黒い太陽ー序
単なる面白い小説です。
喪失の青空
プロローグ―― 透明ビニール
国道四十五号線は起点を仙台として、青森に至る道である。
道は三分の二ほどが三陸海岸と平行して走るため、景色は日本有数を誇るが、なにぶん侵食性海岸である。蛇行に蛇行を重ねるに留まらず、上下の変動がはなはだしい。
その道を宮古から一時間半も北上し、三叉路を右折すると、素晴らしい眺望の鵜の巣断崖に至る。
しかし三叉路を右折せず更に五キロほど北上すると信号機の付いた十字路があり、そこを右折して蛇行を重ね、二十分もすれば、二十年ほど前に開設された三陸鉄道「島の越」の駅である。
しかし、十字路から駅に至る中途、下り勾配の終わりに近い道路の右側に、車一台が通れるかどうかと疑われるほどの未舗装の小道が一本、ガードレールの切れ目から、急勾配で海岸に続いていた。
そこは奥まった入り江になっていて、この辺りには珍しい砂浜が三十メートルほど黒ずんだ絶壁と絶壁の間に広がっていた。
そして砂浜の奥には、板とトタンで作られた漁師小屋が無造作に置かれてあった。
平成十一年二月二十六日、午後十一時十分――
半月が中天にかかり、小屋の周りはいやに明るい。
雲はなく冷たい風が強く吹いている。
そして、岩礁に砕ける波の音が激しい。
小屋の中には、四人の男がいた。
三人の男は立っていたが、残る一人はスチール製の簡易ベッドの上で、仰向きに横たわっていた。
横たわっていた、のではない。
大の字になって、簡易ベッドに縛り付けられていた。
全裸、である。
口には棒が差し渡してあり、両端をタオルで結んだ後、顔面の後ろで固定してある。
全員が激しい息遣いをしているのは格闘が終わった直後であるらしかった。
五坪ほどの小屋の内部は船舶用三百五十ワットのバッテリーランプが上からぶら下がっているだけであるため、その真下だけは手術室のように明るいが、室内の隅は暗い。そして、寒い。
立っている男の中に頭が少し禿げ上がった、金縁眼鏡を掛けた男がいて、その男が
「椅子も用意しとくんだったな」
と、荒い息をしながら言うと
「次回からはそうしよう」
と、隣の男が、これも荒い息遣いで答えた。そして答えた男はそれを合図のようにして外へ出て行った。
出て行く男は脚が悪いのか、歩く時、少し左脚を引きずるようにしている。
しばらくして戻って来ると、その男の手には八十ccもある黄色いエンジンチェンソーが抱えられていた。そして、そのエンジンチェンソーを床におくと
「ビニールが要ったな・・・」
と、独り言を言うようにして、また外に出て行った。
戸を開ける度に部屋の中へ潮気を含んだ風が吹き込み、渦を巻く。そして風のため固定されていないバッテリーランプが揺れて、男たちの陰影を一層険のあるものにしていた。
波の音が、ひと際大きく響く。
全裸の男の目は、血走っていた。そればかりか棒を差し渡す時の抵抗を示すのか、左側の口元から首筋にかけて血が流れている。流れ方からして、口元が裂けているのであろう。
眼鏡の男が板壁に背をもたれさせて言った。
「・・・胸が、痛てえな・・・」
そうすると、それまで全裸の男をじっと見下ろしていた男が
「ニトロは車の中か?」
と言って、眼鏡の男を振り向いた。
その男は、声に特徴があった。
―― 低い。
眼鏡の男は声の低い男と視線を合わせた後、動作で、薬の必要のない事を示した。
声の低い男はまたベッドの男に視線を戻したが、その顔に傷があった。
顎に、右から左にかけて3センチほど、刀傷を思わせる傷跡が盛り上がったように走っている。
波の音が、断続的に大きく響いている。
やがて左脚の悪い男が一辺二メートルほどの透明ビニールをぐちゃぐちゃにして抱え、風に煽られるようにして入って来ると、眼鏡の男がチェンソーを手に取り
「俺がやる」
と、声の低い男に向かって言った。
うなずく。
「よし!」
眼鏡の男は自分に気合をいれるようにして、そう言った。
広い額には汗が浮き、薄くなった頭髪が眉毛の辺りまで、不規則にまとわり付いている。
眼鏡の奥には断固たる決意が宿っているのか、曇り気のない光がキラリとする。
影が、大きく揺れる。
全裸の男は手足を動かそうとしたが、無駄な事と知ったのか血走った目で三人の男の目を代わる代わる睨んで何事か唸っていた。
脂汗に光る顔全体が蒼白になり、追い詰められた男の、切羽詰った必死の形相が見て取れる。
声の低い男が全裸の男の右脚を縛ってあるロープの、ベッド側の結び目だけを解き、思いっきり引っ張り、別な箇所に結びなおした。
そうすると脚が今まで以上に大きく開かれる具合になり、大きな腹に隠れるようにしていた陰茎が小刻みに揺れ、縮み上がった睾丸が丸見えになった。
脚の悪い男がどこからか1メートルほどのロープを取り出すと、声の低い男がそれを受けり、全裸の男の右大腿部の付け根に三重にして結びつけ、擂りこ木状の棒を差し入れた。そして、グイッ、グイッと絞り上げ始めた。
すると、痛いのであろう、全裸の男は野獣の唸り声を思わせるような、凄まじい曇声を発し、のけ反り、後頭部をベッドに何度も叩きつけた。
どうやら右大腿部切断のための、止血のようである。
そこだけが肉がちぎれたかのような、異様な縊れ方をしてしまった。
全裸の男は白目を剥き、身体全体で忙し気に息をしている。顔を激しく動かしたため、口元から流れ続けていた血が、顔面左側の耳から頭にかけてベッタリと付着してしまった。
そして二人の男が透明ビニールの両端を持って、全裸の男を覆うようにすると、スイッチを入れたのかチェンソーの金属的な音が波の音と入れ代わって室内に鳴り響いた。
透明ビニールは、返り血を浴びないための用意らしかった。
三人の男たちはお互いの顔を見合わせ、頷きあい、大腿部に視線を移した。
眼鏡の男がベッドに近寄り、チェンソーの尖端を大腿部に当てる。
一瞬、透明ビニールに真っ赤な鮮血が飛散し、雫となって流れたが、次から次へと飛んで来る血と肉片のためどす赤く濁っていった。
平成十一年二月二十六日、午後十一時四十分、岩手県宮古市を車で北上すること一時間半余、遠く弁天岬の灯台を望む入り江の、どこにでもあるような漁師小屋での出来事である。
焦燥と申吟の冬
あるいは、黒い太陽
断章――シェラフ
横浜、磯子区八幡橋の交差点を、国道十六号線に沿って南へ十五分も走れば、JR新杉田の駅に出る。しかし、その中途の左側に「ホテル貴高」と書いた大きな看板があり、その三叉路を右折すると緩やかな坂道が続き、そのつづら折れになった坂道をしばらく登ると、左手一望に横浜の街区が広がる。
眺望のためか、山の一角に五百坪ほどの駐車場とも公園とも付かないような空間があり、車が十台ほど、ある間隔を置いて停まっている。
車は例外なく暖房のためかエンジンを掛けたままになっており、白い排気ガスを出している。
公園は十数本の街路灯が建っており、それぞれの光源の周りは細かい雨のため、暈を宿し、虹を放っていた。
平成十四年一月十四日、日曜日、成人式のため土曜を入れて3連休になっており、今日がその中日、成人式当日である。その為もあってか、停車している車はそれ自体がひとつの、若やいだ、華やぐような雰囲気を持っているように見え、事実、幾台かの車の外には若いカップルが腕を組んだりして、霧雨の中を歩いていた。
そうした車も三十分もすると何処かへ向かって出て行き、また代わりの車がやって来る。
そんな静かな夜の公園であったが、北の隅のトイレの向こう側に、もう二時間も動かない濃紺の車があった。
トヨタ、タウンエース、業務用デリバリーバンである。
夜は十時を告げていた。
心なしか、デリバリーバンの周りは圧縮された焦燥感のようのものが立ち込めており、人が近づかない。車内からは時おり携帯の鳴る音と、電話での会話の声が聞こえる。
と、公園に一台の車が静か滑り込んで来て、トイレを挿んでデリバリーバンの反対側に停まった。車は停まるとそのままライトを消し、エンジンを止める。
深紅のツーシーターベンツである。
そのまま五分十分と経ち、公園を歩いていた一組のカップルが車で立ち去り、人影が絶えると、ツーシーターベンツの扉が開いた。
人が降り立った。
・・・女である・・・若い。
その女が展望台の方へ歩いて行くのを確かめたのか、デリバリーバンの運転席が開き、男が降りて、反対側から展望台の方へ向かった。
二人は展望台の横の、ケヤキの木の陰へひっそりと近づき、ひと言ふた言会話を交わしたようであった。そして、男は女から何かセーターのような物を受け取り、誰にも判らない形でまた、ひっそりと別れた。
女は来たときと同じように、大きく迂回して車に戻り、何事もなかったように車を動かした。ツーシーターベンツは公園の入り口まで走っていき、どちらへ向かうか迷うような動きをした後、静かに左方面へ消えていった。
何処かでそれを見届けていたのか、ゆっくり男は現れた。そして車に戻ると水滴の付いた眼鏡を外し、金色に光るその眼鏡をハンカチで拭きながら、助手席にいる男に
「・・・行くか」
と言った。
夜は十時を半ば回っていた。
言われた男は
「そうだな」
と言ってから
「・・・こんな事になるなんて・・・」
と、ため息交じりに呟いた。その声が、低い。
フロント硝子を通して、遠く横浜の街が広がり、いよいよ降り出したのか霧雨が白く、淡く、あるいは紫色の色彩を放って、街全体を沈み込ませ始めている。
「行くぞ」
眼鏡の男が安全シートを掛けてそう言い、エンジンを掛けると、助手席の男が強く頷いた。頷いたその顎に、三センチほどの深い切り傷が斜めに走っていた。
車が動き、走り去ると、その後にはそこだけが長時間の駐車を示すように白く乾いた部分が残されたが、その痕跡も、細雨の中、やがて次第に潤いを帯びて行き、やがて輪郭が消え、全てが闇の奥へと溶けていった。
県道十八号線、通称、修善寺戸田線の北方に、標高四百九十二メートルの真城山がある。その緩やかに続く西側斜面の一角に、どういう訳だかそこだけが平坦になった、百坪くらいの空間かあった。
伊豆山中、一月十五日、午前三時。
普通なら漆黒の闇のはずであるが、雪のためか、辺りはボンヤリと明るい。ブナやクヌギが疎らに生えているのが判る。しかし、それにしても、暗い。
「もう少しだ」
低い声がすると、呼応するように
「ああ・・・」
と、もう一人の男が喘ぐように答えて、動作を止めた。そして
「眼鏡が曇って、適わんな」
と言い、スコップを突き刺して眼鏡を外した。
すると、声の低い男はつられたように自分も穴を掘る手を休めて、辺りに降る雪を見ているようであった。そして、その視線はゆっくりと黒一色の空へ移っていく。
「予定より一時間は遅くなっている」
「まあな。雪は計算外だった」
二人はまた気を取り直したのか、スコップを固く握り直し、穴を掘る作業を続けた。
闇の中、雪が降り積もっていく。十分もして
「もういいだろう」
眼鏡の男が肩で息を切らしてそう言うと、さすがに疲れたのか、もう一人の男も
「明かりを点けるか」
と、低く擦れた声を出し、手を止めた。
男は穴から上がると、残土にスコップを突き立て、傍らの懐中電灯を手にした。
明かりが点くと、光の当たった部分だけがクローズアップされ、他の部分が闇になった。
光の輪は、二人が掘った穴に向かう。
「いいだろう」
穴は、縦二メートル、横八十センチ、深さ一メートル弱である。
光の輪は、更にそこから左手に移動する。
光の輪は薄く積もった雪の上を走って行き、三メートルほど先にある銀色のシェラフを捉えた。
シェラフの口のジッパーが開かれていて、人間の顔が仰向きになっており、その上にもやはり雪が薄く積もっている。
三年前の夜、陸中海岸で見かけた脚の悪い男の顔であった。
表情の途切れた顔は、しかし、静かに目を閉じて、泣いているかのような死に顔であった。
序章――その1 理香
安藤理香は壊れた蛙のおもちゃを膝に乗せて、時々不意に気づいたようにして、背中の紐を引っ張った。蛙は右脚がとんでもない方向に曲がっていて、理香が紐を引っ張ると、弾力を溜めていき、やがて思いっきり自分の頬を蹴った。
―― タマが壊したんだ。
理香はそんな事を考えている。
「タマ」というのは去年の夏、夫である白壁 貢が渋谷のペットショップで買ってきた猫の名前である。
家に連れてきた時、貢は、二人だけのマンション暮らしでは寂しいからな、と言っていた記憶がある。
「タマ」
理香が呼ぶと窓辺のソファーに寝そべっていたタマは、幾分身を震わせてから頭を上げて理香を見た。
「こちらへ来なさい」
タマは無視して、また元の姿勢に戻った。
タマと命名はしてあるが日本猫ではない。鮮やかなグレーの、アメリカンショートヘヤーの雌猫である。
時計を見ると、四時二十分だった。
雨の中に、陽が翳り始めている。
「ピンポン、ピンポン」
と、インターホンが鳴った。
理香は弾けたように身を起こして、インターホンのある壁際まで走って行き、和枝が写ってるのを確かめてから、施錠を外し
「開いたよ」
と、インターホンに向かって言った。
理香は玄関まで、といっても五メートル程度のことだが、そこまで小走りに駆けて行き、和枝が来るのを待った。
しばらくするとドアーが開き、久松和枝が姿を現した。
和枝は、雫の垂れる傘を理香に手渡しながら、いかにも包容力のありそうな笑顔をして言った。
「急に呼び出して、どうしたのよ」
「待っていたのよ。ね、上がって、ね」
理香は和枝を奥へ誘うと、応接室と書斎を兼ねた部屋へ通し、手前のソファーに座った。
華奢で派手な理香とは対照的に、大柄で地味な和枝が窓辺のソファーに身を沈めると、タマが怪訝そうな動作をして和枝を見上げ、臭いを嗅ぐ仕種をした。
