第3話 悩みと
森のカフェしっぽっぽは、今日も平和――のはずだった。
サトルは開店前から、やけに胸騒ぎがしていた。
「今日は“重い”のが来る」
「天気予報みたいに言わないでください」
みどりさんがカウンターを拭きながら返す。
イチは入口で王の風格。
きなはすでに日向を確保。
トラは誰もいないのに愛想を振りまく練習中。
チビは通路で寝ている。もはや通常仕様。
ジルは棚の影で震えている。
ロンは入口で寝ている。
この犬、人生に緊張感がない。
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来店
昼前、扉が開く。
入ってきたのは三十代半ばほどの女性。
目の下にうっすらクマ。
肩は強張り、スマホを握りしめている。
「いらっしゃいませ」
みどりさんが柔らかく迎える。
女性は席につくが、落ち着かない。
スマホを見る。ため息。閉じる。ため息。
サトルはコーヒーを淹れながら観察する。
レベルは……高い。
「みどりさん、森ブレンド。やや深め」
「了解です」
女性の視線がふと動く。
棚の影。
ジルがいる。
震えている。
女性は思わず小さく笑った。
「……あの子、ずっと怖そうですね」
「ええ、常時です」
サトルが真顔で答える。
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ぽつりと
しばらくして、女性がぽつりと言った。
「会社で、異動が決まって」
ジルがびくっと跳ねる。
「急に、全然違う部署で」
イチがちらりと見る。
「自信がなくて……」
トラが近づく。
女性の膝に前足をかける。
営業開始。
女性は思わず撫でる。
少し、呼吸が緩む。
「失敗したらどうしようって、ずっと考えてしまって」
ジルがカップの音で飛び上がる。
女性がそれを見て、また小さく笑う。
「この子、すごいびっくりしますね」
「ええ。物音、視線、空気、だいたい全部に反応します」
「疲れませんか?」
「たぶん、めちゃくちゃ疲れてます」
サトルは真顔だ。
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猫の仕事
女性はトラを撫でながら言う。
「私も、ずっとびくびくしてます」
「似てますね」
サトルがさらっと言う。
「え?」
「ジルも、毎日びくびくしてます。でも」
その瞬間、ロンが寝言で「わふっ」と吠えた。
ジル、空中ジャンプ。
女性、吹き出す。
「すごい跳んだ!」
「自己ベスト更新です」
ジルは着地して、また棚の影へ戻る。
震えている。
だが、店から出て行かない。
「逃げないんですね」
女性が言う。
「ええ」
サトルは頷く。
「怖いけど、ここにいる。たぶんそれだけで十分なんです」
女性は少し黙る。
「でも、怖いままじゃダメですよね?」
「誰が決めたんです?」
サトルはコーヒーを置く。
「怖いままでも、仕事はできます。怖いままでも、異動はできます。怖いままでも、生きていけます」
ジルが小さくくしゃみをする。
全員がまたびくっとする。
ロンだけ寝ている。
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丸い猫
女性は棚の小物に目を向ける。
丸い猫の置物。
「これ、可愛いですね」
「利用者さん作です。なぜか全部丸い」
「なんだか安心します」
女性はそれを手に取る。
「完璧じゃなくていい、って感じで」
サトルは少し笑う。
「うちはだいたい丸いです」
「オーナーも?」
「腹回りが」
みどりさんが吹き出す。
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本音
女性はぽつりと続ける。
「失敗したら、どうしようって思って」
「失敗しますよ」
サトルは即答。
「え」
「私も毎日失敗してます」
異世界貿易で数量を一桁間違えたこともある。
猫用おやつと人間用クッキーを発注逆にしたこともある。
「でも、大体なんとかなります」
「本当ですか?」
「大体です」
ジルが棚の影からじっと女性を見ている。
震えながら。
女性はその視線に気づく。
「怖くても、いていいんですね」
「ええ」
「怖いまま、異動してもいいんですね」
「もちろん」
トラが喉を鳴らす。
きながいつの間にか女性の隣で丸くなっている。
イチは遠くから見守る王。
チビは通路で寝ている。邪魔だ。
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帰り際
女性は丸い猫の置物を買った。
「これ、デスクに置きます」
「きっと丸くしてくれます」
「何を?」
「心を」
女性は笑った。
入ってきた時より、肩が少し下がっている。
「また来ます」
「お待ちしてます」
扉が閉まる。
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夕方
サトルはジルを見下ろす。
震えている。
「今日も仕事したな」
ジルは理解していない顔だ。
だが、そこにいる。
みどりさんが言う。
「猫カフェって、案外すごいですね」
「猫は何もしてない」
「いますよ」
サトルは少し考える。
確かにそうだ。
何も解決していない。
異動は変わらない。
不安も消えていない。
だが。
怖いままでもいいと、思えた。
それだけで、十分なのかもしれない。
ロンが伸びをする。
今日初めて起きた。
ジルがびくっと跳ねる。
サトルもびくっとする。
森のカフェしっぽっぽは、今日も静かに誰かの心を少し丸くした。
怖いままでも、生きていける。
震えながらでも、ここにいていい。
それが、この店のやり方だった。




