第十三話:相棒
大広間の入口付近でレオナード氏について考えていた。
それを察したのか舌を出してハッハッと息をしながら近付いてくる一匹の姿が視界に入ってくる。
余程退屈していたのだろう。
遊び相手を見付けたレオナード氏は尻尾をバタバタと振って嬉しそうにしてやがる。
頼むから吠えないでくれよ。
吠えたらお互いのご主人に迷惑かけるぜ。
スパッと処分される嫌な光景を想像したがそんな心配は杞憂だった。
騎士団長が普段から訓練しているだけあって一切声を出すことなく尻尾をバタバタさせながらオレの隣りにちょこんとお座りした。
本当、躾の行き届いている相棒だな。
まあ、そもそもこのような場にレオナード氏やオレがいるのが許されている自体、ペットに寛容な文化を持つ土地柄なんだろう。
そうこうしているうちに新年を祝う一連の行事の最大の見せ場、陰陽師が登場してカイモン卿の前で筮竹や式盤を使って今年の吉凶を占い始めた。
この世界の人々は陰陽師による占術で物事を決める事が多い。
そして占術に対する依存度は血液型占いや十二星座占いの比ではない。
例を出すと、戦争の開始日時や侵攻経路、犯罪者への処罰内容、治水工事の場所や婚姻、作付けの時期まで占術で決める。
それほどまでに人々の生活に深く関わっている陰陽師という職業は当然のようにある組織によって管理されている。
その組織の名前は八幡神教。
前世のオレの知るいくつかの宗教が融合したような教えや考え方を持つ一神教の宗教団体。
カイモン卿の領内にある八幡神教の教会は地方組織らしい。
一方で八幡神教に属さない所謂野良の陰陽師も少数だけど存在する。
彼等は民間陰陽師や呪術師、呪禁師と呼ばれ一般の平民相手の占術や祈祷での病気治療を行う。
目立たず静かに職を全うする分には問題ないのだが、多くの人々の役に立って知名度が上がり八幡神教に名前を知られるようになると大抵の場合異端者扱いされて迫害を受けてしまう。
商売敵は排除する。
いやはや、世知辛い世の中だ。
ちなみに本日登場したのは八幡神教所属の正規の陰陽師。
カイモン卿は爵位を持つだけあって民間陰陽師や呪術師に占術を依頼する事は許されていない。
まあオレから言わせてもらえば正規だろうと非正規だろうと所詮は占い。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
これで領内の物事を決めるなんてどうかしている。
ましてや祈祷で病気を治療するなんて無理もいいところだろう。
この世界の病気は神による懲罰または悪魔による呪詛が原因で発症すると考えているらしく、その根源に直接語り掛ける事で病状を回復させられると信じて疑わない。
また、薬師の集団もあり患者の体質や症状を診て複数の生薬を調合して病気を治そうとしている。
おそらく漢方薬に近い。
軽い風邪や腹痛程度だったら効き目もあるのだろうが、癌や肺結核のような病気に対して生薬だけで完治を目指すのは大変難しい。
結果的に陰陽師や呪禁師の祈祷にすがる人が絶たないのは文明レベルから考えたら仕方のない話かもしれない。
おっ、カイモン卿の周りがざわめき始めたニャ。
どうやら占術の結果が出たらしいニャ。
占いは信じてないけど、どんな結果になったのか興味あるニャー。
どれ、聞き耳でも立ててみるかニャ。
「ミヨシ様、危機が迫っているとはどういう事でしょうか」
騎士団長が陰陽師のミヨシに向かって声荒く言い放った。
それを受けてミヨシは困惑したように眉間にシワを寄せる。
「申し訳ないのですが生憎と残念な事に私は未来を見通す力を持っておりません。ですので具体的に何が起こるのか回答は難しいです。カイモン子爵の身に御難が訪れるのか子爵の領内に災厄が降りかかるのかそれは分かりません。ただし幽冥の騎士の影が見えた以上、カイモン子爵の周辺に相応の危機が迫っている事は間違いないです。あの騎士の影は神の怒りの前兆と謂われ恐れられ忌み嫌われているのですが、なにぶん稀有な前兆でして、私も文献でしか見たことがなく初めての事態にどうするのが正しい対処なのか分からず困惑しております」
