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憐憫の微笑

追いかける省二郎と逃げる西岡たち。

白壁はなぜ死んだのだろう?

なぞは深まるばかりだ・・・

焦燥と伸吟の冬

                 あるいは狂った時計


断章――報告書


報告書  


                      平成十四年二月二十三日

                夏樹エステート代表  西岡為三 殿


先般、西那須事務所からお預かりした、黒色婦人夏物セーターについて、次の各項が判明しましたので、とりあえず中間報告をさせて頂きます。

1 製造元

  株式会社 アイ愛レディーズ

2 住所

  札幌市中央区旭町一丁目××××

3 代表者

  紺野 洋揺子  通称 紺 洋子

4 製造年月日

  二〇〇二年(平成十四年)二月中旬より同年五月初旬まで

5 製造枚数

  百六十五枚

6 販売地域

  札幌、函館、旭川、千歳、苫小牧、岩見沢、小樽

7 各店舗名並びに各販売枚数

  別紙参照


所見

この夏物婦人セーターは札幌市在住のデザイナー紺洋子氏のデザイナーズブランドとして上記期間販売されたものであり、数量も非常に限定されております。勢い、販売された店舗数も限られ全て合計しても一六軒にしかなりません。地域的に見ても、札幌市を中心とした北海道の各都市に限られております。しかも商品の性質上買取商品になっておりますので、返品はありません。

引き続き個別の追跡調査に入りますが、当社が預かっている白壁明子氏の写真は、同人が高校生当時の物であり、現在ではすでに十数年を経ております。万全を期すためにも、少しでも新しい物がありましたら、至急送付下さい。

とにかく緊急を要する事でありますので強引な情報収集をしておりますが、ご要望のように、五日以内に白壁明子氏の所在を明らかに出来るか予断を許しません。

なおこの資料は紺野洋瑤子氏の全面的な協力を得て作成していますが、協力を得るに当たって当方は並々ならぬ努力を致しました。詳しくは申し上げられませんが、紺野氏のプライベートに関する事もあり、直接の問い合わせはご容赦願います。


                堤MG事務所   代表 堤 松男


第1章――憐憫の微笑

第1章――その1  会議


渋谷署の刑事課仮眠室には、二段ベッドが六台置いてある。以前は4台とロッカーが二台であったが、ロッカーを窓側に押し付けるようにて無理やりといった感じで二段ベッドを二台増やした。本当は三台もあれば充分だが五年前に東電OL事件と幼女誘拐事件が同時に起きた時の名残である。

井原はその時の事情を知らない。二年前に足立署から渋谷署に移って以来、仮眠室にくるたび

―― 多いな

と思っているだけである。

その井原が一番奥にあるベッドの上段で目を覚ましたのは、朝六時過ぎである。

目と同じ高さの位置にロッカーの天井部分があって、バーチカルブラインドの隙間から射し込んでくる朝陽が埃を浮かび上がらせている。蝿が一匹、干からびて死んでいる。

堀井逮捕から四日目の朝である。が、逮捕が深夜であったため実質的には三日目で、二十九日、月曜日の朝である。

単純な事件に見えたのが複雑な様相を帯び始めるのに、余り時間は掛からなかった。すでに事態は紛糾しているのだ。

井原は蝿の死骸を見ながら昨日の昼前、大分から上京して来た白壁の弟との会話を思い出していた。

「どんな様子でした?」

と、昨年の帰省時の様子を尋ねる井原に、英二と名乗った白壁の弟は

「どんなと言われましても、別段変わったところはありませんでしたよ。近くの毘沙門川で大きな鯉を釣り上げたりして、まあ普通の態度だったですねえ」

と、訛りの強い言葉で言った。

「何か言ってませんでした?・・・こう、仕事の事で、何か・・・」

「仕事の事なんて何もー―。こんな事になって初めて自営業だって知ったくらいですからねえ。結婚するとは言ってたけど」

「結婚?」

「一緒に住んでいる人がいるから、結婚するって言ってましたね。理香さんって仰るんでしょう。昨日の葬式の時に会いましたけど、綺麗なかたですねえ。兄貴がうらやましいですよ」

井原と話をしていても英二の稽骨そうな物腰からは、彼が悲しんでいるのかどうか判別するのが難しかった。


井原がそんな事を反芻していると、仮眠室のドアーが開いて佐橋が顔を見せた。

「課長、七時です」

「おお、すぐ行くよ」

「弁当用意してありますから、味噌汁が冷めない内に来て下さいよ」

「判った」

と言ってから、堀井はどうだ? と尋ねた。

「どうって、何がです?」

「飯だよ。食べているかい?」

「いや、三日間何も食べていない様子ですね。昨日の日誌にもお茶ばかり飲むって書いてありましたよ」

「判った、すぐ行くよ」

佐橋が出て行った後も井原はすぐには起きなかった。今日九時から白壁貢殺人事件の第四回目の会議があるのだが、その事で井原の頭は重かった。

堀井省二郎の主張する、西岡為三犯人説に関してまだまだ署内は冷ややかだが、少しずつ微妙な気配が漂い始めているのを、井原は感じ取っている。

堀井の部屋から発見されたバルビツール酸系の睡眠薬が最終的な証拠となり、死体遺棄罪で指名手配された段階では、署内の誰もが堀井こそ白壁貢の殺害の犯人である事を疑っていなかった。そして代々木のレンタカー屋に預けてあった堀井の車から頭髪数本と少量の赤土が採取され、鑑識課よりの報告が昨日の早朝届いた時、事態は決定した。

紛れも無く頭髪はその長さ、形状、毛先の癖、性別、血液型、推定年齢からしてほぼ百パーセント被害者の物と思われ、土は現場の土と同一であったのである。

しかも死体の解剖の結果、死因は青酸カリによる中毒死であることが判明した。ただし胃内、及び血液中に多量の睡眠薬が残存しているところから、睡眠薬を飲ませて眠らせたあと青酸カリを飲ませたものと判断された。

堀井省二郎は、白壁貢殺害の単独犯である。と、昨日の午前中までは井原は勿論、全員が思っていた。ところが堀井の裏取りをしている佐橋が昨日の昼過ぎに帰って来て

「困った」

と、独り言のようにして言った。

「奴の言っている事に嘘はないなあ」

「どういう事なんだ?」

と、井原が聞き咎めて言うと

「課長には正式に報告しようと思っているんですが・・・考えがまとまらなくてー―」

と言う。

「・・・?」

「堀井が言っていたように間違いなく貸事務所でした」

「貸事務所が何か問題でもあるのか?」

「いやあ、堀井の裏を取っているだけなんです。確かに四日前、千代田秘書サービスが事務所荒らしにあっている事も確認しました。被害届も出ておりますが、堀井の言っている事と状況も一致しますから、あれも堀井がやった事なんでしょう」

「だったら良いじゃないか」

「待って下さい課長、問題はそのあとなんです」

「あとー―?」

佐橋は腕組みをして頭を傾け、少し考えた。

「まず第一に報告しなければならない事は、課長、堀井が捜していた西岡の入会届けの件ですがー―」

と言って机の上に二枚のコピーを広げた。

千代田秘書サービスへの入会の写しと、それに添付してある住民票の写しである。

井原は覗き込むようにして言った。

「これかい、堀井が捜しても無かった、と言うのは?」

「ええ、年代ものの二メートル近い金庫の中に入っていたんです。確かにあれはバールでは開けられなかったでしょう」

「これがどうかしたのかい?」

「見て下さい。日付ですよ」

見ると両方とも一月二十二日になっている。

「・・・これが、何かあるのかい・」

と言いながら、井原はある事実に思い当たった。

「ああ、そうだ。二十二日といえば西岡がここへ来た日だ。月曜日で、僕が対応したんだ」

「ええ、その事は私も課長から聞きました。それとその夜、安藤理香にも会っていますね」

「・・・?」

つまり佐橋が指摘しているのは、一月二十二日の西岡為三の行動は

 1 岩手県宮古市の市役所で住民票を取る

 2 東京の千代田秘書サービスで入会の手続きをする

 3 渋谷署で井原に会う

 4 三軒茶屋で理香に会う

という具合になる。

「どうです課長」

「うーん」

と言って井原は黙り込んだ。

「西岡は今どうしている?」

「それが・・・昨日の朝から連絡が取れなくなっています。電源が切ってあるのか・・・それとも・・・」

井原は自分の机から西岡にもらった名刺を出し、佐橋に渡して言った。

「佐橋君、この名刺の裏に彼の今住んでいる所が控えてある。今日中にここを当たってくれ」

「判りました。今日は夕方理香に会って、例の堀井が言っている本などを持って行った人物について詳しく話しを聞こうと思っているだけですからー―」

「あれも本当だったのか?」

「電話で理香に確認しただけですが、何でも刑事が来て持って行った、と言うんですよ」

「刑事?」

と言ってから、待てよ、と思った。

「佐橋君、名刺だよ」

「え?」

「この名刺は当然、事務所を借りてから作ったんだろうねえ。その前には作れないわけだから・・・」



警察の捜査と言うものは、一般の人が考えるよりも的確で多岐にわたり、しかも素早い。そしてその豊富な資料から事件を立体的に再現するのに必要なものだけを、いわば事件の枝葉末節を削り、本道に必要なものだけを摘出して再構築をするわけである。公表されて一般の人か知るのは、膨大な事実とそれを背景にしたほんの一部なわけである。