和枝は体重が七十キロはあるであろうが、あまり鈍重そうには見受けられない。
「何度か電話したけど、やはり会いたかったのよ」
「いったい、どうしたの? 何が恐いのよ?」
そう和枝が言うには、訳があった。
昨日、一月十四日の午後から七−八回も電話を貰っている。それが、恐いからとにかく来て、というのである。妹の成人式があって親類なんかが集まったりしていた為、どうしてもこんな時間になったが、理香は恐い、恐いと言うのである。
夫が一昨日、つまり一月十三日の夜家を出て、そのまま帰って来ない、というのがその理由らしい。
理香がいれてくれたコーヒーを飲みながら、和枝は言った。
「どうしたのよ? いい歳して・・・携帯が繋がらなくて、ご主人が二晩帰って来ないだけでしょう?」
「うーん、そうだけど・・・」
「浮気じゃないの、近頃多いっていうじゃない。今頃どこかの温泉で、よろしくやってんじゃないの? 連休だしさ」
和枝が冗談めかしく言うと、理香は小首を傾げて言った。
「和枝、違うの、恐いの」
「全く。理香、しっかりしてよ。ご主人が二晩帰って来ないのが、そんなに寂しいの。おのろけみたいね」
「和枝、違うの。冗談ではなく、怖いの」
和枝はその時、ようやく理香の暗い目に気がついた。そう、理香はいつものように軽やかではない。
「何かあったの?」
「・・・ううん。何も」
「胸騒ぎがするわけ?」
「・・・しないわ」
理香はタマを膝の上に移し
「何もないし、胸騒ぎもしないわ。恐いだけよ。私、胸騒ぎって知らないけど、これは違うと思うわ」
と、言った。
「恐い、恐いって、そればかりじゃ判らないわ。いったい何が恐いの?」
理香は深々とソファーに身を沈めた。そして上目遣いに和枝を見て、何か訴えそうにしていたかと思うと、身体をガタガタと震わせ始めた。
「理香!」
と、和枝は叫んだ。
理香の急激な変化が和枝を動揺させた。
和枝は理香の横へ行き、その身体を抱きしめた。
「大丈夫。理香、大丈夫よ。落ち着いて。恐いものなんて何もないんだからー―」
理香は和枝に抱かれて、ベソをかいた。
「私と白壁の事、あなたは知っているわよね」
と言うのが、落ち着きを取り戻した理香が、最初に言った言葉だった。
和枝はそれが、籍の問題を含む、理香と白壁との関係の事だと思った。
私ね、と理香は続ける。
「私ね、高校の時から和枝には隠し事なんて、した事なかったわ」
ああ、あの事か、と思いながら和枝は聞いている。あの事とは、高校二年の冬の独りよがりに終わった恋愛事件の事である。
「白壁の事だって、何も隠し事なんてしていないの。だって、隠そうにも私、何も知らないんだもの」
知り合ってから三年、一緒に暮らし始めて二年、それでいて何も知らないと言う。
「私、白壁のご両親は勿論、親族の方お会いした事もないし、お話をした事もないのよ。・・・何も、そういう事をいい加減にしていた訳じゃないわ。和枝、私の夢は素敵な旦那さんを見つける事だって、いつも言ってたでしょう」
「うん。理香の夢だからね」
「だけど、その中には結婚式も、ウエディングドレスも、新婚旅行も、みんなセットなって入っていたんだもの・・・みんなに祝福されて結婚するのが私の夢だったのにー―」
理香はそう言って寂しそうに微笑み、また目頭にハンカチを当てた。
「だけど、それが何故、恐いという事と関係があるの?」
「和枝、あなた、背景のない人間って、知ってる」
「・・・背景?」
「白壁は確かに、白壁商事の社長よ。名義が私のものばかりでも、彼が社長であることは誰でも知っているわ。従業員が13人もいるのよ。でも、白壁貢は、幻だわ」
「まぼろし?」
「そう、金はあっても、他のものは何もないの。このマンションにしたって、私の名義。会社の契約も全て、私の名前」
「ちょっと待ってよ。去年の夏、九州の義母さんから何か貰ったでしょう?」
「ああ、あのお菓子ね。あれだって白壁がそう言ってただけよ。・・・そうね、あの頃から白壁が何か変になったの」
「―― 変に?」
「何ていうのかなあ、話をしていても、顔だけこちらを向いているんだけど、何も聞いていない。そこには、人がいないって感じかなあ」
「うわのそらって言うわけね」
「違うのよ」
と、理香は言う。
相手に伝えるのに、適当な言葉が見つからない、といったもどかしさが感じられる。
「そういうんじゃないのよ。暗い、訳の判かんないものを、じっと見ていて、私が何を言ってもそれを飲み込んじゃう感じなの。私、白壁がいなくなって、そのことがはっきり判ったんだわ」
理香は和枝が来た時とは打って変わって、自分の内面を探りながら話をする、という具合だった。
「本当に去年の夏ごろから、何だか気味が悪くなったのよ。いい、白壁貢だと彼は名乗っていたけど、本当はそうじゃないのかも知れない。私、あの人と暮らし始めて、最初の頃はそんでもなかったけど、だんだん判り始めた事があるの」
時刻は七時を回っている。
「あの人、私を愛していた訳じゃない。確かに優しい言葉を、いっぱいかけてくれた。だけど違う。仕事でもそう、やり手だったわ。堀井さんの尽力があったとはいえ、今度のオルフェの件でも凄いと思った。だけど、あの人、仕事に打ち込んでいた訳じゃあない。全部、どこか違う」
「・・・難しいわ」
和枝はそう言ってからテーブルのコーヒーカップを取り上げ、空であるのを思い出し、またテーブルに戻した。
理香は、真っ赤なマニュキアがしてある指を、額に軽く当てて言った。
「だけど、あの人には目的があった。何か、目的があった。それは判る気がする。する事に、何か一貫したものがあった・・・」
「・・・どんな?」
理香は目を閉じて考える様子であったが、やがて、いやいやをするように首を振り、独り言のように呟いた。
「判らないわ。何も、判らないの・・・判らない事が、こんなにも恐ろしいことだなんて、私、思いもしなかった」
序章――その2 省二郎
堀井省二郎はオーブンにパン二切れを入れ、スイッチをひねった後、マホガニーのコーナーボックスから黄色いバスタオルを取り出し、肩に掛け、シャワーを浴びるためにバスルームに向かった。
まだ頭の中の思考が英語で流れる。
歩きながら横目で、ちらっと本棚を見る。万里子から贈られた濃紺色のオーストリッチの財布が、英文で企業財務などと書かれた本の間に置いてある。
堀井省二郎は、今年五月の誕生日を迎えれば二十八歳になる。そろそろ、と省二郎は考えている。
―― お袋に万里子の事を言わなければ
それを思うと、いつも困惑した母親の顔が浮かぶ。先日も、といっても昨年の十一月末の事であるが、省二郎が会計士試験に合格した事が判ると、それではと言って省二郎に結婚話しを持って来た事がある。
「考えておくよ」
と、あの時は曖昧に答えておいたが、実は結婚しようと思っている女友達が、一人いるのだ。
河合万里子、という娘である。
もっとも、大学時代の友人たちと話をしている限り、自分だけが未だに女遊びをしているように思える。
勤め先の有本会計事務所が新橋にあり、自分が住んでいるマンションが渋谷にあるという事もあり、夜な夜な飲みに歩き、ホテルから事務所へ直行という事も、月に一度や二度ではなかった。
とはいえ、省二郎自身不思議なのだが、遊びと仕事が明確に区別できるのである。仕事関係の女性からも、幾度かそんな気ぶりを見せられた事があるが
―― 嫌だな
と、訳もなく思ってしまう。嫌悪感、というもではなく、こういう場合変な言い方だが、仕事に対する潔癖感が表面に出てしまうのである。
昨日、一昨日、そして先一昨日の三連休にしても、遊びの誘いはずいぶんあったのだが、省二郎はCPAというアメリカの会計士資格を夏までに取得しようと、集中勉強していたのである。
日本の公認会計士の資格を取った勢いで、どんなに遅くとも八月までにはアメリカに飛んでCPAの資格まで一挙に取ってしまおう、それが省二郎の基本戦略である。企業というものを知れば知るほど、海外との会計の整合性を自分自身が把握しないと、これからの時代には適応出来ない事が判る。支店は海外という会社が、ほとんどの時代なのである。
そのため、まとまった時間が取れるこの三連休は、どこへも行かず、といってもコンビニには二度出かけたが、連絡も全て断って英文の会計テキストと過去の問題集に没頭した。
携帯などあると一つ事に集中など出来ないので、思い切って金曜の夜に事務所を出る時、机の中にしまっておいた。いつも持ち歩くパソコンも、事務所に置いたままである。テレビも、一切つけなかった。この三日間はコンビニで食料を購入した以外は、とにかく日本語と縁を切った。それくらいの事をしないと、CPAなんかは取得出来ない。
省二郎は携帯もパソコンも、テレビまでもがない生活を、久しぶりで味わった。味わったが、終わった後も頭の中の思考が、日本語になかなか切り替わらないのには閉口した。
そんな彼が、この娘はと真剣に考えている相手が万里子だった。
河合万里子、二十三歳になったばかりの大学の後輩で、付き合いは四年に及んでいる。
去年の暮れから正月にかけて、十日間、オーストラリアの海へ二人で遊びに行った時、万里子は青く広がる海原を見渡せるカレンドホテルの一室で
「私の事、きちんとして欲しいな」
と、省二郎にせがんだ。
その時、この秋には、と答えたのだ。
春でも良かったのだが、CPAの資格を取ってからにしたかった。それに、実務を執っている白壁商会とオルフェの契約を済ませれば、白壁商会は完全に軌道に乗る。それもこの春が山場なので、それが終わってからにしたかった。
それまでには、高崎に住むという万里子の両親にも承諾を取り、彼自身の母親にも引き合わせる事が出来るであろうと思っていた。
ミルクティーとベーコンエッグ、それにパン二切れが、省二郎の今朝の食事メニューだった。
三ヶ月ほど前まではパンが三切れだったのだが、体重が110キロを越えた時点で、ダイエットをする事にしたのだ。
身長百八十八センチの割合で考えれば若干オーバー気味程度なのだが、学生時代とは違って、今は肉の付くところが違うのか、一旦体重が増すと生半な事では体重が減ってくれない。
新聞を読み終えてスーツに身を包んだ頃には、八時近かった。
連休の間ひどく愚図ついた天気も、今日朝方になって雨雲が飛び去り、今はさっぱりした青空を見せている。
正月気分の余韻が残っていた街も、この連休によってすっかり本来の活気を取り戻していた。
育ちの良さを表すような少し下ぶくれの、ふっくらとした顔を空に向け、大きな息を吸い込んで、省二郎は勤め先である有本会計事務所へ向かった。
有本会計事務所は、税務事務所としては規模の比較的大きな方だった。
有本所長以下三人の税理士を抱え、他にアシスタント役の事務員が二人、税理士見習いが一人、そして省二郎である。
省二郎は昨年の会計士試験に合格してから、周りのみんなが自分を特別視しているのを、充分すぎるほど意識している。
所長である有本精一の甥という事で、当初から特別視されてはいたが、今回の視線は全く質の違うものであった。
大学時代はアイスホッケー部に所属して選手としての活躍に熱中し、そのために単位が足らず一年留年した。その後大学院の修士課程を履修して二年が過ぎた。ただ、専攻していたのが土木科の橋梁だったので、折からの公共事業縮小の嵐に遭遇し、就職がややこしかった。そんな時、精一叔父に拾われてアルバイト的に入所したのだが、あれから丸三年経しか経たないのに、歳若い省二郎がいつの間にか事務所の中心的人物になってしまった。
就職は悩んだ。身体を使うような土木が好きなのだが、それが経理とは・・・緊急避難的に思っていたのだが、この方面での才能も省二郎にはあったのであろう、名指しでお願いしたいというクライアントが少なくなかった。
いずれにしろ有本会計事務所が、税務中心の事務所から企業会計全般を診るコンサルタント事務所に方向を持っていくのかどうか、それは省二郎の動き次第という状況であった。
省二郎が事務所に入ると、沢田博子が彼を見てニッコリと挨拶をした。
沢田博子は二人いるアシスタントの、年配者、といっても三十二歳だが、の方である。仕事は精一叔父と省二郎のアシスタント、となっているが、誰が決めたわけでもない。
ニッコリ笑った沢田博子は、省二郎が席に着くなり斜め前の席から
「白壁商事の奥さんから、二度も電話が入ってますよ」
と、言った。
「奥さんて、理香さんかい?」
「ええ、出社次第電話が欲しいそうです」
省二郎は紙コップに入ったコーヒーを一口飲んで、時計を見た。まだ九時前だった。
次にパソコンのスイッチを入れ、引き出しを開け、久しぶりに携帯を取り出し、スイッチをONにするとメールがやたら入っているが、ほとんど理香のものだった。後は万里子のものが二通と、兄から一通。
全てにざあっと目を通してから、パソコンのメールにも目を通す。白壁に関係するものは何もない。
省二郎は自分の机の上の電話機を見て、ボタンを押した。
はい、と言う返事を聞くや、受話器を取り上げ
「もしもし。堀井ですが、電話を頂いたそうで・・・」
と、言うと
「堀井さん?」
理香のハスキーな声がした。
「あのう・・・主人ご存知ないかしら?」
「――はっ? ご存知って、どうかしたんですか?」
と、反対に聞き返すと、理香は言った。
「主人、十三日の夜から帰らないのよ」
「帰らない?」
「家にいないから、今日は会社に出社するのかなあって思って来たんだけど・・・私、心配なもんだから、八時前から会社に来てるのよ。だけど、来ないし・・・」
