ひとまず走る
「うべっ」
重力の有無を言わさない空間から出る事投げ出された。
頭がぼんやりと考えることを拒否している。何が起こったのか、ここがどこなのか思考するのが億劫だ。
「はぁー」
だって寝そべって見上げた夜空には、赤く染まるお月様がまんまると浮かんでいるんだ。雲一つない夜空がこんなにも綺麗だなんて廃棄空しか見たことがない僕は知らなかった。その貴重な時間に、何かを考えるだなんて勿体ない事していいはずがないんだ。
「いつまでもこうやって綺麗なお月様を見ていたいな。そうすれば、いつのまにやら夜になっていることも、ここどこなのかって事も、何が起きたのかだってきっと目が覚めるはずなんだ。そう、だってこれは夢なのだから、そう思っていればいつまでだって現実逃避ができるんだ」
悲しくも涙が頬を流れるのを肌が感じ取っていた。
「紅い月なんて生まれて初めてだなぁ、まるで異世界に飛んじゃったみたいじゃないか、あははははは。消えるって言っても、瞬間移動して知らない場所に移るなんてそれ以上に初めてだけど…………、あは、あはははははは…………しくしくしくしく」
僕は床の冷たさに立ち上がり、そろそろ認めようと思う。
「あは、これは夢だけど一応ここがどんな場所なのかは知っておいた方がいいな、うん。だって僕の危機管理がそう告げているんだ」
現実が無くなったことを、ついでにカバンも希望の欠片だったものもなくなっている。
「はいはい、分かりましたよ、現実なんでしょ。比呂の言った通り幽霊屋敷が僕を元の世界から消してくれたんだよね、はいはい」
僕の強がりの独り言は、しーん、とどこかの部屋に誰もいないことを告げた。これはいよいよ、本格的にマズイ……。
「か、確認してみようかな、あははは」
脳裏にこびり付く『異世界』という今までに感じた事のない不穏な空気に、頭から足まで自分の体を障りそこにあることを確認、念のため頭上に輪っかなんてものがない事も確認しておく。当然、そんなものあるわけがないわけで、僕はりっぱに生きていることが判明した。
「どういうことなんだ……」
思い出される事象は理解できる。でも、それが自分の身に起きているのか、はたしてその事象が本当にソレなのかが受け止められない。
「神隠し……?」
言葉にしてみてもやっぱり分からない。
ふーっ、と僕は息を吐いた。
「仮に神隠しにあったとしてどうすればいいんだろうな。来た方法はもちろん、帰り方なんて分かるわけないし、希望が叶ったと言えば叶ったわけだけど、想像していたより現実離れしているし」
元々消えるなんて曖昧な表現で家出のような旅行にでた僕だけど、冷静にこの事態を整えて、どうするか。
「住めるかどうか調べてみるしかないか」
本当に消えることができるなんて予想もしていなかったけど、本当に新しい人生が目の前に存在しているのであれば頼ってもみたかった。
決して元の世界が嫌いなわけじゃない。ただ僕は一度人生の在り方を自らの手で修正してみたかった。それが単なる好奇心でなのか、やっぱり元の世界で起きた嫌な出来事が関わっているのかは僕自身まだ分からない。
それでもその機会が与えられたのなら僕はそうさせざるを得なかった。
最悪何か起きたら陸上で鍛えた逃げ足(過去の栄光)で逃げてしまえばいいだけのことだ。どんな形であれ願いは叶ったのだ、だったらこの時を楽しむしかないじゃないか。
「よーし!」
そうと決まればやることは多い。もしかしたら、今ここにいられることが時間制限つきかもしれないのだ。
「まずは――」
決断してから、僕が今どこにいるのか把握しておくために改めて部屋らしい場所を一周してみる。一言で部屋といっても、僕が暮らすような六畳一間とは比べ物にならないその部屋はダンス会場のように広く、観覧できるように二階まで存在している。それに加え天井、そして部屋の半分以上をガラス張りで外が見える仕様に造られていた。そうでなければ部屋の中から月なんて見えるはずがない。
「金持ちってレベルじゃないな。これだったら、外観から推測できることもありそうだな」
所詮は建物の中から分かることなど少ない。一度外にでて、改めて考え直した方がよさそうだった。
もう一度辺りを見渡しガラス張りの反対、レッドカーペットが導くようにある巨大な扉を見つけた。どこまでも巨大な扉は五メートルを遥かに超える、巨人でも通れるレベルだ。
「まさか、本当に巨人が通るわけじゃないよな……あははは」
静かに扉を見上げ、強ち……と思えなくもない状況に唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。
