第十五話:一速①
12月16日――
……わんわん。わんわんわん。
ゆめをみた。
なんか、すっごいいゆめ。
ごしゅじんさまといっしょ。
ごしゅじんさまとあそんだ。
すっごいたのしかった。
そんなゆめ。
パチパチと薪の弾ける音が暖炉から聞こえてきた。
レオナードが目を開けると、そこはいつもの光景だった。
ロッキングチェアに座り静かに本を読む騎士団長。
その傍らで床に寝そべるレオナード。
ゆったりとした時間が一人と一匹を優しく包み込む。
そんな穏やかな流れの中でレオナードは再び目を閉じた。
まどろみの世界へゆっくりとゆっくりと沈んでいく。
12月28日――
……わんわん。わんわんわん。
……だれだ。
おまえはだれだ、どこからきた。
えっ、ほんとうか。ごしゅじんさまのおやくにたてるのか。
ん?
よくわからないけど、どーでもいいよ。
これからもごしゅじんさまとずーっといっしょ。
ずっといっしょ。
レオナードと騎士団長は雪の降り積もった山の中にいた。
鉄と革で出来た軽装の防具と大型の動物の毛皮で出来た外套を羽織った騎士団長は10cmほど積もった新雪に足をとられ歩きにくそうだ。
一歩また一歩進む毎に足が雪に埋もれる。
たった10cmの積雪であっても毎度毎度足が雪の中に沈んでいくのは結構体力を削がれる。夏場の雪のない時と比べて歩幅は自然と短くなり、同じ距離を進むにしても倍以上の時間が掛かる。
そんな中を冷たい風がヒューッと吹く度にサラサラの雪が舞い、柔らかな朝日を浴びてキラキラと輝きながらダンスをしているようだった。
少し鼻息の荒い騎士団長に寄り添ってレオナードはリズミカルにゆったり歩く。
一匹と一人の頭上ではカモの群れが隊列を組んで飛んでいた。羽ばたく音と鳴き声が静寂の中で響き渡っている。
張りつめた冷たい空気がレオナードの鼻腔を突き刺す。
とてもとても寒い。こんなに寒いと今すぐにでも暖かい部屋に戻りたくなる。
この日は今年初めての寒波の朝。
今日もいつもと同じように朝の訓練が始まる。
「相棒、イノシシの足跡が雪の上に残っているのが分かるか。この足跡だ。ほら、臭いを嗅いでみろ。うん、分かるか。よしよし良いぞ、相棒は頭が良いな。まるでこちらの言葉が分かっているみたいだ。よし、じゃあこのイノシシを捕まえるぞ。さあ、行け相棒!」
レオナードはワンと軽く吠えるとイノシシの痕跡を辿りながら茂みの中へ入っていった。
その光景を優しい眼差しで見ていた騎士団長はふう~と呼吸を整える。
吐く息は白い。寒い。
「頑張れ、相棒」
そう一言呟くと騎士団長はレオナードの後を追って歩を進めた。
ここは常陽広葉樹や落葉広葉樹、針葉樹の多種多様な樹々が混在してそれぞれが自由に生きている山である。今は雪化粧の白い衣を纏いすっかり冬景色だが、少し前までは赤や黄色の暖かな色の葉が樹から落ちて地面に広がり、まるでふかふか柔らかいジュータンのようだった。
レオナードはそのジュータンの上を騎士団長と一緒に散歩するのがとても好きで、そんな日は寝るまで幸せな気持ちが続いていた。
だけど今は違う。
先行していたレオナードは辺りに漂う嫌な臭いに顔をしかめた。
全然楽しくない。
でも頑張ればご主人様が褒めてくれるからやる気だす。
その一念で臭いの元へ向かっていた。
……むり。
あー、だめだめ。これはだめなにおい。
むりだー、むりだわー。
ごしゅじんさまがいなければこんなことしてないわー。
さむいし、つめたいし、はしりにくいし。
はやいところあいつをみつけてごしゅじんさまにほめてもらおう。
レオナードはスピードを緩める事なく走り続ける。
すると程なくして嫌な臭いが少しずつ濃くなってきた。
間違いなくアイツに近付いている。
厳しい寒さが体を刺す。
木々に積もった雪は白いカーテンのように辺り一面を覆っていた。
そんな中をレオナードは鼻をひくひくさせて猪の足跡を追う。
更に臭いが濃くなる。
もう少し、あと少しで獲物に遭遇する。そんな予感がした。
そして。
……いた。
あいつがいた。
相手は一匹。
体はだいぶ大きい。
そのイノシシは自分を追ってきた相手を威嚇するような姿勢を見せている。