どういう事なの、と、理香に詳しい話を聞くと、理香が言うには、十三日の午後七時ごろに何も言わず外出し、すぐ帰る素振りでジャケットを引っ掛けて出かけたが、そのままだと言う。
理香の口真似をするなら
「まるっきり、それっきりなの」
という事になる。
誰かに会いに行ったとも思えないし、何処かに所用があったとも思えない。十三日の夜、テレビニュースを見ていて、その途中、何も言わず出て行った、と言う。
「あなたに連絡したかったんだけど、三鷹が家族で温泉スキーに行っちゃてるし、あなたの携帯もずっと繋がらないでしょう」
と、こんな時にも拘わらず理香は明かるい調子で言った。
理香は、省二郎の実家である三鷹の、兄嫁の姉になるのだった。
兄嫁の姉といっても、省二郎より一つ年下の二十六歳、昭和五十一年生まれでまだ子供はいなかった。
「だから私、今日、会社に主人が来ないのなら、きっと何か主人の身に、きっと何か起きたんじゃないかと・・・私、どうしていいのか・・・」
と言って、今までの明るさが嘘のように、不意に涙ぐんでいるようだった。
ハスキーな声でいつも明るく、お調子者の印象が強かっただけに、省二郎はドギマギして言った。
「ご心配は良く判りまた。私も心当たりを当たってみますから、それからにしましょう。とにかく、社長が帰って来るまで会社にいて下さい。携帯はオープンにしてあるので、いつでも連絡下さい」
省二郎は、沢田博子が持って来た書類を片手に、白壁との出会いを思い出していた。
序章――その3 白壁商会
省二郎が白壁商会を知ったのは、一昨年の九月で、当時新婚だった兄嫁のその姉である理香と、三鷹の実家で会った時
「夫が事業をしているけれど、経理の事があまり判らないから・・・」
と言われ、その後、事務所に訪ねて来た白壁から正式に依頼されてからの事だった。
もっとも、姻戚関係に絡まれて閉口している同僚も多少は見ている事もあり、本当は断りたかったのだが、有本会計事務所自体が姻戚関係という事になるため、断り切れなかったというのが実情に近かった。
それに、白壁貢の屈託のない笑顔を見ている内に、警戒心が薄らいだ事も多分にあった。
白壁商会は、美容院へ美容器具や化粧品などの卸し業務をしている、三年半ほど前に設立された会社だった。いや、正しくは会社ではなく、個人商店であった。
経理を引き受けてから、白壁商会のいろんな事を知った。
不思議な部分のある会社だった。
所在地は世田谷の駒沢大学校舎の近くで、オリンピック公園に面していた。従業員は現在、当時より六人増えて十三人であるが、その規模は同業他社と比べて中規模の下、といったところである。
普通、売り上げの面から見てもこの規模になれば法人化しなくては、税務上の様ざまな特典を与えられず、不便である。それに、営業面でも問題が発生する。
当然、社員の社会保険など福祉関係も停滞している。
唯一救いがあるとすれば、銀行をふくめた公的機関からの借り入れの必要がない事である。
白壁はお金を持っていた。
個人資産まではタッチしなかったが、必要になると白壁は数千万円単位の現金を持ってくる。
しかし不思議な部分とは、実はそんな事ではない。
それは、車一台に至るまですべて理香の名義になっている、という事である。正式な書類は全て安藤理香の名の元に押印してある。
その点を白壁に尋ねると、自分の住民票は大阪に置いたままなので理香のを使用している、と言う。
「理由はこれといって、格別ないよ」
と、笑いながら言い、至急こちらに本籍も移し、理香を正式に籍に入れようと思っている、というような事を言った。
省二郎は初めの頃こそそういう不明朗な、体の芯にチクチクする、いわば動物的な肌触りの悪い事柄を暗い翳のように感じたが、半年もして確定申告を作成する頃には慣れてしまっていた。
白壁商会の事務をしている理香とも仕事の都合上、度たびプライベートな話をする機会があり、理香の開放的というより、アッケラカンとしたところにも好意以上のものを感じた。
「省二郎さん、白壁と飲みに行った時にでも、催促しといてね」
と、そんな具合に籍の事も頼まれたりして、それが省二郎には快く思われたりした。しかし、理香とは二−三度飲みに行ったが、白壁と行く事はなく、代わりに二人きりの時、会社の法人化に絡めてその事を持ち出すと
「申し訳ないね。会社は会社でこんな出鱈目な形態に上、家庭の問題にまで君を煩わせてー―。いや何、もう近々郷里へ顔を見せに行こうと思っているから、そのついでといっては何だが、大阪の方にでも寄って住民票などもこちらに移すようにするよ」
と、如何にも手軽に、気さくに言ったりした。そして
「会社の運営などについても、堀井君は堀井君なりに考えることもあるだろう。
なに、遠慮はいらない。みんなにどしどし指示してやってくれ」
などとも言ったりした。
白壁貢の物腰は理香ほどではないにしろ、割と軽く、会社の事についても経営者とは思えない程あっさりしていた。
左脚が悪いらしくすこしビッコを引く白壁が何かの折に伏し目勝ちに
「利益なんか、どうでも良いんだよ」
と言った言葉が、未だに鮮明に思い出せるほどだ。
といって、業績が悪いわけではない。
扱い品目と狙った市場が良かったのか、そんな野放図な経営形態にも拘わらず借入金ゼロの会社はずいぶん利益を上げていた。
そんなこんなで一年もしない間にいつしか省次郎は専務のような立場に立ってしまい、今では白壁商会に机まで置くだけでなく、月々過分な手当てまで貰うようになってしまっている。
会計を志す者とってはあまり褒められた話ではなかったが、姻戚関係という蓑に隠されて、省二郎自身の内で正当化されてしまっていたのだ。
また、面白くもあった。
その白壁が、行方知れずだという。
しばらく考えて、省二郎は株式会社オルフェに電話を入れた。
「有本会計の堀井ですが、田尻部長おみえですか?」
受付けた女性から田尻部長に通じたらしく、回線を二度ほど切り替える音がしてから田尻部長が出た。
「お早う。こんな朝早くから、急用かい?」
「お忙しいところ、恐縮です」
と、省二郎は当たり障りのない事を二−三話してから
「シャルルの件で、白壁はそちらに伺っておりませんか?」
と、尋ねた。
「シャルルの契約なら、内の社長の都合もあって来週の木曜日になっていたんじゃないか? 確か、二十五日だと思っていたけどー―」
「それは判っているんですが、白壁が何ですか、そちらに伺ってパンフレットをもう少し貰いたいようなことを言っていましたので・・・そちらへ伺ったのかと思いまして・・・」
まさか、行方知れずだと言うわけにもいかない。
「ちょっと待ってくれよ」
田尻部長はそう言って、誰かと話をしている様子だった。
「みんなに聞いたんだけど、来ていないね」
はなはだ要領を得ない対応をしてから、ゆっくりと受話器を置いた。
来週の木曜日、白壁商事はイタリアの美容器具メーカーと、極東における専売契約を結んでいるオルフェとの間で、関東地区の特約店契約を結ぶ手はずになっているのだった。
狙いは、近頃急速に需要が増し始めている、年配者向けエステティック形式の美容院への売込みであるが、他の美容器具卸会社からも既に充分な引き合いが来ている。
オルフェが有本会計事務所の得意先である事から、終始、省二郎が話をリードして、大手との競争に打ち勝つ形で獲得したのである。
デポジット形式の前渡金二千万円を含めて、そのための資金五千万円は白壁が用意したのだった。
その五千万円の現金は、今、省二郎が借りている渋谷の銀行の貸金庫に置いてある。
省二郎が知っている範囲で言えば、白壁が行きそうな所はオルフェくらいしか考えられなかった。
―― 昼まで待ってみよう。それからだ・・・
昼を過ぎても、白壁の所在は不明のままだった。
省二郎は沢田博子に仕事の指示を出してからマンションに戻り、この四月に始めて車検を受けるトヨタソアラを駆って、白壁商会へ向かった。
白壁商会は二階建てビルを一棟ごと借り切って営業している。一階は配送と倉庫に使用し、二階は応接室と会議室、そして事務所である。
そこの薄陽の射す応接室で、理香は小さくなってダークグリーンのソファーに腰を下ろしていた。
理香は、端然として、どこか絵画の少女を思わせる雰囲気を漂わせ、省二郎を見ると
「どうなったのかしら――?」
と肩で息をした。
「理香さん、言いにくい事なんだけど、こうなっては仕方ない、交通事故という事が一番考えられるからね。やはり、警察に相談してみよう」
「―― ええ、友達もそれが一番良いって言うし」
そう言って理香は、どんぐり目をパチクリとさせた。
警察に連絡を入れたが、都内にはそれに該当する件はないという返事しか返って来なかった。
「一度消防署の方へ問い合わせたらどうです? 救急車が走っても、事件性がなければこちらに連絡はありませんからね。それでも分からなくて心配な場合は、そうですね、どうしてもという事なら一度こちらへ来て下さい。来る時には写真があると良いですね・・・私ですか、私は交通課の畑と言います。私でなくとも、誰でも良いですからね」
消防署に問い合わせをすると、警察とほとんど同じで、やはり該当する患者さんないという。
省二郎と理香は一旦三軒茶屋の里香のマンションへ行き、白壁の写真を携えて真新しい渋谷署の畑を訪ねた。
畑はその場で写真などをスキャナーし、手配などを行った。そして
「今のところ該当する方は見当たりませんのでなんとも確答できませんが、分かり次第連絡しましょう」
と言った。
それだけだった。
電話の時と違って、幾分冷淡になったと思う。理由は省二郎にも理香にも判っている。それは、現住所は良いにしても、本籍も住民票の置き場所も里香が知らず
「九州の大分とか言っていましたが・・・」
と言った事から、白壁と理香が内縁関係である事を畑が知り
「あなたは白壁理香さんじゃなく、安藤理香さんなんですね」
と言って、捜索願いの用紙を確かめ、なあんだ、といった態度を見せ
「兄弟の所とか、親の所にいるんじゃないの?」
と、不審を持たれた事による。
街は急速にその表情を変えようとしていた。
薄明の中、ネオンが瞬き始め、道行く車はスモールランプを点灯し始めている。
省二郎は帰りの道すがら、車の中で理香に白壁の身元の点を確かめてみた。
「知らないのよ、彼ってそういう事何も言わないんだものー― 省二郎さんから見れば、私がチャランポランに見えるでしょうけど、私、人並みに、ううん、人並み以上にそういう事って気になる性質なの。その事で彼を問い詰めた事も一度や二度ではないわ」
と言って脚を組み直し、暗くなった車内の中で薄いピンクのコートに顔を隠し、泣いた。
「僕たちの取り越し苦労かも知られないし、何といってもまだ4日目だからね。
それこそ警察の言うように郷里に帰っているんじゃないかな。もう少し様子を見てみようよ。その間、僕も毎日会社に顔を出すようにするからさ」
省二郎はそう言って、理香をマンションまで送り、別れ際に
「ご主人の荷物を探してみたら、何か判るんじゃないかな」
と言うと
「ええ、その心算よ。主人の持ち物に無断で触る決心が付かなかったけど、今日一日で決めたわ。帰ったら、二人で徹底的に探してみる心算り」
と言った。
「二人?」
「ええ、一昨日からお友達に来て貰っているの。恐いから」
そう言って、淋しく笑った。そして、前を見詰めていて
「省二郎さん、わたし、恐いの・・・」
と、怯えた表情を垣間見せた。
―― 理香は、何かを隠しているんじゃないのか?
省二郎はそんな事も思った。
序章――その4 持ち物
その後も事態の進展はなく、二日三日と時間だけが流れた。
省二郎は税金の申告の締切日が近づいている事もあって、仕事が山積みの状態にも拘らず、所長に私用の許可をもらい、渋谷署に行った翌日から、午前中は申告書とパソコンを持って白壁商会へ出社していた。
省二郎が直接出向かなくても、日々の会社の運営はそれほど難しいものではなく、基本的には前日受けた注文を翌日に配達するという訳だから、当座の間なら里香の指示だけでも充分運営は可能だった。
しかし、省二郎には一つの悩みがあった。
渋谷の貸金庫に置いてある五千万円のお金の事である。
白壁は昨年十二月中旬に、その五千万円のお金を省二郎に渡す時、こう言ったのだ。
「堀井君、このお金は里香の知らないお金なんだ。今、この金のことを里香に話したくないんだよ。隠し通すとか、そんな気は毛頭ないし、そんな事出来ない話だしね。来年、君にも里香にも僕のお金の事はハッキリさせようと思っているから、それまで内密にしておいてくれ」
省二郎はその時、白壁の個人資産が思ったより豊富であり、白壁はその隠してある資産を理香に話すのに、タイミングをみているのだな、と思った。そういえばあの時の、いつになく暗い、重い気配と、それでいてふっと気を抜くような、遠くを見ているような、それらの入り混じった、異様といえば異様な、そんな雰囲気を今、省二郎は身震いして思い出す。
―― そうか、白壁のあの名状しがたい闇のようなものを、里香は恐いと言っているのか
省二郎の思考は、様ざまに乱れ飛んだ。
―― こんな事なら、もっともっと身元を調査するんだった。しかし誰がこんな馬鹿な事を想定しながら生きているというんだ。
怒りに近い感情が湧く省二郎だった。
―― 本人がいなくなって、どこの誰だったのか判らない、という事も世の中にはあるだろう。特殊な例だとは思わない。けれど
と、省二郎は思う。
―― けれど、月商四千万円、年商五億円という会社の社長が、どこの誰だったか判らない、という事があるのだろうか?