この事件の場合、いつどこでどうやって、何故、白壁を殺害してかが本道であり、それに関する証拠、あるいは周囲の人間のそれに関する調書などが末節というわけである。

末節には沢田博子の調書もあれば、省二郎が主張す仙川のゴルフ場の前のケーキ屋の女将の調書もある。それらの中から、必要と思われるものだけを証拠として検察側に提出するわけである。


さて、九時半に始まった第四回の全体会議は三十分もすると煙草の煙でむせかえるようだった。

煙草を吸わない多田警視が悲鳴を上げるほどひどかった。

会議の議題は、まず死体遺棄罪でじっくり責めるべきか、一挙に殺人罪で起訴して激しく責めるべきかが議題となっている筈であったが、話は脇道にそれている。

堀井を直接調べている吉田の、堀井が否認を続けているため調書が進まないという報告が終わって、井上の、証拠品の堀井への入手経路もはかばかしくない、と言う報告が終わる頃から、会議は重い雰囲気に包まれ始めた。

誰もが口数少なくなっていた。

こういう事件の初動の頃は本来議論百出になるのだが、今回は異様で微妙な雰囲気だった。

そんな時、佐橋が口を開いた。

「もう一度、最初から事件を考えてみる必要があるんじゃないだろうか?」

吉田が仁丹を口に放り込んで、言った。

「何を考えるの? 堀井が幾ら否認しようが証拠は動かし難い。きっちりとした証拠がある。われわれが考えなければいけないのは、堀井が一月十三日から十五日までの何時、何処で白壁を殺害したかなんだ。動機は判っている。殺害方法も、まあ判っている。となれば何時、何処でに問題を絞って考える必要があるのじゃないかね。佐橋君」

仁丹を噛み潰しながらショートホープを吸っている。

「はい、私もその通りだと思います。しかし、それと平行して白壁が失踪した前後の状況をもっと掘り下げる必要を感じるんです。不審な点が多すぎる。堀井が行ったという名東荘にも行ってきましたが、白壁は浅井と言う偽名・・・今のところ偽名と思われるのですが、それを使って五年前の平成九年二月より平成十年の七月までの一年半あそこに住んでおりました。そのあとも、何に使用したのか家賃を年間一括で払い続け、電話も繋がったままです・・・何か、きな臭いものを感じるんです」

佐橋が言うように、八百屋の親父から聴取し、入居時に必要と言う事で保管してあった浅井修一の住民票を調べると、長野県安曇郡の浅井修一は確かに出生はしているが、行方不明になって十数年になるという人物だった。そこから、おそらく白壁は何らかの形で浅井修一の住民票というか、その存在を金で買ったと思われるのだった。

以上のような事を佐橋が言うと、隣の席で庁内徽章を玩具にしていた井上が、そのままの姿勢で

「そうだなあ、私も何か腑に落ちないんだ。この事件には方向性が無いような気がして」

と言った。

「何だ、その方向性って?」

「どういうのかなあ、何と言って良いか判らんが、まあ、私が担当している証拠関係にしてみれば、犯人が使う道具と言う物は常に犯人と何らかの関連があるんだが、堀井と青酸カリってのは水と油のような気がするんだ・・・それと、なんていうか全体的なイメージの問題かなあ・・・しっくり来ないんだ」

吉田が、何馬鹿なこと言ってるんだという表情をさせて

「抽象的な事を言ったってしょうがねえだろ」

と、いらいらした口調で言った。

「私も主任の言う事が正しいと思う。まず堀井を白状させてからの事だと思います。電話履歴がなかったり、パソコンの履歴に証拠が見出せなくても、奴の行動と証拠を押さえればー―」

と松本が言い出すと、見坊が追いかけるように言った。

「いや、佐橋さんが問題にしているのは、堀井の行動を洗っていたら、事件全体に不審な点がいっぱい出てきた。だからもう一度、事件の全体像を最初から考えてみよう、という事なんだ」

多田警視はみんなから少し離れて窓際に座っていて、窓を少し開けて煙草から逃げるようにしている。冷たい空気が入ってくる。

「堀井の携帯の履歴には十二日夜から十六日朝まで発信がありませんし、事件に繋がる何もありません。車両ナンバーの追跡もやっておりますが、これも今のところ何もありません」

見坊が続けていると、それを遮るように

「佐橋君」

と、吉田はため息混じりに言った。

「君の報告書によるとだ、西岡の身辺の再調査が必要との事だが、何故だね。必要な調書は取ってあるんだろう?」

「そうです。そういう意味では必要がありません。しかし、西岡は事件発覚直前に出現し、堀井逮捕の翌日、一昨日の午前中の事ですが二回目の調書をとったあと、午後四時ごろ堀井との整合性を問い合わせたのですが、連絡が取れませんでした。その状態が今日まで続いています。この間わずか六日間です」

「どうして変なの、要するに丸一日半連絡が取れていないだけだろう」

と、細い目を更に細くして言った。

「よしんば、例えその行動に不審な点があったとしても、白壁を殺す動機というものが西岡にない」

「怨恨かもしれませんよ」

と佐橋は若干投げやりな調子で言い、隣で軽く頷いている井上を見て、困ったという感じで続けた。

「いえ、私は西岡が犯人だなんて言っているわけじゃないんです。私が堀井の言っている事の裏取りをしていたら西岡が非常に重要な鍵を握っている人物として浮かび上がってきた。この西岡の行動が、これまた非常に不可解である。である以上、一度本格的に西岡を洗う必要があるんじゃないかと、そう思うわけです」

机の上をじっと見ている吉田の、隣に座っている松本が

「西岡の住居はどうなっています? 住民票のない所に住んでいると聞きましたが・・・」

と、テーブルの向かい側に座っている佐橋に向かって聞くと、その隣の見坊が

「誰もいなかった」

と言った。そして井原に向かって

「昨夜遅くなってまだ報告しておりませんが、鎌倉の住所地に行ったところ、建売の一軒家が建っておりました。所有者は西岡本人です。詳しくはのちほど報告しますが、隣の人の話ではここ一週間ほど姿を見ていないという事でした」

と言うと、井原は

「その件は、電話で佐橋君に聞く事は聞いているよ」

と言った。見坊は、あ、そうでしたかと言った表情でしきりに頭を掻いた。そして言った。

「ですから、堀井が言う逃亡説が本当かと思いまして・・・」

その時、井上とコンビを組んでいる一番と年若い藤原が初めて口を開いた。

「例の睡眠薬なんですけど、製造番号からは横浜、及び横浜近郊の薬局へ昨年の十一月初旬から十二月半ばにかけて出荷された事が判明しています。九割近い確立で横浜市内だろうという事ですので、神奈川県警にも協力を仰いで薬局を回ってもらっていますが、未だに手掛かりがありません」

藤原の言っていることは説明が要る。

白壁の死因は青酸カリによるものであるが、具体的な殺害方法が判らなかった。しかし科研からの報告書に多量のバルビツール酸系睡眠薬が体内から検出された事により、殺害方法は以下のようだと推察された。

つまり、何らかの方法で睡眠薬を飲ませ、昏睡状態にしてから青酸カリを飲ませた。

分析から睡眠薬のメーカーを割り出したところ日本国内で製造販売されたものである事が判り、堀井省二郎の室内から多量の同睡眠薬が発見された。

藤原の話はまだ続いている。

「堀井がこれをどこの薬局で手に入れたのか? 手に入れるには医師の処方箋が必要なので・・・」

全員思いおもいの姿勢で聞いているが、多田警視は時間が気になるのか、時々窓際から室内前面中央に掲げてある時計を、身をよじって覗き見していた。

十一時十分前である。

藤原が話を終えると同時に、彼の背中に近いドアーを誰かがノックした。そして半開きのドアーから調査統計の婦警が顔をいれ

「よろしい?」

と言った。

全員の視線を浴びて婦警は少し躊躇したようだったが

「今朝課長より依頼のありました前科照合が終わりましたので・・・混んでいたものですから遅くなって申し訳ありません」

と、部屋に入りながら井原に言った。

多田警視が

「ちょうどいい、十分ほど休憩にしよう」

と言ってから、井原に封筒を渡している婦警に

「君、すまないが皆のお茶をいれてくれないか」

と言い、井原の脇に来て、何やら耳打ちをして出て行った。

吉田と見坊も、こちらはトイレに行くのか後方のドアーから出て行く。

重苦しい雰囲気から開放されたのか、室内がざわめき始めた。

井原は手渡された数枚の資料に目を落としていたが、やがて険しい顔つきでその資料を机に端に置き、頭を抱え込んだ。

吉田が帰って来て

「課長、どうしたんです?」

と聞くと、井原は何も言わずその資料を吉田に渡した。

それはコンピューターから打ち出された犯罪者名簿の写しと、所轄警察にある写真及び指紋、掌紋等の写しであった。


殺人被告事件 

西岡 為三

事件番号 平31691号

刑期 五年六月

・・・


続いて本籍や当時の職業などが記載されており、そのあとに事件事実が三枚の用紙に書かれている。

次の一枚には受刑刑務所や出所期日が並んでゆき、最後に岩手県警から送付された顔写真が載っていた。

写真は少し見ずらいが、それでも井原の知っている西岡に間違いはない。調書に取ってある指紋と照合すれば、なおはっきりするであろう。

前科資料を回し読みしている間に多田警視が帰って来て、井原を見てから深く頷いた。何事か嬉しいことでもあったようである。しかし、皆の沈んだ様子を見て

「どうかしたのか?」

と言うと、井上が手にしていた資料を多田警視に渡した。

吉田が言う。

「よし、こうなったら佐橋君の言う西岡の線ももう少し追ってみましょうかー― しかし、人数が足りるかな?」

「いや人数はこのままでいく。西岡はあくまで傍系だ」

と井原が言うと、続いて井上がお茶をごくりとのんで言った。

「しかしこうなると、西岡も一筋縄ではいかん男かも知れんなあ。白壁は睡眠薬で眠らされて殺害されたわけだが、堀井の言う事を信じるなら、奴も睡眠薬で眠らされたと主張している。両方とも睡眠薬だよ」

