第十六話:一速②
12月1日――
しとしと小雨の降る、星一つ見えない夜。
体が濡れて体温を奪われるのが分かる。
ただでさえ体の芯から冷える寒い日なのに、まったく踏んだり蹴ったりとはこの事だ。俺はいつも通り淡々と仕事をしていただけだ。
彼は息を殺して暗闇の中に潜んでいた。
狭い路地裏に置かれた薄汚れている木箱の陰。
雨に濡れたその木箱の中から獣肉の腐った臭いが漏れていた。
それは生ごみを捨てる為の木箱だった。
どこで失敗した。何故失敗した。
あー、こんな事は今まで一度だってなかったのに。
痛む右上腕部を押さえる。
彼の頭の中は混乱していた。
何が原因だ。原因は何だ。
あれだ、やはりあれだ。あれしかない。
何度考えてもあの2匹が頭に浮かんでくる。
犬と猫だ。
あの犬と猫だ。
特に薄気味悪い目付きのキジトラの猫。
何なんだ、あの猫は。
あれは猫のする事じゃない。
猫にあんな事は出来ない。
まるで人間だ。
知恵の回る人間を相手にしたような感覚だった。
猫の皮を被った人間。人間が猫に姿を変えたのか。
そんな事が出来るはずがない。
いや、待て。待て待て待て待て。
可能性があるとしたら…。
そうか、この世のモノじゃないヤツの仕業か。
そうか、そうか、そんなヤツの仕業だとしたら、まさか、悪魔か。悪魔なのか。
そうだ、こんな事が出来るのは悪魔に違いない。
そうだ、悪魔だ。
ここには悪魔がいるんだ。
悪魔がいるんだ。
あれは悪魔だ。猫の姿をした悪魔だ。
悪魔が猫の姿で現れたのだ。
相手が悪魔だと知っていたら失敗はしなかった。
相手が悪魔だと知っていたらやりようはあった。
相手が悪魔だと知っていたらもっと上手く、もっと狡猾に立ち回る事が出来た。
それにしても…。
あれが悪魔であるのなら、神の教えに従ってやるべき事はただ一つ。
悪魔は滅ぼさねばならない。悪魔はこの世界に存在してはならない。
それはそうと、あの猫以外にもこの地に悪魔はいるのか。
犬か。猫と一緒にいた、あの犬か。あれも悪魔に違いない。
詳しく調べて王国への報告に加えた方が良さそうだ。
彼はサメ革で出来た手甲を唇に当てて肌触りを確認する。
ザラザラとした砂のような感触が伝わってきた。
今まで気が立った時、彼はこうして何度も心を落ち着けてきた。
だが、悪魔を目の当たりにしたという思いは恐怖と興奮を交えた大きな荒波となり、心の中のざわつきは一向に静まる様子を見せない。
それもそうだ。
祖父が八幡神教の関係者だった事もあり、彼は幼少期より八幡神教の教えに直接関わる機会が多かった。その結果、周囲にいる大人よりも八幡神教に対して素直に深く帰依していた。
幼い頃の価値観を持ったまま彼は成長し、やがて王国の諜報機関に所属した。
年に数十回、悪魔憑きと呼ばれる神への反逆者や悪魔の僕である魔女を尋問にかけた後に裁判を行う事はあり、こちらは王国の諜報機関に従事する者として何度か関わった。
王国内に潜伏している悪魔憑きや魔女を見つけ出すだけでなく、証拠を集め尋問にかける為の準備を行うのも諜報機関に与えられた務め。
そんな折り、10年前に八幡神教の高位の陰陽師が国の行く末を占った時に出た結果が衝撃的な内容だった。
それを知らされた王国の敬虔な官僚や諜報機関の工作員たちは、神への献身と悪魔への敵愾心をより篤いものに変化させた。
勿論、彼とて例外ではない。
その当時、血気盛んな若者だった彼は、他の者と同様に姿の見えぬ敵に対して、悪は滅ぶべしという憤慨の気持ちを一層強める事になった。
そして、それと同時に心が怯えるほどの恐怖を抱いていた。
