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ブルーサファイア

第2章――ブルーサファイア


断章――発見


大泉康夫はその日の事を終生忘れられないであろう。

その日、つまり平成十四年一月二十五日、木曜日の事であるが、その日の朝6時、康夫は戸田村大門の自宅を出て、県道十八号線を東に向かって走っていた。

助手席には山本という東京の客を乗せ、荷台には鳥専門に調教をしたセターを一頭乗せて朝まだ明けきらぬ山道を走っているわけであったが、康夫は余り楽しい雰囲気ではなかった。

三日前に猟友会から連絡があり、康夫に東京の客を一人案内してやって欲しいという事で了解をしたが、やって来た客は場所を指定したのである。指定した、と言うのは調書に書かなかったが、康夫は全体の感じで、どう表現したらいいのか指定されたような、そんな具合になってしまったのだ。

警察にも、その点はくどく聞かれたが、とにかくその日の風向きなどを相談しているうちに、そこへ行く事になってしまったとしか言いようがない。

実際、相談している時は西側に行く事は余り賛成ではなかった。だから楽しくないのだが、理詰めで言われれば山本に反論は出来なかった。

不愉快だった。

しかし、警察に何故と訊かれる度、山本の言った理由を述べている内に、自分でもそれが本当になってしまった。

現実の時間帯の時は、運転もつい荒っぽくなり、助手席の山本に自分が不愉快である事をそれとなく知らしめた。

そんな男二人と一頭の猟犬を乗せたマツダの四WDは、途中の小道を左に折れ真城山の峠へ向かった。

朝早い伊豆の山並みは、東の空といわず辺り全体に、黒々とした稜線を浮かび上がらせている。

空気が冷たい。

十分ほど走った時、隣の男が目配せをした。と思った。これも何度も警察に訊かれたが、そんな全体の感じだった。確かに山本は、そこの林道へ車を乗り入れてしばらく行った時、康夫さんはこんな所まで知っているんですね、と言って感心していたが、その時は自分の意思で曲がったような気はしなかった。しかしこれも、調書にはそう書かなかった。文章に出来ない・・・雰囲気だった。何となく曲がった、としか言いようがないのである。


調教で吠える事を禁じられている次郎が、康夫の命令に反し、猛然と吠えて腐乱死体を掘り出し、足が出てきた時ほど、康夫の生涯に驚きの瞬間はない。

足ががくがく震え、必死になって車まで戻り、村に引き返す車の運転を、どうやってしていたのか記憶にない。後ろから恐ろしい物に追っかけられているような気がして、夢中だった。本当に恐かった。もう金輪際、山には行きたくない、と今は思っている。

二−三度掛けたが携帯は山の中で繋がらず、村の駐在所まで来て飛び込んで

「足が、足が」

と奥に向かって叫ぶ辺りから、記憶が定かになる。

八時前だった。

消防団が召集されて、現地を確保しに行くまでに一時間はかからなかった。しかしそれよりも、記憶は完全に定かになったが、回りのどこを捜しても、山本はいなかった。


第2章――その1 テレビ画面


静岡県警沼津署から、伊豆、真城山麓南西の山間で発見された変死体について、東京都渋谷区渋谷×××× 飯野レジデンス512号室の堀井省二郎を、重要参考人として手配して頂きたいといった旨の連絡が入ってからの、警視庁渋谷署の動きは早かった。

その件に関しては当署で現在捜査中の事件である旨の連絡を静岡県警に入れ、情報を警視庁に送るよう圧力を掛けた。

どちらが扱う事件か、綱引きである。

午後三時、渋谷署で臨時の捜査会議が多田警視の下に行われ、井原が二−三日前からの経緯を語った。

吉田刑事が言う。

「それだけの動機があって、仏さんの横から堀井の財布が出てきたとなると、死体は白壁貢、やったのは堀井省二郎、と考えるのが今のところ常道でしょうなあ」

という単純で明快な判断が元になった訳ではなかったが、多田警視は捜査方針の重点が井原の情報にあるとし

「この事件は井原君、君が担当だな」

と言った。

そしてその後、臨時に井上刑事と藤原刑事の二人を井原の下に配属したため、井原の課の捜査員は井原を含めて七人になった。

この七人の内、現状事件を抱えていない、手のすいている者が中心的専従となり、この事件を解決していかなくてはならない訳であるが、まだ正式な捜査本部が設置された訳ではない。