「本当に眠らされたのかな?」

「天麩羅屋のマスターはそんな事はなかったって言ってるしねえ。二人でお銚子を十六本飲んだんだってなあ。酔っ払ったんだろう」

「そのあとの記憶がないんだって?ー―」

「気が付いたら仙川の林の中って言うが、どうかねえ」

「あの女将さん、目が真っ赤だったと言ってましたよ」

急に騒がしくなったのをみて

「吉田君、君は伊豆の現場に行って来たんだろう。どうだったね、現場を見れば君の事だ、何か感じたことがあっただろう?」

と多田警視が言った。

いつの間にか窓から陽が斜めに差し込んでいて、多田警視をすっぽり包んでいる。警視の襟章が光る。

「いや、捜査報告書にある通りです」

「何言ってる。隠し事なんかするなよ。何でも良いよ、君が感じた事をそのまま言えよ。言葉を選ぶ必要はないから」

吉田は多田警視にそう言われると、吸っていた煙草を灰皿にぎゅうっともみ消して、本当に困ったという顔をして言った。

「それじゃあ・・・というか、ま、感じただけなんですが・・・最初は共犯がいたんじゃないかと思いましたね」

全員が吉田の顔を見た。

「林道から車を降りて、あの現場まで五百メートル近くある。しかも道のない山の斜面で、日付からすると霙か雪が降った日だ。何もない日に行った私でさえ泥だらけになって、汗びっしょりだった。独りでやれるだろうか? 体重六十キロ弱の死体を担いで、スコップを持って・・・常人にそんな事出来るか?」

そう言って全員を見渡してから

「しかし、堀井に会って思いましたよ。この男ならやれる・・・あのガタイだ」

吉田はそう言ってから煙草を取り出し、火を点けた。

「それと、もう一つ感じた・・・犯人は当然あの辺りの土地鑑があるはずなのだが、ロマンの判る奴に違いない」

「・・・?」

「埋葬の仕方や、手向けてあった花もそうだが、あの山のあの部分だけが平地になっていて、陽がちょうどいい加減で降り注ぐんだ。そして、遠く駿河湾が広がり、少し位置を変えれば富士が一望だ。理想的な墓場だよ。霊園分譲なら即日完売間違いなしだ」

「・・・」

「佐橋君は怨恨という言葉を使ったが、納得出来ないな。あれは、贖罪じゃあないかな。殺してすいませんという・・・」

「土地鑑といえば発見者の一人、山本という男はどうなったんですか?」

会議はまだまだ続きそうだった。


第1章――その2 瞑目


やがて昼過ぎに終わった会議は、とりあえず起訴を延ばして今の捜査方針を続行すると共に、西岡為三の身辺と、また西岡と白壁の関係を新たに詳しく調査をする必要があるという認識で一致した。

井原は席に戻ると、直ちに岩手県警宮古署に電話をいれ、西岡が起こした殺人事件の内容をよく知る者に直接話を聞いた。

事件は、概ね次ぎのようなものであった。


平成三年二月六日、岩手県宮古地方はその日も雪が降り続く陰鬱な日であったが、午後八時二十分ごろ宮古市保久田の一角でけたたましい悲鳴が上がった。

女の悲鳴であった。

布団商を営んでいる木村某が悲鳴を聞きつけ雪が降りしきる表に出てみると、筋向いに住む菊池隆司の妻、ひえが、顔面を血だらけにして雪の中を走って来るのが見えた。

十五分後、警官が菊池隆司宅の応接間で血糊の着いた日本刀の前に正座し、顎から血を流している西岡為三を発見し、現行犯逮捕した。

傍らには首の左頚動脈を斬られた男が血の海の中、土色に濁った目を見開き、絶命していた。

十四年前の当時、三十二歳になったばかりの西岡は県立宮古東高校の数学の教師であり、殺された川口智英は同県県会議員、菊池隆司の私設秘書であった。

事件の背景は、概ね次のような事情に依っていた。


事件をさかのぼる事四年前に、西岡為三の母、勝代、所有の自宅裏山林を菊池隆司が買い取った。

勝代は先祖からの土地であり、為三とその弟の康裕にもしもの事があった場合を考えて、金にするのは嫌だと断ったのだが、為三の奉職する高校にまで手を回すやり方に断わり切れなくなり売ったのである。

金銭的には相場より高く、その時点で何ら問題があったわけではない。

三年後に、それが問題になった。

県道四十号線のバイパスが問題の土地を通る事になったのである。

それを知った時、為三は笑って

「うまくやるなあ」

と言っただけであったが、その道が自宅母屋を横切るとなって話は変わった。

為三は県庁に幾度か足を運んだのだが、話にどうも裏がありそうな感じで、担当者も言葉を濁す場面が多かった。その話しぶりから菊池隆司に何らかの圧力を掛けられている事が推察された。

県議、菊池隆司は単なる県議ではなく、自宅は菊興会という自称右翼の事務所を兼ねている、という人物だった。

為三の自宅に嫌がらせが相次ぎ、追い込まれて悲観した勝代がその年一月二十七日深夜、自宅に火を放って焼身自殺を遂げたのである。


「頚動脈を斬ったとは、狙ってやったわけですね」

「いや、それですよ、裁判のとき一番の争点でした。為三は高校生の頃から剣道を始めたようですが、大学時代は勿論、教師になってからも全国大会に出場しておる位なんです。しかし、この事件はそんなんじゃないんですな」

「しかしどちらにせよ、殺人にしては刑期五年六月はおかしいですが、何か事情でもあったのでしょうか?」

「ですからね、事件事実の詳細に三人の裁判官の所見がありますでしょう? 刑法の条文が連ねてあるだけで素人には判りにくいのですが、要は過剰防衛を適用されたのですな」

「・・・過剰防衛?」

「日本刀を持ち出したのがひえで、斬りつけて反対に斬られてしまったのが死んだ川口でしてね。切り口からすると揉めている間に斬られてしまったんでしょうなあ。執行猶予でもおかしくないような事件でしたよ」

「・・・控訴は?」

「しませんでしたな・・・変な言い方ですが、為三は立派でしたよ」

「・・・」

「私も現場に立ち会ったのですが、今でも現場で正座していた為三を思い出しますと鬼気迫るものがありますよ。こう背筋をぴしっと伸ばしましてね、血の海の中で、いや本当、恐ろしいほどの血の量でしたが、その中で傲然と瞑目しておりましたなあー―」


第1章――その3 フリージア


会議のあった翌々日の一月三十一日、頑強に否認を続ける堀井省二郎に対して、担当検事である金津検事直接の取調べがあった。

被疑者である堀井省二郎を、刑事が留置場から検察庁へ連行する形で行われるわけであったが、取調べの担当である吉田は一緒に行かなかった。

吉田は先日の会議の方針に沿って行動するためには、佐橋や堀井の話の具合から別の目で常盤台の名東荘を調べてみようと、井原と佐橋の了解を取って名東荘へ向かった。

松本とコンビを組むはずであったが朝の打ち合わせが終わったあとに、松本の姉が交通事故で入院し瀕死である、という父親からの電話が入ったため、吉田は一人である。

事前に連絡をしておいた為、大家である八百屋の親父は吉田を見て

「待っておりました」

と、アパートの鍵をがちゃがちゃやりながら言った。

質問に関しての親父の答えは、佐橋の報告と何も変わらなかった。

性格は気に食わないが、佐橋はやはり切れる、と吉田は思った。佐橋の報告書は隙のない報告書であった事を再確認しただけだった。

問題の名東荘に行った。

吉田はまず外観を写真に撮り、次に玄関部分を写真に撮った。そして親父がドアーを開けると、掃除道具が固まって置いてある。今度はそれを撮ろうとしたら

「それはうちの物ですよ」

と親父が言った。

室内は六畳一間と四畳半一間、それに二畳ほどの台所がついた二DKの間取りになっている。東側に当たる六畳間だけに腰窓がついており、貧相なカーテンが下がっていて、その右、窓際に本棚の付いた学習用机と、それに合わせた小さな椅子が置いてある。

