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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

労働

作者: 4ever

5時半ごろ明宏は目覚めた。彼の仕事は朝早くから始まるため、このような時間に起きなければならなかった。既に目は覚めていたが明宏は暫くの間ベッドから出ようとしなかった。それは凍てつくような乾いた空気を肌に感じていたためである。窓ガラスから伝わってくる暗鬱な冷気は部屋中を包みこみ明宏を震えさせていた。窓の向こう側では、その冷気が鋭い風となり裸の木々や人々を無差別に襲っている。そんな季節であるため当然夜明けも遅く、部屋は2メートル先が見えない程度の薄暗さだった。やがて明宏はゆっくりと身を起こしランプからぶらさがっている紐を引っ張り明かりをつけた。ランプの光は辺りの空間を明るみへと導き、そしてそれと同時にそのランプを支える柱である「人間」を暗闇から出現させた。「人間」はランプによって顔を隠されて、妖怪のような外貌になっていた。「人間」は気をつけの姿勢で微動だにしない。明宏が部屋を出るのをのろのろともったいぶっている間も終始その状態を保っていた。そして明宏がランプの明かりを消し部屋から出た後も、「人間」はその幾何学的な姿勢を崩さず、そのまま暗がりの中で不気味な妖怪役を演じていた。



明宏は洗面所へ向かった。それから髭を剃るためのクリームを適量出し両手で練り合わせ顎と頬と鼻の下にまんべんなく塗った。明宏は鏡に映っている自分のクリームだらけになった下半分の顔だけを見ながら、徐々にその白色を削ぎ落としてつややかな肌色に変えていった。その目前にある鏡の支えはというと壁に掛かっているわけでもなく、超自然的な力が鏡に作用している、というわけでもなかった。ただ鏡の後ろに立っている一人の「人間」が両手で鏡の両端を抱え込むように持っているばかりであった。



明宏は朝食の準備を始めた。キッチンで温かいコーヒーとミルク、それに少量のビスケットを拵えて別の部屋にそれらを運んだ。その部屋には三人の「人間」がいる。二人の「人間」は身を寄せ合い四つん這いになっていた。腕は床と垂直になるようまっすぐ伸ばし、足の方ではその腕と同じ高さに調節するため、中途半端に膝を曲げている。腰は高く保たれていて、その上にはチェック柄の布が被せてあった。その布はテーブルクロスの役割を担った。一方もう一人の「人間」もまた、身を寄せ合っている二人の「人間」の近くで四つん這いになっていた。この一人の「人間」の方は肘と膝を床にぴったりとつけ、腰を低く落としているといった案配だった。それはちょうど明宏が座りやすいと感じる高さだった。明宏は一人の「人間」椅子に座り二人の「人間」机に朝食を置いた。暖房がかかっていて部屋は暖かい。明宏には、この部屋に来るたび物憂げな空想を作りだし、それを執拗に反芻し始めるという無意識な習慣があった。きっとこのエアコンのせいだな、と明宏は思う。人間というのは周りの環境が快適すぎるとそれに頼りすぎて衰弱していく。適応能力というのも使いようによっては駄目になってしまうんだな、と明宏は自嘲した。エアコンはこの国に残された数少ない文明の一つだった。流石に「人間」では代役が務まらないからであろう。文明って凄いよな、明宏はふと思った。人間には出来ないことを人間の手によって作り出し可能にする、ペンギンが空を飛ぶみたいなことだ。いや、もっと凄いことだろう。こんな他愛もない連想を明宏はついやってしまう。しかもそれは敬虔な思慮からくる追求ではなく、子供のような好奇心と無知の反抗からくるものだった。悪い嗜好だな、明宏はそう思いながら時計に目をやった。そろそろ急がないと。

明宏はコーヒーを小さなマグカップに注ぎ、ミルクを加え、それらをよくかき混ぜもせずに口に運んでいった。それからビスケットを二枚、気味が悪いほど整った歯で噛み砕き、それを胃に流し込むために再びミルク入りのコーヒーを口に含んだ。



