第9話「言葉を超えた叫び」
膠着状態が続く室内で、暖炉の薪がはぜる音だけが異様に大きく響いていた。
使者はゼルグの恐ろしい形相に怯えながらも、任務を遂行しなければ自分が処罰されるという焦りから、半ば自暴自棄になって声を張り上げた。
「兵士たちよ、リオン殿下をお連れしろ。獣が邪魔立てするなら、切り捨てても構わん」
使者の命令を受け、金属の鎧を鳴らして兵士たちが一斉に前に出る。
刃が鞘から引き抜かれる鋭い音が、リオンの耳膜を冷たく切り裂いた。
銀色に光る剣先がゼルグに向けられるのを見て、リオンの心臓が凍りつく。
ゼルグは武器を持っていなかったが、その身に宿る野生の力だけで十分に兵士たちを蹂躙できることは明白だった。
彼は腰を低く落とし、鋭い爪が伸びた両手を前に構え、迎撃の姿勢をとる。
血が流れ、取り返しのつかない事態になるのは目に見えていた。
『僕のせいで、ゼルグを傷つけさせはしない』
リオンはゼルグの背後から飛び出し、兵士たちとゼルグの間に両手を広げて立ちはだかった。
想定外の行動に、兵士たちは驚いて足を止め、剣先をわずかに下げる。
使者も目を見開き、信じられないものを見るような顔でリオンを凝視した。
「殿下、何をしておいでですか。早くこちらへ」
使者の苛立ちを含んだ声が響くが、リオンは首を横に強く振った。
膝の震えは止まらず、恐怖で声帯が引きつっているが、それでも彼の眼差しだけは決して揺らがなかった。
「僕は、帰りません」
絞り出すような声だったが、その響きには明確な拒絶の意志が込められていた。
「何を馬鹿なことを。このような獣の国で、正気を失われたのですか」
使者が嘲笑するように吐き捨てる。
「あなたは一族の恥だ。大人しく運命を受け入れ、次の国で少しでも役に立ちなさい」
過去のリオンであれば、その言葉に押しつぶされ、黙って従っていたかもしれない。
しかし、今の彼には、背中を守ってくれる温かい存在があった。
ゼルグが毎晩整えてくれた毛皮の寝床の温もり、一緒に土に触れ、種を植えた記憶。
不器用に微笑みかけてくれる黄金色の瞳。
それらのすべてが、リオンの心を強く打ち立てる柱となっていた。
リオンは使者から視線を外し、振り返ってゼルグを見上げた。
ゼルグは驚いたように目を見開き、リオンの細い背中を見つめている。
リオンは深く息を吸い込み、これまで少しずつ覚えてきた、拙い獣人の言葉を口にした。
「わたしは、ここに、います」
発音はおぼつかず、文法も不完全かもしれない。
それでも、一語一語に魂を込めて、リオンははっきりと音を紡いだ。
「ゼルグの、となりに、います」
その言葉が耳に届いた瞬間、ゼルグの瞳が大きく揺れ、黄金色の虹彩が光を増したように輝いた。
言葉の壁という見えない障害が、リオンの必死の訴えによって完全に打ち砕かれた瞬間だった。
ゼルグは短く吠えるような音を立て、リオンの体を後ろから強く抱きしめる。
太い腕がリオンの腰に巻き付き、大きな胸板が背中にぴたりと密着する。
アルファの強烈な庇護欲と、絶対的な愛情が込められた抱擁だった。
ゼルグはリオンの肩越しに使者を睨みつけ、これまでで最も低く、腹の底から響くような声で威嚇の音を放った。
それは言葉ではなく、本能の底から湧き上がる明確な警告だった。
これ以上、自分の伴侶に手を出せば、容赦なく命を奪うという死の宣告。
空気が凍りつき、圧倒的な恐怖の前に使者と兵士たちは完全に戦意を喪失した。
剣を握る手から力が抜け、金属が床に落ちる鈍い音が部屋に響く。
使者は膝から崩れ落ち、青ざめた顔で荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
リオンはゼルグの腕の中で目を閉じ、その力強い心音に身を委ねる。
南の国の言葉を捨て、獣人の言葉で想いを伝えたことで、リオンは本当の意味でこの北の国の住人となったのだ。
外の吹雪の音は遠ざかり、部屋の中には互いの鼓動と、深く交じり合う二人の匂いだけが静かに満ちていた。




