聖女と呼ばれ、すべてを失ったその後で
よろしくお願いします。
平民上がりの聖女って、少々失っても元通りなのでは……、とふと思って。
暗くなれば、手をかざして光を灯す。
傷が痛ければ、早く治れと念じて治す。
暗がりが怖ければ、何者からも守ってくれる強い壁があれば良いのに、と見えない壁で自分を囲む。
物心ついた頃から、当たり前のようにやってきたこれらは、どうも私以外には当たり前じゃなかったみたい。
暗い森の中で、パンだけの夕食を食べて、灯していた光を消す。
落ち葉の布団に、小さな鞄を枕にして、羽織っているローブがそのまま掛物代わりだ。朝までちゃんと寝たいから、見えない壁も壊れていないか確認しておかないと。まあ、結界っていうらしいんだけど。
眠りにつきながら、「どうしてこうなったんだろう……」と考えてしまう。昨日も、一昨日も。だけど、結局そんな事を考えたって無駄なんだと気付いて、眠りに落ちる。
* * *
お父さんもお母さんも死んでしまって、あちこち必死で彷徨って、気付いたら孤児院で過ごしていた。そこで、同じ孤児院の子の怪我を治してあげたら、急に大人たちが騒ぎ始めて、すぐに王宮から迎えが来た。
何でも、私が当たり前に使っていたこの力は、他の人には出来ない事だったらしい。光魔法だか聖魔法だか言われて、あっという間に飾り立てられて「聖女様」なんて呼ばれ始めた。
ある日突然両親がいなくなって、必死で、ただ生き延びるために、傷んだ食べ物を食べ頃に戻したり、泥水を綺麗にしたり、疲れた身体を癒しながら、安心して過ごせるどこかを探して歩き回っていただけなのに。
そして、綺麗に着飾った私を、王様や王子様、偉い人達が「美しく、愛らしい」と褒めそやした。
自分の見た目なんて気にした事がなかった。髪の色くらいは認識していたけれど、鏡なんてもの、存在も知らなかったから、当然見た事もなかった。やたら目が大きな色白の痩せっぽちな女を見て、「これが私か」と思っただけだった。
中でも、同じ年だという第一王子は、どこに行くにも付いてきて、逆に彼が行く先々にも私を連れ回した。
私には教師という人が何人もつけられて、正直、彼ら彼女らが教えてくれる事はちんぷんかんぷんだったけど、第一王子は、「分からない事は僕も教えてあげるよ」と、優しく笑いかけてくれた。
それだけではない。彼は、勉強以外に私に初恋を教えてくれた。
毎日毎日、「可愛い」とか「好き」とか言われて、「君に似合うから」ってドレスや宝石をプレゼントされて、「君が好きだと思って」ってとびきり美味しいお菓子を食べさせてくれて、どろっどろに甘やかされて絆されたのかも知れない。
それでも、初めて口付けられた時は、あまりの近さにどきどきしたし、「未来の王妃として、この国唯一の聖女として、僕を支えてほしい」と見つめられれば全力で頷いた。そして、彼のために勉強も修行も頑張ろうと思えた。正直、勉強と修行しかしていなかったから、聖女の仕事ってよく分からなかったけど。
そのうち、私の方も王宮の暮らしに慣れてきて、「何か欲しいものはない?」と聞かれたら、あのとびきり美味しいお菓子を希望したり、「何色が好き?」と聞かれて髪の毛と似たピンク色が好きと言ったり、自分からおねだりする事も覚えた。
侍女や侍従ら使用人には、「彼らは君がこれから守る国から給金が支払われている。やってもらって当然なんだ」と彼が言うから、お礼を言った事もなければ名前で呼んだ事もない。
そんな毎日で、いつもどんなときも、四六時中一緒にいるから、全く知らなかったし気付かなかった。
彼、第一王子に婚約者がいた事に。
それこそ、
「聖女リリアーナ、貴様の数々の愚行を、今日この場で断罪する!」
と、別人かと思うくらい険しい顔の第一王子が、とある夜会で隣の金髪美女の腰を抱いて、私に向かってそう叫んでくるまで。
「えっ? 誰?」と思っていたら、すぐに王子が教えてくれた。
「ここにいる私の婚約者、メアリーアンが教えてくれた。貴様がこの国を守るどころか食い潰しているとな!」
なるほど。あの金髪美女はメアリーアンといい、第一王子の婚約者らしい。婚約者って、結婚する人だよね? いずれ王妃になる人? え? でも私、「未来の王妃として支えてくれ」とか言われてたんだけど?