そのまま近づき開け方を思考するよりも早く勝手に扉が開き始めてくれる。近代的なシステムかと勝手に妄想を広げながらも、扉越しにきょろきょろと辺りを見渡してしまうのは人間の習性なのだろうか、それとも不法侵入の文字が頭を過ったからなのか。
たぶん……、後者だ。
部屋を出てから人の気配にアンテナを張り、おそらくエントランスであろうその場所をダッシュで抜ける。こそこそと辺りを何度も見渡しながら扉を開ける僕の姿を見たら誰もがこう言うだろう。
あ、コソ泥だ、と。例え唐草模様の風呂敷を鼻の下で結んでいるような姿に歪んで見えようが僕は叫びたい、本能だと。
無事エントランスから庭に出て門柱が見える。あそこを抜ければミッションは成功だ。その先は改めて客として迎え入れてもらえるように、ピンポンダッ…………もとい、チャイムを押す。
しかし、外に出てみてもこの家の持ち主は大金持ちだと判明した。扉を背中に門を潜るまで数百メートルほどの距離。直線でそれだけあるのだから、円周で考えたらものすごい広さだ。
貧富の差なのか、ことごとくお金持ちは僕をバカにしてくれる。どうして、直線上に噴水なんておいてくれるのか、門柱まで遠くなるじゃないか。
「くっ、金持ちめ」
それでも僕の陸上で鍛えた逃げ足(過去の栄光)でなんとかなるはずだ。あとは建物の中からその姿さえ見つからなければ晴れて僕は自由の身。
「……いつの間にか本当にコソ泥の心境になっているな、早くここから脱出しよう」
そう思いながら、ストレッチを軽めに僕はゆっくりと状態を屈めた。
思い出すのは中学時代の陸上大会。
『位置について――』
心地よくも高鳴る鼓動、盛り上がりつつ静かに見守る応援席、
『よーい――』
クラウチングスタートから指先に体重が掛かる。
「ドンッ!」
自分の掛け声でスタブロの代わりに階段の側面を足で蹴り、僕は駆け出した。
本来の競技と違って噴水が緩いコーナーを描いているが、構わない。噴水までは直進で、そこからは踏ん張ってまた新しい直進のコースを目算すればいいだけの事だ。
太ももを上げ、大きく腕を振る。
現役の時と変わらず僕の肉体はまだ衰えてはいない。これなら走り終わっても呼吸は大きく乱れないはずだ。過酷なバイト生活は過去の栄光を簡単に見捨てたりしないのだ。
そうこうしている内に噴水の傍まで来ていた。
そこからは急ブレーキも掛けずに足の方向に角度を付け、そのまま門に向って走り続ける。
建物の方向に視線を向けることはできない。こそこそ動き回るより、少ない時間を掛けて通り抜けた方に賭けたのだ。だから、結果だけが後から付いてくる。
門までもう少し、都合よく人が通れるほどの隙間が空いている。
門は目と鼻の先、最後の力を足に込める。
そして、僕は地面を蹴りあげた。
「…………」
門を背中に隠れ、騒ぎは………………無いようだ。
「勝った……見つからなかった!」
両手の拳を握りしめ、声は出さずにガッツポーズをする。
久々の達成感。恰好悪い理由だとしても心地いい。この高揚感が消えない内に客としてチャイムを押そう。改めてからでは、なぜか失敗するような気がする。
「えーと」
門柱を見て、それらしきものがないか探す。
前、横、斜め、裏、下?
ところがチャイムどころか表札すら無い。
「おい」
「こっちじゃないんだな!」
片方になければもう片方の方だ。
急いでもう片方の門柱に走り出し、前、横、斜め、裏、下? を調べた。
が、
「おい、貴様」
「あれー」
見つからない。
そしてあることに僕は気が付いた。
「貴様っ、聞いているのか!」
「しまったっああああ! 欧米式か!」
普段ならあるチャイムも国によってはノックで呼び出す場合があるということだ。それなら、建物を出た扉で十分事足りた。
「やっと敷地を出たのに……はっ、まてよ。今度は正攻法で敷地に入れるじゃないか、ちゃんと敷地外から入るんだから」
「さっきから、何を言っているっ! レナード公爵の前だぞ!」
「うるさいな、今取り込んで……」
邪魔な声に今更気が付いた。
そこには、どこか気品があり優しそうな微笑で僕を見守る男性と、さっきから怒鳴りながら僕を呼んでいた女性、さらには複数のお付の方々が僕を睨んでいる。
僕が思うにここの住人の方々。今考えたら、門を開けている最中に僕が外に出たってことなのかな。
「貴様っ、誰に向かってそのような口をっ!」
「しまったぁああああああああああああああああああ!!!」
敵は外にいた。
その瞬間――間違いなく敷地から出てくる僕の姿を見られたわけで、言い訳が通じそうにないわけで、つまり逃げるしかないわけで――――僕は全力で逃げ出した。
「なっ、貴様っ!? 逃がすか!」
「待ちなさい、セレンシア」
「はっ!」
「リチア様を待たせるわけにはいかない。貴族に連絡を入れそちらに任せなさい」
「はっ仰せのままに」