省二郎は会社というものに対して、たとえそれが個人であろうと法人であろうと、また経理に偏っていたとしてもプロとしての見識を持っているのだが、この業界で月間四千万円をこなす会社の社長が、たとえ表見代表人として理香を立てているとはいえ、どこの誰か判らない、という事は考えられない。
社会を知らない高校生なら、あるいは大学生でも、誰かを代表に立てて自分が裏で糸を操る、という事が本気で出来ると思うかも知れないが、それは実業界という現実社会では無理である。
一ヶ月、あるいは二ヶ月はそれで周囲を騙す事が出来るであろうが、限度は半年であろう。
現金決済という決定的な主導権を持っていても、事はそう簡単ではない。現金なら何でも売ってくれるとか、何でも買えるとか、家庭の延長じゃあるまいし実業界では通用しない。
手形を駆使したり、暴力団が介在しても絶対一年は保たない。
考えられる範囲内で保つ場合があるとするなら、ひとつだけ。
それは、白壁が言うように「利益なんかどうでもいい」場合だけだ。
省二郎は沈思することが多くなった。
金曜日までは何の変化もなかった。
警察からも連絡はない。
携帯は相変わらず電源が切れたままだ。
いよいよ白壁の身に不測の事態が起きたに相違なく、焦燥感が募った。
相変わらず理香は
「家には手紙の類すらないし、白壁の身元を示す、なーんにもないわ」
と言って、悄然としていた。
しかし、金曜日の夜遅く、理香からメールが入った。
「証拠、発見。あした朝、会社で」
明日は土曜日であるが、関東地方の美容院は火曜日を定休日としている店が多いので、白壁商会もそれに倣って火曜日が定休日になっている。
そんなわけで、土曜の朝、省二郎がいつものように白壁商会へ顔を出すと
「・・・省二郎さん」
と、理香は言って、応接室へ手招きをした。
省二郎がソファーに座ると
「これ」
と言って、二冊の本と一枚の写真をテーブルの上に置いた。
「これ、机から出てきたの」
「机から・・・?」
理香が言うには、昨夜、和枝という友人と二人で再度、机を探したという。先日省二郎と別れた時探そうとしたのだが、鍵が掛かっていたので、その時はそれをこじ開けたという。しかし、その時は何もなかった。
その後も、気休めのように何度か引き出しなんかは探したという。けれど昨日はその、こじ開けた時にゆがんでしまった机の引き出しを、和枝と言う友人が力任せに引きずり出してみた。
引き出しには何もなかったが、机と引き出しの空間に大型封筒が隠すようにして置いてあり、中に入っていたのがこれだという。
省二郎が手に取ってみると、本二冊は詩集と写真集だった。
詩集は新しいのか紙の匂いがする。題名は「あおぞら」となっており、著者は苗字はなくというか、印刷での著者名ではなく手書きで最後のページに「ゆう子」書いてある。
写真集は表題が「雲」となっており、副題が「四国の山」としてある。写真家は高木 浩次である。
「それを見れば、白壁の身元というか、秘密も少しは判るわ」
と、理香は白くて細い首を大きく伸ばし、後ろへ倒れこむようにして言った。
次に、省二郎は写真を手にした。
近頃急速に普及し始めているデジタルではなく、ポケットカメラで撮った物なのか、光沢のあるサービスサイズの写真は粒子が粗く、スナップにしても輪郭が明瞭ではない。
写真の右下に撮影日がプリントされており1995、09、07となっっている。七年前だ。
見るとどこかの会社の慰安会なのか、十四−五人の男性たちと四人ほどの女性たちが巍巍とした黒岩の群れを背景にして並んでいる。
後列の右から三番目に、白壁が立っている。立って、幸せそうにこちらを見て微笑んでいる。
「その裏をご覧になって。電話番号がかいてあるわ」
裏返してみると、電話番号が三つ書いてある。固定電話の番号だった。
一つは都内なのか、033で始まっているが、もう一つは0467、もうひとつが0585で始まっている。
理香は、調べたら鎌倉の局と岐阜の局だった、と言う。
「掛けてみたの?」
和枝が掛けたと言う。
「だって何だか怖くって・・・」
都内の電話も鎌倉の電話も方も呼び出し音は鳴るが誰も出ない、そして岐阜の電話は使用されていないと言う。
省二郎が写真と二冊の本を代わる代わる見比べていると、扉をノックする音がして
「失礼します」
と、隣の事務室から事務員が姿を見せた。そして理香に来客を告げると、里香は省二郎に眼で合図をして、渋い顔をして出て行った。
しばらくするとお茶をお盆に乗せて帰って来て、
「ごめんなさい」
と言った。
「何だい?」
「保険なのよ」
「保険?」
「白壁がね、会社を法人化するから、その時団体保険に加入するって言ったらしいの。二月だか三月だとかで、それを今から手続きして欲しいってー―」
その事なら、省二郎が知らない訳ではない。
知らないというより、法人化にした時に保険に入って、免税の特典を活かすよう働きかけたのは省二郎である。
―― 保険の手続きまで間近に迫っていた。というのに、どうした事なのだろう。何故、失踪したのだろう。何処へ・・・
通りを隔ててオリンピック公園の樹が見える。風がないので、そよともしない。
鳩が大きく旋回している。
熱いお茶を啜るようにして飲んでから、省二郎は言った。
「この写真<鬼押出し>と思うけど、理香さんは覚えないの?」
「全然! 昨日和枝から<鬼押出し>って聞いて、私、初めてそれが長野県にあるって知ったんだもの。それに、白壁は写っているけど、他の人たち・・・私まるっきり知らない人たちよ」
「・・・そう」
「それより、その写真集を見て」
「この、雲ってやつかい」
「ええ、その本の裏表紙の裏をごらんになってー―」
そう言って里香はギュッと唇を結んだ。
省二郎が言われた箇所を開いて、見ると
二人の愛を記念して
1996年10月14日
白壁 貢
明子
と、女性の達筆な字で書いてある。ただ、白壁貢と書いたのは本人らしく、字面が違っている。
省二郎は、何をどう語っていいのか窮した。理香の顔を見ると、うっすらと目が潤んでいる。
「白壁が詩集を読むなんて、思いもしなかったわ。まして、明子なんて、私どうしたらいいの・・・」
と、理香は言いながら弱々しく微笑み
「この一週間、泣きずめね」
と言って、無理に目をパチパチさせた。
「理香さん、僕はもう新橋の方へ行くけど、今夜マンションへ行っても良いかい。僕も僕なりに彼の持ち物を探してみたいんだ。違う人が見れば、また何か別の事でも判るかも知れないしね」
「ええどうぞ。私の方からお願いするわ。今頼れるのは省二郎さんだけだから」
理香はそう言って、目頭を軽く押さえた。
鮮やかなスカーレット色のマニュキアと、閃光を繰り返す大粒のイエローサファイアが自分を囚えて、何処か遠くへ駆り立てて行くかのような、奇妙な錯覚を省二郎は感じた。
不吉な感覚だった。
省二郎は理香との約束を大幅に遅れて、彼女のマンションに着いた時には九時近かった。
理香は焦げ茶色のワンピースに、白いカーディガンを羽織って省二郎を出迎え、友達がいるから、と断った。
「友達?」
「怖いから、月曜日から来て頂いているの。高校の時からのお友達」
そう言って、大柄な女性を省二郎に紹介した。
久松和枝、と名乗ったその女性は、ショートカットに切った髪を片手に添えて挨拶し
「お邪魔にならないように致しますから・・・」
と言って、ダイニングキッチンの椅子に座った。
マンションは八畳の和室、それに八畳と十二畳の洋間、その他に十畳と十二畳の居間とダイニングキッチンが繋がった部屋という間取りになっている。
八畳の洋間が、書斎と応接室を兼ねた部屋になっていて、省二郎も二−三度その部屋で白壁と話をした事がある。その部屋へ、省二郎は案内された。
「主人の物といっても、殆ど衣類ですかどー―」
省二郎は頷きながら腰を下ろした。
理香が昼間、白壁商会に持って来ていた本二冊と一枚の写真が,テーブルの上に並べてある。
和枝がコーヒーをいれて持って来て、二人の前に置いてから
「煙草はお吸いになります?」
と、聞いた。
省二郎が煙草は吸わない、と伝えると、和枝は猫を抱いて出て行った。
それを確かめてから、省二郎は理香に
「ここまで来ると僕もなり振り構っていられないから、失礼な事を聞かなくちゃならない。・・・気を悪くしないで欲しい」
と事務的に告げて、手帳を取り出した。
その真新しい黒革の手帳には
1 白壁と理香との出会い
その時期と場所、その理由
十三日、あるいは十四日、十二日の白壁の行動
2 銀行などの預貯金、及び不動産などの資産関係
3 白壁が見ていた、最後のニュース番組の内容
4 昨年十二月初旬から中旬にかけて
新しく会った人物 行った場所 変わった言動
5 白壁の持ち物で
減った物 増えた物
6 運転免許証に関して
時々運転していたというが・・・
7 手紙、通信
古くてもいいから、何か無いのか
8 携帯とパソコン
メールの確認 履歴
9 旅行、出張
この一年、行った場所 同行した人
と、九項目にわたって記載されていた。
それが、今の段階で、省二郎が理香に訊き出せる全てであるといえた。
省二郎は理香に、各項目を丹念に尋ねた。時には問い糾すような具合になって、理香に恨みがましい視線を浴びたが、省二郎はきわめて事務的に対応した。
理香は、白壁との出会いについて
「三年と五ヶ月前だわ」
と言った。
すなわち、平成十年九月、里香の勤務先であるロイヤルリバーヂという業務用化粧品メーカーの新宿支店に、白壁が取引以来のために来社し、知り合ったという。
一緒に住むようになったのは、翌年の六月だったと言う。
「私、のぼせちゃって」
と、理香は笑った。
「だって、あんな風でしょう。母性本能っていうのかな、放っておけなくって―― 式も挙げないでって、実家は大変だったのよ。父がアパートまで来て」
「アパート?」
「初めは常盤台の名東荘っていうアパートだったの。このマンションを買ったのは、私が押しかけてから一ヶ月ほどしてからね」
理香は驚いた、と言った。会社の立派さと住居の薄汚さの落差に
「私、驚いたわ。だけど」
だけど、もっと驚いたという。
「だって、一ヶ月もしないのに、こんな凄いマンション買っちゃうんですものー―」
省二郎はアパートの住所を手帳に控え、質問を重ねた。
「十三日の日も、その前の日も別段変わったことなど無かったと思うわ」
「彼の言動だけじゃなくて、里香さんの身の回りの事でも何でもいいから、変わった事はなかったかい?」
ない、という。
省二郎は資産関係に質問を変えた。
「私名義の貯金が千八百万円。それも白壁が、何か特別な出費の時使うようにって渡してくれた物だから、彼の物と言えばそうなんだけどね。私個人のものなんて、四百万円もないわ。後は会社のだけよ。だって、私、彼の通帳なんて知らないもの」
会社のお金というのは、省二郎が指示をして定期口座に入れ、会社の法人化に備えて預金担保で動かしている会社としてのお金のことで、口座には三千万円入金になっている。その名義は。白壁商会代表、安藤理香になっている。
それと、売掛け残が六千万円ほど。
他はこのマンションだけだという。
「現金で買ったの。五千万以上したのよ」
「理香さんの名義になっているね?」
「ええ、白壁がそうしようって言ったの・・・私その頃、白壁のこと余り知らなくてー―」
「だけど、知り合って一年ほどで八千万円を里香さんに呉れたと同じ事だもんね。何か、引っかかるんだ。税金なんかどう処理したの?」
「うーん。白壁がね、私を代表にするから、そのようにするんだって言ってたけど・・・税金だとか、余り私に聞かないでよ。省二郎さんがプロでしょう」
省二郎の質問は、次に移る。
「彼はNHKのニュースを見ていて、急に外へ出て行ったんだね?」
「そうだけど・・・」
正確ではないと言う。
「私、寝室で寝てたのよ。気が付いて起きたら七時近かったでしょう」
居間へ行くと白壁が彼女を見て、チャンネルを代えたのだと言う。
「それから、十分もしたら出て行ったのね。出て行った時にはニュースをやっていたから、そう言っているけど、本当に見ていたのは違うものじゃないのかな?」
そして思いついたように、理香は戸を開けて久松和枝に、十三日の新聞を持ってきて欲しいと頼んだ。
和枝が持って来た新聞のテレビ欄の、六時から七時までの番組をじっと見ていた理香が
「これだと思うわ」
と言って指をさすところには、教育番組で
―― 二十歳の主張
となっていて、六時からの一時間番組である。
省二郎はそれを控えてから、今度は出て行った時のニュース番組を聞いた。
「さあ、色いろやってるものね。一番の話題は荒川区の住都公団から出てきたコンクリート詰め女性変死体の事件だけど・・・埼玉で二人組みの強盗事件があったって、そんな事も言ってたんじゃないかなあ」
それも省二郎は手帳に書き止める。
省二郎の質問は次に移る。
「去年の十二月、初めから中頃にかけて、彼は、金銭的な事で人に会うとか、何か気になるような事を言ったことがない?」