偉大な神の治める白き時代に暗雲が迫っているという恐怖。
悪魔とその僕が跳梁跋扈していた黒の時代を再び迎えるという恐怖。
愛する人たちが黒き者たちの忌み嫌われた呪いの言葉ともに心の臓を焼かれ死後に神の大地へ魂が昇華出来ぬ恐怖。
普通の人は“そうかもしれない”程度の想像をする事はあっても、そこまで本気で考える事はないだろう。だが彼の周囲は彼と同じ危機感を抱いていた。
互いに議論し合ううちに、その想像の危機感は今まさに起きつつある現実として具体性を帯びて彼と彼の親しい仲間の前に立ち上がった。
また、数年に一度、八幡神教が悪魔を討伐したという噂を人づてに聞く事もあった。
彼自身は悪魔討伐に関わった事は一度もない。
悪魔討伐は八幡神教の専権事項。諜報機関に所属している彼に権限はなかった。
だからこそ彼は悪魔を討伐する行為、その神聖な行為に憧れがあった。
はるか昔、神話の時代。
世界に怒りや悲しみが満ちていた暗黒の時代。
そんな世界を再生させる為に神が降臨した時代。
神の眷属たちと黒き悪魔たちが争いあった時代。
そして神は全てを飲み込み、現在まで続く新たな世界を創造した時代。
彼は眷属になりたかった。
神話の時代に生まれたかった。
神の教えこそ世界の理。
ただ、神の御心のままに。
彼の心は神への愛で満たされていた。
しかし、それは歪んでしまった純粋な愛のカタチだった。
――同時刻――
レオナードの嗅覚はヤツを捉えていた。
臭いのきつい紙巻きタバコを吸っている人はあちらこちらに残り香を撒き散らかす。当人がいなくても当人のいた場所や通り道が分かるくらい臭いを残していく。まるでゆらゆらと妖艶に揺らめく遊女の指のように、その臭いは鼻に纏わりつき一度でも嗅いでしまったら最後、どこまで離れても決して逃がしてくれない。鼻腔の奥に残り続ける。
人の放つ僅かな匂いであっても犬のレオナードにとってはヘビースモーカーが隣りにいるくらいの強烈な臭いに感じられた。それほど嗅覚に優れていた。その鼻がヤツを捉えた。
自分の主人に殺気を突き刺してきた怪しい人間。
それはいつもの戦場で向けられる殺気と似ても似つかない陰湿な殺気。冷酷な視線。人間では気付けないほどの小さな小さな感情の揺らぎ。
しかし主人がヤツに襲われる寸でのところで、ヤクシャの機転により危機は遠ざかった。
あの猫には感謝している。
普段は生意気で可愛げなんて欠片もないが、ヤクシャと絡むと主人が楽しそうな笑顔を向けてくる。その顔を見るのが大好きだからたまにヤクシャと遊んであげる。尻尾をブンブンさせてしまうのはご愛嬌。決して本心からではない、とレオナードは思っている。
そんな相棒が路地裏に入っていくのを見た軽装の騎士団長は、傘もささずに雨に濡れたまま相棒の姿を追った。
屋敷に潜んでいた正体不明の間者をこのまま逃がすわけにはいけない。
月明りも街灯もない狭い路地裏の真っ暗な夜道。ぼんやりと周囲は見えるものの、まだ目は暗さに慣れていない。
水溜まりに足を取られ、バシャっと水の広がる音がした。追っている事を相手に気付かれてはいけない。気付かれたら逃げてしまう。なるべく足音が立たないように騎士団長は慎重に歩を進めた。先行する相棒の姿は見えなくなったが、路地裏は今のところ一本道。そのまま前へ進む。
間者が出たのは今回が初めてではない。
過去に屋敷へ間者が侵入した事は何度かある。
その度に屋敷の警護班や我々騎士団、マリア様付きの使用人が間者を見つけて捕らえてきた。今まで見逃した事は一度もない。
だが、本日の間者はいつもと違った。