正式な捜査本部設置となると本庁の警視が本部長となって乗り込んで来ることも多い。

まずはこれから多田警視と井原が他班や本庁と折衝して、後数人を招集しながら今日中に本部を設ける事になるが、組織の対応より現実が先行しているため井原の班が実態としては活動を開始する。

井原は多田警視に

「判りました。それではー―」

と言って、吉田に安藤理香と西岡為三への連絡方法を伝え

「二人の内どちらか一人で構わない。一緒に沼津署へ飛んで身元の確認をするように」

と言い、続けて言った。

「佐橋君と見坊君は、堀井の線だ。新橋の有本会計へ行って、所長から詳しい話を訊くんだ」

「「井上君は藤原君と一緒だ。白壁商会へ行ってくれ」

井原が指示をする度に、一人、また一人と席を立ち行動に移ってゆく。

井原は、これでまた数週間徹夜に近い日が続くな、とうんざりしたが、どちらにしろこの事件の解決は早いだろうと思った。

刑事と言う職業は、先の見通しがあればある程、うんざりするものである。

事件が単純であれば、捜査から起訴まで全てが一貫して事務的な流れになってしまう。

今回の事件は

―― その部類だな

と、初期の段階で井原は思った。

井原だけでなく、多田警視もそう考えていた節がある。

そんな感情の流れが第一線の刑事まで微妙に伝わり、それが、大きな陥穽になっていたのではないかと、後あと井原は臍を噛む思いをする訳であった。



その頃、省二郎は下北沢の柴垣の家に身を潜めていた。

昨夜、グロリアにすんでのところで逃げられ、返す刀で和枝のマンションに行くと、またも今一歩というところで理香に逃げられた。

理香へはメールを出したりして連絡を取ろうとするが、その後も何の連絡もないので、省二郎は三鷹の義妹を通して連絡を図った。

それでも連絡が取れない。省二郎に繋がる一切を遮断している。

省二郎は第三、第四と次なる攻撃に移る必要に迫られていた。

しかし、と省二郎は思う。

―― しかし、俺の考えは間違っているのだろうか? 身を潜める危険などないのかも知れない。

しかし、と、また省二郎は思う。

―― 白壁の失踪から西岡の出現。不可解な天麩羅屋での出来事。そしてなお不可解な理香の行動。それらを良く考えてみよ、何が浮かび上がる?

―― 昨夜の荻窪のマンションでもそうだが、理香たちは電気を点けたまま逃げようとしていた。ああいう事は女が考える事とは思えない。誰かが、後ろで糸を引いている。

―― 何かあるんだ。身を晒すのは危険だ。

省二郎がそんな事を考えてタマの頭を撫でていると

「失礼します」

と言って襖が開き、面長な柴垣の奥さんが入って来た。

「居間の方にお茶が入っていますから、どうぞいらいらしって下さい」

「ええ、ありがとう」

「お疲れでしょう。昨夜はあんなに遅かったのに、今朝は食事もしないで朝早くからー―」


省二郎は昨夜三時近くにここへ着き、今朝はまた五時に起きて白壁商会へ向かったのだ。

しかし白壁商会へ行って、省二郎は戸惑ってしまった。

鍵が合わないのだ。

立場上、省二郎は合鍵を持っていたが、いつの間にか扉の鍵が変えられている。目に見えぬ敵の鮮やかな周到振りに、省二郎の矛先も鈍り勝ちになる。

しかし省二郎はその足でレンタカー屋へ走り、車を代え、江東区にあるオルフェへ向かった。

今日は木曜日である。

シャルルの契約日である以上、何らかの動きがあるに違いない。契約にはイタリアにあるシャルル本社の人間も立ち会う事になっているので、オルフェ本社で契約はなされるはずだ。

レンタカーはカローラレビンである。

―― 敵はこの車の事を知らない。

そこでオルフェのすぐ横に停車させて身を潜めた。

しかし、三時になっても、四時になっても何の変化もない。

省二郎は見過ごしたのか? と思った。

実は昨夜、理香が逃げる時タマを置き去りにしたため、何となくタマの身柄を預かる格好になっていて、ずっと連れ回している。そのタマが、喉が渇いたという動作をしきりにするので、車に買い溜めておいたコーラを与えたが見向きもしない。

根負けして途中、車を十五分ほど離れた。

―― あれが拙かったか?