大人の話を聞いていたマリアは不思議そうに目をくりくりさせて女性使用人に質問した。
「幽冥の騎士って誰?」
「それはですね、マリア様」
女性使用人はマリアと視線を合わせようと同じ高さまで膝を屈めてから答える。
「神に戦いを挑み神の怒りに触れ神によって奈落の最下層に落とされた悪魔。千の昼と千の夜を超えて日輪と月輪が重なりし時に現れる漆黒の悪魔。様々な言われ方をしますが、災厄と破滅の象徴と呼ばれる事が多いです。教典に出てくるので今度一緒に勉強しましょうね」
「恐い悪魔なの?」
「そうですね。幽冥の騎士は5億7600万の閉ざされた門をくぐった先にある、最果ての地へ堕ちた際に7孔と自我を失いました。それ故に幽冥の騎士は目がなく真の神と偽りの神の姿を見分ける事が出来ません。幽冥の騎士は耳がなく真の神の愛に溢れる言葉を聞く事が出来ません。幽冥の騎士は口がなく真の神の慈悲深き行いを語る事が出来ません。幽冥の騎士は鼻がなく真の神の創造した四季折々の美しい花の優しさを感じる事が出来ず理性や思慮が欠落しています。目、耳、口、鼻の7孔だけでなく自我すらない虚無の存在である幽冥の騎士は、本能のままに蠢く哀れで恐ろしい怪物です。神の座から最も離れたところにいる、とてもとても恐い悪魔ですよ」
「父上と騎士団の皆が退治してくれる?」
眉をひそめたマリアは今にも泣き出しそうな声で女性使用人に尋ねた。
「ええ、大丈夫です。皆様にお任せしましょう。マリア様は部屋にお戻りになった方が宜しいと思いますので一緒に行きましょうか」
女性使用人の言葉にマリアは頷き二人は手を繋いでそっと大広間を出ていった。
そして、カイモン卿を中心に30名の大人による話し合いは未だに続いていた。
「この地を治めるよう勅令を賜り二十数年が経つ。この長きの渡る歳月の中で幾度も危機は訪れた。しかし、その度に皆で協力して智慧を出し合い善き答えを導いてきたではないか。大丈夫、我には皆がいる。信頼出来る者が大勢いる。どんな危機が迫ろうとも共に手を携え困難に打ち勝ちこれを乗り超えていこうぞ」
怒声が響き始めた場の空気を変える為にカイモン卿は低い声で厳かに語った。
途端に人々は話を止め大広間は静まり返る。
なかなかやるじゃないか。
オレとレオナード氏はそんな彼等の様子を黙って眺めていた。
「昨年までは具体的に起こりうる事象と回避方法を頂戴しておりました。例えば雨期に日照りが続き飢饉に見舞われるから食料を集めこれに備えよだったり、降雪と共に悪魔の呪詛による疫病が蔓延し多くの人が流行り病に掛かるから市場を封鎖し人の流れを抑えよといったものです。しかし今回は違う。危機が迫っている、幽冥の騎士の影が見える。それだけでは何とも始末に負えないのです、ミヨシ様」
静寂の中で騎士団長は感情的にならぬようゆっくり丁寧に話しを繰り出した。
「それは分かっております」
ミヨシは気持ちが落ち着いたのか先程に比べて表情に余裕がある。
「先刻は大変見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ございません。私に不足しているのは未来を見通す力というより、私が見たものを言葉を通して皆様にお伝えする力です。幽冥の騎士の影とは何なのか。今まで見た事のないもの故に言語として表現するのが難しく、また焦りもあり危機が迫っているとしかお伝え出来ませんでした。それは今も変わりないです。しかしながら以前まで子爵の吉凶を占っておりましたカモノ殿であれば私の見たものを皆様にお伝え出来るかもしれません。カモノ殿は私より知識に長けており奇門遁甲の達人でもございます。現在は正殿の陰陽寮で八幡陰陽助の職を担っている事からも能力の高さは折り紙付きです」
「あー、なるほど。カモノ様であれば確かに可能かもしれません」
ゆったりとした黒のローブで全身を覆った男がミヨシの意見に同調した。
顔はフードに隠れていて表情を読み取る事は出来ない。
それにも関わらず他の者と一線を画する雰囲気を纏っていた。