省二郎そう言いながら、渋谷の貸金庫にある五千万円のお金の事が脳裏を掠める。
「十二月?」
理香は長い間考え込んでいたが、やがて反対に
「十二月に何かあった訳?」
と、問い返した。
「仕事に関する事でね、少し腑に落ちない事があるんだ」
「―― さあ」
理香は、全く心当たりがないと言う。
「次に」
と、省二郎は、白壁の持ち物について質問をした。
増えている物はないと思うが、減っている物は
「セーターね」
と言う。
「セーター?」
預かり物の黒いサマーセーターだという。
「白壁がね、去年の夏にお得意様から預かって来たのよ」
美容院が得意先になるため、時々植物とか動物とか不良在庫としか思えない帽子など、女性でないと理解しづらいようなおかしな物を預かる事があると言い、その時も黒い女物のセーターを預かって来て箱に入れてあったのだが、それがないと言う。
「預かり物だから、気になっていたのよ。それも、家に持って来て引き出しの中に入れてあったから・・・」
最初に見たのが最後、つまり一回しか見ていないのだが、去年の十月だと言う。白壁の持ち物を調べていて気が付いたのだと言う。
だから、返したのかも知れないが、とにかく判る範囲ではそれがない事は確かだと言う。
省二郎は続けた。
「運転免許証を彼は持っていたでしょう?」
「持っていたわ。一度違反をして捕まったもの」
だけど、中を見た事はないと言う。
省二郎は手帳に理香の言う要点を書き込みながら、次に、と言った。
「次に、手紙なんかの郵便物はどうなっているの?」
「手紙でしょう。この間から色いろ探すけど、ないのよ。―― 考えたんだけど、私、彼宛の手紙なんて一度も見た事ないわ」
そして首をすくめ
「私、白壁の事、何も知らないみたい」
と言って舌をちょっと出した。
「ダイレクトメールのような物は?」
「それはこちらから出すほうよ。白壁ったらそういう事が好きなのよね」
それは省二郎にも判る。業界紙などへの広告代も多すぎると、省二郎自身が注意を促したくらいである。
「そりゃあ、来る物も多いわよ。会社にはたくさん来るわ。でもあれは私の名前だし、それに、ほとんど美容院関係の・・・」
とそこまで言って、不意に表情を変え
「あっ」
と、省二郎の顔を見た。
「そうだ。アパートにいた時、成田の分譲住宅のパンフレットがたくさんあった。何とか台・・・」
しばらく考えて
「えっとね。タツミガオカよ、巽ヶ丘。冗談でここを買うかって言ってたから・・・あれ、何だったんでしょう?」
省二郎は携帯の事を尋ねた。
「二台持ってたと思う」
それが理香の意見だった。
いつも使っている物とは別に、もう一台を鞄に入れていつも持っていたんじゃないかな、と言う。
「メールの確認をしているのを見た事があるから、間違いないと思うわ」
番号は知らないと言う。
そして、パソコンは家にはないと言った。
「事務所のは先日調べたでしょう?」
確かに調べた。白壁のパソコンはセキュリティーが掛かっていないので、誰でもその気になれば見える状態だった。無防備というか、秘密のような事が何もないシンプルな、仕事関係だけの内容で、個人に関する情報は一切なかった。
「旅行とか出張とかは?」
「旅行?」
そう言って理香は、複雑な顔をした。
「どこにも行った事がないの。もう、白壁ったら、新婚旅行はハワイに行こうって用意してたのに、急に止めちゃって・・・あれ以来、何処かへ連れてってよって言っても笑うだけでー―」
「急に止めた?」
理香が言うには、一緒に住んだ当初は、結婚式なんかも話題になった事があると言い
「マンションだけ買って、後は何だか終わっちゃたって感じ」
だと言う。
「いつ?」
「九十九年の七月よ」
省二郎は視点を変えて訊いてみた。
「彼が一人で行った所は?」
「去年の夏、九州へ行ったわよ。省二郎さんも知っているでしょう?」
確かに、盆休みに郷里に帰って来たとかで、お土産のお菓子をもらった記憶がある。
「お母さんからだと言って、お菓子を頂いたわ。あれは確か、大分の椎茸を使ったお菓子だったわね。・・・あの頃からよ、白壁がすごく無口になって・・・」
「ああ、気味が悪いって言ってた事だね」
「ええ・・・でも、あのお菓子だって東京で売っているんでしょうね」
理香は本当に淋しそうにしょげ返って、額の髪を掻き揚げた。
省二郎は理香の語る要点を手帳に書き止めてから、白壁の持ち物を見せてもらった。
省二郎は、まずスーツのネームを調べてみた。
どれを見ても白壁、となっている中に、一着だけネームの無いのがあり、刺繍が剥がされた後がある。
浅井、とわずかに痕跡が読み取れる。
理香にそれを示すと
「お友達のじゃない。アパートも浅井さんっていうお友達のを借りていたもの」
会った事はないと言う。
他のセーターや類やスラックス等には、これといった物はない。
「下着も調べてみる?」
理香が首をすくめながら言った。
省二郎は次に書庫に納められている本を調べた。
本は雑多な種類で、これといって系統だって読んだという形跡は見当たらない。
小説は少なく、古典落語とかペンギンの生態とか、新書類が多そうな中に、美術全集だけが全巻揃っている。
「これ全部主人の、私のなんて三冊もないと思うわ。私、週刊誌しか読まないからー―」
「一緒になる前からのもあるんですね?」
「ええ、アパートにいた時は本が積んであっただけだけど、二−三十冊じゃなかったかしら?・・・だけど、私本なんて読まないもの」
省二郎はそれから里香と和枝に、本の間の狭雑物を探してくれるよう頼み、自分は本の表紙。裏表紙、あるいはその裏といった具合に、何か書き込まれているようなものを探した。
何もなかった。
時計を見ると、十二時近い。
その後も探したが、やはり何も見つからなかった。
省二郎の思惑は外れた。
しばらくして三人でお茶を飲んで雑談をし、テーブルの上に置いてある例の、本二冊と写真を借りて行く了承をもらって、省二郎は自分のマンションに帰った。
序章――その5 詩集
マンションに帰り着くと、既に二十一日の午前一時を回っていた。
省二郎は風呂の給湯器の蛇口を回し、タイマーをかけてから、スーツ姿のままセミダブルベッドに横になった。
―― 眠れそうもないな
内ポケットから手帳を取り出し、眺めてみると色んな事が書き込まれている。
浅井、名東荘、セーター、成田の分譲地、高校生の主張、二人組みの強盗、コンクリート詰め変死体・・・
―― 明子とは、白壁の妻の名か?
省二郎が物思い思いに耽っていると、タイマーが鳴った。
風呂で体を洗ってから、水割りを作り、ベッドの枕元に置いて少し飲んだ。そして、改めて例の、本二冊と写真を手に取った。
最初に「雲」副題「四国の山」という写真集を、1ページずつ見た。
山岳写真集と名付けてもいいような、山を背景にした雲が、様ざまな時間帯を狙って撮ってある。
次に真新しい本である、詩集「あおぞら」を開いてみた。
巻頭を飾る詩は、青空を見ている、と言う書き出しで始まっていた。
青空
青空を見ている
あなたの悲しさが わたしには分かる
傷を負う という意味が
わたしと同じように あなたにも分かっていたように
けれど自分にさえ 許されることのないあなたは
闇に向かう以外
他に何が 残されていたのだろう
―― あれから五年の歳月が流れたのか・・・
ひざを抱えている
あなたの淋しさが わたしには分かる
口を閉ざす という意味が
わたしと同じように あなたにも分かっていたように
なのに 伝えたいと願うわたしには
涙を流す以外
・・・ ・・・
・・・ ・・・
というような事が、書いてある。
省二郎は拾い読みをして、頭が痛くなるのを感じる。
省二郎は写真集は良いとしても、こういう感情を謳ったものが生来苦手である。
堀井の家系にしても、五年前に死んだ父親が化学会社の研究員、三鷹の兄が電力会社の原子力技師と、圧倒的に理系である。省二郎の愛読書と言えるものにしても、数学会がおおむね年四回発行している「数学」である。
本を閉じたかったが、そうもいかず、著者や発行元を探した。著者と思われるものは自筆で「ゆう子」としてあるだけで、後は何もない。どうも自費で愛蔵版を作った中の一冊らしかった。
署名に後に「2001年、5月」と書いてあるところをみると、五年の歳月が流れた、とは1996年になるが
―― 何があったのだろう?
本を閉じ、水割りを一息で飲み干し、スナップ写真を手に取った。
確かにそこには、笑顔でこちらを見ている白壁が写っている。
―― どこへ行ってしまったんだろう?
翌、日曜日は、自宅で仕事をした。
実際の打ち込みなんかは沢田博子がやってくれるのだが、それの点検と、全体の整合性やその会社会社の狙い、節税なのか借入れなのか、あるいは配当なのか、そういう点は省二郎でなければ判らない。
そのさじ加減に神経をすり減らすのが、この仕事であった。
仕事をしながら、電話が気になって仕方がない。三つの電話番号のうち、活きている二つの電話番号に朝から電話をしているのだが、都内の電話も誰も出ない。残りの電話、これは理香の言うように鎌倉局番だったが、これにも何度電話をしても誰も出ないのである。
今日、何の進展もなければ、明日には貸金庫の五千万円の事を里香に打ち明けて、善後策を取ろうと思っている。
時刻は三時を回った。
窓の外にはビルとビルとの間を山手線が走り、デパートの中段にある大型画面から春の化粧品のコマーシャルが流れている。
省二郎は机の上の電話を手にして万里子に連絡を入れた。
万里子は怒っていた。
「いやよ、私、今からじゃお友達も誘えないじゃない」
実は今日、夕方五時に赤坂の喫茶店で落ち合い、そのまま夕食を食べに行く事になっているのだ。
「申し訳ない。仕事なんだ」
「お仕事が忙しいのは判るわ。だけど、どうしても会いたいの・・・」
「明日じゃ駄目かい?」
「わたしー―」
と、万里子は言った。
「私、どうしても省二郎さんにお話があるの」
省二郎は、ああ、と思い出している。
二日前の夜中、マンションにいる時万里子から電話があって
「会いたい」
と言う。
省二郎は確定申告と白壁商会の事で頭も身体も精一杯であったため、省二郎の方から日曜日の夕方を指定したのだ。
「じゃあ、マンションの方でいいかい?食べるものはないけど・・・」
「いいわ、行く時、食事の用意を買って行きましょうか?」
「ありがとう、助かるよ」
「じゃあ、何か買って行きます。いつものように豆腐のお味噌汁とご飯のメニューでいい?」
「うん、じゃあ電話を切るよ」
受話器を置いてしばらく考え、もう一度受話器を取り上げ鎌倉へ電話を入れた。
これで駄目なら、いよいよ理香に五千万円のことを話し、警察に勤める友人に協力を求めなければならない。
呼び出し音が聞こえるが、今までと同様、相手は出ない。これが最後なんだが、と思うのだが、相手がいないのではどうしようもない。
切ろう、とすると、相手が受話器を取り上げる音がした。
「もしもし・・・もしもし・・・」
返事がない。
「もしもし、私、堀井と申しますが・・・」
省二郎はその時、不意に、背筋に冷たい凍てつくものを感じた。
目に見えない相手は、ゆっくりとした、低い声で言った。
「・・・私は、西岡だが・・・」
地獄からの声だった。
第1章――見つめ合う二人
第1章――その1 西岡
井原警部は、自分の直属の部下である吉田刑事が好きになれなかった。自分が指示した事と、微妙に違った形で捜査を進める。その微妙さが、鼻についてならない。
微妙さは、その生き方というか、人生への態度の差が表れたものであり、判りながらする行為というものだから、口で言って直るというような性質のものではない。
それが、社会における犯罪という出来事に対する認識の差異となって表面化し、具体的には被疑者への接し方、あるいは調書の取り方や表現方法となって井原を不快にさせるのだった。
吉田刑事には社会的な視点が欠けていると、井原は思う。
確かに吉田刑事は本年とって五十二歳と、自分より八歳年上であり、捜査畑も長く、ひとつの目標に向かっての執念は脱帽する場合もままある。
しかしそれは、あくまでひとつの目標が定められた場合であって、それは結果として先入観に支配される事をも意味するのであると、井原は思っている。
今日は昨年十一月初旬に起きた、連続強盗強姦事件を先週金曜日に送検し、ここ二−三日事件らしい事件もないので早く帰ろうと思っている。
次女のまさみの大学受験も迫っており、たまには早く帰って神経の尖っている妻の多加美の話し相手になって、ゆっくりしようと思っている。
それが、三時頃から始めた書類などの整理が以外に手間取り、終わった時にはもう六時になってしまっていた。
井原は窓の外に広がる雑踏を、放心したように眺めた。
大都会の夜の光彩の中を、車のライトが点滅し、ガードの上を列車が走っている。歩道を行き交う無量の人々――。彼方に見える首都高速の橋脚が、そのシルエットを浮かび上がらせて、沈々としている。