省二郎は思い切ってオルフェの田尻部長に連絡を入れた。

すると、午前中に契約は終わっていると言い

「場所? 社長の家だよ。保証金? ああ、振り込んでもらった二千万円は確認しましたから、安心して下さい。それよりも、身体の調子が悪いそうだが、もう直ったのかい?」

と言われてしまった。

待ち伏せしている間、省二郎は陸運局に電話をしてグロリアの持ち主を調べた。

陸運局の係官は

「電話では駄目です。一度こちらへ来て、該当車の登録証明をもらって下さい。ですが、四時で閉めますからー―」

と言う事だった。

省二郎は田尻部長と話を終えた時点で、一旦今日は柴垣の所へ帰ろうと思った。

そして体勢を立て直し、もう一度最初からやり直そうと思った。万里子からは相変わらず、会いたい、と言ってくるがそれどころではない。

―― マンションへ行くといっていたが・・・

だからまだ五時半前だったにも拘らず、どこへも寄らず下北沢の柴垣の家に帰宅した。

そしてタマの頭を撫でながら思案に耽っている時、柴垣の奥さんがふすまを開けた、という展開なのである。


居間へ行くと、子供が一人コタツに入ってテレビを見ている。

「たっくん、ご挨拶は?」

と呼ばれた今年四歳になった達雄は挨拶そっちのけで、猫のタマを見て目を輝かせた。

「小父さん、名前は?」

「タマだよ」

「タマ、おいで、タマ」

達雄はタマを膝に抱えて、頬ずりをして喜んでいる。

省二郎はお茶を飲みながらいろんな事を整理し、疑問点を洗い出し、これから自分が採らなければならない最善手を考えていた。

―― 昨夜、和枝のマンションに現れた男は誰だろう? 尾行に気付いてからのあの男の動きは、目を瞠らせるものがあったが・・・

―― セルリアンタワーで西岡に会った時、自分はこの男をどこかで見たと思ったが、どこだろう?

省二郎はその事もずいぶん考えた。最初は「鬼押し出し」の写真の中の誰かかと思ったが、写真に並んだ顔なんて覚えているはずもなかった。実際に見たら、写っているかも知れないが・・・しかし、そういう感じで知っているのとは違うが・・・どこかで会った事があるのだ。

―― 理香はどこへ行ったのか?

省二郎は、結局、明日の自分の行動は

1 仙川の雑木林の現場に行く

2 練馬ナンバーの日産グロリアの持ち主を確かめる

3 四年前に白壁が借りていた、板橋の常盤台にある名東荘に行く

以上の三つだと思った。

三番目の住所は紛失した手帳に控えた記憶を元にしてあるので、丁目までは良いが番地は判らない。

名東荘の賃借人名義は誰なのか? 省二郎は理香と違い、白壁が彼の本名なのかどうか判らず、名義に拘っていた。


省二郎はコタツに入って、お茶を飲みながらそんな事を考えていた。

「小父さん、この猫、可愛いねえ」

と言った事で、ふと我に返り、そのまま省二郎はテレビのニュース画面に釘付けになった。

テレビニュースは、次のように伝えていた。


「今朝、伊豆真城山で狩猟中のハンターが、山の中に埋められている男性の死体を発見しました。その後の調べでこの男性の身元は、東京都世田谷区に住む白壁貢さんと判明しました。白壁貢さんは、今月十三日の夜から行方不明になっており、関係者の方から捜索の・・・」


テレビの画面は報道ヘリコプターから望遠カメラで撮っているものらしく、斜め上空から二十人ほどの捜査官を映し出していた。

白衣の捜査官も幾人か、垣間見える。

省二郎は、顔から血が引くのが、音を聞くようにして判った。

その瞬間は、生まれて初めて味わう、衝撃の知覚だった。

目の前が白濁したかとも思えるし、闇一色ともいえる、強烈な感覚。

「省二郎さん?」

と、問いかける柴垣の奥さんの言葉で、かろうじて踏み止まった、というところがあった。

「どうなさったんです? お顔が真っ青ですわよ」

「・・・いや、いいんです」

「昨日から寝ていらっしゃらないからですわ。ご遠慮なさらず、どうぞ寝て下さい。柴垣は九時過ぎないと帰宅しませんからー―」

省二郎は抗う気など、全くなかった。


第2章――その2 家宅捜査


吉田刑事は仁丹を噛み潰しながら、松本刑事にぼやいた。

「うちの大将、ピリッとしねえなあ」

吉田と松本は「飯野レジデンス」から少し離れた路上の車の中で、堀井省二郎が現れるのを既に4時間近くも張っている。午後9時だった。

吉田は井原が捜査令状ひとつ請求するにも、何かしら逡巡し躊躇し勝ちなことを、ぴりっとしない、という表現で言っているのである。

今朝、伊豆山中で発見された死体が白壁貢である事が確認され、しかも、死体の脇から堀井省二郎のオーストリッチの財布が出現しているのだ。中身も堀井の物なら、財布も有本会計から採取した指紋から堀井の物と推定されている。