頭の中に疑問符が絶えず生まれてくる私は、さぞ間抜けな顔をしていただろうと思う。
「卑しく愚鈍な貴様には分からないか? あれほど優秀な教師をつけてやったのに、貴様は全く学んでこなかったからな」
いやいや。……いやいやいやいや。
あの人達、いきなり国の歴史とか、政治とか教えてきてたよ。こっちは字も書けない読めないところから始めるのに。分厚い、小さい文字の本をどーんと押し付けてきてさ。学ぶ以前でしょ。
「お陰で、私まで貴様のために時間を割く事になった。この第一王子である私に、公務に穴を開けさせた損害は大きい」
えええ。勝手に来てたじゃん。そりゃ、教師より優しいし、一緒にいてくれると嬉しかったけどさ。こちとら来てくれとは一言も……。いやでも、実際時間を割いてくれてるから言えないけど。
「挙げ句、聖女である事を笠に着て贅沢三昧! 聖女でありながら、ドレスを身に纏い王宮でぬくぬくと。貴様が所望した菓子も、ピンクダイヤモンドも、高価でこの国では簡単に手に入らぬ希少なものだ!」
えっ? ドレスだって勝手に着せられたし、王宮以外の居場所なんて知らないんだけど。聖女って何を着てどこにいるのが正解なの? 何も知らないよ。
……あのお菓子。そんなに貴重なの? えええ? 隣国から輸入されたお菓子で、毎日長蛇の列が出来ている?
ピンクダイヤモンドはさー。好きな色を聞かれて答えただけなんだけど。そしたら次の日に贈ってくれたから、びっくりしたけど、もう贈り物に慣れちゃってて普通に受け取っちゃったよ。
「王宮の使用人への態度も酷い! 終始、徹底して無視するなど、人とも思わぬ態度だと聞いている」
それもさ。侍女がつくなんて初めてだからどうしたら良い? って聞いたよね。そしたら貴方が「やってもらって当然」って。
まあ、無視する事は無かったとは思うけど。だって、ちゃんとした話し方とか知らないから、どう声掛けたら良いか分からなくて。だから、王子を参考に……、って、あんたの態度こそ!
「父上が、聖女には心安らかに過ごしてもらいたいと仰るから、私がこれほどに尽くしてやったのに、貴様は図に乗るばかりだ」
心安らかに……? 安らかって、何だろう。私は図に乗っていたのかな。もうよく分からない。
「そして、事もあろうに、この私を誑かして王妃の座に就こうと狙った。この美しく聡明なメアリーアンがいるというのに!」
だから知らないって。誰よ、メアリーアンって。ああ、そこの色っぽい金髪美女か。
私から王妃なんて願った事なんてないのに。彼に必要とされている、って思ったから首を縦に振って、無学ながらも精一杯やってきたのに!
「昨日までの私は、貴様の前で妙な熱に浮かされているようだった。どうも聖魔法には魅了の副作用があるのではないかという話だ。私だけでなく、父上や宰相まで魅了の術にかけて、何と罪深いことか」
副作用なら、こっちに防ぎようがなくない? ていうか、そんな駄々洩れているようなものなら、使用人達にこぞって嫌われるのって変じゃない?