四畳半の部屋の押入れは開け放たれており、何もない。

そして机の上には、クリーム色の固定電話が一台。それも、単純な、通話機能以外は何も付属機能のない電話機が置いてある。

室内蛍光灯が二機、ぶら下がっている。

トイレは段差のある和式。新しいタオルとトイレットペーパーが綺麗な形で付いている。風呂は据え置きの一人用ポリ浴槽。使用できるのか疑いたくなるようなバランス釜に簡易シャワー。

生活の臭いにする物は、台所にあるアルミ製の鍋が一個と、その横にあるマグカップと、それに差し込まれた歯ブラシが一本。

吉田はあちらこちらと写真を撮ってから、メモを取り出し携帯のボタンを押した。

机の上の電話が鳴る。

携帯を切ってから、吉田はハンカチを出して指紋が付かないようにして受話器を持ち上げてみた。

「ツー、ツー、ツー」

発信準備音が聞こえる。

受話器を戻してから、机の引き出しを見たり、落書きでもないかと丹念に見てみる。何もない。

もう一度各部屋を見てみる。畳の縁、隙間などにも注意を注ぐ。六畳間の部屋の畳の隙間に、何かがあった。指を入れて持ち上げ、取り出してみると爪楊枝だった。畳を元に戻す。

六畳間の真ん中に胡坐を組んで座った。

玄関から親父がぽかんとした顔をして見ている。

―― 何なんだ? 薄気味悪い

吉田はそうやって天井を見たりしながら神経を集中させる。

「・・・?」

吉田は立って台所に行った。

マグカップと歯ブラシ。

歯ブラシは何処にでもある市販の物だったが、マグカップは陶器製のなかなか良いものようだ。下地は薄い緑の木の葉模様になっていて、下辺にこげ茶で模様が一周して取り巻いている。

その模様は、縦に並べられた文字だった。マグカップを横にすると縦に文字として認識できるが、マグカップを立てていると縦の字が横になって並ぶため一見、唐草模様が取り巻いているように見える。

またそれが製作者の意図であるため、文字もそれらしく角ばっていて一見しての判別は困難だ。

吉田はくるくる回して何が書いてあるのか、読んでみた。

カタカナで、フリージアとして電話番号と住所が書いてある。横浜市南区井土ヶ谷××××

メモ用紙に移してから、拡大してデジカメに納めた。

そして一呼吸置いて、その電話番号に掛けてみる。

呼び出し音が鳴ってしばらくして

「はい、フリージアです」

と声いうが聞こえた。


吉田は横浜の井土ヶ谷下町に着いてから、一方通行の道路に脚を取られて少し余分に時間を取られた。

午後3時である。

レストラン「フリージア」は高台の高級住宅街の一角にあった。横浜港が一望である。

緑に囲まれた300坪ほどの敷地に、建坪100坪ほどの平屋建てで、白い瀟洒な姿を見せていた。大きな赤い屋根が、スペイン瓦で葺かれている。

駐車場へ車を停めようとすると、真っ赤なツーシーターベンツとかぴかぴかのジャガーとか、吉田の光沢のはげたカローラとはずいぶん違う種類の車が多い。

それでも吉田は堂々と真ん中に停めた。車はカローラでもナンバープレートは8ナンバーだ。

しかし店内に入る時には、私服の安物のブレザーを引っ掛けている吉田としては少し気が引けないでもない。

吉田はレストランといえばファミリーレストランのイメージしか湧かない。それとはずいぶん違う。まず空間の大きさと調度品の格式の高さ、そして緑の多いこと。

吉田の生活には緑は余り関係ないが、そんな吉田でもここの植物の手入れの行き届いた様には気圧される


吉田は入り口に一番近い席に座った。ここからだと店内が程よく見渡せる。

店内は時間帯のせいなのか、客が疎らである。

「どうぞ」

と言って、青いワンピースの制服を着たウエイトレスが、お絞りと水をテーブルに置いた。そしてメニューを吉田に手渡す。

吉田はメニューを開いて、ギョッとした。間違いではないか、と思える金額が並んでいる。

―― コーヒーが二千円!

吉田は警察手帳を見せて話を聞くだけにしようかと、一瞬思ったが、井原に言って経費で落とそうと思い直した。吉田にしたって、メニューを見てから警察手帳を出すのには、ちょっとした抵抗がある。

店内は左手全体がガラス張りで、港を行き交う船が美しい。空は風が強いのか、雲の流れが早い。全てを包むように、2月初旬の午後の光が静かである。

店内にはブラームスだかモーツアルトだか、吉田が知らない音楽が低く流れている。

吉田は自分が場違いな所に座っている事がよく判る。

しかし吉田は、コーヒーを口に運びながら、店の一番奥のテーブルから注意を逸らさない。

半分ほど陽が差し込んでいるテーブルの陰に、モスグリーンのカーデガンをゆったりと羽織った女がいる。女は、一人ではなく、黒いスーツ姿の男と一緒である。

吉田は商売柄、店の従業員がそのテーブルというか、女に対して、非常に気を使っているのが判る。

何気ない動作、目の配り、話をする時の身体の姿勢、それらは全てその女を意識している。

―― 誰だ?

女は見たところ二十歳台半ばの、まだ女子大生といっても通用しそうな顔立ちだが、その表情が塑像のように硬い。その硬い表情を、肩まで垂らした黒髪が大きなウエーブを描いて引き立てさせている。

対座している男が何やら用紙を見せて説明しているのだが、本人は海を見ながら、時折ティーカップを桜色の口紅が引いてある口で、掬うようにして飲んでいる。

―― すげえ美人だな

大きな植物の葉陰から、吉田は観察を続けた。捜査畑一筋の、吉田の神経がカリカリと引っかかる。

―― 誰だろう?

やがて話が終わったのか、黒いスーツ姿の男が立ち上がり、鞄を両手で前に揃えて女に頭を下げテーブルを離れた。

吉田の脇を通るとき、吉田はその男の顔を見た。丸顔で頭が禿げているが、人の良さが顔に出ている男だった。

更に十分ほどして女が立ち、やはりこちらに歩いて来る。帰る心算のようだ。そして吉田の脇を通り過ぎて行くと、かすかなローズ系の香水の残り香が吉田の鼻先を掠めた。

吉田は一呼吸おいて、店を出て行ったであろう女の後姿を見ようと、ドアーに向かって振り向いた。

すると女はドアーの所で、吉田が振り向くのが判っていたかのように吉田を見ており、その吉田に向かって、憐れむように微笑んだ。

吉田は、理由もなくカアーッと血が頭に上った。

「待て!」

と、叫びたくなるような、そんな何かを残したまま、女は身を翻して出て行った。


しばらくして血が鎮まってから、吉田は店の責任者に自分が刑事である事を告げ、型通りの質問をした。白壁の写真を見せたりもしたが、何の収穫もなかった。

吉田がデジカメで撮ったマグカップの受像部分を見せて、これを知っているかと聞くとその責任者は、それは二年前の開店祝いの来客に渡した物で、二千個用意した物の内の一個であろうと言う。

吉田はがっかりした。

「ところで、先ほどまであそこにいた女は誰だ?」

「奥様のことですか?」

「名前は?」

「九品寺裕子様と仰いますが・・・?」

「九品寺?・・・聞いたことがあるな」

「はい、ここのオーナーは九品寺孝蔵様のご長男である泰蔵様と仰いまして・・・」

「ああ、それなら聞いた事がある」

横浜の九品寺といえば、明治初めから続くこの辺りの巨大資産家として、今でもマスコミに取り上げられる事がある。

「で、先ほどは男がいたようだが、あれは何?」

「奥様のお友達が土地を売りたいとかで、その相談だと思います」

―― 不動産屋か

しかし、吉田はムカッとしている自分が判る。

―― 貧乏人を馬鹿にしやがって!

自分は五十二歳になるというのに、未だ賃貸マンションに家族四人暮らしである。吉田の人生で、不動産を買うとか売るとかの話なんて、親が死んだ時くらいしか話題に上らなかった。それが、二十歳そこそこで売るとか買うとかやっている。

―― 馬鹿野郎!おととい来やがれ!