そうであるなら、少なくとも、堀井の行方が判らない今、堀井の住居の家宅捜査令状は速やかに取らなければならない。

だから、吉田の言う、ぴりっとしないというのが、判らないでもない。

運転席の松本が堀井の手配写真を見ながら

「堀井の奴、電気を点けたままどこへ行きゃあがったんだ」

と、独り言のようにして言った。

その時、堀井の部屋に人の気配がした。

レースのカーテンだけがしてあったのに、布のカーテンが閉まったのだ。

マンションの入り口から入った人間は数人いたが、その中に堀井はいなかったのにどうした訳だ。

目線が集中し、緊張が走る。

「堀井の奴、帰ってきたんですか?」

「いや・・・あれは女だ」

「行きますか?」

「いや・・・待とう」


更に二時間が経過し、人通りが少なくなった。

十一時である。

そしてそれから五分もした時、堀井の部屋の電気が消えた。

吉田は松本に耳打ちをし、自分だけ車から降りた。

マンションから小柄な可愛らしい女が、えんじ色のコートに白いショルダーバッグを掛けて、出て来た。

三十メートルほどの間隔を置いて、吉田が後を追い、角を曲がって行った。


松本は無線でその事を本部に知らせる。

更に時が経つ。

そして又、更に時が流れ、その間松本は睡魔に襲われる度にくしゃくしゃのコートの襟を固く合わせ、寒さに震えながらショートホープを吸った。

たまに外へ出て身体を動かし、また車に戻る。

そんな事を繰り返し、明け方近くなった時、前方から2台に車が接近して来て、右斜めに停まった。

松本は煙草をもみ消し、車外に出て

「ご苦労さまです」

と、言った。

時計を見ると六時前である。

井原警部と佐橋刑事、そして去年配属になったばかりの見坊刑事が二人の検査官と一緒に険しい顔つきで歩いて来る。

「どうだ?」

と、井原は言い、その後の変化を尋ねてから

「吉田君には指示してある」

と言った。

その井原の手には、すでに堀井省二郎の部屋の合鍵が握られていた。

室内には何が隠されているのか? それは省二郎の部屋に向かって歩いて行く四人の刑事にも、二人の検査官にも、そして省二郎自身にも判らない事だった。


第2章――その3 名東荘


省二郎は朝7時に、仙川の雑木林の中にいた。

二日前、車が停めてあったと同じ場所に車を停めて、改めて周囲を見回してみる。幹線道路からわずか二百メートルほど入っただけで、鳥の鳴き声が静かに聞こえる。見上げると葉の落ちたケヤキにヒヨドリが四−五羽止まっている。