ポケットからマイルドセブンを一本取り出して口に咥え、百円ライターで火を点ける仕草をした。ここで吸うわけにはいかない。六年前に庁舎が新築されてから、世間の禁煙ブームに押される形で庁内に喫煙所が設けられ、そこ以外では吸ってはいけない事になった。
口に咥えるだけで満足し、一日が終わった充足感が身体に広がる。
井原が帰ろうとして、煙草とライターを引き出しにしまい込んだ時、右奥のドアーがギッと開き、ダークグレーのスーツに身を包んだ一人の男が入って来た。
男は辺りを見回し、カウンターからは遠かったが、一番暇そうにしている様子の井原に向かって頭を下げた。
井原は男と目が合った事を後悔したが、諦めて、男に対応するためカウンターに向かった。警部と言う立場なので、窓口対応などはほとんどした事がないが、回りを見ても自分しかいないようであったし、他の刑事が面白そうに見ている事も、少し影響した。
男は目つきが暗いというか、井原のような職業人から見れば何をしでかすか判らないような曖昧さを湛えており、声が低かった。顎にかなり目立つ形で深そうな切り傷がある。
「殺人はこちらで扱っているとお聞きしましたが・・・」
と、男は立ったまま言った。
「そうです。しかしその前に、そちらの椅子にお座り下さい」
井原はそう言ってカウンターに続く相談者窓口用のカウンターを指でさし、自分もそちらへ移動した。
「殺人という事ですが、その前にあなたの名前と住所をお願いします」
井原は、殺人と聞いて身構えたが、何気なさを装い、きわめて事務的な口調で尋ねた。その方が相手が喋る、という事を知っているのだ。
男は、住所を岩手県宮古市佐原×××と言い、名は
「西岡為三と言います」
と言った。
「その宮古の方が、わざわざ東京まで出て来たというわけですか?」
西岡はテーブルの上に名刺を置いて
「宮古というのは住民票が置いてある、という意味で、今は実際には住んでいません。仕事を東京の方でやっている関係で、鎌倉に住んでいます」
と、一語一語ゆっくりと言った。
井原は淡々と西岡の言うことをメモりながら、手元に置かれた名刺を手に取った。
名刺には
―― 株式会社 ニシオカ 代表取締役 西岡為三
となっており、会社の住所は、東京都千代田区内神田三××× レッドストーンビル三一六号室となっている。
西岡は、友人の会社社長、白壁貢が同社の経理を一手にしている堀井省二郎に殺されたと思われる、と語った。
「どうしてそう思われる訳ですか?」
「私と西岡君とは・・・」
と、西岡はそれが癖なのか、ゆっくりと、まるで相手を説得するかのように話す。
西岡が言うには、二人は七年前まで関西の方で一緒に仕事をしていたのだが、その後お互い東京に出て来て、あまり会う事もなく、別々に会社を立ち上げて現在に至っている、という事だった。
「しかし昨年の十二月初め、久しぶりに彼から連絡があり五千万円を借りたいと言うのです」
「五千万円とは大金ですねー―」
「ええ、その理由と言うのが、経理を預けてある堀井省二郎という男が、新たにオルフェという会社とに間で特約店契約を結びたがっている、というものでした」
オルフェとは、という井原に質問に西岡は白壁商会とオルフェとの仕事関係を話してから
「私は反対しました。営業の事が判るはずもない経理畑の人間の言うがままにしている白壁君に、強く注意をしたんです。しかし、たっての彼の頼みでしたので、現金で五千万円を彼に都合したのです」
「・・・」
「その彼が、この十三日の夜から消えてしまったんです」
「十三日の夜というと、連休の頭の日だなあ、土曜日だ」
「そうなんです。そして内妻の理香さんが言うには、七時を少し過ぎていたらしいんですがそれっ切り消息がないんです」
「事故という事はないんでしょうか?」
「理香さんはその点も充分確かめたそうです。刑事さん、私は独自に堀井の回りを調べたのですが、例のオルフェとの契約もまだなされていません。そればかりじゃありません、私は本当に驚いているのですが、里香さんは五千万円の事など知らないと言うのです。そんなお金はどこにもないと言うのですよ」
「と、いう事は、その堀井省二郎なる人物が五千万円を横領したと・・・」
「決まっています。そうとしか考えられないではないですか」
と言って、西岡は井原の顔をじっと見た。そして
「堀井は五千万円を横領したばかりか、白壁君を殺害し、その後には白壁商会を乗っ取ろうと画策しているのです」
「・・・」
「いいですか、会計事務所といえば今が一年で一番忙しい時だといいます。それが、堀井は本来の自分の仕事もせず、毎日白壁商会へ顔を出しています。それが何を意味するか、判りますか?」
「・・・」
「理香さんや会社の動きを監視しているに決まっています。そうは思いませんか?」
「まあ、しかし、殺されたとは穏やかではありませんが、何か確かな証拠でもあるんですか?」
「それはありません」
と、西岡は断定的に言い
「しかし、私が間違っているとは思えません」
だから明日にでも堀井と会って確かめる、と言う。
「会うのはご自由です。しかし、どう言っていいか・・・要するに、このような場合、西岡さんが確信を持てば持つほど会わない方がいいと言えます。私としては色んな関係者の方から詳しい話を聞いて、その上で最終的に堀井さんという方からお話を聞く、という形で進めたいわけですがね」
西岡為三は、それでも自分は堀井を許せない気持ちでいっぱいである、と言い、捜査の邪魔になるような事はせず、何食わぬ顔で明日は堀井に会う、と言う。
井原が、早速警察としても内定に入るが、その前に白壁貢の内妻、安藤理香に会いたいというと
「今日、一緒に来たかったのですが、彼女の都合がつかったのです。ですから、彼女と連絡が付き次第どうするか決めて、こちらに連絡をする事にします」
西岡はそう言って、井原の名前と連絡先を聞いた。井原は西岡の携帯番号を控え、代わりに自分の名刺の裏に直通電話の番号を書いて渡し、混乱するので当分の間は自分だけを窓口にするようにと言った。
そうして、西岡は帰って行った。
井原はスッキリしなかった。
普通、知人が殺されたというだけでも、何を差し置いてもその為に飛び回る。それが、安藤理香は妻ではなく内縁関係だとはいうものの、所用があって来られないという。
井原は妙に疲れていた。
西岡為三という、瞳を動かすことなく、低い声で一言一言語る人物に、見かけと同じ油断のならないものを感じて身構えていたせいかも知れなかった。
時計を見ると七時を回っている。今日も家に着くのは八時過ぎになりそうだった。
さて、井原に会った後、渋谷署を出た男の動きを追ってみよう。
男は署を出るとそのまま携帯を耳に当て、誰かとなにやら話しながらJR渋谷駅の構内を通り抜け、道玄坂に出て左に曲がりコインパーキングに入った。そして携帯を切り、そこに駐車してある一台の車に近寄り、助手席に乗り込む。
隣の運転席には一人の男がいて、眼鏡が光っていた。そうして二人で何かを長い間話し込んでいた。一時間ほどすると、その男はまた車を出て駐車場の陰へ行き携帯を取り出した。どこかへ電話している。やがて相手が出たのか、男はもしもしと言った。
「もしもし、安藤理香さんのお宅でしょうか?」
男は、確かにそう言った。
第1章――その2 英二
井原が西新井の駅を降りて、自宅に向かっている頃の事である。
夜八時過ぎに夕食をしていると、静かに電話は鳴った。
後々、佐橋刑事にそのときの状況を聞かれる度、理香は
「電話は、静かに鳴りました」
と、その印象を語っているが、見方によってはそれほど理香の心に沁みこんで麻痺させてしまうような電話の内容であったといえる。
電話の第一声は
「安藤さんのお宅でしょうか?」
と言う、低い声で始まった。
用件を問う理香に
「私は白壁君の友人で、西岡といいます。ご主人の事で至急、今からお会いしたい」
と、その西岡と名乗る男は言い、渋る理香に白壁失踪とそれ以後の展開を考える時、誘導線になったとしか思えない内容を、ひとつひとつ話したのだ。
理香の不安とは、それを信じて良いのかどうか、という不安ではない。その不安はすぐ無くなった。そうではなく、内容が理香の意表を衝き、今まで当然と思っていた事を根底から覆す内容なのである。
西岡は明日、渋谷署の井原警部を二人で訪ねましょう、と言う。そして、それまではあなたを監視している堀井に絶対連絡を取ってはいけません、と言い
「私が言っているのではありません。警部の言伝です。ですから明日、警部が一緒に来るように言っているんです」
と言うのである。
―― まさか?
沈黙を守る理香に、その男は言う。
「白壁君の実家への連絡は終わっていますか?」
「えっ」
と理香が小声で驚きの声を上げると、その動揺を見透かしたように続けた。
「もしまだなら、住所と電話番号を教えますから、あなたから今すぐ連絡をして下さい」
そして、白壁の実家だという住所と電話番号を言い
「二十分もしたらまた電話をしますから、それまでに九州の方へは連絡をしておいて下さい。今からそちらへ向かいますが、あなたに知ってもらわなければならない事がまだ沢山あるんですよ」
理香の驚きはその辺りから始まった。まさかこんな形で、どう探しても手掛かりすら掴めなかった白壁の身元が判るとは思いもしなかった。
―― 嘘かも知れない
理香と和枝は五分ほどためらった挙句、恐る恐る言われた電話番号のボタンを押した。すると
「はい、白壁でございます」
と、若い女の声で言うではないか。理香はどぎまぎしながら言った。
「・・・あのう、貢さんはそちらにおいででしょうか?・・・あっ私、東京の安藤と申しますが・・・」
すると、相手が変わって
「はあ、何ですかいのう?」
と、年老いた女性の声に代わった。理香が同じように、東京の安藤だと言うと
「あたしゃ貢の母じゃがのう、貢に何かありましたかいのう?」
と言う。
「・・・いいえ、貢さんがそちらに行っていないかと思いまして・・・」
「貢が?・・・さあなあ、英二がな今組合にいっちゅうで、あたしゃ詳しゅう判らん。嫁にでも聞いてみようで・・・」
話をしていると、英二というのは貢の弟らしく、電話の向こうで時々子供を叱っているのが先ほど電話に出た「嫁」という事になるらしかった。
「貢んやつなあ、去年帰ってきよってなあ、それっ切り便りのなかよ」
理香は話をしながら自分の精神が均衡を崩し、ぼろぼろと欠けていくような感触を味わっていた。西岡から電話があって、まだ十分も経っていないのだ。
母親は英二が帰ってきたら電話をさせると言って、電話番号を理香に聞き
「じゃあ、おやすみ」
と言って電話を切ろうとした。
理香は自分でも驚くような素早さで
「お母さん」
と、呼び止めた。
「あの、ありがとうございました。去年、お土産いただいてー―」
「ああ、なんか土産がほしか言うけん組合でこうて来たんよ」
理香の動揺は頂点に達していた。
電話を切ってから和枝と相談をしたが、余りに急な事で思案がまとまらない。省二郎さんに電話をした方が良いのか、先ほどの男を待った方が良いのか
―― どうしよう?
そうこうする内に、又、電話が鳴った。
―― 西岡さんだ!
呼び出し音が肺腑をえぐる
―― 決断しなきゃ
と思っていると、和枝が電話のディスプレイを見て、大分だわと言った。そしてそのまま電話に出て、理香に
「英二さんだって」
と言った。
ほっとしながら受話器を受け取ると
「あんたが理香さんね」
と、英二の第一声が耳に入った。
「兄貴がえろう世話になっているち、言いよったが、あんたね?」
英二はぶっきらぼうで飾り気が無く、遠慮の無い話し方をした。
「兄貴があんたさんと結婚するっち言いよったが、どないなったんかいの? そんときゃ東京見物じゃと飾ったこと言いよったが」
理香はどうして良いのか、頭の中が全くの空白状態になってしまった。しかし、詰まりながら、思い切って聞いてみた。というか、呟いた。
「・・・でも、明子さんが・・・」
「おう、おう、明子しゃんなあ。あん娘もどげんなったとやろ? しかあ、もう籍やら入っとらんやろ? 逃げてから六年にも七年にもなるしのう」
話の一つひとつが、理香にとっては今までの謎を解いていくように思えた。何だそんな事だったのか、と思える気がした。新たな謎がどんどん増えているとは、思いもしなかった。
結局、十時過ぎには、理香は応接室で西岡と対面していた。
西岡の語る話の内容は、理香を、驚きから恐れへと変えていくものだった。
西岡はゆっくりと語った。
「堀井は白壁君を殺したんです」
―― 嘘だわ
「今のまま行けば、今度はあなたの番でしょう」
―― まさか
「堀井君は五千万円を着服している」
―― 間違いだわ
「明後日には二千万万円の保証金が要ることを、あなたは知っていますか?」
―― 知っているわよ
「その手当てはどうなっています?」
―― 知らないわ
「明日、とにかく井原警部に会って、事情を話しましょう」
―― それは良いけど
「それまでは堀井に会っても、何食わぬ顔でいて下さい。証拠を隠すかも知れないし、一人殺しているとなると、何をするか判りませんからね」
―― そんな事、出来るかしら?