そうして吉田は何の収穫もなく、領収書だけを持って、夕方帰庁した。

一月最終日、三十一日の事だった。


第1章――その4   すし鉄


井原の家の近くにある西新井大師の達磨供養が終わって、今日は既に二月五日月曜日である。明日は堀井省二郎の、第一回の拘留期限が切れる日である。

金津検事の所へ堀井の再拘留の申請手続き書類を提出しなければならないが

―― 吉田がやるだろう

と、佐橋は思っている。

午前中に雪をちらつかせた雲は、午後になって青空を垣間見せたが、四時を過ぎる頃からまた空一面にどんよりと張り出して雪をちらつかせている。

予報では雪という事だったが、積もるわけでもなく白い物をちらちらさせているこんな日が、一番寒く感じられる。

佐橋と見坊は狛江の寿司屋「すし鉄」のカウンターに座って、店の主人が来るのを待っている。

先日二日の金曜日にガソリンスタンドから発見されたスコップについて、スタンドの者から調書を取っていた時、この寿司屋が浮かんだのである。

最初から「すし鉄」という固有名詞が判ったわけではなく

「さあ、堀井さんが捨てたのはとにかく折詰めだったですよ。そうですねえ、あの大きさは恐らく一半でしょうね」

との店員の証言なのであった。

渋谷署から本庁を通じて都内全域の署へ捜査依頼が回され、各派出所などから写真を片手にした警官が付近の寿司屋を訪ね歩き「すし鉄」が特定された。が、店の主人は留守だった。

「北海道へしゃけ釣りに行ってるんです。日曜には帰って来るって言ってましたから、月曜日の夜には店に来ると思いますけど・・・」

という店員でもある息子がそう言うので、携帯で確認を取ったところ

「月曜日のお昼には羽田に着くよ。まあどんなに遅くっても四時には店にいるから」

という事なので来店しているのだが、雪のため女満別空港の発進が遅れてしまってまだ店に姿が見えない。


大きな湯飲み茶碗にいれたお茶を一口ですすって

「堀井も頑強ですね」

と見坊が言う。

堀井省二郎は二日前から完全な黙秘状態になっている。

「そうだな」

そう答えながら、佐橋はまったく別の事を考えている。

西岡の事だった。

西岡は堀井が逮捕された二十七日の翌日と翌々日にわたって、二度の調書を取って以来連絡が途絶していた。しかも住居はもぬけの殻。怪しいと思い、佐橋は独断で法務省査証課へ調査依頼を出したのだが、その報告書が今朝届いた。

西岡為三は台湾へ出国していた。日付は堀井逮捕後六日経った二月一日になっている。

―― 逃げたか?

佐橋は事件本部の捜査方針に反するのだが、どうしても西岡が気になって仕方がない。

佐橋は知らないのである。二月一日とは、吉田が横浜まで車を走らせた挙句、二千百円の領収書を井原に見せて渋い顔をされた翌日である事を・・・

佐橋はついでに日産グロリアの事を思う。

堀井の言うグロリアを調べたところ、持ち主は浅井修一、こと白壁貢であることが判明。しかし一月二十九日月曜日、何者かによって廃車手続きがなされていた。

「一日に何人対応すると思います。覚えていませんよ」

それが陸運局の若者の返事だった。

仕方なく廃車手続申請用紙を証拠物件として預かり、鑑識に指紋の検出を頼んであるが、そこから検出される指紋からは恐らく何も判らないだろうと佐橋は思っている。

「眼鏡の男って、誰なんだろう?」

と、佐橋は独り言のようにして見坊に向かってつぶやいた。

「理香の言う偽刑事ですかあ・・・判りませんねえ。写真集と詩集、それに鬼押出しの写真ですよね」

「不思議だ、白壁と西岡の接点がどうやっても現れない。西岡の調書には尼崎時代の友人という事になっているが、大阪府警からの報告では白壁は平成七年一月十五日に阪奈製鋼の尼崎社宅を出奔している」

「七年前ですね」

「しかしその年三月に西岡は宮城刑務所を出所した。という事は、白壁は尼崎から尼崎に出奔したのか?」

「一月十七日が阪神の震災ですね」

「―― そして次に白壁は、五年前の平成九年二月に浅井修一という名前で名東荘を借りるわけだ・・・二年間の空白がある」

見坊がくすっと笑ったので佐橋が見坊を振り向くと、にやついた顔をしていた見坊が真顔に戻りながら

「空白の二年間ですか・・・」

と言ってから、また顔を綻ばせ

「いや、何か格好いいと思って・・・すいません」

と言う。

「・・・?」

佐橋は見坊の精神の在り方を少し考える。そして言った。

「浅井修一というのは実在の人物だぜ。長野の北安曇郡の出自だが、この人物についても不明だ」

「廃村になった村を出てから十五年、音信不通になってから十一年、板橋区に住民票が移ってから五年、そして今年で四十三歳になるんですよね」

「金縁眼鏡の男かとも思うが、理香が言う年齢とは十歳ほどの開きがある」

佐橋はこの事件に登場する人物を考えていると、時として薄気味悪くなるのだった。

―― どいつもこいつも、尻切れトンボのような奴ばかりだ

糸を手繰っていくと、何処かでぷっつりときれる。

「堀井は実在感があるなあ」

「はあー―?」

「いや、何でもない」


「すし鉄」の主人が女将と一緒に店に現れたのは六時半だった。

「いやあ、ひでえ雪になっちまってー―」

と佐橋に向かって言い訳にように言たあとで

「おい、店をもっと熱くしやがれ」

と店の奥に向かって大声を出した。そして佐橋の後ろの椅子に腰をかけた。癖の強い主人らしかった。

その主人が、西岡の写真を見せながらの佐橋の問いに

「声の低い、そうそう、顎に傷のある男だろう。日付もはっきり覚えているよ」

と、もったいぶった物腰で言う。

一月二十三日の夜、十時過ぎだったと言う。

「よく覚えてるよ。店が満席でね、しょうがなく折りにして貰ったんでさあ」

堀井の写真を見せると、この方は覚えていないと言う。

「満席だったからね。傷の男が入り口のレジの所にいてさ、もう一人の黒っぽいスーツの男がその横の陰にいたんだ。顔も見たかも知れないけど、忙しくてさ、覚えていないよ」

しかし傷の男が何度か堀井さんと呼んでいて、それは記憶にあると言う。そればかりか、酔って苦しいと言ってネクタイを外した、と言う。

「ネクタイを?」

「ああ、イギリスの国旗みたいなネクタイだった」

顔は見なかったがネクタイは見たわけだ、と佐橋はうなずき、その後で、明日調書を作成したいので署のほうへ来てもらえるかと念を押し、淡々とその打ち合わせを終えた。

帰る間際に見坊が主人に尋ねた。

「店が満席になることは、よくある事なのかい?」

「十二月とかはありますがね、この時期の満席なんて初めてですかね」

「初めて?」

「二十年近くなるけど、初めてだね。まあ、予約の団体客だったからねえ。名古屋のスポーツ用品店が閉店するんで、それのお礼だとか言ってたなあ。だから日付を覚えているのさあね」

客のいない店内に点け放されているテレビの画面には、六年ぶりの大雪を伝えるテロップが流れている。

誰も気が付かないようだった。


第1章――その5 公判期日


二月七日に行われた白壁貢殺人事件の第八回会議は冒頭から意見が割れた。

今日は多田警視が会議に参加していなかったが、他班から応援に来ている蓮見刑事と北刑事が会議に参加している。蓮見は佐橋と同期で年齢も同じ三十四歳であるが、北は二人より六年先輩である。

「どうしろっていうんだ?」

というのが、全ての物証、証言は堀井が犯人である事を示している、という吉田を筆頭にした派であり

「調べようというんじゃないか」

というのが、西岡の言動、それと前後して起こっている不可解な出来事には作為の臭いがする、という意見の佐橋を中心としたグループである。

議長席に座っている井原は、最近以前にもまして尖鋭化してきたそんな両者の意見をぼんやり聞きながら、三日前の金津検事の一言を思い出していた。

「四月には定期異動があるなあ。この事件もそれまでには送検を完了しないとなあ、君」

金津検事は書き物をしながら何気ない素振りで言ったが、井原にはずしんと堪えるものがあった。

多田警視の事である。

多田警視は今年五十六歳、定年まであと六年だがその温厚過ぎる性格が警察官僚としては不利に働いて、出世の競争から途中下車させられた人である。実践部隊の長はここが最後であろうが、それを花道に今度の定期異動で本庁の部長に昇格し、警視正となる内示があった事を本人から先日それとなく耳打ちされた。最後の肩書きには違いないが、退官後の再就職の時にはそれがものをいう事もあるだろう。

そういう折の金津検事の一言である。

事件を複雑にするな、と、釘を刺されたわけであった。


さて、会議である。

普通、事件発生から一ト月、犯人逮捕から二週間もすれば捜査陣に基本的な面での意見対立は表面化しない。例えあったにしても、縦割りがはっきりしている警察内部では上司の判断に表向きであれ全員が従う。また、上司も意見対立が表面化するような愚は冒さない。表面化すれば、最終的には誰かが傷つくのだ。

その点、この事件に対して井原は明確な断を下していない。どこか流れのまま、という趣がある。だから今日の議題である被疑者への証拠物件の入手経路、という問題はそっちのけで吉田と佐橋の対立が火を噴いている。

「しかし佐橋君、君の方が調べたわけだろう」

と、十八歳年下の佐橋に吉田が言っているのは、白壁貢と浅井修一とが同一人物であった事の確認である。

名東荘と車を調べ始めた頃から、堀井が言う眼鏡の男であり理香が言う偽刑事の男が本当の浅井修一かと思われたのだが、交通課から届いた浅井修一の免許証の写しには、白壁の写真が貼られていたのである。

つまり、以前のある時期、白壁は二つの本名を使い分けていた事になる。資料によるとこういう他人の住民票、というか存在を買うという形の絡んだ事件は昭和五十年代後半をピークに、緩やかに減少しているが根強い需要がある。

「白壁が浅井修一になりすましており、理香と暮らすのと前後してまた白壁に戻った、というのはその通りでしょう。しかし吉田さん、それが堀井犯人の決め手とはなりませんよ」