しかし辺りには空き缶やプラスチック容器が、うっすらと積もった霜をまとって散らかっているだけで、ここへ自分を連れ込んだ人間の、それと思しき何ものも見当たらない。

仕方なく車に戻り、タマの頭を撫でて、柴垣との昨夜の会話を反芻する。


昨夜あれから二時間ほど眠り、九時半に柴垣に起こされた。

「お前どうしたんだ? 心配事か?」

柴垣はスーツ姿のまま畳に座って、寝ている省二郎に言う。

「昨日からどうしたんだ?」

省二郎は重い頭を振り払って、布団の上に胡坐をかいた。

達雄がタマを抱いて入って来て、タマを柴垣に紹介し始めると

「おうい、貴子」

と、大声で奥さんを呼び、誰も来てはいけないと、厳しい声でいった。

柴垣は大学時代のアイスホッケーの仲間である。

省二郎は左のウイングで、柴垣はキーパーだった。

省二郎はどういうわけか部員に人気があり、四年の時には主将に選ばれ、そのサブが柴垣だった。

その柴垣が畳の上で胡坐をかき、省二郎を見詰めている。

「俺が聞いているんだ。隠し事は無しだぜ」

省二郎は経緯を語った。


「で、お前は身の危険を感じているわけか?」

「まあ、そうだ。俺の考えは間違っていなかった、と思っている。七時のテレビニュースで白壁の死体が発見されたと言っていたよ」

「何だって!」

と、柴垣は言葉を詰まらせ、後ろの襖を開けて

「貴子、夕刊を持って来てくれ」

と言った。

新聞には死体が発見されたという記事としては載っているが、名前も何も載っていない。印刷の時間に間に合わなかったのであろう。

しばらく考えてから、柴垣は言った。

「お前の考えはどうなんだ?」

「事件の背後には西岡がいる。奴がこの事件の押さえだ。そして今も何かを企んでいる。だから俺を仙川の雑木林に放置したのだ」

「西岡と理香がお前を嵌めた、という訳か?」

「そうとしか思えない。だって俺が人並み以上に酒を飲むなんて、理香から聞かなきゃ判らないはずだ」

「・・・」

「俺も最初からそう思っていたわけではない。しかし昨夜、理香は俺を見て逃げ出したんだぜ」

「じゃあ、白壁は理香と西岡に殺された、と考えているのか?」

「―― 共謀かどうかは判らんが、二人の絡んだ事件だろうとは思っている」

「そこまで言うなら、黒に相談したらどうなんだ? 確かあいつは警察に勤めていたはずだろう」

「黒は警察へ行けと言っている。警察で、全てを話せと言っている。その点、俺もどうして良いか判らんが、白壁の消えた十三日から十六日の朝まで、俺のアリバイはない」

「ない?」

「よく考えたが、駄目だな。コンビニに二回行っただけだ」

「よし、俺が一度、黒に聞いてやる」

二人は夜遅くまで語り合い

「お前に万が一という事はあるか?」

と言う柴垣の問いに省二郎は答えた。

「可能性はあると思う。奴らは高いレベルで行動している。事務所もレンタルオフィスだし、昨夜の男でもそうだが、尾行を気遣っていた。俺は奴らの不意を衝いたつもりだ。それなのに、あの男は命を張って逃げた」

「・・・」

「何かあるんだ。白壁の死の裏には何かがある。それが何かは判らんが、命を張ってでもしなければならない、何かがあるんだ。あるいは隠さなければならない、何かが・・・」

「・・・」

「そればかりか、あの直後に理香へ逃げるよう指示をしている。そうとしか思えないが、それほど用意周到に素早く反応するという事は、彼らに並々ならぬ目的と、それを遂行するだけの計画があっての事だと思う」

「彼らというのは西岡と眼鏡の男、そして理香という事になるのか?・・・久松もかな?」

「判らない。おそらく理香は利用されているだけだろう。理香は頭は悪くないが、これだけの事を計画するだけの頭脳はないし、何よりも実行するだけの度胸がないよ」

「という事は、二人ないし三人という事か?」

「それも判らない。とにかく非常にまとまった少人数のグループだ」

それを聞くと柴垣は難しい顔をして座り直して、言った。

「お前に預かったアタッシュの中には五千万円の現金が入っている訳だが、あのお金はどうする心算だ」

「今はどうしたら良いのか、判らない。あのお金の事は理香も知らない。会社のお金なんだが、誰に渡して良いのか判断がつかないんだ」

柴垣は大きなため息をついて言った。

「お前に不測の事態が発生したら、俺はどうしたら良い?」

「・・・」

「どうして欲しいんだ?」

二人の男は視線を絡ませた。

省二郎は、言った。

「―― 万里子を頼む」


省二郎は仙川に三十分位いて常盤台に向かった。

向かっている途中、まだ八時前だったが運転している省二郎に万里子から電話が入った。

万里子は、激しく泣いていた。

「省二郎さん、省二郎さん・・・何処にいるの?」

「どうしたんだ?!」

「省二郎さん、先ほど刑事が来たの・・・それで、省二郎さんが何処にいるのか教えろって・・・わたし・・・知らないって言ったの」

省二郎は車を路肩に停めて、ハンドルに倒れこんで聞いている。

万里子はしゃっくり上げて泣きながら、途切れ途切れに言った。

「そしたら、ぶたれて・・・今度は携帯番号を教えろって・・・わたしどうしていいか判らないから・・・教えちゃったの・・・ごめんなさい」

「万里子!今すぐそちらへ行くから」

「ううん。きっと刑事さんたちがいるから・・・省二郎さん、今日の夜、会える」

「ああ、いつでも会えるよ」

「夜、九時に会いましょう。東急でね・・・必ず行くからね」

そして、電話は切れた。

凄いスピードで、追い詰められている。

逃げ切れるだろうか?