首元から覗く銀色の長い髪と胸付近で存在感を放つペンダント。
夜空に煌めく輝星あるいは燃え盛る太陽を模したと思われる大きめのそのペンダントは、彼の印象をどことなく異質な存在に変容させている。
「閣下、八幡神教へ使いの者を出しカモノ様の協力を得られるよう取り付けては如何でしょうか」
ローブの男が言った。
数名から賛同の声が聞こえてくる。
「しかし宰相殿、八幡神教の正殿があるのは彼の国です」
「そんな事は百も承知です」
ローブの男が答える。
「それを踏まえても私は閣下及び領内の民の為に幽冥の騎士の影が示すものを事前に把握し対策を講じる事が必要と判断致しました。それともなにか、騎士団長殿は不吉な暗示があっても気にせず国務に励めよと、そう仰りたいのか。その結果閣下や領内に災厄が訪れようとも関係ないと」
「そうは言ってない」
「私にはそう聞こえる」
「国の者を使いに出さずとも、ミヨシ様や教会の者に行ってもらう事も出来るであろう」
「ミヨシ様をはじめとした司祭様達は八幡十日戎に必要不可欠。神と御使いに閣下と領内の繁栄を祈願する儀式があるのです。滞りなく八幡十日戎を遂行する為にもここに居てもらわなくて困る。騎士団長殿違いますか」
「それはそうだが。八幡十日戎の後に向かって頂く事は出来るのではないか」
「何を言い出すかと思えば随分と悠長な事を仰る。騎士団長殿、それではあまりに遅い、遅すぎる。危機への充分な備えも戦場での主導権争いも同じ事。正確な情報を如何に早く集める事が出来るか、それに尽きるのではないか。ここから八幡神教の正殿まで馬車を使っても片道で二十日は掛かる。途中整備の為されていない街道も多くあります故、どうしても時間を要してしまいます。だからこそ八幡十日戎の終了を待たずに正殿へ向かわないといけない。私はそう考えます」
「宰相殿の仰る事に異議なし。不吉の芽は一刻も早く取り除くべきだ」
騎士団長の斜め後ろで二人のやり取りを見ていた灰色の鎧に身を包んだ髭面の三十路の男性騎士が黒衣の宰相の意見を肯定する。
「何かが起きてからでは対応が後手に回ってしまう。我々は常に先手の行動で問題を解決し危機の回避を図ってきた。それが領内の民を守る事や繁栄に繋がったのではないか。今一度原点に立ち返り今回の問題に当たるべきだ。違いますか、皆様!」
あちらこちらで「その通り」「賛成」といった言葉が飛び交う。
先程まで話しがまとまらなかったこの場の雰囲気は一つの流れに向かって急激に傾き始めた。
黒衣の宰相は口角を緩めてニヤリと笑みを浮かべる。
「ここにいる多くの者が私の意見に賛同してくれたが勘違いしないでほしい。私の言った事は一意見でしかない。この地の領民や我々の行く末をご決断されるのは閣下である」
彼は一喝して全員に落ち着くよう言った。
「我ら一同、閣下のご意見を承りたく…」
この場にいる全員の視線がカイモン卿に注がれた。
もはやカイモン卿といえど宰相の意見を肯定するしかない雰囲気が漂っていた。
「うむ、騎士団長の言わんとしている事も理解出来るが、危機が迫っていると告げられて放置しておくわけにもいくまい。我の判断一つでお前たちと領民を失う事に繋がりかねん。まずは将来に対する危険性を取り除く事が重要だろうな。よし、八幡神教の正殿へ向かう構成員と日程を決めよ。詳細はお前に任せる。内容が決まり次第報告せよ、後は頼んだぞヤコウ。では、これにて新年を祝う行事は終了」
カイモン卿は宰相に向かって言った。
それを聞いた宰相ヤコウはうやうやしく一礼し大広間を後にした。
――マリアの部屋――
「それはどういう事ですか!」
声を荒げた女性使用人が騎士団長を問い詰めていた。
突然の大声に驚いたマリアは思わずヤクシャの尻尾をぎゅっと掴み、ヤクシャは鈍い声で一鳴きしてマリアに小さな抵抗を示した。
「何故マリア様が特使に選ばれたのですか!」
「いや、その……」
「何ですかそのおどおどした態度は。私はどうしてマリア様を特使に選んだのか聞いているだけです。ハッキリ仰ってください!」
コワいコワいコワいコワいコワいーーーーー!!!!!