とか、突っ込みたい気持ちもあるけど、もう黙っておく。聖魔法にはちょっと思うところがあるからだ。
「何より、修行をしていると言いながら、貴様の光魔法も聖魔法もここに来てからは衰えるばかりだ」
……そうなのだ。ここに来て、修行と言われる作業をすればするほど、治癒も回復も効果が乏しくなっていき、私自身も異常なほどに疲れるのだ。その疲労を癒す力はもうないほどに。
「聖女の力は、その清らかな心根に宿るという。怠惰で傲慢、強欲な貴様は、その力を失いつつあるのだ。そんな女を、我が国は聖女とは認めない!」
元々清らかな心を持っていたかは自信がないが、そういう事なのだろう。私にはもう、聖女と呼ばれる資質はない。
だから、続く第一王子の言葉にも、反論する事はない。
「貴様からは聖女の称号を剥奪し、国外追放とする」
* * *
そういう訳で、すぐに着ていたドレスを剥ぎ取られ、粗末なワンピース一枚とローブを着せられ、数日分の食料と水が入った鞄一つと一緒に馬車に詰め込まれると、辺境の地まで連れて来られ、遭難者が続出しているという樹海に放り出された。
樹海に入る以外は許さない、と樹海に足を踏み込みその背中が見えなくなるまで、馭者に見張られて。
小さく溜息をつき、私は樹海の奥へと歩みを進めていく。
実は、王宮からここにたどり着くまでの数日間、私は妙な安心感と、穏やかな気持ちに包まれていた。
最初は、「やはり王宮は庶民の私にとって息が詰まる場所だったのだ」と思った。
けれど、狭く簡素な馬車に乗せられているにも関わらず、徐々に体が楽になっていく感覚を覚え、衰えたはずの力が急激に回復しているのを自覚した。知識がない私には分からないけど、きっとあの王宮には、私の力を弱める何かがあった。
食料の中に一緒に、色んな味の飴があった。おそらく単に日持ちがする糖分ということで入れられていたのだろうが、甘党にはありがたい。そのうちの一つを舌の上で転がしながら、考えを巡らせる。
そういえば、王宮に向かう馬車の中でも飴を食べた。同行する人が差し出してくれたそれは、信じられないほど甘美な味がした。思えば、あれがきっかけで甘いものが好きになったのだ。
それはそうとして、と感傷を振り払い顔を上げる。
そうと分かれば……、とこっそり馭者と馬に回復魔法をかけ、追放予定の樹海への道を急いでもらった。
早く王宮から、この国から離れて遠くに行きたい。
そうして、今ここでこうしているのだ。
私は、聖女の地位も、恋した王子も、次期王妃の座も、ドレスも宝石も、豪華で快適な部屋も、希少でとびきり美味しいお菓子も、何から何まで世話をしてくれる使用人も、全部、全部失ってしまった。
それだけではない。もう、聖女と呼ばれる前にも二度と戻れない。
聖女と呼ばれる前に過ごしていた孤児院も、そこで優しく育ててくれたシスター達の愛も、寝食を共にした友人達も、もうなくしてしまった。
本当に、何もかも、なくなってしまった。
でも、と思う。
これってさ、前と一緒じゃない?