「当たり前だ!」

吉田は大きな声を出している。

「いいかい佐橋君、僕も一時は君と同じ意見になりかけた。堀井のいう事は真実かも知れないと思い、その裏を取るために横浜まで行った。しかし、堀井は嘘を言っている」

「じゃあ、西岡が五千万円を貸したと言っているのをどう思います」

「・・・」

「五千万円貸したが借用書はない、と言うんですよ。おかしいと思いませんか?」

「親しい仲間だったらそういう事もあるさ。いいかい、じゃあ理香も知らない五千万円の事を、何故西岡が知っていたんだ?貸金庫にある事まで知っていたんだぜ」

「堀井は自分が教えたと言っています」

「判った。こう言おう。西岡は五千万円を堀井が持っている事を知っていた。何処にあるんだと西岡に指摘されて、堀井は貸金庫に保管がしてある事を教えたんだな」

「・・・」

「自分が貸したから、知っていたんだ。」

「・・・では、電話の履歴はどう説明します。西岡の携帯は二十二日の日曜日に都内の中央区で購入されています。彼が出現する前日です。それ以前は白壁の携帯にも、堀井の携帯にも西岡との接点がないんです」

「・・・」

「堀井が覚えていた鎌倉の電話番号の履歴からも何も出てきません。あの電話は名東荘と同じで、この半年に限っては全く使われていないのです。岐阜の電話は、これも一応、理香や堀井が写真の裏に書いてあったと主張しますので調べたのですが、既に一年前に使用中止になっていました。名義人は塚本という人物ですが、自分の名前が勝手に使われていたと言って驚いているようです。本当に使用していた人間は判っておりません」

「・・・」

「設置場所は鎌倉も岐阜も名東荘と同じで、安アパートです。賃借人は全て浅井修一名義。使用目的は不明ですが、何らかの連絡用に使用したと思われますが、詳しくは判りません」

「判った。しかしそれが、殺人事件とどういう関係があるというんだ!」

先刻から吉田と佐橋が議論と言うより、言い合いをし、他の刑事は苦虫を噛み潰したような顔で、各々テーブルに広げた手帳に覚書をしている。

「天麩羅屋を出た後は記憶がない、西岡に何か飲まされた、と堀井は言うが、じゃあすし鉄の事をどう説明する」

「親父も女将も服装や持っていた封筒は見た、が、顔ははっきり覚えがないと証言しています」

「背丈や服装から堀井に間違いがない、とも証言している」

「しかし大きな人間が小さい人間に変装は出来ませんが、反対なら出来ます」

「佐橋君、そこまで言ったら屁理屈だぞ!」

「・・・」

二人の喧嘩腰に近いやり取り聞いて、目の前でボールペンを弄んでいた井上が

「隠してあったスコップが出てきたら、堀井の奴、黙秘しちまったなあ。やはり吉田さんの言うように、ここまで来たら証拠固め一本に絞るのが筋だろう」

と言った。

二人の議論に水を差した格好だが、やはりそこは歳だった。

吉田が仁丹の箱を握り潰しながら

「佐橋君、堀井を犯人でないと考えるには、アリバイの面からも無理があるだろう」

と言った。

堀井の動きは十二日の夜から十六日の朝までに確認の取れたものとしては、確かに二つしかない。十三日の夕方、近くのコンビニに顔を見せた後、同じ店に十五日の朝立ち寄った、という二つの事実だけであとは何処にも何の痕跡もない。間隔が空きすぎていて、アリバイがないのである。

その点については井原もくどいほどの念を入れようで、捜査を指揮した。しかしアリバイはなく、反対に堀井の兄や婚約者から

「電話をしても出ませんでした。メールの返事もありませんでした」

という証言を得ている。

堀井はアメリカの公認会計士資格を取るための勉強をしていたと言い、そのために一切連絡を絶とうと携帯やパソコンは事務所に置いてきた、固定電話はコードを外していた、と言うが言い訳の感は拭えない。

重苦しい雰囲気の中でみんなが黙り込んでいると、吸いかけの煙草を灰皿に置いて藤原が思い切った口調で言った。

「私、少し意見があるんですが宜しいでしょうか?」

そして誰も返事をせず、全員が自分を見ているのを確認すると、立ち上がって言い始めた。

「課長から聞いたんですが、昨年の八月に、盆の時ですが、白壁が郷里に帰った時、弟に結婚しようと思っていると言ったそうです。私はそこに重大な問題点があると思うんです」

全員、とんでもない事を言い始めた藤原に顔を向けている。

「なにか?」

と井原が水を向けると、藤原は顔を赤くしながら続けた。

「ええー―あのう、尼崎東署から転送されて来た白壁の戸籍を見ますと、明子という配偶者がいる事になっています。平成七年一月以降行方不明だそうですが、白壁が結婚しようと思った、という事はすなわち安藤理香を籍に入れる、式を挙げるのではなく入籍させる、という事だと思うのです。すでに一緒に住んでいるわけですし理香の親族とも行き来していますから、そういう事になります」

全員、それがどうしたんだ、と言う顔をして聞いている。

「しかし、戸籍には明子がいる。という事は明子を除籍しなくてはならない。つまり、白壁は八月に大分に帰省して、その帰りに戸籍の手続きのためにも、あるいは挨拶のためにも明子の実家の岡山か、少なくとも尼崎に寄ったはずです」

今度は全員、ほうーという顔をした。

「それが何故重大な問題なんだい?」

「はい、白壁の弟である英二は、白壁が帰省した時は普通の状態だった、と言いましたが、理香は大分から帰って来てから白壁の状態が一変し、沈みがちで暗い洞穴を見ているような感じになった、と言っています」

「・・・?」

「何かあったんじゃないでしょうか? 岡山か尼崎で・・・」

全員、それぞれ藤原の言う事を反芻しているのか、手が止まっている。

しかし、しばらくして吉田がうんざりした口調で

「何かあったかも知れん。課長の許可をもらって調べてみるんだな」

と言った。そして話題をはぐらかすように井原に向かって

「課長、金津検事から公判に必要な書類を早く届けるよう、昨夜催促がありましたね。検事の腹では公判の期日が決まっているんじゃありませんかね」

と言った。

「・・・そうだろうね」

井原は吉田がきっちりと先の状況を掴んでいることに驚いた。しかしそういう事に目敏い吉田がやりきれない。

「公判検事は松田検事の予定だそうですから、松田検事の公判予定を見れば期日が大体判りますね」

吉田は、検事の腹が固まっている以上、それに合わせた捜査をしなければならない事を言っているのである。

「吉田君、そいう事は僕が考えるから、君は捜査の方をしっかり頼むよ」

井原は吉田を一瞥してから冷えたお茶をがぶりと飲んで、藤原に自分自身の判断で尼崎と岡山の捜査をするように言ってから

「井上君、スコップと睡剤、それに青酸カリの入手経路の解明は期待できそうかい?」

と尋ねた。

「ええ、みなさんにお渡ししてあるプリントを見て頂くと判ると思いますが、眠剤の方はパッケージに打たれている番号で追跡はある程度可能なんです。先日も神奈川県警から調剤薬局を回った結果報告が来ておりましたが、横浜市内の何処かであろうというだけです。しかし・・・」

その時吉田の眉がぴくりと動いた。

―― 横浜?

フリージアにいた女が吉田の神経を刺激する。

―― 俺とした事が!

吉田は鮮やかに自分を翻弄して歩き去った、背の高い女を思い出すと未だに頭に血が上り、臍を噛む思いがする。あの時、何故、一言自分は待てと言えなかったのか? あの洗練された優雅な身ごなしに、自分の内の何かが何かに臆したのだ。

―― 不甲斐ない!

吉田はポケットから新しい仁丹を取り出して、口に放り込んだ。

「・・・ですから三年間に都合二万七千個のK型というんですか、この型のスコップが生産され日本国内で販売されたわけです。地域や期間によって塗料や握り部分の材質などが変わっていますから、組み合わせによって地域の特定がある程度出来ると思われます。二−三日の間には塗料会社から報告が届きますから・・・」

井上の声がぼそぼそ聞こえている。



第1章――その6   飯田産婦人科病院


その日の夕刻、原宿駅前あるビルの二階レストランで一組の男女が向かい合っていた。

暮れなずむ明治神宮の森が、窓から見えている。

夕焼けの景色の中、ビルのシルエットが美しい。

「今日も駄目だっただろう?」

と、柴垣が言った。

「ええ」

と、万里子が頷く。

「山浦弁護士がね、まだ当分接見禁止の見込みだって言ってたからね。証拠隠滅の恐れがあるんそうだ。馬鹿馬鹿しい」

「ええ、私も聞いてはいるんですけど・・・」

「だったら諦めるんだな。解除になれば、山浦弁護士の方から何か言ってくるよ。それにね万理ちゃん、あそこは熱意とか誠意とかじゃあ動いてくれないんだ。そういうものは通じない。万理ちゃんだってぶたれたって言ったじゃない」

「・・・わたし、ぶたれたって言ったんですけど、本当は頬を触られただけなんです」

「ぶつような仕草で触ったんだろう? そういうのはやはりぶつって言うんだよ。精神的なショックは一緒だ」

と言ってから

「―― くそっ」

と呟くと

「大変でしたわね」

と万里子が言った。

省二郎が逮捕された翌日、出張先の新潟から急ぎ帰宅すると、柴垣を待っていたのは二人の刑事だった。佐橋、と名乗った上官らしい刑事は柴垣に任意同行を求め、渋谷署の取調室の机に座るや