理香はどうして良いか判らず、呟いた。
「・・・でも、省二郎さんはそんな人じゃあないと思う・・・」
弱々しい理香の反論に、瞳を見詰めて西岡は、あなた、と言う。
「あなた、命が惜しくないの?」
「・・・」
「殺されるかも知れないのよ」
「・・・」
標的にされている省二郎の知らないところで、照準は確実に絞られつつあった。
第1章――その3 スポイド
堀井省二郎は、今年になってからプライベートことばかりで悩んでいる自分の事を思うと、何だか厭になってしまっていた。
白壁の失踪の件が片付きかけたと思ったら、今度は万里子が妊娠したというのだ。
一昨日の日曜の夜、万里子の手料理でご飯に味噌汁、それにハンバーグというメニューで食事をしている時
「わたし、子供が出来たようなのー―」
と言って、省二郎を驚かせたのだ。
その事で万里子は幾度も自分に会いたがっていたのか、と納得したが、納得で済む問題ではなかった。
しかし、翌日の朝には省二郎は決心していた。
―― 確定申告が終わった後の、三月には式を挙げよう
それまでの二ヶ月間に、自分の母に万里子を紹介したり、万里子の両親に承諾をもらったりしなければならない。面倒で億劫だが、万里子のためにも、生まれてくる子供のためにもしなければならない。
とにかく今日、火曜日の夜には白壁とも連絡が付くというし、何だかこの頃の理由の判らない、気塞がりな状態ももう終わるだろう。
そう思って、昨日夜、日付さえ入れなければ午前中にオーダーすると夕方には出来上がるという、松坂屋のテナントの宝飾店で、婚約指輪を万里子のために買った。三十二万円の余り大きくないダイヤが散りばめられたブルーサファイアだ。
時計を見ると五時半だった。
アシスタントの沢田博子が、顧客別に確定申告の用紙を確認しながら、有本会計事務所と書かれたグレーの封筒に入れている。
ここしばらく彼女の機嫌が悪いのは、仕事に追われて帰宅が遅くなっているのが理由ではなく、省二郎自身に責任がある。
所長から許可をもらっているからといって、この時期、一週間も午後にならないと出社しない省二郎を不快に思っているからなのだ。
そればかりではない。省二郎には珍しく、指示する事が的を得ず、重複したりする事が多いのである。
実は今日も、渋谷セルリアンタワーで、先日の電話の相手である西岡という人物に会うため、もう事務所を出ないと間に合わないのだった。
先日、西岡に今の状態を色いろと話した。初めて白壁を知っている人間に出会って、ほっとした事もあって、問われるままに色いろな事を話した。その後も西岡は不明な点があると、時々電話をして来ては省二郎から色んな事を聞きだした。
西岡は白壁と思ったよりも親しいらしく、五千万円を省二郎が持っている事まで知っていて、それは自分が貸したものだと言った。
そして今日がその待ち合わせの日なのだ。
省二郎は沢田博子の機嫌が悪い事に気が付かない振りをして、所用があるからと断り、目印である有本会計事務所の大型封筒を片手に、昨年完成したばかりのセルリアンタワーの東急ホテルロビーに向かった。
ホテルに着いたのは、約束の六時半より少し早かった。
ロビーで座る所を探していると、黒っぽいコートを小脇に抱えた男が人ごみの中から省二郎を見定め、ゆっくりと立ち上がった。
喫茶フロアーに座ると、男はカフェオーレを注文し
「私が西岡です」
と言って、省二郎と名刺を交換した。
省二郎は西岡と名乗る男が電話で想像していたのとは違い、どこにでもいるような中年の男なのに驚いた。実は声からして、暴力団の関係者かも知れないと思って少しは警戒していたのだが、目の前に座った男は二流銀行の支店長というのが一番ぴったりのイメージを持った男なのだ。
ただ広い胸幅と、顎に大きな傷がある事が印象的だった。
省二郎は尋ねた。
「早速ですが、白壁さんは奥さんと一緒にいるという事ですが?」
「そうです。明子さんと一緒に九州にいます」
「九州・・・?」
「ええ、彼の実家が大分の日田近くの山村なんですが、そちらで明子さんと別れるとか別れないとか、複雑な話をしているようですよ。私たち第三者にはなかなか内容が判らない。だからこうして心配しているわけです」
「しかし、今日で十一日目です。何らかの連絡があっても良いと思うのですが・・・」
濃紺の制服を着たウエイトレスが、省二郎の前にコーヒーを置き、西岡の前にカフェオーレを置いて立ち去った。
省二郎は続ける。
「仕事の事でも明後日大きな契約があって、私としてはずいぶん困っています」
「聞いています。オルフェとかの契約でしょう。白壁君は有本さんに任せるから、どんどん進めてくれと言っておりましたよ」
「・・・西岡さんを責める訳ではありませんが・・・しかし、私になり直接連絡くらいしてくれても・・・」
西岡は省二郎の言葉を聞くと、口に運んでいたカフェオーレを一口飲んでテーブルに戻し、言った。
「白壁君はこちらで安藤理香さんと住んでおられる。そうですね」
「ええ、そうです」
省二郎はそう言いながら、借りた本と写真を返した時の、今朝の理香のよそよそしい態度を思い出した。和枝も一緒にいたのに、何だか、省二郎から逃げようとする気配だったが・・・
「聞くところによると、今度は会社を法人化するとかー―」
「まあ・・・」
「結局、白壁君は明子さんとの事を清算して、理香さんと正式な夫婦になりたかった。それには今回のように会社の法人化といったような、何らかのきっかけが欲しかったのではないでしょうか?」
そう言ってカフェオーレを飲んでから、また続けた。
「良いきっかけだと思って白壁君は実家に帰ったのですが、別れ話がもつれてしまった、という訳です」
西岡は顔を綻ばせた。
「すると、今日、白壁さんはここへは来ないのですね?」
「先日も言ったように、今夜彼と連絡が付くだけです。ですから、その時にはあなたも早く帰るよう、強く言ってやって下さい」
しかし、と省二郎は思う。
―― この違和感はどうした事だろう
「西岡さん」
省二郎は意を決したように、ストレートに言った。
「西岡さん、例えそれが理由であったとしても、何故、理香さんにも私にも、一本の電話も入らないのでしょう? 言いづらいなら、メールをくれても良いはずだ。くどいようですが、今日で十一日目です。私は白壁さんの身に、何か不測の事態が起きたように思えるんです」
それを聞くと、西岡はさも不思議そうな顔をして言う。
「男と女の問題は、切羽詰ったら常識の世界で考えてはいけません。堀井さんにも、ましてや理香さんにさえ彼は明子さんの事を内密にしていた訳でしょう。
それは、その問題が、彼にとってはそれだけ複雑で、抜き差しならない問題であるわけです」
「・・・」
「白壁君は電話一つ掛けられないほど悩んでいるのです」
しかし、と省二郎の理性は思う。いかなる理由であれ、十一日間の不在は異常であるとー―
「とにかく、九時半にならないと連絡が取れません。あと二時間ほどあります。ま、それまで、その辺りで食事でもしていましょう」
そう言って西岡が、癖なのかあらぬ所に投げていた視線を省二郎に戻し、上目遣いに覗き見た時、省二郎は不意に
―― この男をどこかで見た事がある
そう思った。
セルリアンタワーは予約客でいっぱいの為、タワーを出て、近くの天麩羅屋「おか」の大きな暖簾をくぐった時は、七時半だった。
客が立て込んでいた為、二人はカウンターの一番奥、つまりこの店の大将の前に座りビールを飲んだ。
注文した天麩羅の盛り合わせが来ると、西岡は
「酒にしますか」
と省二郎に言い、返事も待たずに
「熱燗、二本」
と、珍しく大きな声で言った。
西岡はいける口らしく、コップでグイッグイッと飲み、省二郎にも勧めた。
省二郎も同じようなペースで飲んだ。
飲み始めたら二升飲んでもなお余りある省二郎とすれば、苦手なお猪口でなくて助かったくらいである。
酒豪といえる省二郎は、半年ほど前も三鷹で親族の集まりがあった時、二時間もしない間に一升瓶を空にしてしまい、理香を驚かせた事がある。
西岡も平然として飲んでいる。
お互い差し障りのない話を交わして飲んでいると、九時近くなって客が少なくなり始めたのか、目の前の親父が
「お客さん、テレビかけても良いかね?」
と聞いた。
「テレビ?」
そんもの、どこにもない。
すると親父がカウンターの下から、年代物のポータブルテレビを取り出し、カウンターの横に置いて、へへっと苦笑いをした。
テレビが省二郎たちの斜め前にあることになる。
スイッチを入れると、九時直前のニュースが流れた。
今日の朝から繰り返し話題になっている、雪印の牛肉偽装事件を伝えていたが、親父の興味はその後すぐに始まった「黄河特集」にあった。
「いやね、うちの奴が中国へ行ってから、俺まで興味持っちゃてさ」
親父が言うには、自分の妻が五年前に中国へ行ってから、その方面で活動し始め、今では自分まで活動に参加しているので今日のテレビを見るのが勉強なのだと言う。
省二郎はちょっと興味を持った。万里子が
「わたし、新婚旅行はシルクロードに行きたかったな」
と、一昨日の夕食の時、言っていたからだ。
妊娠したため、もう行けなくなってしまった新婚旅行を、万里子に代わって見ても良いと思った。
親父と省二郎が、水量が少ない黄河を映しているテレビを見て話をしていると、西岡が
「殺伐とした風景だ」
と、唐突に言った。
親父が、それは緑が少ないせいであり、自分が活動しているのは、実はその為の植樹運動なんだと自慢そうに言った。
そうすると西岡は、ああそうか、といった風に頷き
「砂漠や土漠の緑化技術は、日本が一番進んでいるからね」
と、独り言のようにして言った。
あと十分もしたら九時半である。
省二郎は時間を確かめ、トイレに立った。
省二郎がトイレに消えると、西岡は上着の内ポケットに手を入れ、鰐皮の印鑑ケースを取り出して膝の上に置いた。
ぱちり、と開けると、中には印鑑ではなくスポイドが入っており、紫に濁った液体が詰まっていた。
第1章――その4 スコップ
省二郎は自分がどこにいるのか、判らなかった。
何時なんだろうと、習慣的に思った。夢うつつの状態は、しかし長くは続かなかった。
車の中でシートを倒し、寝ている自分に気づいて愕然とした。
アイドリングをしている車はヒーターが利きすぎて、鼻の奥から頭の芯までかさかさで痛かった。
「・・・?!」
車から外へ飛び出し、回りを見ると松林の中である。朝陽が松林を通して、切れ切れに射し込んでいる。
―― 何処なんだ? どうしたんだ?・・・
背後にゴルフ練習場のネットが大きく見える。
時計を見ると、九時少し前である。
携帯を入れているいつものセカンドバッグが無い。
省二郎は横の車を見て自分のソアラである事を確かめてから車に乗り込み、十五メートルほど離れている道路に出て、右にハンドルを取り、一気に進んだ。
一方通行に道を反対に走っている。
ゴルフ練習場の事務所の前にケーキ屋があり、公衆電話がある。店はまだ開いていないが、店頭をエプロンをした女性が箒で掃いていた。その女性に
「ここは何処です?」
と尋ねると
「仙川だけど、つつじヶ丘に近い・・・あなた目が真っ赤よ」
と、省二郎の身体を心配した言い方をした。
「・・・仙川?」
省二郎は府中へ行く時に通る、甲州街道の右に広がっているゴルフ練習場の鮮やかなグリーンのネットを思い出し、自分の現在地を確認した。
とにかく会社へ電話を入れようとして、財布を探したが、無い。セカンドバッグも仕事の鞄も、何もない。ただ助手席に、部屋の鍵が転がっている。
「・・・?」
省二郎は渋谷のマンションへ猛スピードで車を走らせた。走らせながら色いろ考える。
玉川通りは相変わらず混んでいる。
―― 何故あんなに酔ったんだ? しかも、朝起きたら仙川の車の中。くるま?
昨日は車をマンションに置いて来たはずだ。それが、何故?・・・何故?
―― という事は、昨夜あれからマンションに戻ってソアラを持ち出した、という事になるが・・・馬鹿な!
省二郎は、あの一見ボンヤリと、遠くを見ているような西岡の顔を思い出していた。
―― あの男に、何かされたんだ
その点は確かだと思ったが、何をされたのか、それは判らなかった。
マンションに着いて、駐車場に車を放り込んで部屋へ駆け戻った。凍えるような冷たいシャワーを浴び、鏡で自分の顔を見てみた。
顔は猜疑心と不安で激しく歪み、なるほど、女性が言っていたように目が真っ赤に充血している。
昨夜、西岡と天麩羅屋で飲んでいて、九時半になった時、西岡が
「白壁君からもう電話が入るでしょう。どこか静かな所へ行きましょうか?」
と言った。
その頃からだった。急に酔いの自覚が省二郎を襲ってきて、抵抗する気力がなくなり、言うがままにタクシーに乗ったところで記憶が途切れる。
気が付いたらこの有様だ。
―― あれはタクシーだったのか?
省二郎はそれでも会社に電話を入れ、午前中は事務所へ行けない事を告げ、冷ややかな沢田博子の声を耳に残して電話を切った。
電話を切りながら室内に視線を走らせ、自分の財布と携帯がベッドの上に転がっている事を確かめた。
省二郎は、自分の置かれている状況の全貌が判らなかった。
しかし、省二郎の鋭い頭脳は自分の回りで何かが起こり始めている事を告げ、しかもそれは緊急を要すると告げていた。
財布を手に取ると、中身が何もない。カード類もなければ、昨夜の西岡の名刺もない。
携帯はごく普通だ。着信履歴を見ると、昨夜遅く万里子から一回、そして今日会社から二回。メールは万里子から連絡が欲しいというのが一回、沢田博子から出社するのかと言う問い合わせが一回。
省二郎は服を着替えてから旅行用のバッグを取り出し、着替えを放り込み、通帳と印鑑を持ち、パスポートをねじ込み、貸金庫の鍵をサイドポケットに押し込み、携帯を握り締めてソアラに戻った。
車を発進させながら、携帯で理香に連絡をしようとしたが理香の携帯が繋がらない。白壁商会に電話を入れて理香を呼んでもらおうとしたが、出社していないと言う。自宅も、誰も出ない。
至急連絡を、とメールを流す。
その間も理香のマンションに向かって車を走らす。二十分で着く。しかし一階のフロント部分からはセキュリティーが掛かっていて、入れない。郵便などの受付を見ると昨日の夕刊と今日の朝刊が突っ込んだままになっている。
―― 昨日の昼間からどこかへ行った?
