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磨りガラスと絶対安静

作者: 紺野 蒼

 りガラスの向こうの人影を、京子きょうこはただ見詰めていた。

 声を掛けてこない相手に、こちらから声を掛けるのははばかられたのだ。

 磨りガラスの向こうに居る人物が、誰なのかわかったから、声を掛けられないのは尚更だった。

 磨りガラスの向こうの影は、声を掛けて来るでもなく、ノックしてくるでもなく…。

「……まったく。何をしているんだか」

 京子は磨りガラスの向こうには、決して聞こえないほどの小声で呟いてみた。

 緊張で速度を速めている心臓を、少しでも落ち着けたかったのだが、上手くはいかなかったようだ。京子の心臓の速度は、逆に速くなるばかりだった。

 帰ろうか悩んでいるのか、時折影が遠ざかる。

 その動きが、また京子の心臓の動きを早くする。

 だって、待っていたのだ。

 会いたくて、声が聞きたくて。心配で、一目姿を確認したくて。

 ベットの中で、電話すら出来ない自分が歯痒くて…。顔を見せない相手が腹立たしくて…。ただ、もう、不安が積み重なって行くのが辛かったのだ。

 彼が会いに来てくれないのが、どうしてなのか?

 推理は出来ても、核心は持てなくて……。


(もし、会いに来た彼が、別離を言い出したら?)


 考えたくはなかったし、そんなことはないと信じたかった。 

 それでも、自分は彼にとって、負担でしかない存在になってしまったのかも知れないと思うと、怖かった。怖くて、じかに連絡など出来なかったのだ。

 今も怖くて、こちらから声を掛ける気にはなれなかった。


(愛されているはず。存在を望まれているはず)


 そう、思っていたし、今でも信じたいと思っている。

 なのに、今の状況は、かなり微妙だ。

 京子がここに居ることを、彼は三日も前に知らされたはずなのに、まだ会いに来ることを悩んでいる様子なのだ。


(三日も。三日三晩も。安静を求められている存在である自分を不安にさせているくせに!)