「お前、お金は何処へやった!」

と、机を叩いて言った。

「お金・・・知りませんよ」

そのまま留置場に二日間止められ、最後は省二郎と自分しか知らない事実を突きつけられて

「堀井がお前を庇って自供しているんだ。これ以上知らないと言うなら覚悟しろ。共犯として起訴し徹底的に叩くぞ!」

と、蛇の目のような顔をした佐橋に怒鳴られたのだった。

柴垣は省二郎が喋ってしまったという事は、もう隠す必要がない事なのだろうと思った。

結局、五千万円の現金はスイミングクラブのロッカーに隠してあったアタッシュケースの中である事を、省二郎の自供通り追認した。

「何故隠していた?」

「何故? 犯人に盗られないようにしていたんじゃないか!」

「じゃあ犯人は誰だ?」

「西岡たちだ」

「・・・たちって誰だ」

「それが判ってたら隠すなんて事するか! お前たちこそ西岡を早く捕まえろ!」

そんなやり取りの後で放免された。

万里子は言う。

「でもテレビや新聞なんかにも柴垣さんの名前が出ていたでしょう。友人の柴垣敏雄さん宅に潜んでいたとかってー― 大丈夫ですの?」

「まあ、大丈夫だろう。家内はああ見えても芯は強いからね。僕の名前が載っている新聞記事を赤枠で囲って集めてるくらいだからね。それに、来月は転勤だ」

「・・・転勤」

今日の万里子はグレーの厚手のセーターに、小柄な身体を蓑虫のように包んでいる。流行なのか、セーターがずいぶん大きい。

「転勤というと聞こえは良いけど、本当は左遷なんでしょう?」

「おお、はっきり言うねえ。まあ左遷とまではいかないけど、会社も世間体があるしね。それに会社も僕を辞めさせたくはないよ。契約件数も売上高もこの二年間トップだからな。将来の営業部長だぜ、万理ちゃん」

柴垣はこんなところで淋しい気炎を上げた。

「どちらへ?」

「仙台か札幌だろうな。急な事なんでまだ決まっていないんだ」

柴垣はそう言って時計を見、まだ時間が充分あるのを確かめた。

「僕はもう一杯コーヒーをもらうけど、万理ちゃんは?」

「わたし、チョコレートパフェ頂こうかな」

万里子は冷たい風の吹いている窓の外に目をやった。明治神宮の森全体が、うねるようにして揺れている。

柴垣がコーヒーに砂糖を入れるため、左手でシュガースティックを取ろうと手を伸ばした時、万里子はその手の甲にバンドエイドが二本も貼られているのを見つけた。

怪訝な顔をする万里子に

「これかい?」

と柴垣は言って視線を落とし

「馬鹿な猫なんだ」

と首を振った。

「・・・?」

「何でもない」

と柴垣が笑うと、万里子が言った。

「わたし、先日省二郎さんのお母さんにお会いしたんです」

「知ってるよ。お袋さんから聞いたんだ。大雪の降った日だろう」

「ええ、省二郎さんに差し入れの本を持って行った時に、ばったりとー―」

「本? あいつが本なんて読むか?」

「ひどい、そりゃあ読みますよ・・・現代数学っていう本でしたけど、回転群と球関数とか、モジュラーが何とかなんて書いてありましたよ」

「・・・そういうものは、本とは言わないんだ。まあ本の話はいいけど・・・お袋さん、驚いていたよ。女友達がいたなんて知らなかったって」

「・・・」

「罪な奴だ、こんな時にこんな事になるなんてー―」

「・・・でも、仕方ないから・・・」

と、万里子は何気なさを装っているのか、運ばれて来たチョコレートパフェの生クリームを、スプーンで掬って美味しそうに口に運んだ。

「仕方ないでは済まないよ」

「・・・」

「何ヶ月になるんだっけ?」

「もう三ヶ月なんです」

「どうするか、いつかは決めなくちゃならない訳だから、遅いか早いかの違いだけと言えばそうなんだけど・・・」

「・・・」

柴垣は黙ったままコーヒーを飲んだ。

万里子も何も言わずチョコレートパフェを食べた。

しばらくすると柴垣が呟いた。

「僕がなあ・・・」

「えっ」

「いやね、僕が新潟に出張したもんだから、黒に電話を入れたんだ。省介が困っているって。まさか黒が省介の居場所を警視庁に連絡するとは思っていなかったんだ」

「でも、黒田さんだって警察官なんだし、相談されて困ったんじゃありません?指名手配されている人間の居場所を知っていて、報告しなかったという事が後で判ったらー― それも、殺人犯ですものね」

「まあ、懲戒免職だろうね」

「でしょう」

「僕が迂闊だった。学生時代の友人というのは仲間意識が強くてね。甘えちゃったんだな」

柴垣は一息にコーヒーを飲み干した。

「省介が身の回りの全ての連絡を断って僕の所にいた、というのが今の僕にはよく判るよ。あいつが相手にしていた人間たちは犯罪のプロじゃないかなー―鍛え抜かれた・・・」

「・・・」

「省介は言ってたよ、高いレベルで攻撃して来るって。もし本当に西岡たちが省介を陥れたとするなら、君も僕も危ない」

「・・・」

「彼らは省介に罪をなすり付けて事足れりとしているだろうか?・・・そうとは思えない。彼らはきっと君にも僕にも監視の目を光らせているはずだ。下手な動きをすれば、きっと何か悪い事が起こるに違いない。きっとだ」

「・・・」

「彼らとの戦いは始まったばかりなんだ・・・だけど、万理ちゃんは心配しないでいい。僕が守るからね、約束なんだ」

そのあと柴垣は有本会計事務所の現状を話し

「驚いたね、人柄なんだろうなあ。クライアントは心配する人ばかりで、止める人はいないそうだ」

だけど、差し出がましいとは思ったが

「僕の得意先の人に事情を説明して、何件か紹介したよ」

と言った。そして時計を見て立ち上がる。

「さ、万理ちゃん、行こうか」

「ええ・・・」

万里子は中腰になりながら、躊躇いを見せた。

「大丈夫かい?」

「ええ、ごめんなさい。自分から言っておきながら・・・」

「心配するなよ。腕の確かな医者なんだから。高校の時からの友人なんだ」

と言って、すたすたとレジの方へ歩いていく。万里子もそれに続く。

外に出ると風が強かった。寒い。

万里子は人ごみの中を、柴垣の影に隠れるようにして歩いた。二度、三度と門を曲がると人影が途切れがちになった。

―― 私が決めた事なんだ。私から柴垣さんに頼んだ事なんだ。しようのない事なんだ。ここまで来て、他にどんな方法があるというのだろう?

万里子は歩きながら涙が出てくるのを感じる。

―― このまま放っておけない。もう三ヶ月だし、これ以上許される時間の余裕はない。誰にも責任のない事なんだ

万里子は涙を拭う。

―― だけど、省二郎さんは何て言うだろう? 許してくれるだろうか?

柴垣が立ち止まると、柴垣の肩越しに「飯田産婦人科病院」と赤で書かれた看板がライトに照らし出されている。

「万理ちゃん・・・」

と、柴垣が自分を見ている。

万里子は柴垣の胸に顔を沈めて、ひっそりと泣いた。

泣きながら

「わたし・・・わたし・・・」

と、呟いた。



第1章――その6 西新井太師


万里子が泣いているその時刻、八時半になろうとしていた時だが、佐橋はコートの襟を立てて西新井町にある井原の家の玄関前に立っていた。

今日の会議のあと、井原は疲れたと言って仕事途中で帰ってしまった。別に無断で帰ったわけでもなく、またそういう事が今までに絶無かと言えばそうでもないので、二十四時間体制のような今の状態では問題のある行動ともいえない。