落ち着いて、やれる事だけをとにかくやろう。


名東荘の住所を常盤台の三丁目まで覚えていたので、近くで二度ほど尋ねてアパートに着いた。

西向き二階建ての貧相なアパートで、部屋数は八戸である。

大家を知るために住居人に聞こうと思うが、その前に理香が住んでいたと言う101号室を見てみた。

郵便箱が取り付けてあるのだが、そこに名前が書いてある。雨に滲んでいるが

  浅井 修一

と読める。

省二郎の記憶を刺激するものがある。

―― 白壁の残した古いスーツの、剥がしたネームも浅井だった

省二郎は辺りを窺い、三軒隣の104号室のドアーをノックした。

顔を出したブルージーンズの青年は、二年前にこのアパートに来たが

「さあ。誰か住んでいるのかなあ? いつもカーテンは閉めっぱなしだし・・・」

と言った。

省二郎が大家の住所を聞くと、青年はすぐ近くの東武東上線沿いにある八百屋を教えてくれた。

その八百屋はスーパーに毛の生えたような店構えだったが、店はまだ閉まっている。そこで裏へ回り、声を掛けると、中央市場への入場プレートの付いた帽子を被った親父が出てきた。

親父は気さくだった。省二郎の問いに

「浅井さんの事かい?」

と言って、不思議な事を言う。

五年前から、要するに平成九年二月から年間家賃前払いで貸していると言い、そればかりか浅井修一がそこを引き払った後も貸したままになっていて、月に一度自分が掃除をしにいくと言う。

「掃除たってあんた、誰も住んでいないからさ」

ポスティングのチラシを捨てるのと、空気を入れ替えるだけだと言う。掃除代として一万円余分にもらっていると言うのだ。

―― どういう事だろう? 浅井が借りて、白壁が住んでいた、ということか?

「部屋は何も無いわけですか?」

「何もって訳じゃないがね、机と椅子、それに電話が一本あるよ」

その時、携帯が鳴った。知らない番号である。

省二郎が耳に当てると、男の声がした。

「堀井さんですか?」

「・・・ええ」

「私は渋谷警察の吉田と言いますが・・・」

省二郎は、電源を切った。

そしてまた親父に向かって、契約用紙の控えでもあったら見せて欲しい、と言うと、さすがに親父も嫌な顔をして、それは出来ないと言った。

仕方なく省二郎は開店した八百屋で、車の中のタマのためにキャットフードを買おうとしたのだが、無いと言うので、煮干とパックの牛乳を買って一旦名東荘に戻った。

101号室の前で携帯の電源を入れ、試しに誰も出なかった都内の電話に掛けてみると、室内で微かに呼び出し音の音がする。

それを確かめてから、次の目的地である練馬区北町の自動車検査事務所に向かった。

検査事務所はずいぶんとごった返していて時間が掛かった。二時間もしてグロリアナンバー練馬ぬ××××の登録証明をもらうと、所有者欄は浅井修一、その住所は名東荘と同じになっている。

―― 白壁というあの男は、浅井修一というのが本名なのか?

時刻は二時半だった。

省二郎は練馬区役所へ車を飛ばし、浅井修一の住民票を挙げた。

もう浅井修一の住民票は名東荘に置いてないと思っていたが、案に相違して、住民票は平成九年二月からそこに置いたままになっている。


 本籍  長野県北安曇郡奈川村××××

 前住所 本籍に同じ

 現住所 東京都練馬区常盤台三丁目××××

 名前  浅井 修一

 生年月日 昭和三十九年十月二十一日


等の事が記載されている。

省二郎はその住民票を眺め、反対車線から自分を見ていた眼鏡の男を思い出していた。

―― あの男なんだろうか?