姉さん、そんなに睨みを利かせたら誰だって何も言えなくなりますよ。
ほら、騎士団長もレオナード氏も萎縮しちゃってる。
もっと優しく尋ねてあげた方が返答しやすいと思うけどね、オレは。
まあ、そんな余裕がないのも分からんではないですが。
何でマリア様が特使…というのはオレも同意見。
誰がどう考えても、こんな幼い子を特使に選ぶのはおかしいだろ。
「ご存じの通り、千年王国の領内の東側に八幡神教の正殿は存在します。ですので正殿に向かう為とはいえ我ら騎士団を主として特使となって千年王国の領内に入っては揉め事の口実になりかねない。また、確たる証拠はないが彼の国は我が国に攻め入る建前とも言うべき理由を探しているのは間違いない。商人を特使にとの意見もありましたが、一般人を危ない目に遭わせてはならないという宰相殿の至極真っ当な意見でそれもなくなりました」
「それで?」
「はい、マリア様を特使にして八幡神教のカモノ様を訪ねる旨を公に宣伝した上で千年王国領内を通過すれば彼等は手を出して来ないだろうと。彼の国は面子を重んじる風習がありますので属国や周辺国からどのように見られているのかを大変気にします。まして八幡神教の正殿へ参詣する公女に刃を差し向けるとなると国内にいる八幡神教の教徒たちの暴動を引き起こしかねません。そのような事態は避けたいはずです。こういった話が会議の場でされマリア様の特使派遣が適任だろうとの意見出て、それに賛同する声が大勢を占めました」
「そのような事を言い出したのはどなたでしょうか」
「宰相殿です」
それを聞いた女性使用人は渋い表情で腕を組んだまま黙り込んだ。
またヤコウ氏か。
どの世界でもヤコウ氏はマリア様に害を為す存在だな。
ん?
害を為すとはどういう事だ。
記憶が曖昧で思い出せない。
前世の記憶のヤコウ氏は一体何をした?
「私はマリア様に付いていきますが構いませんよね」
「ええ、むしろそれを頼みたいのです。マリア様は同世代の子より大人びたところがあるとはいえまだ8歳。長旅ともなれば不安に駆られる機会も多い事でしょう。公女の警備を理由に数名の騎士団と傭兵団を護衛として一緒に派遣しますが、何かあった時にマリア様を任せられるのは貴方をおいて他はいない。私の知る限りこの領内で最もマリア様の信頼が厚く、最も武芸に優れた最強女子は間違いなく貴方です」
たまにマリア様の護衛の訓練の様子を見掛ける時があるけど、確かに只者じゃない殺気を放っている事があるな。
つい最近も屋敷内を歩いていたら不意に目の前に現れてビックリした。
足音はしないし気配もないし。
いやいやそのスキルは一般人が持ち合わせて良いレベルじゃないだろう。
それはそうと、オレも一緒に行ってもいいかな。
「あら、ヤクシャ様、いきなり私の足に纏わりついてきてどうしたのですか。そんなにゴロゴロ喉を鳴らしても一緒に連れていくわけにはいきませんよ」
「ヤクシャは駄目なの?」
マリアが寂しそうに尋ねた。
「ヤクシャ様は猫なので気まぐれにどこかを散歩するかもしれません。今回の旅はお屋敷から遠く離れた場所へ行きますのでヤクシャ様がいなくなったら見つける事は難しいですし、おそらく一人でお屋敷に戻ってくる事は出来ないと思います。マリア様はヤクシャ様がいなくなったら嫌ですよね」
マリアは小さく頷いた。
「残念ですがヤクシャ様にはお留守番して頂きましょう。その代わり、マリア様がお屋敷へ帰ってきた時に沢山土産話が出来るよう、マリア様は旅の道中の出来事を日記を書いて日々の様々な思い出を文章で残しておきましょうね。きっとヤクシャ様は一生懸命耳を立ててマリア様のお話を聞いてくださいますよ」
「うん、分かった」
マリアは不満そうに尻尾をぶんぶん振り回すヤクシャを抱えて部屋の片隅へ向かった。
そして箪笥の引き出しを開けて旅に持っていくものを物色している。
女性使用人はそんなマリアの様子を微笑ましく見ていたものの一抹の不安が心に引っ掛かって離れなかった。