両親を喪って、孤児院まで彷徨い歩いた日々と、持っているものは何一つ変わらない。
いや、むしろこのローブがあるだけましかも。しかも当面の食料までもらっちゃって。
何の役にも立たないどころか、害でしかなかった修行だけど、始めた当初は色々役に立つものも教えてもらった。
朝起きて、土で汚れたワンピースを綺麗にする。そう、この清浄魔法とか。
王宮で清潔な暮らしを覚えちゃったからね。やっぱり綺麗な方が良い。追放された罪人には、身の丈に合わない贅沢っちゃ贅沢かも知れないけど。
力さえ戻れば、木の実だって果物だって食べられる。持たされたパンだって、いつ食べても焼き立ての味だ。
うん。全然問題ないな。
* * *
上手くいった。
こんなにもスムーズに聖女を追い出せるなんて。
そうほくそ笑むのは、第一王子の婚約者メアリーアンと、大司教だ。
光魔法と聖魔法を操るという少女が現れた時、王宮は歓喜のざわめきに包まれた。そして現れたのは、少々痩せ過ぎだが、ピンクブロンドに翡翠のような瞳の美少女で、国王も王子達も重臣達もこぞって浮かれた。
中でも、メアリーアンの婚約者である第一王子の惚れ込みようは異常だった。
メアリーアンには、冷静で取り澄ましたような笑顔しか見せない男が、聖女にはだらしなく頬を緩めて熱っぽい視線を送っていた。そして、四六時中彼女をそばに置き、毎日のように様々な贈り物をした。
父は、そんな王子と私と聖女の関係に、「今はお前から何も言うな。王子には陛下が対処される」と、静観を促した。父も面白くなさそうだったが、私の婚約者の地位が揺らぐ訳でもない。その時はぐっと怒りを呑み込んだ。
しかし、その距離はだんだん近くなり、ついに、彼は聖女にキスをして、「王妃として」の彼女の未来を乞うた。そして、それに聖女は応えた。
もう、我慢の限界だった。
大司教は、メアリーアンの公爵家の縁者だ。メアリーアンが王太子妃、いずれ王妃となる事で、受ける事が出来る恩恵がある。逆に、メアリーアンが破談となった際は、他の派閥の司教達にその座を脅かされる事を危惧していた。
二人は、聖女からその力と王子の愛を奪う事に決めた。元々、聖女なんて稀に現れる、いてもいなくても問題がない存在だ。聖女を排除する事に、躊躇いなんてなかった。
まず、修行と称して、黒水晶に魔力を注がせた。魔力を吸うその水晶が、徐々に聖女の力を奪っていった。
一方で、メアリーアンは、第一王子を魅了すべく、大聖堂の最奥に秘匿された魅了の魔法具を装着して王子との面会を繰り返した。徐々に目をとろんとさせて、熱を帯びた目で自分を見つめてくる王子に、思わずぞくぞくした。やっと。やっと自分に落ちてくれた。
あとは、いかに聖女が愚かで聖女に相応しくないのかを説いていった。聖女に非がない事も、聖女が悪いと言い聞かせた。聖魔法に魅了の作用があるなんてでたらめだ。
聖女を聖女たらしめる力も、余す事なく吸い取ってやった。黒水晶が一瞬きらっと閃き、聖女だったあの女から魔力が感知されなくなった瞬間、それが達成されたと分かった。今のあの女は、ちょっと可憐な容姿を持った、ただの孤児に過ぎない。
そして、あの断罪だ。聖女は最初ムッとした顔をしていたものの、不利だと悟ったのだろう。実際に力が失われている、そんな自覚もあったためだろう。文句一つ言わずに去って行った。
これが笑わずにおれようか。
これで、あの美しい王子も、次期王妃の座もメアリーアンのものだ。
「聖女を追い出しただと!?」
そんな、万事順調な空気が変わったのは、国王陛下が外遊から帰国してからだった。
そう、あの断罪は陛下不在中に行われた。本当は、王宮で開催される大きな夜会で派手に裁いてやりたかったが、国王陛下は聖女の力が弱まっていこうとも「体調次第でそんな時もあるのだろう」と寛容で、あの女が聖女だと認め揺るがなかった。だから、陛下不在中にメアリーアンの実家の公爵家で開いた夜会をその舞台に選んだ。
「はい。あの女にはもはや聖女の力など、欠片も残っておりません。あの強欲な女のために、国の金を使うなんて無駄でしょう」
