第1話 しっぽっぽの地下事情
サトル、五十代後半。
最近の悩みは三つ。
老眼、腰、そして世界間貿易の為替レートである。
普通、五十代後半の経営者が悩むのは人件費とか売上とかだろう。
だがサトルは違う。
異世界との物々交換レートが、地味に不安定なのだ。
もっとも、その事実を知っているのは本人だけ。
森のカフェしっぽっぽは、今日も何事もない顔で開店した。
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地上:猫カフェ兼就労支援B型
一階は木目調の落ち着いた空間。
棚には利用者が作った小物が並ぶ。
丁寧に削られた木製スプーン。
やや縫い目の主張が強いポーチ。
そして、なぜか全部ほんのり太い猫の置物。
「サトルさん、この猫シリーズ、また丸くなってません?」
ウェイトレスのみどりさんが言う。
「時代は丸みだ」
「言い切りましたね」
言い切ったが根拠はない。
猫たちは今日も自由出勤。
イチはレジ横で王の風格。客を値踏みする目つき。
きなは常連客の膝で完全に溶けている。
トラは新規客を見つけては即座に距離を詰める営業担当。
チビは通路のど真ん中で寝ている。完全封鎖型。
そしてジル。
棚の影で震えている。
物音がすれば跳ね、くしゃみが聞こえれば硬直し、
自分の尻尾に驚いて横に飛ぶ。
だが、逃げない。
犬のロンは入口で寝ている。
番犬だが、精神的存在である。
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今日の来客
カラン、と扉が鳴る。
入ってきたのは、明らかに疲れている会社員。
目の下に影。ネクタイは少し曲がり、背中が丸い。
「あれはレベル4だな」
サトルは小声で言う。
「レベルって何ですか」
「心の消耗度」
みどりさんは慣れているので深く聞かない。
サトルは地下への扉をそっと開ける。
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地下:倉庫兼店舗
階段を降りると空気が変わる。
ここは異世界と繋がる倉庫兼店舗。
壁の向こうは異世界の市場区画だが、異世界人は地球へ来られない。
結界と理の制約らしい。
以前、森人族が三時間説明したが、サトルは五分で意識を失った。
行き来できるのはサトル一人だけ。
つまり責任も一人分で済むが、失敗も一人分で受け止める。
「仕入れだ」
声をかけると、鱗のある大柄な商人が振り向く。
蜥蜴人族のガルド。
「また来たか、人間」
「今日は軽めの精神安定系と、気力維持の香草茶」
「強すぎるのは出すな」
「常識の範囲でやる」
奥では鉱人族が金槌を振るい、魔力封入済みのカップを仕上げている。
棚の影では森人族が静かにこちらを見ている。
「猫はどうだ」
森人族が問う。
「一匹、常に震えている」
「それは均衡が保たれている証だ」
「どういう理屈だ」
「恐れを持つ存在が場にいることで、魔力の流れが安定する」
サトルは頷いたふりをする。
理解はしていない。
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接客という名の微調整
地上に戻る。
会社員はぼんやりとメニューを見ている。
「こちら、特別な香草茶です」
異世界仕入れだが、説明はふわっとする。
一口飲む。
肩が、少しだけ下がる。
「……今日は、無理に頑張らなくていい気がします」
「それが正解です」
ジルが棚の影から顔を出す。
震えている。
客が気づく。
「この子、怖がりですね」
「ええ、プロです」
ジルがさらに震える。
だが逃げない。
客は小さく笑う。
「でも、ここにいるんですね」
「怖くても、いる。それで十分です」
客は帰り際に、利用者の作った猫の置物を一つ買った。
やっぱり丸い。
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夕暮れ
閉店後。
猫たちは自由時間。
トラが爆走し、チビが巻き込まれ、イチが不機嫌そうに毛づくろいし、きなが丸まり、ジルは物音にびくっとする。
ロンは最後まで寝ている。
サトルは帳簿をつける。
地上の売上。
地下の仕入れ。
世界間のバランス。
蜥蜴人族、
鉱人族、
森人族。
彼らは向こう側で商いを続ける。
こちら側では、人が少しだけ呼吸を取り戻す。
ジルがそっとサトルの足元に来る。
震えている。
だが、今日は自分から近づいた。
「俺も毎日びびってるよ」
異世界貿易。
福祉経営。
猫の毛の掃除。
全部、不安定だ。
だが逃げない。
森のカフェしっぽっぽは、明日も開店する。
震えながらでも。
世界を少しだけ、つなぎながら。