相当の手練れ。優れた技術と強靭な体躯の持ち主。
自分自身の能力を過信するわけではないが、まさかこの私が刃を向けられて斬られそうになる直前まで気付かなかったとは……。
少なくともこの10年、ここまで追い込まれた記憶はない。戦場でもそうだ。戦いなので当然勝ち負けはある。奇抜な策略や圧倒的な兵数に押されて死を覚悟した事もある。しかし自分の気付かぬうちに喉元に刃が……。そんな経験はない。まるで非現実の白昼夢を体験しているようだった。
今思い出してもゾッとする。
濃紺の着物に膝丈の袴と脚絆、黒い手甲。手には鈍い光を放つ鋭利な短刀が握られていた。
人間を人間として見ていない、何の感情も籠っていない冷たい視線。空虚の瞳。
緩みのない一文字に閉ざされた唇。
その表情はまるで能面。気配は一切なく、表情一つ変える事すらせず、無音でヤツはその牙を突き立ててきた。
普通の人間であれば他人を傷つける時、何かしらの感情が表に出てくるもの。それが全くなかった。直前まで殺気に気付けなかった。
ヤクシャ様がいなければ間違いなく殺られていた。
ヤクシャ様がヤツの腕に噛みつき、剣先が微妙にずれたお陰で助かった。
八幡神教のミヨシ様と来年の八幡十日戎の警護の打ち合わせの場所に何故ヤクシャ様がいたのか、それは分からない。
ヤクシャ様はあの大怪我以降、時折猫らしからぬ不可解な行動や仕草をする事がある。まるで人の言葉を理解しているんじゃないかと思う時もある。まあ、そんなはずはないか。たまたまだろうな。
騎士団長の目が暗闇に慣れてきた頃、遂にレオナードが捜索対象者を見つけたらしく、ワンワンと騎士団長を呼ぶ声が聞こえてきた。それまで彼は音をなるべく立てないよう慎重に歩いていたが、相棒の叫びを聞くやいなや、歩幅を大きくして勢いよく走り始める。地面に溜まった水が踏まれ激しく飛び散る音がバシャバシャと響いた。
……アイツか。
大きな木箱の裏に人が立っているのが見えた。
相棒はその人物に向かって積年の恨みを晴らさんとしているかの如く執拗な唸り声を上げ威嚇していた。
間違いない、ヤツだ。
騎士団長は走りながらロングソードを鞘から抜く。
相手は実力者、手加減している余裕はない。最初から殺すつもりでいかないと。
騎士団長は駆け出した勢いそのままに自分の間合いに入る。立ち止まらない。剣を構えもしない。そして相手の体を切りつけるべく躊躇なくロングソードを真横に振った。横一文字斬り。だがその一撃はヒラリとかわされる。
「貴様はどこの間者か」
騎士団長が問いかけるが返答はない。
だが相手から鋭い殺気を感じた。屋敷の時と違う。今は気配を隠そうとしていない。
騎士団長は数回剣を振った。その度に間者は木の葉のように舞い、巧みに剣先をかわしてくる。なかなか相手を捉える事が出来ない。そして間隙をつきカウンター攻撃を仕掛けられた。だが一瞬動きが鈍ったのを騎士団長は見逃さなかった。ヤクシャ様に噛まれた箇所が痛むのか。かなりの本気噛みだったからな。間者の初撃は剣でいなして対処した。
その後は剣と短刀の攻撃の応酬が幾度となく続いた。金属のぶつかり合う音が暗い路地裏に響く。
しかし徐々に間者が手数で押し始める。
素早い動きで翻弄してからの刺突が増えてきた。短刀の長所を活かした攻撃方法。
騎士団長はロングソードの柄の持ち方を変えた。握っている両手の間隔を広げて短刀の直線的な動きに対応する。
利き腕が負傷しているのにこの強さか。万全の状態だったら無事では済まないな。