しかし「玉」を抱えている現時点では、見方によっては非常識に映る可能性はある。

佐橋は驚く井原の妻の多加美に案内されて、応接室の椅子に座った。

多加美はストーブに火をつけ、すぐ暖かくなるでしょうと言って出て行った。

石油ストーブの臭いが立ち込める。

佐橋は個人用の携帯を取り出して家にメールを送った。遅くなるかも知れない。息を大きく吸い込んで壁に掲げてある扁額を見た。

  雁書不届 陽射斜也

揮毫が多田正一となっている。

―― 俺は何をしに来たんだろう

一瞬そんな思いが頭を横切る。

佐橋が曖昧な心を持て余していると

「入るぞ」

と言って、井原が姿を見せた。

このところずっと愛用している濃いグリーンのトックリセーターを着ている。

「どうした?」

「課長、お休みのところ、本当に申し訳ありません」

「それが判っているなら来るなよ」

と井原は笑いながら言って背を伸ばし、ドアーを少し開けて

「多加美、お茶と煙草を持ってきてくれ」

と奥に向かって言ってから、脚を組んだ。

「課長、私どうしても申し上げたい事があるんです」

「署では言えないような事なのかね」

「いや、そういう訳ではないんですが・・・」

佐橋はそう言って目を伏せ、何か考え事をしているようだった。

沈黙が長いー―

口を切ったのは井原だった。

「君の言わんとする事は判る気がする」

「・・・そうでしょうか?」

「西岡の線を何故追わないか、という事じゃあないのかね」

「はあ、それはそうなんですが・・・」

と、佐橋が歯切れの悪い言い方をしているとドアーが開き、何もありませんが、というような事を言って、多加美がミルクティーとケーキを並べた。

多加美が出て行くのを確認してから、佐橋は井原の目を見て改まった口調で言った。

「課長、私は課長を信頼しております」

「―― どうしたんだね?」

「今回の捜査に関して、課長の真意が知りたいんです」

「・・・」

「いつもの課長のような指揮振りが感得出来ません。課長は以前、捜査方法にクレームをつけた吉田先輩にこう言いました。私は優柔不断ではない、と・・・」

「・・・」

「決断を下すまでは足元も見る。後ろも振り向けば横も見る。しかし決断を下してからは前しか見ない、と・・・」

「それがどうかしたかね。今でも私はそれで良いと思っているし、権力を付託された警察官とは、そうであらねばならないと常々思っている。また、そうしている心算だが」

「私はあの言葉を聞いてから思い当たる事が多々あり、それを恃みとして捜査に当たっております。・・・しかし課長――」

佐橋はそう言ってから、身を乗り出すようにして言った。

「今回の事件に対して、課長は決断を下しておりません。はっきりと言葉に出して方向を示した事がありません。私の思い過ごしとは思えませんが・・・何故でしょうか?」

井原は忸怩たるものを感じる。

「んん・・・私からどんな言葉を引き出そうとしているのかね」

「いえ、私は課長を信頼しております。私は課長の真意が知りたいんです」

「真意と君は言うが、私が何か隠し事をしているとでも思っているのかい。もし何か裏に意味があるような事をしていると皆に思われているなら、私の不徳とする事だ。素直に反省しなければならんな」

「課長、多田警視が今期の移動で本庁へ栄転するとは本当のことですか?」

「―― 君は何を言っているんだ」

「署内のうわさです。警視は退職の花道として警視正になるという事です。同期の人たちに比べて出世が遅すぎるので、今回が最後のチャンスだそうです」

「ま、何処から出たうわさか知らんが、うわさはうわさだし例えそうであれ、また左遷であってもだ、こと捜査に関しての影響はないよ」

「うわさには続きがあります」

「・・・」

「白壁貢殺人事件は最初、本庁の遠藤警視が受け持つ事になっていた。しかし、これは極めて単純な事件であり、しかも犯人が事件発生の段階でほぼ判っていた。であるから栄転する多田警視に華を添えようという事になった。ところがマスコミにも派手に報道した後から、捜査の方針次第では雲行きが怪しくなり兼ねなくなったー―」

「佐橋君!うわさの内は良い。しかし私に向かって堂々と言えば、それはもううわさではなくなる!」

井原は声を荒げた。

「それが判らん君でもあるまい。それにだ、うわさに事藉りて自分の意見を言うという事は、場合によっては卑怯だという事を覚えておけ」

「・・・」

「私は君を買っている。今の課で一番信頼が措けるのは君だと思っている。それは君も感じているだろう。しかし、それに甘えるというのはどうかと思う。君も大人ならば純粋培養したような捜査などというものは、余ほどの舜暁を望む以外あるとは思っていまい。現に捜査の第一線にいるんだ。被疑者に対しては逮捕した以上、必要以上の呵責な取調べが行われているのを常に見ているはずだ」

「・・・」

佐橋はしばし瞑目していたが、井原の言葉を遮るように

「―― 課長」

と、静かに言った。

「何だね」

「一月二十二日の事を覚えておられますか?」

「二十二日・・・」

「はい、西岡が初めて課長の前に姿を現した日です」

「・・・」

ティーカップを口に運ぼうとしていた井原の手が、ぴたりと止まる。

「あの日は西岡が超人的な動きをした日です。証拠として採用されるとは思えない、あの日に関する資料、調書だけでも二十通は超えております。が、当然ながら課長の口述調書はありません」

「・・・」

井原は黙って足を組み替え、ティーカップを元に戻し、新しいマイルドセブンに火を点けた。

「何が言いたい」

井原は佐橋の顔に目を当てた。

「それは課長が一番知っておられると思いますが・・・」

佐橋も負けずに井原の顔を見詰めた。

二人の間に、冷たい火花が弾ける。

井原は不意に視線を落とし、ため息を二度ほどしてから

「さすが、君だな」

と言った。

「いつから気付いていた?」

「一月二十二日の西岡の行動を追っている時です。―― 西岡は課長に初対面の時、既に安藤理香と様ざまな事を話し合っている、という具合に話をしたと、当初課長はそう言っていた記憶があります。白壁が行方不明になっているのは殺されたからではないか? という事を安藤理香と話し合っていると言ったのに、安藤理香は当日の夜八時過ぎに初めて西岡から電話があった、と言っているわけです。それまでは西岡のにの字も知らなかったとー―」

「・・・」

「明らかに西岡が絵を描いています。事実を作為したのです。二十二日の日、西岡は二十日の日に堀井から様ざまな事を聞き出して、それを織り交ぜて課長に話をしたのです。堀井から聞いた事を、さも安藤理香から聞いたようにして課長に話をしたんです」

「そうか、君がそこまで腹を割るなら、私も私の持っている基本的な認識を言おう。しかし、お互いここだけの事にして他言は無用だ。いいね」

「一切口外しません。信頼して頂いて結構です」

井原は大きく息を吸った。そして言った。

「まずこの事件は、思っている以上に複雑だ」

「・・・」

「この事件を考えるに当たって重要なことは、この事件には二つの流れがあるのではないか、という事だ。判りやすく言えば、二つの事件が絡み合っているのではないか、という事だ」

「二つのですか?」

「そう、私の考えでは、一つは堀井が犯人であるところの白壁殺害事件。そしてもう一つは・・・」

「もう一つ・・・?」

「これから起こる事件」

「えっ」

佐橋はフォークから危うく落ちそうになったケーキを手で受ける仕草をした。

「そうとしか思えないじゃないか」

「・・・」

「しかし私たちが今やらねばならない事は白壁事件の解決だ。それ一本に絞らなければならない、と私は思っている。もう一本の流れは現段階では無視するより方法がないだろう。なんと言ってもまだ事件は起きていないのだからね」

「その、これから起きる事件とはどのような物でしょう?」

「判らないが、推測は出来る。私は問題はお金だと思っている」

「―― お金」

「そう、お金だよ。白壁が残した現金は判っているだけで二億円近い。会社という含みを入れれば三億だろう。しかし、問題はそのお金じゃあない」

井原は冷めたミルクティーにスプーンを入れてかき混ぜている。

「問題になるのは、隠されたお金じゃないかなあ」

「隠されたお金―― ?」

「白壁は浅井に成り済まして何をやっていたんだろう?何かをしたんだ。そしてその何かを知っているのは、西岡と偽刑事の男だ。あるいはその他に一人二人いるかも知れないが、どちらにしろそのグループが存在するとすれば、彼らしか知らないお金が何処かにあるんだ。そのお金が必ず近い将来火を噴く」

「では白壁は彼らに・・・」

「いや、そう考えてはいけない!」

と、井原は強く打ち消し

「佐橋君、君は警察学校で何を習った。百の心証より一つの物証だよ。だからこそ二つの流れがあるとしか思えないんだ。私も君の考えている事を幾度も考えた。しかしあの証拠物件の出方、種類は、作為的には出来ない」

井原はそう言いながら、ふと西岡と初対面の時、離人症のような奇妙な違和感があったが、あれは自分が西岡を量る以上に自分が西岡に天秤に掛けられていたのだと思った。自分の内面の軽重を、動静を、西岡は不気味なほどの冷静さで見ていたのだ。

佐橋が喋っている。

「という事は、捜査に齟齬が生じても無視しろという事ですか?」

「とまでは言わん。がだ、その辺りの兼ね合いが必要な事件ではないかと思っている」

「・・・」

「先ほど君が指摘した二十二日の事でも、私はずっと気にしている。しかしその事を公表したところで何の解決にもならない」

「そうでしょうか?」

「今の状況では逆立ちしたって堀井の有罪は動かない。西岡に関する全ての調書を不採用にしたって、堀井の有罪は固い。もし、堀井の有罪が動く何かが、決定的ともでは言わなくとも、今の物的証拠に対抗できる何かがあれば、私も西岡を全力で追いたい」

「課長、ありがとうございます」

佐橋は突然そう言って頭を下げた。

「私も心証としては堀井はシロではないかと思った事もある。しかしここまで事態が切迫して来ている。有罪に出来ないならともかく、今更捜査方針を変えるわけにも行くまい」

伊原は苦渋を顔に浮かせて言った。

「私も吉田先輩の堀井の尋問に一度立ち会いましたが、堀井の態度は立派です。堀井の友人の柴垣、これは私が尋問しましたが、私の追及に対して柴垣は微動だに自分の心を動かしませんでした。ああいった連中はこういう強殺というような犯罪とは無縁の存在のような気がします」

そう言ってから何かを決断したのか

「課長、二日間休暇を下さい」

と言った。


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