レオナードは興奮を抑えながらイノシシに向かって歩み寄った。
ワオーンと遠吠えし、騎士団長に獲物を見つけた事を知らせる。
二匹は互いの距離を詰めたものの、すぐには飛び掛かれない絶妙な間合いで相手の出方を伺う。
イノシシは獰猛な眼差しでレオナードを睨んでいる。
その体は頑丈な筋肉と硬くて粗い体毛に覆われ、口元では艶のある丸みを帯びた鋭い牙が光沢を放っていた。
また、ハッキリ分かるくらいに四肢が非常に発達しており、雪を蹴り上げる時に見えた足先には鋭い爪がついていた。
今にもレオナードに飛び掛かって来そうな雰囲気なのだが、向こうもレオナードを警戒しているのか動こうとしない。
……ほめられたい。
でも、こいつつよい。
うん、ごしゅじんさまをまつ。
レオナードは唸り声を上げながら何度も吠えてイノシシが動き出さないよう牽制した。
イノシシは始めこそ警戒して間合いをとっていたが、所詮は訓練のされていない野生の獣。その警戒心が長く続く事はなかった。
敵は目の前の犬一匹。
そう認識したイノシシは鼻息を荒く吐いてレオナードに向かって突っ込んできた。
雪に足を取られる事なく力強い踏み込みであっという間にレオナードを射程範囲内に収める。尖った牙が近付いてきた。
レオナードは反射的に体を逸らしてその攻撃を躱す。そしてすぐに反撃に転じた。鋭い歯でイノシシの体に噛み付こうとする。だがイノシシはブ厚い筋肉と見た目に似合わぬ俊敏な動きを武器にレオナードの牙からするりと逃れる。
しかし逃れた勢いそのままに、イノシシは大きな樹にドスンとぶつかってしまった。
雪がドサドサドサと落ちてくる。
だがイノシシは何事もなかったように体についた雪を振り払い、再びレオナードを睨みつけた。
……こまった。
なぜかわからないけど、がぶっとできない。
いやなやつだ。きらいやなつだ。つよいやつだ。
うー、ごしゅじんさまー。
イノシシはレオナードに向かって何度か突進した。その度にレオナードは躱してカウンター攻撃を仕掛けるがうまくヒットしない。しかも野生のイノシシの方が山の中の戦いに慣れているからなのか、気付くとレオナードは背の低い木々の生い茂っている狭い場所へ少しずつ追い込まれていた。
そしてここを頃合いと見たのか、イノシシは後ろ脚で何度か雪の地面を蹴り、より一層の殺気を込めた視線をレオナードに突き刺す。
……くる。
イノシシはまるでロケット弾のように真っ直ぐレオナードへ向かってきた。
……まずい。
どうしよう、どうしよう。
あいつはがぶっとできない。
あいつはすごくがんじょうだ。
あいつとぶつかったらたぶんまける。
あいつにまけないつよさからだがほしい。
んー、どうしよう、どうしよう。
レオナードはどうして良いか分からず固まったまま動けずにいた。
イノシシの牙はそんなレオナードの目前に迫ってくる。
……だめだ、やられる。
その時だった。
鋼の太い棒が飛んできてイノシシの体にぶつかった。
その途端、レオナード目掛けて突進していたイノシシの体の向きが鈍い音と共に少しずれ、その巨躯の勢いそのままに、木々の茂みの中へ転がり込むように突っ込んでいった。
「大丈夫か、相棒!」
騎士団長がレオナードの前に現れた。先程飛んできた棍棒を片手で拾い上げると、騎士団長はイノシシを追い掛けて茂みの中に身を消した。
……ごしゅじんさまー。
まって、まって、おいてかないでー。
いっしょがいいー。いっしょがいいよー。
慌ててレオナードは騎士団長を追う。
茂みの中で葉の落ちた背の低い木々の枝が体にチクチク刺さってきた。
だけど痛いのを必死に我慢して一生懸命追い掛ける。
やがて騎士団長の姿が見えた。
体を左右に揺らしながらヨロヨロと走っているイノシシに追いつき棍棒を振り下ろそうとしている。
……ごしゅじんさまー。いっけー。
騎士団長の一撃がイノシシの頭部に命中した。ゴンと鈍い音が重く響く。そしてイノシシは二歩三歩進んだものの足取りが定まらずその場に崩れるように倒れた。
……ごしゅじんさまー。さっすがー。
レオナードは尾をブンブン振って騎士団長に駆け寄る。