一旦後ろに大きく下がり相手と間合いをとる騎士団長。そして剣先を相手に向けたままロングソード自体を低めに構える。下段の構えで敢えて刺突を誘う。相手は短刀。攻撃の際に腕が伸びたところをカウンターで利き腕を斬りにいく。
そんなイメージをしながら騎士団長は息を整えた。
それを見た彼は無理に距離を詰めようとしなかった。あの騎士は刺突狙いか。超接近戦に持ち込まないと短刀であるこちらは不利。あの悪魔の犬を狩る事が出来れば最良なのだが騎士を相手にしながらは難しい。それに元々戦う気はない。この場から逃げきることが出来ればそれで良い。俺の勝利はここで犬や騎士を狩る事ではない。本国へ戻り今回の件を報告する事。そして仲間と共に再びこの地に戻ってくれば良い。その時こそ悪魔どもを根絶やしにしてやる。それこそが俺の勝利、神徒たる者の役割。
彼は自身の行動に対して優先順位を設けた。
騎士団長は構えを崩さずにゆっくりと少しずつ前進する。じりじりと二人の距離は縮む。
先程まで降っていた雨は止み、月明りが濡れた地面に三つの影を作っていた。
一番小さな影は騎士団長の後ろでせわしなく左右に揺れている。しかし顔は常に間者の方を向いていた。レオナードは警戒心を解く事なく驚異的な集中力で間者の一挙手一投足を目で追っていた。
上空の風の流れは早いのか、雲が月明りを遮ろうとしていたその時、何の前触れもなく突如間者が動いた。
短刀を左手に持ち替えるとすぐに右手を懐に入れた。再び右手が見えた時には飛苦無が手裏剣のように騎士団長へ向かって一直線に飛んでいた。息をのむ間もない一瞬の出来事。
騎士団長は反射的に剣先を上げ飛苦無の軌道をずらす。間一髪、ロングソードに弾かれた飛苦無は路地裏の建物に突き刺さった。構えを崩した騎士団長は無意識に後ろへ一歩下がる。
マズイ、完全に不意を突かれた。
その場面を間者が見過ごす事はなかった。
続けざまに懐から飛苦無を出し、騎士団長へ投げつける。それと同時に高く跳躍して路地裏に建っていた平屋の屋根にあがり、そこから更に二階建ての建物の屋根に飛び移った。
二度目の投てきを先程と同じようにロングソードで防いだ騎士団長。気付くと間者は目の前から消えており、遠ざかっていく足音が屋根の上から聞こえてきた。
やられた。逃げられた。
苦虫を嚙み潰したような表情のまま騎士団長はロングソードを鞘に納刀した。深呼吸をして気持ちを落ち着ける。ヤツはどこの国もしくは組織の人間だろうか。まあ、あれ程の手練れの間者となれば必然と限られてくる。その辺の金目当ての奴らが運営している組織ではなかろう。それにしても何故主君の屋敷に忍び込んだのか。何かの情報収集のためか。私を狙うのが本来の目的だったとは思えない。あれは恐らく何かの拍子にそうなっただけだろう。捕らえる事が出来たら良かったのだが。
「さて、戻ろうか相棒。……相棒?」
周りを見渡すがレオナードの姿はどこにもない。何度か呼んだが返事はない。
「まさか、ヤツを追ったのか」
そう、その頃レオナードは間者を追跡していた。
あの時、レオナードは間者の動きを監視していた。そして平屋の屋根に向かって跳躍する間者を目で捉えた。レオナードはヤツは自分の主人の敵だと認知していた。なので追う事にためらいはない。だが普通の犬の脚では地上から4メートル以上の高さにある屋根の上に飛び移る真似など出来るはずもなく。例えどんな助走があったとしてもそれは不可能。
だからレオナードは自身の救済の力を発動した。
《一速解放》
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