省二郎の頭はフル回転している。
―― 理香が危ない
理由も何も無い。動物だけが持つ危険察知能力のようなもが、省二郎の神経をびりびり刺激するのだ。
―― 和枝とは高校の同級生だと言った。白亜常葉女学園だった・・・
そのころ、当の理香は西岡と一緒に井原警部の前に座っているのだが、省二郎は知らない。
白壁商会に行くと、昨日の昼過ぎから理香は具合が悪くなって今日も休みだという。二〇分ほどいて、理香から連絡があったら自分に必ず電話を入れるよう命令した。次にはガソリンを入れる為にスタンドに戻りながら、学生時代の友人である黒田に電話を入れる。
黒田は今、新潟県警に勤めている。一応キャリアと呼ばれる立場で、先日の新年会のとき警部だか警部補だとか言っていたようだ。
その黒田は
「お前か、久しぶりだな」
と言った後、省二郎からざっとした話を聞き
「警察へ行け」
と言って、しかし、と付け加えた。
「お前一人が行っても埒はあかんな。意味が無いとは言わんが、何だ、その理香さんかい、その人と一緒に行って事情を話せば内定が始まるが・・・しかし、それも余り期待出来ないなあ」
「期待出来ないって、人一人がいなくなっちゃったんだぜ」
「一日何人の人間が消えていると思っているんだ。行方不明の人間のために警察は動かんよ」
「・・・」
「それよりお前、話の筋からするとお前がやばいぞ」
スタンドに着いたので電話を切った。そして、気が付いた。そういえば財布が空だ。カードも何もかも無い。
ユーターンして銀行に向かう。
今度は、やはりアイスホッケー時代の仲間の柴垣に電話を入れるため、柴垣が勤める菱洋証券に電話を入れた。
「何だ、省助か。お前の株は上がっているだろう。忙しいんだ、後にしろ。・・・
何、なんだって・・・」
柴垣は省二郎の言うことをちょっと聞いただけで
「判った。泊まりに来い」
と言い、省二郎が遅くなるかも知れない事を伝えると
「何時でもかまわん。寝てたら叩き起こしてくれ。女房?――気にするな」
と言ってから、自分の携帯番号を言い、今度からはこの番号に連絡するよう言った。
銀行に着き、通帳を全て解約した。四百六十万円ほどある。そして貸金庫から、五千万万円が詰まったアタッシュケースを持ち出した。
銀行から出てガソリンスタンドに向かいながら、万里子に連絡を入れる。
万里子は今日も怒っていた。
「またなの、この間もそうだったでしょう。近頃の省二郎さんて、おかしいわ。いつもその日になってからキャンセルなんだもの」
そう言ってから、小さな声で
「あやこ」
と言った。
「あやこ・・・?」
「糸偏の綾に、子供の子」
「なんだいそれ・・・」
と、途中まで言いかけてから
「ああ、綾子か・・・いい名前だ」
と、急いで付け加えた。
そういえば万里子は先日食事をしたとき、今度会う時までに私たちの子供の名前を考えるのだと言っていたのだが、そんなこと省二郎はすっかり忘れていた。
「土曜日には絶対よ。二ヵ月後には式を挙げなければならないんだから」
「ああ、お袋に行くって言ってあるからさ、じゃあ」
スタンドに着き、給油を始める。
洗車をするよう頼み、スタンドの脇で電話を続ける。
省二郎は有本会計事務所に電話を入れた。電話に出た沢田博子に有本叔父に代わるよう言う。
「お前、どうしたんだ。近頃のお前は、いつものお前らしくない」
精一叔父の一声は、叱責であった。省二郎は素直に詫びた。
「自侭をお許し下さい。どうしても解決しなければならない問題が発生しました。一週間で片付けます。その間。休暇の許可が頂きたくー―」
「・・・」
精一叔父は長いあいだ沈黙したあと、言った。
「男は仕事が一番だ。しかし、それを超えたものが存在するという事を、私が知らぬわけではない。休暇は許可しよう」
「ありがとうございます」
「―― 省二郎、何があっても信念だけは貫けよ。最後の勝負は、たいがいその一点で決まるものなのだ」
省二郎は感謝した。
省二郎が車に戻ると、洗車が終わって車内を掃除しているスタンド員が
「これどうします」
と言って、後部座席の足元から寿司の「折り」を差し出した。
「・・・?」
手に取って見ると、「すし鉄」と書かれた包装紙に包まれている。販売した日付が貼ってあり、一月二十三日になっている。昨日だ。
捨てた方が良いように思い、捨てた。
まだ何かあるのだろうかと思い、後部座席を見ると傘が置いてある。この傘はこの間の雨の日、コンビニに行く時に使ったものだ。
いつも置いてあるのは後ろのトランクなので、元に戻すため後ろのトランクを開けた。
トランクを半分ほど開けて、手が止まる。省二郎はそこにあるものをじっと見た。
泥の付いた、スコップが転がっていた。
第1章――その5 環八
理香は不安だった。
一昨日の夜の西岡の出現以来、波状的に不安感が理香を襲い、理香はノイローゼ寸前と言う状態だった。あの後も何度か大分に電話を入れ、自分の知っている白壁が本当の白壁である事を確信した。西岡に、嘘は無かった。
ー― 省二郎さんて、本当はどういう人なのだろう?
一部始終を見ていた和枝は、
「理香、あなた危ないわよ」
と言い、護衛の心算なのか翌日には自分の勤め先を休んで、理香と一緒に会社まで来た。その直後に姿を現した省二郎を見たとたん、理香は怯えが体中を駆け巡り、硬直してしまい早々に早引けをし、荷物をまとめて荻窪にある和枝のマンションに身を潜めた。
そして一日経った今日、昼すぎに電話をすると
「堀井専務が探しています」
と言うのだ。それも、ずいぶん
「しつっこくて」
と言うのだ。
理香は気絶しそうになる。
和枝に抱きかかえられるようにして、西岡との約束の時間に渋谷署へ行き、西岡と並んで井原の前に座った時には
「助けて下さい」
と、理香は言っていたのだ。
和枝のマンションは一LDKの小さなマンションだが、ここなら絶対安全だと和枝が言い、西岡もそれが良いと賛成したため、理香はとにかくここに身を潜ませる事にした。井原警部も
「さあ、何とも言えませんが、気を付けるに越した事はないでしょうな」
と言っていた。
それでも理香は不安と恐ろしさで胸が、キュンと締め付けられる気がするのだ。しかし、慌ただしさと空恐ろしいようなこの二日間も過ぎようとしている夜九時過ぎ、和枝が夕食の後片付けをし理香が風呂に入っている時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
和枝のマンションは一昔前のタイプで、インターホンが無いくらいセキュリティーがしっかりしていない。
和枝がドアーを開けて誰かと話をしているようだったが、そのうち風呂の扉をノックして、顔だけ中へ入れ
「ねえ理香、刑事さんが来たけどどうしよう?後から来てもらう?」
と言った。
「刑事さん?」
「ええ、井原さんから行くように言われたんですって」
「ちょっと待ってもらって。私、すぐ出るから」
理香は手早く身体を拭き、少し考えてから和枝にガウンを持って来てもらい、パジャマの上からすっぽり羽織った。
居間に行くと男が一人いて、理香を見ると頭を下げ、夜遅い訪問を詫びた。その上で
「井原警部から本と写真を預かって来るようにと言われてお伺いしました」
と言う。内偵が始まり、参考になる物を集めていると言う。
確かに今日、井原警部に本なんかの事も話をした。ここにある事も話した。
理香は井原に連絡が取りたかったが、まずは西岡の携帯へ連絡をして相談をした。
西岡の意見は、それは渡さなきゃ拙いんじゃないか、と言うものだった。
理香は言われるままに鞄の中から本二冊と写真を取り出し、その男に渡した。男は受け取ると
「判りました。それでは確かにこの三点は、署の方で預かり保管をしておきます」
と言って、さっさと帰っていった。
後で井原に聞かれて理香は
「眼鏡を掛けていました」
と言う事になる。
「眼鏡?」
「ええ、金縁の・・・だってすごく眼鏡が印象に残っているんです」
その眼鏡の男は和枝のマンションを出ると、道路に停めてあった車に乗った。
その車は白色の日産グロリアであり、プレートナンバーは
練馬 ぬ33 ・6××
と、別な車の中で、まっさらな手帳に書き留めている男がいた。
省二郎、である。
省二郎は今日、あれから記憶を頼りに内神田三丁目の西岡の事務所と思われるビルへ行き、その後、白亜常葉女学園へ行って久松和枝の実家を調べ、ようやくここへ辿り着いたのだった。
七時前からここに着いていたのだが、マンションの前が繁華街になっているため長時間の駐車が出来ず、仕方なく裏へソアラを停めて車を降り、和枝の部屋の扉が見えるところでじっと見張っていた。
寒かった。
九時半近く、その男が和枝の部屋の前に立つのを見届け、すぐ車に戻り、ソアラを表に回して男が荷物を小脇に抱えて出て来るのを確かめ、ナンバーを控えたわけである。
―― 誰だ?
もうその時には男の乗ったグロリアは発進している。省二郎が一定の間隔を空けて後を追う。
―― 誰だろう。和枝の個人的な知り合いか?
とにかく尾行ることにする。
二台の車は環八を南下する。八幡山を越えて少し行った時、グロリアは今まで走っていた右側車線を一番左側の車線に移り、停車する気配を見せた。
そのまま行ってしまう、という芸当が省二郎には出来なかった。
グロリアは気配を示しただけで、また直進し始めた。
省二郎はひやっとしたが、そのまま進み始めたので、また後を追う。が、グロリアの男はその時点で尾行に気付いており、バックミラーに映る二−三台後ろのソアラを確実に捉えていた。
グロリアはスムーズに進み、信号を越えた。
二つ先の信号が、青から黄色へ変わる。
信号とグロリアの距離は、五十メートルはある。
急発進!
凄まじいタイヤの軋みと、それに続くクラクション。
省二郎は、一瞬の躊躇もしなかった。
ギアーシャフトをDからLへ落とし、アクセルを目いっぱい踏み込む。続くタイヤの悲鳴。
四千CC、V−8、DOHCのエンジンが唸りを上げてグロリアを追う。
彼我の距離、三十メートル。間に車が二台。
グロリアは右側車線と反対車線をまたぐ格好で前方に突き進んでいる。省二郎は反対に一番左側の車線をぎりぎりに走る。
信号が黄色から赤になり、前方十字路の左右から車の群れが動き始めた。
省二郎もクラクションを鳴らし、ハンドルを右斜めに切ってグロリアを追尾する。
ライトが交差する。
十字路を出てくる車の鼻先をグロリアが突っ切り、ソアラが左から出て来る車にぶつかりそうになる。
省二郎はハンドルを右に大きく切り、対向車線に停車していた車の脇を、がりがりっと擦りながらソアラの体制を元に戻した。
尻が大きくぶれる。
街路灯が左右を飛び過ぎ、ネオンが原型をとどめず、滲む。
手にびっしり汗をかいているが、視線は一点に絞られている。
白色の、日産グロリアである。
けたたましいクラクションの音とタイヤの軋み。ゴムの焦げる臭い。
前方にはグロリアしか走っていない。距離、十五メートル。グロリアに追いすがる。
反対車線から車の群れが近づいて来る。
グロリアはぎりぎりの所でその群れの前に飛び出し、突っ切り、向こう側反対車線の歩道に乗り上げた。
省二郎は行き過ぎてから、急ブレーキをかけスピンターンをした。後輪が歩道の段差に激しくぶつかり、大きく跳ねる。
が、その時にはグロリアとソアラの間には車の群れが流れている。
「・・・!」
省二郎は車を降りて、グロリアに目をやった。
車の群れの向こうで、グロリアの窓が下がり、中から広い額に眼鏡を掛けた男が、無表情に省二郎を見ている。
見詰め合う、二人。
それもつかの間、グロリアは歩道をゆっくり走り、脇の小道に曲がっていった。
省二郎はすぐさま次の行動に移った。
―― 理香を押さえなければ
省二郎は車を来た方とは逆に道をたどって、荻窪の和枝のマンションに向かった。
その間にも、理香に電話を入れるがどうやっても繋がらない。
和枝のマンションに着き、表の窓を見ると明かりが点いている。時間は十一時。省二郎は大きく息を吸い込み、車を降りてマンションに向かった。
理香に何をどのように話したら良いのか? 理香はここに居るだろうか? あるいは理香は、何を、どのくらい知っているのか?
そればかりではない。理香と西岡は手を組んでいて、白壁の財産を奪おうとしているかも知れないのだ。
省二郎は考え事をしながら、ゆっくりエレベーターホールへ向かった。
その、ゆっくりが、命取りだった。
ホールまであと二十メートルと言うところで、ホールからボストンバッグ片手に提げ、もう片方の手でタマを抱えた理香が出てきたのだ。
「理香さん!」
省二郎は思わず叫んだ。
しかし、理香は信じられないものでも見るような表情をしていたが、突如、大きく目を開き
「キャーッ!」
と、金切り声を張り上げた。
省二郎は怯んだ。が、気を取り直し
「理香さん!」
と、もう一度言い、近づいた。
その時、ホールの横から和枝の巨体が走り出てきて
「理香、逃げて!」
と、大声を上げながら突進して来るではないか。
避けようとしたが戦意が無いため出足が鈍り、七十数キロの体重をそのまま受ける事になった。
省二郎は転倒した。転倒したまま理香を見ると、ボストンバックを放り出して小走りに駐車場の方へ走って行く。
―― 理香さんは運転免許証を持っていたのかな?
省二郎は場違いな、そんな事をふと思った。
和枝が理香を追うように走り去ってから、省二郎はようやく起き上がり、理香が捨てていったボストンバッグと、一旦走り去ってまた戻ってきてバッグの回りで鳴いているタマを拾い上げ、ソアラに戻った。
―― どうなっているんだろう?
考えても、何も判らない。省二郎には、その糸口さへ掴めない状態なのだ。しかし、強靭な精神と肉体の持ち主である省二郎は、やる時はやる、と思っている。
今からやらねばならない事、それは、昼間訪ねた西岡の事務所の住所地にあったレッドストーンという雑居ビルに入居していた「千代田秘書サービス」を捜索する事である。
レッドストーンビルへ昼間行った時、そのビルには「株式会社ニシオカ」なるものは存在していなかった。
ビル名が間違っていないところを見ると、そのビルの階段の入り口に表示されている入居者名の「千代田秘書サービス」なる会社が、なんと言っても怪しい。
訪ねてみた。
そして省二郎の、ニシオカはこちらで受け付けているのか、と言う問いに
「お答え出来ません」
と、太った女が言ったのだ。
その事務所へ今から行く。
省二郎は車を走らせた。助手席で、タマが鳴いている。
常套句で申し訳ないが、昼間の雑踏が嘘のように静かな午前一時過ぎのビル街であった。
省二郎は一段とうるさく鳴き始めたタマを車に残し、ビルの中に入って辺りを窺うようにしてから懐中電灯を点けた。
電源が切ってあるのかエレベーターは動かない。仕方なく、ゆっくりと音を立てないよう気遣いながら最上階、といっても六階だが、そこまで登ってビル内に誰もいない事を確かめ、三階の「千代田秘書サービス」まで戻った。
省二郎の手には、一メートルの鉄のバールが二本握られている。
もう一度、省二郎は辺りを窺い、耳をそばだてる。
心臓が、高鳴る。
省二郎は息を大きく吸い込んでから、一本のバールをアルミ製のドアーの底部に差し入れ、力任せに持ち上げた。
ギッギッギッビギーッ
と、ビル全体にアルミのねじ切れる音が響き渡る。
息をゆっくり吐いて、そのバールの先端が当たっている帆柱を梃子にして、左側に思い切り回し、ドアーの捩じれで出来た隙間にもう一本のバールをこじ入れた。そして、一気に手前に引いた。
ロケット弾でも炸裂したかのような大音響がビル全体を包む。
間髪を入れず省二郎は立ち上がって、ひん曲がってしまったドアーを足で蹴った。一度、二度、三度そして四度目でドアーが、半開きの状態になった。
緊張と激しい動きのため、汗が身体中から吹き出ている。
背中を二−三本の汗が流れている。
耳を澄ますが、ドアーが抉じ開けられた大音響の余韻のほか、何も聞こえない。誰にも知られていないようだ。それに、今更知られてもどうする事も出来ない。
バールを離し、懐中電灯で照らしながら、ゆっくりと省二郎は事務所の中に入って行った。