「強欲って……、お前が勝手に次から次へと与えていただけではないか」
息子である王子の言葉に、呆れたように国王陛下が冷静に返す。
「しかし、あの女は聖女として何の働きもしておりません。実際、追放して七日が経ちますが、何の影響もございません」
「それはそうだろう。お前が、まだ王都に慣れず可哀想だと言うから待っておったのだぞ。そのうち力が弱まっているからと様子を見ていたのではないか」
「その力が完全に失われてしまえば、もう聖女とは言えません」
「本気で言っているのか? さてはあれほど入れ込んでおった聖女に振られたか」
「父上、何を! 私にはこのメアリーアンがおります」
「まあ、婚約者と円満なら言う事はないが……。元々、お前が聖女に懸想すべきではないとずっと止めておったのだから」
そこに、火急の知らせだと告げる者が来て、国王陛下に何やら小声で囁く。「国境を越えたか……」と言う、陛下の呟きだけが聞こえてきた。
「来い。お前達に、お前達が仕出かした事の影響とやらを教えてやる」
お前達、というその中に、メアリーアンが含まれている事に気付いて、何やら嫌な予感がする。陛下の声はどこまでも冷淡で、その目は怒りの火を灯していたから。
そして、心做しか、その怒りの視線の先は息子である王子ではなく、メアリーアンにある気がした。
「聖女は常に存在する。ただ今回のように、その力を惜しみなく使う者は珍しい。その力に気付く事なく生涯を終える者もいるくらいだ。今回は、彼女のこれまでの危機的状況がそうさせたのだろう」
国王陛下に促され、魔術師塔まで来た。その塔を登らずに、地下へと続く薄暗い階段を、先導する魔術師が光魔法で灯す光を頼りに降りて行く。
「この国の聖女は、ただ存在するだけでいい。神に愛されたその存在が幸福であるだけで、この国は神の加護を得られ、平和が保たれる」
「え。聖女の仕事とは……?」
「特にはない。聖女がここに来た時に、治癒の力が人の役に立つならと言っておったから、治療院での仕事を手伝ってもらう予定にしていた」
「……では、王宮で保護せずとも良かったのでは」
「あれだけ聖魔法を振り撒かれてはそうもいくまい。何者かに利用され、神の愛し子を不幸にする訳にはいかない」
はあ、と陛下は溜息をつき、呆れた顔で息子を見る。その後ろで、メアリーアンは急激に血の温度が下がっていくような嫌な感覚に襲われていた。
「神の加護は、その愛し子である聖女が心安らかである事が前提だ。それをお前達は……」
そう言ってたどり着いた部屋の前で、先導していた魔術師が何やら呪文を唱えると、扉の鍵が開き、自動で扉が開いた。
その部屋の中央では、巨大な水晶が、淡く鈍い虹色の光を放っている。
「これは、聖女の力に呼応して光る。ここ最近、徐々に光が鈍くなっていき、先ほど、急激にその輝きを失ったようだ。どうやら聖女が国境を越えたな」
淡く鈍いと思ったその光は、メアリーアン達が入ってきてからも、徐々に消えそうに弱まってきている。
大体、聖女の力は完全に失われたのではないの? それがこうして光っているという事はどういう事?
それより、この光が完全に消えたら、どうなるのだろう……。もう薄々分かっているその末路を言葉にしたくない。
「聖女追放後の様子は?」
「はい。三日ほどで以前の輝きを取り戻しておりました。つい先ほどまでは」
「そうか。無事なんだな」
魔術師の報告を聞き、国王陛下の目許がわずかに緩んだ。小さな溜息と共に、安堵の呟きを漏らす。
「何故……、このような大事な事を、もっと早く教えて下さらなかったのですか……」
王子が、掠れた弱々しい声で彼の父親に問う。どうやら彼も、この国の今後が見えたらしい。
「このような事を公言すれば、世間は聖女探しに躍起になる。聖女は心安らかに過ごしてこそ意味がある。だから、この事は、国王となる唯一の人間と、誓約を交わしたごく一部の魔術師しか知らぬ事だ。王妃ですら知らない」
えっ、と思わず声を呑む。途中までは、なるほどと思って聞いていた。だから、これから立太子する王子と、その妃となるメアリーアンに教えたのだと。
だが、王妃ですら知らないとは……?