「あの男が宰相になって2年。事あるごとに幼いマリア様を利用しようとしている気がします。嫌な予感がしてなりません。あの男は何を企んでいるのでしょうか」
「それは私も気になっていて、不穏な動きがないか、外国勢力との繋がりがないかを探っています。ただ、今回の件に限らず宰相殿に協調する者が増えておりまして、我が騎士団の中ですら宰相殿に共感を覚える者がいるほどです。こちらとしては目立った動きをして勘繰られてしまっては元も子もないので何をするにも慎重にならざるを得ない状態です。私としても主君であるカイモン卿やマリア様と敵対する勢力が領内にあるとしたら当然全力を対処します。例え神さえ私の所業を疑っても貴方だけには信頼して頂きたい」
屋敷内の女中たちの間で、甘いマスクで大人の魅力を振り撒いていると最近評判の騎士団長は、渋みのある低音ボイスでそう語り女性使用人を見つめた。
そんな騎士団長の真剣な眼差しに思わず目をそらしてしまった女性使用人は、コホンと一回咳払いをして再び騎士団長と目を合わせる。
「何を今更…。普段からマリア様のことをとても大切に想い、日頃からマリア様の為に力を尽くしてくださっている事はとうの昔に気付いております。そのような方を疑う気持ちなんて微塵もあるわけがないです。マリア様と同じく私も貴方を誰よりも信頼しております」
二人の間に何とも言えない微妙な空気が流れる。
どちらも言葉を発する機会を失ったようで固まったまま微動だにしない。
やれやれ、どうやらオレの出番かな。
仕方がない。ニャーニャー言いながら近付いてみるか。
「ニャーニャー」
ほら、可愛いだろ。
お二人の緊張を解きほぐす為にオレのモフモフの毛並みを撫でてみてはどうかニャ。
パリコレのランウェイを歩くモデルのように堂々とした姿勢でオレは二人へ向かう。
「こら、ヤクシャ。二人の邪魔をしちゃダメでしょ」
駆け寄ってきたマリア様に呆気なく捕獲されてしまった。
むう、残念だニャー。
「フフッ、マリア様にお気を遣わせてしまいましたね」
「ええ、本当に申し訳ない」
女性使用人と騎士団長は顔を合わせて恥ずかしそうに照れ笑いをしていた。
うん、一仕事終えた気分だニャ。
「それで出発はいつの予定でしょうか」
「明後日、1月4日です。傭兵団の選抜と編成は本日中に終わります。傭兵団に関しては私が個人的に懇意にしている者を中心に選びますので、身元と技術は確かな者たちです。そこに貴方も加わって頂きます。それと、マリア様が八幡神教正殿を尋ねる旨の噂を広めるべく、既に間者が行動を始めています。今回に関しては秘密裏に動くよりも公にした方が安全な旅路になると考えておりますので」
「分かりました。では私はマリア様の旅の準備を致します。マリア様の旅路の安全はお任せしますので本当によろしくお願い致します」
優しい笑みを浮かべた騎士団長は大きく頷いてそれに応えた。
そして相棒のレオナードと共にマリアの部屋を後にした。
――カイモン卿屋敷内、大広間――
黒縁眼鏡を掛けた初老の男性の甲高い声が大広間内に響き渡っていた。
それに対してカイモン卿含め10名の男性がただ静かに耳を傾けている。
「そのようなわけでご息女が辺境伯様の領内を通過し千年王国との国境まで向かう道中、ユタカ様の近衛師団が護衛させて頂く事になりましたのでご了承願いたい。辺境伯様の領内は安全なので事件等起こるはずもありませんが、警備の一つもせすにご息女をそのまま素通りさせてしまっては申し訳ないのでね」
「ショウゴモリ辺境伯並びにユタカ様のお心遣いに感謝申し上げます」
話を聞いた宰相ヤコウは深々と一礼した。
「絢爛華麗な装備と屈強な肉体を持つ騎士として有名なユタカ様の近衛師団に付き添って頂ければ、良い意味で注目を集める事が出来ます。マリア様が八幡神教正殿へ向かう上でこれ以上の安全策は考えられません」
「カイモン子爵は賢い家臣をお持ちだ。全く羨ましい限りですな」