明宏は立ち上がり仕事着に着替えた。平凡なサラリーマン風のスーツだ。それから明宏は水玉模様のネクタイをきつく締め、それを右手で調節しながら玄関に向かった。玄関にも一人「人間」がいる。その「人間」は両肘を直角に曲げ、そこから突き出ている腕を天井の方に向けながら直立していた。何かに対して降参を示しているようにも見えるポーズだ。右手で菊塵色のコートを持ち右腕には傘、そして鞄を左手で持ち部屋の鍵を口にくわえているといった何とも滑稽な状態だった。明宏はコートと鞄を「人間」から取り、家を出ようとした。が、鍵を取っていない事に気づき再び「人間」の元に戻った。そして「人間」の口から鍵を取った。鍵は弱い力で口と固定されていたので、取る際には強い力を必要としなかった。そして明宏は家を出た。扉を閉める音が家中を叩くように響きわたった。そしてその音響は直ぐ様消え去り虚しい余韻を残した…。

「人間」にはこの音が聞こえたのだろうか、そしてそこから何かを得たのだろうか。それは少なくとも見た目からでは判然つかない。「人間」は明宏が起きてから家を出るまで、ずっと無表情と不動を保ち続けていた。無表情は感情を無にし、不動は意思と欲を無にする。「人間」の存在は理性と規則の産物で平和そのものであった。ここで言う平和とは幸福ではなく無害の意味を示す。勿論「人間」には感情もあれば、意思も欲もある。だが今の彼らにそれらがあるという事を一体誰がどうやって説明することができよう。無論、何か手を加えれば判断の要素が見つかるということは知悉している。だがこの話はあくまで彼らの現在の状況に対する認識である。どうやら、というよりは寧ろ当たり前ではあるが、人間を、感情を、意思を、欲を認識するための判断基準は人間にあるようだ。それはつまり表面上にあるということである。人間にとって人間の名詞は名前であるが、人間以外の動物や生物にとって人間の名詞は人間でしかないのだ。人間は表面しか見ることが出来ないだけに形而上学的な考察をすることが困難で、いささか表面というものに固執しがちである。例えばお洒落なんかもそうだろう。見た目は他人との交際に最も重要なものだ。それだけで判断するのは軽率だと感じた人間はお喋りをしたり、遊んだりする。即ち手を加え、針でつつき、その反応や状態、行動によって判断するのである。実験のようなものだ。

1966年、アメリカのバックスター博士により、ある仮説が生まれた。仮説と名付けられたのはそれほど実験結果が曖昧なものだったからである。それは植物に感情があるということだった。ところでこの実験結果を曖昧にした大半の要因は、植物による読心術でしか感情を見いだすことが出来ず自発的には感情を発信しないという霊妙な性質にあったが、もう一つ挙げられるとすれば、植物には感情など存在しないだろう、という固定観念にあったものと思われる。人間が絶対的に信じるものは表面化しているものだけなのだ。宗教による崇拝や信仰たるものは精神を支えるための補強活動に過ぎないものだ。有るか無いかはっきりしない存在を敢えて信じることにより、足でしっかりと地面を踏みしめる感覚を得ることができる。何が真実かを確実に見定めるのでは無く、神の名の下に於いてそれらを宗教的な主観により定義する、と言ったところであろう。



明宏はタクシー乗り場でタクシーを待っていた。明宏以外にも三人ほど待っている人がいた。やがてタクシー乗り場で待っていた人数分の「人間」がやってきた。「人間」は明宏たちを背中に担ぎそれぞれの目的地へ送り出すために走りだした。明宏は「人間」の背中に担がれて職場へと向かっている最中ふと左手首に巻きつけてある腕時計に視線を落とした。そして、もうあまり時間が無いな、と思った瞬間「人間」が急停止した。明宏はひどく狼狽し、そのためにバランスを崩しそうになったが何とか持ちこたえた。明宏は何事かと思い、前に視線を向けた。そこにはストローのような途中で直角に折れ曲がった柱があり、その飲み口から直角に曲がっている箇所までの間に二人の「人間」が均等な間隔を空けてぶらさがっていた。どうやら背中に接着部分か固定部分があるらしく両手は自由な状態だった。二人とも茶色のシルクハットを頭に乗せて、体には伽羅色のコートを身につけている。そして、右に位置する「人間」の方だけがコートの前方を空け広げ、その下に着ている赤色のシャツを露出させていた。なんだ、と明宏は安堵の息を洩らした。何てことはない、ただの信号だった。それから何分かたった後、赤色のシャツを着ている「人間」はコートで前を隠し、それと同時に左の「人間」がコートを両手で開き緑色のシャツをさらけ出した。進めの合図である。明宏を乗せた「人間」は再び走り始めた。それからは一度も信号で止まることは無かった。