「気付いてなかったか。お前がその身に着けている魅了のペンダントに気付かぬとでも? ドレスで隠しているが、その禍々しい気配は隠せない」
既に冷えていたはずの血の気が引く。血の気が引くのに、脈だけが異様に速くて、吐きそうだ。
「お前達に教えたのは、お前達の罪を知らしめた上で、このままここから出さないからだ。魅了という禁術を使う者を、魔術師塔以外の牢には入れられぬ。同じく、魅了の術に強く曝された者も、聖女の力をそんな石を使って吸い取った者も」
陛下の言葉にはっとして振り向くと、そこにはやはり顔面蒼白の大司教がいた。その傍らには、例の黒水晶を持つ魔術師が控えている。
「大体、そんな石如きに吸い取られて聖女の力が尽きるはずはない。聖女の力の根源は神なのだから」
「でも……、あの時確かに……」
「その水晶の限界だろう」
「待て、メアリーアン、聖女の力を吸い取るとは何の話だ!?」
やっと気付いたのね王子様。
聖女の力と容姿にのぼせていたのに、あっさりメアリーアンに魅了されて掌返し。メアリーアンや大司教の言葉を疑うことなく繰り広げた派手な断罪劇。きっと彼が王座についても、この国にろくな未来はなかっただろう。どうして私はこんな男のために……、とメアリーアンの胸に、どうしようもなく虚しい風が吹く。
くくっ、と自嘲気味に笑うと、王子は「まさかメアリーアン……」と青褪める。
「聖女が追い出されたと聞いて、すぐにお前達の所業が明らかになった。捕らえて牢に繋いでおけ!」
「はい、もう捕らえております」
陛下の言葉に答えた魔術師の言葉に驚く。そういえば、さっきから頭以外の体を動かしていない。試しに動かそうともびくともしない。そこに、見えなかった光の縄が現れる。もう、既に、きっとこの部屋に入った時から捕らわれていた。
そして、魔術師がぱちんと指を鳴らすと、首が軽くなった。魅了のペンダントが外れたのだ。いつの間にか魔術師の手に渡っていたそれを見て、「ああ、終わった」と思った。
途端に、王子の顔がはっとしたように正気に戻る。
「父上! 私は騙されていたのです! 私まで投獄されるおつもりですか!?」
そして、彼は父親に必死の形相で訴えるが、父である国王陛下は、もう彼を顧みることはなかった。
「お前が、一番罪深い。聖女への愛に溺れ婚約者を蔑ろにし、術に容易くかかると一転、聖女を独断で追放した」
「そんな……。今からでも聖女を、リリアーナを探せば……」
「それはお前が勝手につけた名だろう? 彼女の本名が聖女らしくないと言って。その名で探したとて見つかるものか」
「本名……」
「お前だけではない。お前を何度諌めようとも、防ぎ得なかった私も同罪だ。魔術師達と至急対策を考え、後で行く」
王子は言葉を失い、自分に背を向ける父を呆然と見ていた。
光の縄を引かれ連れて行かれる背中で、国王陛下と魔術師の会話が聞こえた。
「聖女の行方は?」
「キースが追っております」
「キースか……」
「ええ、我先にと名乗り出ておりましたが、あれは相当聖女様に心酔しておりますから……」
「連れて帰っては来ぬだろうなぁ……」
「聖女様次第ですね」
* * *
「聖女様、熊が捕れました。今日は熊にしましょう」
本当は、ぺらぺらのワンピース一枚で放逐されるところだったのを、樹海の中は日が当たらず寒いからとローブを与えられた。
持たされた食料だって、本来はもっと少ないはずだった。それを、鞄いっぱいに詰めて、隙間を飴で埋めてくれた。私が甘いものを好きな事を知っていて、色んな味の飴を用意してくれた。
それらの気遣いは、一度は情を交わした相手、とあの王子が施してくれたものではない。私とは、修行の時にすれ違う事があるかも知れない程度の、いち魔術師がしてくれた事だった。
樹海の中である朝突然、
「やっと見つけました。こんなに早く奥に進んでいるなんて思いませんでした」
と、木の上から飛び降りてきた彼を、最初は盗賊か暗殺者かと思った。