「いえいえ、このような素晴らしき提案を授けてくださいましたキサラギ様こそ真の賢き者と言えましょう。ユタカ様の教育係としてショウゴモリ辺境伯からの信頼の厚い理由も納得しかありません」とヤコウは合の手を入れる。
キサラギは黒縁眼鏡を外し目頭を軽く押さえ一呼吸つくと再び眼鏡を掛けた。
そして満足そうに笑みをこぼしながら甲高い声で話を始める。
「ユタカ様は12歳となりました。次期当主に相応しい教養と先見の明をお持ちになりその才覚には私も驚きを禁じえません。特にこの1年の成長は本当に見違えるほどです。坊ちゃまの才能と素質は底が見えません。誠に驚かされる事ばかりです」
「辺境伯に仕える騎士団長と先日模擬戦を行い勝利したと聞きましたが」
「いえいえ、模擬戦の相手は騎士団長ではございません。騎士団の一介の団員です。ただし団員となり10年の戦歴を持つ中堅の騎士でした。その者を相手に始めこそ押されておりましたが徐々に巻き返し、最後はユタカ様が勝利を収めました。どこで身に付けたのか独特の構えから放たれる剣技はまるで荒波のように力強く、しかしながら川のせせらぎのように繊細で……」
キサラギの饒舌なユタカ自慢はその後もしばらく止まらなかった。
――2日後――
マリアの乗った馬車は蹄の音と共に八幡神教の正殿のある千年王国へ向かった。
馬車の前衛と周囲をユタカの近衛師団が警備し、騎士団長の選出した騎士団と傭兵団は後衛として近衛師団の後方から付いていく。
吐く息は白く、冷たい空気が頬を突き刺す。
とても寒い冬の朝だった。
「マリア様、ご無事で」
オレを抱えたまま騎士団長は一言呟く。
そして馬車が見えなくなるまでその姿を見送っていた。
「一緒に行きたい気持ちは分かりますが暴れるのは止めて頂けますか」
騎士団長の逞しい腕から逃れようと頑張っているオレを必死に抑える。
「ヤクシャ様は猫なので知らない土地で迷子になったらこの屋敷に二度と戻って来れなくなりますよ。旅が順調に進めば一月でマリア様は戻っていらっしゃいます」
いやいや違う。
オレが騎士団長から離れたいのはそういう理由じゃない。
騎士団長の鎧が冷え冷えでまるで氷に体を押し付けられている感覚なのよ。
体の芯まで冷たさが染み込んで、ただの罰ゲームになってるから。
レオナード氏、見てるだけじゃなくて助けてくれよ。
「ニャー……」
弱弱しい声でレオナード氏に訴えかけた。
そんなオレの気持ちを悟ってくれたのか騎士団長の足元でワンワン吠える。
「どうした相棒。……そうか、お前もマリア様が恋しいか」
いやいや違う。
相棒はそんな事考えてないよ。
「よし、今日はヤクシャ様と一緒にマリア様のお部屋に泊まるか。その方がヤクシャ様の気も紛れるだろうしな」
こうしてオレとレオナード氏は一夜を共に過ごす事になった。
その夜、驚くべき出来事がオレの目の前で繰り広げられる事になるのだが、この時はそんな事を知るわけもなく、オレはただ寒さに震えていた。
「お互い人間だったら、ご主人たちと話が出来るし一緒に旅にも出掛けられる。まあ、猫と犬として生まれたのも何かの意味はあるのかもしれないけど、やっぱり不便だよなー。寒いって伝えるのも一苦労だニャー」
オレが愚痴をこぼすとレオナード氏はワンと一言だけ返してきた。
やっぱり、お前もそう思うよなー。
――1月5日、鶏鳴
猫は夜行性ではない。
たしかに夜中に腹が減ってニャーニャー鳴く事はある。
自分の縄張りに侵入者がいないか確認する為にパトロールする事もある。
だけど毎晩元気に夜の大運動会をしているわけじゃない。
最も活動的なのは夕暮れと明け方だ。
夜はたいてい寝ている。
まして、家で飼われ続けている猫は家主の生活パターンに近付いていく。
今にも雪が降りそうなこんな寒い夜はベッドの中にいるのが一番幸せだ。
オレは猫に転生した元人間。
名前はヤクシャ。
只今ベッドの中でぬくぬくまどろむ猫生活を満喫中。
……のハズだった。
不意に部屋の扉の開く音が聞こえた。
真夜中の侵入者かと思い、オレはそっと顔を出す。
マリア様の留守中、この部屋の警備をするのもオレの仕事だ。