暫くして明宏は「人間」から降り、コンクリート造りの端麗な建物へと歩いていった。その建物が明宏の勤務場所である。建物の前には四人の「人間」が整然と横に並び、入り口を完全に遮っていた。彼らの仕事は守衛として通り過ぎる人に対して誰何することでもなければ、関所の官僚のように交通料金を取ることでもない。彼らの仕事は人が来たときに四人の中心から二人ずつ左右に分かれ真ん中に道を空け、遠のいたら元に戻り道を塞ぐ、という機械的な運動をすることだった。どうやら自動ドアの役割を果たしているらしい。明宏はその自動ドアを足早に通り抜け、前方に見えたフロントの女性に近づき声をかけた。

「ねえ、君」

フロント嬢は明宏に目もくれず書き物に夢中になっている。誰がこんな女にフロントでの仕事を任せたのだろう、と明宏はいつも思う。明宏は声量を大きくして再度呼びかけた。

「おい、君だよ」

「はい?なんでしょうか?」

多少の驚きが入り交じり音程が外れた不快なソプラノ。その音にどこか他人事のような倨傲を感じ取ったので明宏は少し苛ついたが、明宏にはもう時間が無かったので黙許し用件だけを述べた。

「K号室のお役人が、既にお着きになっていらっしゃるかどうかを調べてくれないか」

「その方でしたらまだこちらにはお見えになっていらっしゃいません」

フロント嬢が少しも調べる様子を見せずにあっけらかんな調子で即答したので明宏は不審に思った。

「本当にまだ来ていないのか?」

「間違いないですよ、私がこの場所でずっと見ていましたから。でも少し居眠りをしたかしら。そのうちに通った人は知りませんが多分あなたの言うお役人は通っていないでしょうね。何故わかるかって…、それは何となくそんな気がするんです。心配しなくても私の勘は結構当たりますから、きっと大丈夫ですよ。あ、そういえば…」

「何だ」

「え?」

「え?じゃないよ。そういえばの続きは何かと聞いているんだ。勿論それはそのあやふやな主張の根拠になるような事なんだろう」

「いいえ、その様な事ではなくて…朝食に三十分ほど頂いたのでその間に通った人も把握できません、という事を言おうとしたのです。でも大丈夫ですよ、私の勘からするとそのお役人は……」

「もういい」

と明宏は乱暴に遮ったがフロント嬢は何も言わずに、再び職務を書き物の方に移行した。フロント嬢は軽蔑と達成感を含み笑いに変えていた。その笑みがより一層明宏を苛つかせたが本当に間に合わなくなるかもしれないという瀬戸際だったので軽く怒りの一瞥を喰らわせた後は、すぐに駆け足でエレベーターへと向かった。

「一体何なんだあの女…、適当な情報を教えやがって。まるで俺と対等の位置に立つことを拒んでいるようだ…。いや、しかしこの世界に価値が全く同じ人間など果たしているのだろうか。確かにそういう意味ではあの女が正しく、公平なのかもしれない。しかし腹が立つことは変わらん」

こんなことをぶつぶつと呟きながら明宏はエレベーターに真っ直ぐつながっている廊下を走った。エレベーターには既に二人いて明宏がくるのを待っていた。そして明宏はエレベーターに着くとすぐさま二人に対し謝罪をした。

「待たせてしまってすみません」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

貴婦人風の女性はそう言うと愛想の良い上品な笑みを浮かべた。もう一人の男の方は壁にもたれかかり腕組みをしたまま黙っていた。どちらも40代ぐらいに見えた。

「何階ですか?」

「三階です」と明宏は答えた。

「あら、奇遇ですわね。私もです」

貴婦人は微笑を浮かべながらそう言うと男の方を向き

「確かあなたは五階に用がおありでしたわね。私たちが先に降りても宜しいですか」と尋ねた。

男は腕を組んだ姿勢を崩さずに「構わない」とだけ言った。答えるのが面倒くさいようだった。

そしてエレベーターは上昇していった。動力は電気ではない。約200キログラムのぽっちゃりとした体躯の「人間」が縛られた状態で降りてきて、その重力の反動で上昇する。あまりに速く「人間」が降りるといけないので、上の方で人力により調整していた。エレベーターが下降するときには、動力が完全な人力になるのでかなりの時間を労した。そのためほとんどの人が階段を利用していた。