けれど、自らをキースと名乗った彼は、王宮の魔術師団の一員で、彼の師でもある筆頭魔術師の命を受けて、私を保護するために追って来たのだと言う。
その割には、「ま、勝手に名乗り出て、強引に役割を奪ってきたようなものなので。このまま除籍でも僕は構いませんけどね」と、私を王宮に連れ帰るわけでもなく、ただ、私の歩く方角へついて来る。
攻撃魔法が得意なキースのお陰で、木の実ばかりの私の食事に肉が増えた。
彼が引き摺ってきた熊の大きさにぎょっとする。引き摺ってきたと言っても、魔法で浮かせているので、大して重くはなさそうに片手で引いている。
「もう聖女じゃない」
「そうでしたね。つい癖になってて」
ちっとも悪びれた様子なく笑う彼の笑顔には、何となく見覚えがある。
彼、キースは、私が聖女かと例の孤児院から連れて行かれた時に、王宮から迎えに来ていた魔術師らしい。若いが優秀で、攻撃魔法とともに鑑定も出来る彼は、私を一目見て、その魔力の光の美しさに目も心も奪われたと言う。「顔も好きですよ」と、これまた悪びれずに付け足していた。
「本当に、間に合って良かった。追放まで秒読みの段階で、ローブと飴だけ何とか御者に渡して、後は、師匠に俺が聖女様を追うと宣言して……。馬車が思った以上に速くて、一時はどうなるかと思いましたが」
魔術師として、討伐やら修繕やらで国中を飛び回っているらしいキースは、あの夜会の日には王都に不在だったようだ。樹海で出会った彼は、私の無事を確認すると、そう一息に説明してくれた。
「とりあえず村に出ましたけど、これからどうするんですか聖女さ……、じゃなくて」
「リナでいい」
「えっ? 愛称……!」
「いや、本名だから」
「本名……」
あの王宮で、私の本名リナでは威厳が足りないと、第一王子にリリアーナという名前をつけられた。聖女リリアーナと、本名を長くしたような名前は、どこか落ち着かない気持ちになったが、あの頃は他にも色々あり過ぎて、毎日が落ち着かなかった。
「私、もう王宮には戻らないけど、貴方はどうするの?」
「俺の任務は聖女様の保護ですから。王宮に戻らないなら、一生傍について回るだけです」
「一生……?」
「はい。一生」
事も無げにそう言い切るキースに、微かな狂気を感じた気がした。だが依然にこにこと笑顔のキースに、「そう……」と見なかった振りをした。
「じゃあ、リナ様はこれからどちらに行きたいですか?」
「呼び捨てでいい。とりあえず、その熊は大きすぎるから、村の人達と分けよう」
樹海の中にある村は、元いた国でも隣国でもない、まるでどこの国にも属さない宙に浮いたような村だった。樹海の真ん中にぽっかり空いた臍のような村だ。
村の住人の中には、私のように国外追放になった罪人や、旅人や、世捨て人がいるのだが、死に物狂いで樹海を抜けこの村にたどり着いた人々は、すっかり生まれ変わったような心地で、ここで人生をやり直しているのだという。
基本的に自給自足だが、衣服や建材など、魔法が使える誰かが、こっそりどちらかの国で必要なほど仕入れてくるらしい。
「あっ、お姉ちゃんおかえりー」
「おかえりー」
「はーい、ただいまー」
「うわっ、でっかい熊」
そんな訳で、二日前にこの村に出た私達も、「あっ、また誰か出て来た」くらいの軽い調子で、あっさり受け入れられた。特にこども達はすぐに仲良くなってくれた。
「林檎がなってた。あと、キースが熊を獲って来たから、みんなで分けよう」
「わーい」
キースが獲って来た熊を地面に下ろす。私もこども達に林檎を渡す。林檎を受け取ったこども達は、また「わーい」とはしゃぐ。
「お姉ちゃん見て見て。この蛙、綺麗な色なの」
「いくら綺麗でも、足を怪我してるからすぐ死んじゃうよ」
「全然跳ばないんだぜー」
「本当だね。綺麗な色だ。足もすぐに治るといいね」
そう言ってこども達が差し出した蛙の足をそっと撫でる。すると、怪我なんてなかったかのように蛙が跳ねた。