不審者は撃退しないとな。オレの猫パンチが火を噴くぜ。
と思って身構えたのだが。
……あれ、誰もいない。
部屋の扉は開いたまま。
マリア様の部屋の中はオレだけ。
人影どころか虫一匹いやしない。
オレはベッドから出てまずはゆっくり伸びをする。
うん、スッキリした。
どれ、何か変化はないか観察してみよう。
そう考えながらもう一度周りを見渡してみた。
部屋の中に灯りはなく夜の帳が辺りを覆っている。
だけどオレの目はそんな中でもハッキリと周囲を見る事が出来た。
部屋が荒らされている様子はない。
机や箪笥の上も綺麗に片付いている。
その一方で窓の外は真っ暗で何も見えない。
まるで漆黒の闇のようだ。
月明りを遮ってしまうくらい厚い雲が空を覆っているのだろうか。
ベッドの傍らに毛布が無造作に置かれていた。
緑色の毛布。
これはレオナード氏の寝床として騎士団長が持ち込んだものだ。
だけど肝心の相棒がそこにいなかった。
ん? レオナード氏がいない。
マリア様の部屋に一緒にお泊りしているはずの相棒の姿がどこにも見えない。
自分で扉を開けて部屋を出ていったのか。
そういえば意外と器用なところがあったな。
夜中に吠えられても困るし、面倒だけど探しにいくか。
オレは扉へ向かってゆっくりと足を進めた。
万が一を考えて警戒は怠らない。
それにしても寒い。
寒すぎる。
吐く息が白い。
呼吸する度に深々とした冷え込みで胸が締め付けられる。
ああ、肺が痛い。
いやはや寒すぎるにも程があるだろうと愚痴りながら扉の前まで辿り着いたオレはふと奇妙な感覚を覚えた。
何とも言えない違和感。
この先に行くな。
猫としての本能がそう言っている。
正確には危機感とは少し違う。
何かに拒絶されているような感覚。
オレがただの猫なら本能に従ってベッドに戻った事だろう。
そして何事もなかったかのように朝まで眠りこけていたに違いない。
だけどオレはただの猫じゃない。
人間の記憶と思考を持つちょっと変わった猫だ。
オレは本能が命令する指示を振り切って廊下へ足を踏み入れた。
その途端、まるで立ちくらみのような状態になった。
思わず床に腹這いになる。
何だこれは。
自分の目を疑った。
廊下が生き物のようにうねうねと波打っている。
それだけではない。
目に映る全ての景色が二重三重に歪んで重なりあって見える。
目の焦点が合ってない時の感じにも似ている。
その上、妙な不安感に胸を押し潰されて物凄く気持ち悪い。
今にも吐き出しそうだ。
マテマテマテマテマテーーーーー!!!!!
落ち着け、落ち着け。
目を閉じて無理やり深呼吸する。
吸い込む息が荒くなる。
吐く息が震える。
不安感と吐き気を抑える為に何度も深呼吸を繰り返して気持ちを整えた。
何分くらい同じ動作をしていたのだろうか。
気付くと普段の感覚に戻っているのが分かった。
不安感は残っているが理性で抑えられる程度に小さくなっている。
吐き気は消えた。
オレはもう一度深く呼吸してから静かに目を開けた。
目に見える景色は未だに歪んでいたが先程よりかなりマシになっている。
それにしても何が起きているんだ。
これは異常事態だ。
普通じゃない状況になっているのは間違いない。
そうだ、レオナード氏はどこへ行ったのか。
アイツは無事だろうか。
相棒に何かあったら騎士団長だけじゃなくマリア様も悲しむだろうな。
仕方ない、探しに行くか。
歪んで歩きにくい廊下を酔っ払いのような千鳥足になりながら進む。
そのままどのくらい歩き続けたのだろうか。さすがに疲れてきた。
うん、オレの知っている屋敷の廊下はこんなに長くない。やはり異常事態だ。
後ろを振り返るとマリア様の部屋の扉どころか延々と廊下の壁が続いていて一切の扉が見えない。
改めて正面を見直したがこちらも廊下の先が見えないくらいどこまでも道が続いている。
レオナード氏、どこにいるんだよー。
思わず叫んでしまった。
すると、何処からか犬の吠える声が聞こえた。
レオナード氏?