省二郎は警察に追われていることで、何というのか足元が地に着かない、現実感の希薄な、それでいて焦りの沸点というのか、そういう身体全体に鳥肌が立つような感覚が時間を置いては自分を襲って来る、文字通り、襲って来るのをどうしようもなかった。

―― 落ち着くんだ

住民票を持って車に戻ると、タマが煮干の袋を破って食い散らかしており、強烈な煮干の臭いが車内に充満している。

タマをしっかりと叱ってからラジオを点けた。本当は朝から何度かラジオを聴きたかったのだが、気が散るので我慢をしていたのだ

十分もしない間に四時のニュースがあった。

ニュースはトップニュースとして雪印の牛肉偽装事件を伝えたあと白壁事件の事を次のように伝えていた。

<昨日、伊豆山中で発見されました男性の死体は、東京都世田谷区に住む会社経営、白壁貢さんと確認されました。しかし、事件の重要な鍵を握っていると思われる同社専務、堀井省二郎氏が五千万円持ったまま行方不明になっているところから、警視庁は同社の内紛に絡む殺人事件として堀井省二郎氏の行方を追っています>

省二郎は牙が自分に向けられて、襲い掛かって来るのを感じた。

―― もう遅いのかもしれない

怒りと共に絶望感が身体全体に広がる。

―― 時は去ったのだろうか?

省二郎は西岡が企んでいる事の全貌を知ったと思う。理由は判らないが、ターゲットが自分に向けられている事は、動物的な戦慄感が波状的に自分を襲って来るのを見ても察しが付く。針に貫かれた蝶の如きものである。逃げる術はないのかも知れない。

しかし省二郎の行動はまだ続く。

麻布にある都立中央図書館へ車を走らせた。

最初は雑誌、テレビニュースで十三日夜、白壁が見ていたと思われる「二十歳の主張」の番組の詳細を見てみた。

二冊の本を読んで、新成人になる人たちが討論をするという番組で「妻と私」「忍ぶ川」がその本だという。

「妻と私」は江藤淳という評論家、「忍ぶ川」は三浦哲郎という作家がそれぞれ書いたらしい。

次にテレビニュースになったであろうと思われる記事を捜すため、新聞を見た。

理香が言っていた二人組みの強盗はその後捕まっていたが、荒川区の住都公団コンクリート詰め女性変死体は犯人が捕まっていない。

大きな記事であり未だに続報が続いている状況なので、現在までの流れの概略を記すと、借主、田所新二(39)は半年にわたり家賃を滞納し裁判所の呼び出しにも出頭せず、職員が赴いても頑として明け渡しを拒否していた。

年が改まり、一月十二日再度職員が訪ねた時には田所新二はどこかへ出奔した後で、室内の浴槽からコンクリートに詰められた死後二−三年を経過した女性の変死体が出てきた。推定年齢は二十歳から五十歳までなのだが田所は一度も結婚した事がなく、女性の身元が判らない、というものである。

―― あとは何だ?

どうしても活字の大きな記事に目が行ってしまう。雪印関連の記事が圧倒的に多い中、銀行の合併も目に付くが、小さな事件が余りにも多く、どれもが白壁と関係があるように思えてしまう。

二十五日には東村山でホームレスが暴行死をしている。関係があるんだろうか?

しばらく拾い読みをして気になる事だけを手帳に書き留め、次に日本の緑化技術について調べた。

西岡の「緑化技術は日本が一番進んでいる」と言う言葉が、どうしても耳に付いて離れない。

しかし、日本の植樹の起源は縄文時代から続いていて、日本の国土の緑化は自然にだけ恵まれて存在しているわけではない、という事を知ったくらいだった。

省二郎は焦っている。

時間は淡々と、そして刻々と流れている。

次に新聞の九十九年度縮小版を借りようと思った。理香はその年の七月に急に白壁が結婚を取りやめたと言ったが、何かあるのだろうか?

カウンターで手続きをしようと思い時計を見ると八時を過ぎている。今日はここまでか・・・続きは明日にする事にした。

九時には万里子に会わなければならない。


第2章――その4  夜景



その夜の東京は、美しかった。

どうして今までこの美しさに気が付かなかったのだろうと戸惑うほど、東京は美しかった。

省二郎は万里子に尾行がない事を確かめてから、待ち合わせの店に行こうと思いエレベーターフロントの隅に隠れるようにしていたが、そういう行為自体が嫌になり、先に店で待っている事にした。

