・・」

号泣したという。

「出来ん。やっぱり出来ん・・・俺には出来ん・・・俺は・・・明子を守ってやれなかった」

そう言ってセーターを掻き抱き、泣き続けた、という。

「何が出来ないのか、私には判るようで、判りません。でも」

男の人ってこうやって泣くもんだなあ、と変に感動しましたと言った。


その夜、倉敷の駅前のホテルで、佐橋は寝付かれぬ夜を過ごした。

―― 明子は何処にいるんだろう?

白壁の過去を追うという当初の目的は達成したかのように思えたが、本来の目的である西岡との接点はどこにもない。

そればかりか、過去を追えば追うほど西岡が遠ざかり、明子の存在が眼前に立ち塞がる。

病院から逃げ出した白壁夫婦のその後に残された未来は、どのようなものだったのだろう。

淡いブルーのワンピースに身を包み、泣いている明子―― それが、佐橋の神経をいたく刺激した。


平成十四年六月四日、葉桜の木漏陽が降り注ぐ千葉刑務所へ、省二郎は入所した。

刑期、無期。呼称番号1103番という符丁になった省二郎に残されているものは、何ひとつもないように思われたが、ただひとつ残されているものがあった。

それは黒暗暗たる闇に閉ざされていたが、未来である事には違いなかった。



                        冬の章  完


これで「喪失の青空」の冬の章は終わりです。

ここから本当に面白い、喧騒の夏が始まります。


長い読み物ですが、どうぞお付き合い下さい。きっと面白いと思います。

愛情とは何か、が、テーマなのですが、今までの部分はその条件作りの舞台に過ぎません。


さて「形骸を断ず」とは何を意味するのでしょう?

喧騒の夏、始まりです。


   堀田


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