 京子が思うさま胸の内でののしった時、上半分が磨りガラスになっているドアの、ノブが回った。

 息を呑む京子の視線の先で、扉が、ゆっくりと…………開かない。

「いい加減にして! 入ってくるのかこないのか、はっきりしなさいよっ!」

 あまりの緊張に、ブチ切れた京子の声が響き渡る。

 慌てたように扉が大きく開いた。

 花束を抱えた彼は、人の良さそうな、気の弱そうな顔に、焦りと緊張を滲ませて病室へと入ってきた。

 扉を閉めて、京子以外の人間が居ないことを確認すると、彼は更に緊張に顔を強張らせ、無言で半身を起こしている京子の隣に立った。

「……今頃のこのこ顔見せるなんて、いい度胸してるじゃないよ?」

 緊張のため、京子はブチ切れモードのまま、彼に対峙することにした。

 弱気になっている自覚のある京子には、涙を見せずに話をする方法が、それ以外に見つけられなかったのだ。

 もっとも、それすらも長くは持ちそうにはなかったが……。

「その……ごめんね。俺、パニック起こして…間違えて……」

 申し訳なさそうに、情けない顔で頭を下げる姿に、京子は目の奥が痛くなるのを感じた。

「何で謝るわけ? 何を間違えたって言うのよっ!」

 零れそうになる涙を堪える為に、強く拳を握り締め、俯く彼を睨み付ける。

「京ちゃん、落ち着いて。あまり興奮しないほうが……」

 興奮していることが傍目でもわかる姿に、彼は慌てて京子を宥めようとする。

うるさいわね! あたしが安静にしようが興奮しようがあんたには関係ないんでしょうが!」

 肩に置かれた手を振り払った瞬間、京子の眼に涙が滲んだ。

 強がりも、限界だった。

「死んでくれたほうが嬉しかったんでしょう!?」

 不安だった心を、その懸念けねんを、彼にそのままぶつけた。

 何時も穏やかな彼の顔に、その瞬間、怒りが浮かんだ。

「それ……本気で言ってる?」

 怒りを浮かべた彼の顔を、京子は始めて見た。

 何時も穏やかで、京子が何を言っても怒ったことなどなかったのに、今は怖いくらいの怒りと苛立ちを感じる。彼の怒りに怯え、京子は俯いて眼を閉じた。

「だって…三日も来なかったじゃないっ。土日挟んでんのに。土日は、仕事休みのくせに…」

 心細かったし、不安だったし、何より怖かったのだ。だから、彼の顔を見て、全ての感情が溢れ出してしまった。

 こらえていた涙が京子の頬に零れ落ちるのを見て、彼は小さく溜息を吐いた。

「あのね、京ちゃん。とにかく落ち着いてくれないと、本当に、俺、困るんだよ。何度でも謝るから、落ち着いてよ」

 彼の懇願するような声音に、京子は零れた涙を拭って、恐る恐る顔を上げた。

 彼は、何時もの穏やかな顔に、困惑と後悔を滲ませていた。

「もう一度、ごめんね」

 優しく京子の頭を撫でて、苦笑する。

「俺ね、パニック起こして、順番間違えちゃったんだ」

 穏やかな彼にほっとして、また涙が零れてきた。

「…順番って、何よ?」

 京子は涙を拭いながら、彼に問いかける。

「うん。顔を見せる順番。あの、挨拶する順番」

「あいさつ・・・」

 止まらなくなってしまった京子の涙を、彼は優しく指で拭ってくれた。

「まず、京ちゃんが退院してから、一緒に行かなきゃ行けなかったんだけど…。パニック起こしちゃって。浮かれて…京ちゃんの実家に、真っ先に挨拶に行っちゃったんだ」

 彼の言葉に驚き、涙も呼吸も停止する。

 京子の驚愕に見開かれた視線の先で、彼は照れくさそうに頭を掻いた。

「京ちゃんの実家に土曜日は泊めてもらって、そのまま、今度は俺の実家に行って……。日曜は実家に泊まって、そのまま、両親連れて、また京ちゃんの実家に行って――」

「ちょっ…待ってよ。なんで、そこでまたうちに行くのよ?」

「え? 京ちゃんのご両親に、ご挨拶に。だって、こういうのは、家族がまず顔を合わせて…ほら、俺の方から頭下げないといけないと思って」

 当然のことをしたという顔で、彼が首を傾げる。

「そんなの、あたしが退院してから、まず、あんたの両親にご挨拶して……」

 そこで、気がつく。彼が、順番を間違えたと、そう言った、意味を。

「うん。そうなんだよね。けど、俺浮かれすぎて、パニック起こしてたんだ」

 照れて頭を掻く姿に、京子はベットへと倒れこんだ。

「だ、大丈夫?」

 慌てる彼など放って置いて、悩みに悩んだ三日間を振り返る。

 京子は、本当に不安だったのだ。職場で倒れて病院に担ぎ込まれ、聴かされた言葉は妊娠二ヶ月。

 その日の内に、同じ職場の彼には同僚から連絡してもらったはずだった。なのに、今来るか、今来るかと待っていたのに姿を現さない彼。「もしや自分は遊び相手で、妊娠は迷惑だったのか? 未婚の母になれってこと?」などと悩み始めて……。

 流産しかけた体は絶対安静なのに、不安で不安で仕方なかった。

 そんな自分を放って置いて、彼は京子の承諾を得る前に、どうやら両方の両親に結婚の許可を早々に取り付けに行っていたらしい。

 しかも、今日は月曜日。時刻は既に午後六時を回っている。そして彼は私服姿。


(ってことは……仕事も休んだってことでしょうね。いえ、この様子だと、仕事のことも忘れていた可能性ありね)


「どうしよう。看護師さん、呼んでこようか? 大丈夫?」

 おろおろと花束を抱えたままの彼は、京子の流す安堵の涙を誤解して、今にも看護師を呼びに病室を飛び出していきそうだ。

「どうして……あんたはそう間抜けてるのよ! 何より先に、あたしのご機嫌伺いが先でしょう! こっちは流産しかけたのよ!」

「え!? それは聞いてないよ!? 俺、係長にはおめでただって聞いて――。ああ!! だっ、だから入院したの!? そんな――俺の子は!?」

「あんたのせいで流出寸前よ! 安静にしなきゃなのに!! 妊婦を不安にさせんじゃないわよーっ!!!」

 安静にしていれば大丈夫。

 けれど、ちっとも安静にしていなくっても、八ヵ月後、元気な女の子はちゃんと生まれた。


 以前乗せた事のある話ですが、改めて…

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