万里子は遅れて店に入ってきた。

ウエイトレスに案内されながら奥のテーブルの省二郎を見て、泣き出しそうな、それでいて笑うような、そんな複雑な表情を、万里子はした。

そして、エンジ色のコートをボーイに渡しながら肩をすくめて

「だって誰かが後ろからついて来るような気がするんですものー―」

と、立ったまま遅れて来た言い訳をした。

椅子に腰を下ろして、ショートカットの髪を後ろへ撫で付け、理由もなくはにかんで

「どう?・・・これ」

と、胸元の大きく開いたダークブルーのスーツに手をやった。

胸に明るい赤色のバラのコサージュを飾っている。

「素敵だよ」

「これね。大宮のお友達が作ってくれたの・・・春物なの」

と言って舌を出し

「少し早いけど、いいよね」

と、言って省二郎をじっと見た。

「・・・ああ、ほんと素敵だ」

ワインを飲んでの食事の最中も、万里子は大宮のお友達の事ばかり話した。

話が途切れると、万里子は不意に涙ぐんで、透けるような指を目に当てた。そして

「何でもないわ・・・」

と言って

「レット・イッツ・ビーね・・・聞こえるでしょう」

と、また涙ぐんだ。

省二郎は窓に広がる東京の夜景と、それと同じ硝子窓に映る万里子を、飽かず眺めた。

未来はそこにあるかのように、来年完成予定の六本木ヒルズが骨格だけを現して夜景の中央にある。

料理が運ばれ、二人だけの時間が、流れていく。

そして省二郎は、万里子のために買った婚約指輪を、ためらいながら、そっと取り出してテーブルの上に置いた。

ブルーーサファイアは透き通った光を放って、何か唐突な未来を暗示しているようだった。

真っ赤なワインと青いサファイア。

二人とも、暗い未来の予感に責め立てられるように、お互いが、お互いだけの事を考えていた。

悲しくて、静かで、迫り来る圧倒的な未来に、たった二人だけで立ち向かっているかのような夜だった。

万里子はテーブルの上のブルーサファイアを見て

「ありがとう」

と、微笑んだ。

音楽が流れている。

セルリアンタワーのテレビ画面には省二郎の映像が映り、指名手配になった事を告げていたが、二人は口数少なく、ただ東京の夜景を眺め続けていた。



十二時になって渋谷駅の前で万里子と別れ、そこに聳え立っている渋谷警察署を一時眺めてから、柴垣の家に帰った。

柴垣の家の近くのパーキングに車を停めて

「お前は貰い手が無いなあ」

と、タマを抱きながら言い、柴垣の家に向かった。

昨日は柴垣の子供の達雄がタマを欲しがったが、お母さんの貴子が

「駄目です」

と、きっぱり言っていたし、先ほどは万里子に

「ええ!この猫をー― そりゃあ欲しいけど、一人暮らしよ。それにマンションじゃ禁止だし」

と、何となく預かってもらえる雰囲気ではなかった。

明日は千葉の巽ヶ丘へ行こうと思っている。

空を見上げると、星が幾つか瞬いている。省二郎は足を止めた。

―― 星が光っているなあ

省二郎は、切羽詰ってしまった今、本当の意味で星を見ている気がする。星があることは知っているが、星を見る事の少ない生活を送っていた事に新鮮な驚きを感じる。

省二郎がそんな事を感じながらタマを抱きかかえて柴垣の家の門をくぐり、玄関の呼び鈴を押そうとしたその時、突如

「堀井だな」

と声が響き、十人ほどの人影が省二郎を囲んだ。

「・・・!」

顔から血が引くのが、またしても音が聞こえるように判る。身体全体が、一瞬の轟音で痺れたようになる。

玄関の明かりが点き、奥から貴子が刑事に腕を取られて一緒に出てきた。

「省二郎さん!」

省二郎の真ん前に、上官であろう、緑色のトックリセーターを着て、黒いコートを羽織った男が、白い紙をひらひらさせ

「堀井省二郎、白壁貢死体遺棄の容疑で逮捕する」

と言ってから、左右を見、顎をしゃくった。

手錠を掛けようとしてから、一人の刑事がその上官らしい男に

「猫を持ってますがー―」と言うと

「―― 猫?」

と、上官らしい男は言い、省二郎を見て

「お前のか?」

と尋ねた。

「・・・いや、拾った・・・」

「どうする?」

省二郎は玄関で立ち竦んでいる貴子に言った。

「もらって頂けますか?」

「・・・はい、判りました」

「助かります」

そして省二郎が手錠をはめられ、玄関に背を向けると背後で貴子の声がした。

「省二郎さん、主人に言伝でも?」

振り向いて省二郎が答える。

「ありがとう。でも、もうしてあります」

そして省二郎は、二度と振り返ることなく、未来へと歩いて行った。





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