「わっ、びっくりした。足が治った!?」
「怪我した振りだったのかなー」
「そんな訳ないだろ」
「みんなに綺麗な背中を見せてあげたかったんだよ、きっと」
「ええー?」
こども達はそう言って笑いながら、もう次の話題に移っている。そのうち大人達がやって来て、熊をどう捌くか相談し始めた。
「聖女の力の安売りですね」
「え? そう?」
「良いと思います」
こども達の様子が微笑ましくて、誰かとこんなに気楽に話せる事が楽しくて、思わず笑みが溢れてしまう。キースがそんな私に眩しそうに目を細める。
「リナの光は美しい。貴女が幸せに過ごせるよう、俺がその光を守ります」
「私には魔力の光なんて見えないけれど、そんなに入れ込むなんて、本当に魔法が好きなのね」
「ええ、好きですよ」
「そう」
* * *
キースは不思議そうに自分を見上げるリナを見て、微笑ましく感じた。
樹海で再会してから、リナは徐々に色んな表情を見せるようになった。
孤児院でリナを鑑定するように命じられたキースは、リナを遠目に一目見て、随分痩せた娘だ、とその小柄な痩身を、正直貧相だと思ってしまった。だが近付いて見れば、手入れはされていないがかなり愛らしく整った顔をしている事に気付く。翡翠のような大きな瞳に吸い寄せられるように目が合った瞬間、まずい、と思った。リナが無性に可愛く思えてきてしまった。鑑定に私情は挟みたくない。鑑定は公正でなければならない。
だが、そんな不安など掻き消すくらいに、リナの魔力は美しく強い光を放っていた。光魔法の白色と、聖魔法の虹色。可愛い容姿が好みな事を差し置いても、その眩い光に見惚れてしまった。文献でしか知らないその光は、確かに聖女のものだった。
王宮に向かう馬車の中で、緊張というよりもうんざりといった面持ちで黙り込むリナに、持っていた飴を一つあげた。リナに渡して自分も一つ口に放り込んだ。その様子を見て、リナがおずおずと飴の包みを開いて飴を食べた。初めて食べたのかも知れない。甘さに驚き、顔をほころばせた様子が可愛かった。
これから、王宮魔術師として、彼女を支えていかねばならない。見た目は可愛い女の子でも、彼女は尊く遠い存在だ。
そう思っていたのに、彼女は理不尽にも王宮から追い出されてしまった。勝手に持ち上げられて祀られて、勝手に引き摺り降ろされて、死ねとばかりに地に叩きつけられた。
けれど、結局、彼女は国境の樹海の中を生き延びたし、今ここで笑っている。
そして、遠いと思っていた彼女は、自分の名を呼び、目を見て、自分が獲って来た肉を食べ、彼女が採った果物を分けてくれる。
どうなるか分からないものだな。
聖女なんて唯一無二の存在でも、若手一番手と言われた魔術師でも、人生どこでどう転ぶか分からないものである。
「今思うと、私も、自分から何も知ろうとしなかったし、何もしようとしなかった。全部受け身で、愚かだったと思う。だから、聖女はいなくても、せめてあの国の人達が困らないでいてくれたら良いな」
リナがそう言った時、その場の空気全体が、一瞬虹色に煌めいた気がした。まるで、リナの願いに神が応えたように……。
いや多分、間違いない。
「あの王子と婚約者は?」
「あの金髪美女については、知らなかったとは言え、腹が立つ気持ちは理解できる。許せなかっただろうな……。王子は分からないけど、親切にしてもらったのは確かだし、あのお菓子は美味しかった。不幸になってほしいとは思わない」
ふーん、良かったな、と遠くで捕らえられている彼らに向けて思う。国王陛下がどう出るか分からないが、神はきっと彼らを不幸にはしない。
「私は色々知らな過ぎた。これからは、ちゃんと考えるようにするよ」
ああ、また眩しくなった。聖なる力を使いながら、生きるためだけにしか動かなかった彼女が、生き生きとこれからの生き方を笑顔で語っている。
「どこまでもお供します、聖女様」
読んでいただきありがとうございました。