「今日はお仕事ですか?」

エレベーターが三階に向かっている途中、明宏は貴婦人にこう話しかけられた。明宏は先ほどのフロント嬢の一件もあり出来るだけ喋りたくなかったが、貴婦人の友好的な圧迫に押され仕方なしに

「そうです」

とだけ言っておいた。そしてそれから、これ以上は話しかけないでくれ、といった想いを相手にわからせるための雰囲気作りに力を注いだ。しかしそんな明宏の努力も空しく、貴婦人は続けざまに喋り始めた。

「そうなんですか、私も今日は仕事なんです。といっても、ちょっとした娯楽のようなものですがね。私は資産家としてK号室のお役人と対談しにここへ来ましたの。あなたはどちらでお仕事を?」

「僕もK号室です」

「まあ、本当に?」

「ええ」

明宏がそう言うとエレベーター内は軽い沈黙に包まれた。明宏はこの倦怠ともとれる沈黙に一種の恐怖を覚えた。それは嵐の前の静けさに対して感じる感覚と同じだった。きっと次の瞬間にはあの質問がくる、この懸念が明宏の若い心臓をさらに活発なものにさせた。明宏は普段こんな事に対して屈するような男では無い。きっとエアコンのせいだろう、と明宏は思った。実際、建物の中には少しばかり油臭い暖風が隅々まで行き渡っており、春を人工的に作り出していた。しかし彼を敏感にしたのは今回の場合環境ではなく、自分自身に対しての改まった認識だった。自己認識の際にそれが自己への好意か嫌悪になるかは、基本的にはその人が楽観的であるか悲観的であるかという違いしかない。しかしそれはあくまでもその人間の内側に観点を置いた時だけの話である。明宏は比較的には楽観的な見方をする方だったが、今日の彼は外側から自分自身を判断していた。それ故に明宏は世間というものが異様に気になって仕方がなかった。

「まさかお仕事する部屋まで一緒だなんて思いませんでしたよ。本当に偶然ってあるものですねえ。ところで…」

明宏はぎくりとした。背中に銃を突きつけられて身動きがとれなくなる人間の気持ちがわかったような気がした。今にも発射されて自分の体を射貫く弾丸。その結果にたどり着くまでの過程にこそ最大の恐怖が存在しているのだ。そしてその弾丸はついに発射された。

「あなたのお仕事は何ですの?」

しかし意外にもこの言葉が明宏に深刻な影響を及ぼすことはなかった。どうして数秒前はあれほどまでに屈辱への畏怖を抱いていたのだろう、とも思ったほどだった。明宏は答えることにした。

「僕の仕事は…」

「着いたぞ、降りろ」

腕組みをしている男がふいにそう言った。いつの間にかエレベーターは三階に到着していた。

「それでは、また後ほどお会いしましょうね」

貴婦人はにっこりと笑いながらそう言うと女性用ロッカーの方にすたすたと歩いて行った。明宏はその場で立ちつくしたまま貴婦人の歩いて行く方を見据えていた。

「おい君、突っ立っていないでさっさと出てくれ」

と男は苛々した口調でそういった。明宏はそう言われてようやく歩き出した。



明宏は男性用ロッカーの方に向かいながら一つのある思考を巡らせていた。全てのものを支配している存在とは何だろう。自分の上に立つ存在が支配者なら明宏にとっての支配者とは役人や貴婦人や腕組みをしていた男ということになろう。しかし彼らもまた誰かの支配下にある。国のトップは国を支配するが世界は管轄外だ。ならば世界を、全てを支配している存在は世界各国の中で最も優れた経済力、軍事力、ヒューマンリソースなどを持ち合わせている国のトップということになるだろうか。しかしその人もまた大衆という存在に支配されていると言えるのではないか。支配者が支配されながらも支配を行う、そういった奇異で原始的な生態が人間の中にもうっすらと残っているのだ。明宏はここで思考を一度止めた。俺が求めているのはこういった具体的な現実めいたことでは無い、恐らく俺が探求している支配者とは死の存在なのだ。地方は国の支配下であり国は世界の一部、世界とは地球のことでその地球は太陽系という銀河に属する惑星の一つ。そしてその銀河すらも宇宙のごくわずかな一部分でしかない。明宏は死をその宇宙の外側に見た。死は宇宙を外側から覆うように囲い込んでいる。虫籠で虫を飼うように生命を飼い、支配と言うよりは掌握や管理と言うべき職務を趣味の延長として行っているのだ。生きるという行為は死へのささやかな反抗なのだろう。性的欲求も生を繁栄させその爆発により死を破壊しようという魂胆から来たものなのかもしれない。しかし死は自然という管理人にそれを食い止めさせる。自然の摂理というものも、ただ単に死が生を飼育しているという過程で起こっている無機的なサイクルなのかもしれない。