「相棒、ありがとう。こんな大物イノシシを捕まえる事が出来たのは相棒が見つけて足止めしてくれたお陰だな。よくやったな」騎士団長はゴツゴツした手のひらでレオナードの頭を優しく撫でた。
……ごしゅじんさまにほめられたー。
やったー、やったー、やったー。ほめられたー。
レオナードの尻尾は止まる気配を一向に見せない。
「ははは、素直で可愛いなあ相棒」騎士団長は白い吐息を漏らしながら微笑んだ。そして雪の上に伏しているイノシシに視線を移す。「それにしてもこの鋼の棍棒の投擲をマトモに喰らったにも関わらず倒れる事なく動き続けるとは驚きだ。頭部に打撃を叩き込んで何とか倒す事は出来たがまるで防御に重きをおいた騎士のような頑丈さがあった。こんなのが野生で存在するとは……。この棍棒に関しても鍛冶師に作らせた特注の逸品だったが、こんなのが現れるとなると改良の余地はありそうだ。先端部の重量の増加と形状は六角ではなく八角の方が破壊力は増すかな。んー、ありかもしれん。よしよし、今回の訓練はイノシシ以外にも収穫があったな。さて、そろそろ屋敷へ戻ろうか相棒。今日は頑張ったな」
3月25日――
「ニャー、ニャー」
騎士団長にジョージが近寄り話し掛けた。何を言っているのか分からないが低い声を出してじーっと騎士団長を見つめている。不満そうな目つきだ。
……なんかいや。
ごしゅじんさまをわるくいうのはゆるせない。おしおきしてやる。
レオナードはジョージの言葉を理解出来なかった。しかしジョージの態度は面白くない。そんな気持ちがレオナードをイライラさせた。
レオナードは「ワン」と短く吠え、ジョージを追い掛け始めた。
二匹はマリアの部屋を所狭しと駆け回る。
もう少しで捕まえられると思った時、ジョージは椅子に飛び乗り、そのままハイジャンプで箪笥の上へ登ってしまった。
こうなるとレオナードは手出しできない。レオナードがどんなに頑張っても届かない高い位置から不遜な眼差しで見下すジョージをただただ恨めしそうに見上げるだけだ。
「残念だったな、相棒。今回もジョージ様の勝ちだ」
騎士団長は笑い声をあげる。すぐ隣には当然でしょと言わんばかりの表情をしたマリアが立っていた。ジョージの大怪我から1年。マリアに笑顔が戻ってきて本当に良かったと騎士団長はしみじみ思う。そんなマリアの後ろには女性使用人が微笑みを浮かべて静かに控えている。最近は騎士団長として特殊な任務にあたっており、2匹と3人がマリアの部屋に集うのは久しぶりだった。
「最近はお忙しいようで……」
「まあ、それなりに……」
「そういえば、この世のものとは思えない異形の獣についてお屋敷の使用人たちの間でも噂になっております。地獄の底で燃え盛る炎のような禍々しい瞳、全てを焼き尽くす吐息が口や鼻から漏れ、時折海に現れる大きな勇魚よりも更に巨大な体で大地を疾走する、銀色に輝く毛を纏い全てを切り裂く爪を持つ狼」
女性使用人は叙事詩を紡ぐ吟遊詩人のような語りで噂話を騎士団長に教える。
ん?
オレの前世の記憶が総動員される。
確か、悪魔召喚アニメの解説を受けた時に似たようなモンスターの事を教わったような……。
燃え盛る炎の瞳。
全てを焼き尽くす吐息。
銀色の輝く毛。
巨大な体躯の狼。
……。
…………。
………………。
それはアレだ。
神々に禍をもたらすもの。狼の姿をした怪物。
そう、フェンリル。フェンリルだ。
そんなものが出たらこの世界の人間では太刀打ち出来ないだろう。
「へえ、そんな狼がいたら是非お手合わせしてみたいものです。レオナードの訓練相手になれば良いのですが、異形の獣となるとさすがに荷が重いですかね」
マリアの部屋の中で騎士団長の乾いた笑い声が大きく響いていた。
いやいや、そんな怪物をレオナード氏の訓練相手にしたらいくつ命があっても足りないって。この世界にフェンリルのような怪物がいたらの話だけど。
オレは箪笥の上で欠伸をしながら大きく背伸びをした。
そんな事より、この前約束したカツオの刺身を早いところ持ってきてほしいものだ。まあ、この感じだと忘れているだろうニャー。
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