生と死がそれぞれ対極の位置にあるのなら生は内側から発生する筈だ。それも深い深い内部、それは深海ともとれるだろうしビッグバンでもあるだろうし微生物でもあるだろう。あるいは神と言う人もいるだろう。生はその過程で力を持った者、恐竜を生み出した。しかし彼らは生の中でしか生きることが出来ずに死によって淘汰された。次に知能を持った者、我々人間を生みだした。しかしもし人間が死という支配者に制勝したら一体どうなるだろう。生が支配する世界になれば宇宙が生により溢れかえって、いずれ破裂してしまうだろう。そういう意味では死は良い支配者なのかもしれない。死は生命を絶滅させることなく健全に無慈悲に気まぐれに均衡を保つ、それでいて決して支配されない完璧な支配者なのだ。

明宏は、何故こんな馬鹿馬鹿しいことを考えたのだろう、と自問したが答えは出なかった。

「とにかく質になっているのは俺のような人間で役人たちは器でしかない筈なんだ。いや、きっとそうなのだろう。だから奴らが俺を侮辱する理由もなければ、けなす理由も無い。むしろ感謝されるべきなんだ。奴らは俺らに支配されているのだから」

明宏はロッカー部屋に入り、縦長のロッカーを開いた。扉の裏側には「人間」が貼り付いていた。明宏は何故か哀愁深い心持ちでその「人間」を見つめた。そうだ、これが労働なのだ、と明宏は思った。報酬を得る事と引き替えに機械になり物体になり支配される活動。それは彼らの個体としての存在価値を低めるものだったが、同時に彼らと明宏のような存在によりマジョリティが構成され、その集団としての価値は重きを成した。そして彼らが従順に支配されているという事自体が、彼らをこき使っている支配者を支配しているという不可解な方程式を作り上げたのだ。それは人間独自の生態系ともいうことができた。明宏は「人間」の手に鞄を持たせ顔にコートをかけるとロッカーの扉を閉めた。明宏は取り敢えず、今日も頑張って働こう、と適当に意気込み部屋を出てK号室に歩いていった。





明宏はK号室の扉の前で立ち止まった。明宏はその場でゆっくりと腰を降ろしうつ伏せになると両腕を脇と腰の横に添え、完全に体を床に着地させた。それからは石のように固まって動かない。勤務時間が終了するまで明宏はその状態を保つことになるだろう。これが彼の仕事だった。





…やがてK号室の役人と先ほどの貴婦人が談笑しながら廊下を歩いてきた。

「奥さん、今日はこの寒い中にお越しいただいて申し訳ない」

と役人が大して悪びれた様子もなく言った。

「いえ、元はと言えば私が言い出したことですから」

「ところで今日は素敵なお召し物をしていらっしゃいますな」

「ありがとうございます。これはジェノアで直接購入したものなんですよ」

「なるほど…。通りで衣ずれの音が耳に心地良いわけだ」と役人は感心したように何度も頷いた。

「ところで投資の件についてなんですけど…」

「まあまあ、そういう仕事の話は部屋の中で紅茶でも飲みながらすることにいたしましょう。さあどうぞ中へ」

そう言うと役人は一歩下がり貴婦人に前を譲った。貴婦人は扉の前に寝ている「人間」を見ると少しばかりの嫌悪と侮蔑を顔にちらつかせたが、すぐに知らん顔をした。自分と「人間」の間に何の関係も無い事を主張するために。そして貴婦人は「人間」の背中に靴の汚れをなすりつけてから部屋に入った。役人もこれに続いて、何の感情も持たず「人間」で靴の汚れを取り部屋の中に消えていった。扉を閉める音が廊下中に響いた。



「人間」がこの音響から何を感じ取ったのかは、もはや誰にも知る術は無い。



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