そんなに遠くない。
このまま廊下を進むしかないか。
オレは再び歩き出す。
それから間もなくして、虹色の輝きの溢れる部屋の入口が廊下の先に見えた。
その部屋は扉が開いたままになっていた。
あまりの超常現象ぶりにオレは警戒しながらそっと部屋の中を覗く。
そこはゆらゆらと揺らめく七色の輝きで満ちていた。
そんな光の中でレオナード氏と可愛らしいピンクの熊の縫いぐるみが向かい合って話をしている。
………?
状況の理解が追い付かない。
何だこのファンタジーな展開は。
オレは現状を把握する為に聞き耳を立てた。
まずは情報を得よう。
「今までもこれからも、世の理から外れるにはそれに応じた対価が必要になるぞ。ワシはお主がどうなろうと構わぬが、お主はそれで良いのじゃな」
どこか畏怖を感じさせる低く重厚な声が響き渡った。
そしてそれに応えるようにレオナード氏のワンと鳴く声が続く。
「ならばお主に新たな奇跡の力をくれてやろう。想像せよ、創造せよ、原初の導きのままに」
熊の縫いぐるみが右手を上に掲げると周囲の光がレオナード氏の体を包み込むように覆い被さり、その光はそのままレオナード氏の体に吸い込まれてやがて消えてしまった。
何だ、何が起きているんだ。
オレは混乱した。状況が飲み込めない。
あのピンクの熊の縫いぐるみは何なんだ。
奇跡の力?
あの熊は奇跡を力と言ったよな。
この世界に奇跡の力なんて存在しないはず。
でも確かに奇跡の力と言った。間違いなく奇跡と言った。
いやいや、そもそも何で熊の縫いぐるみが喋る?
どこの世界に喋る熊の縫いぐるみがいる?
ここは夢の中か?
オレは夢でも見ているのか?
熊の縫いぐるみはつぶらな瞳でレオナード氏を見つめた。
表情が動かないので何を考えているのか読み取る事は出来ない。
「お主の願いは聞き届けた。さらばだ。お主の世界へ戻るが良い。何、そんなに寂しがる事もない。原初の導きがあらばまた会う事もあるだろう」
その声に従うように相棒は熊の縫いぐるみに背を向けて部屋の出口に向かってきた。
まずい、このままだとオレたちは鉢合わせだ。
根拠はないがそれはヤバい気がする。
オレはもと来た道を一心不乱に駆け出した。
そうしないといけないように思えたからだ。
後ろを振り返る余裕もなくただただ前を向いて走った。
やがてこの不思議な廊下は再び大きくねじれ、ねじれた廊下は渦を描くようにぐるぐると回りだし、オレの意識は廊下が回転している光景を目の前にしたまま途絶えた。
そして、次に意識を取り戻したのはマリア様のベッドの中だった。
何とも言えないボンヤリした輪郭の記憶が残っている。
オレは夢を見ていたのか。
どんな夢だったのかハッキリ思い出せない。
何かヤバい状況から逃げていたような気がする。
それが何なのか。オレは思い出せない。
マリア様のベッドから顔だけ出した。
冷たい空気が頬を撫でる。
窓から差し込む月夜の明かりが部屋の中を照らした。
ベッドのすぐわきで相棒は緑の毛布で体を包み込んで眠っている。
冬の夜明けは遅い。
冬は朝が来るのが遅い。
この月夜の下、マリア様はまだ起きることなくお休み中だろうか。
オレはもう一度ベッドの中に潜り込んだ。
ぬくぬくまどろむ猫生活に戻ることにしよう。
二度寝したら夢の続きが見れるかもな。
なんか、嫌な感じの夢だったけど。
そんな事を考えながらオレは瞳を閉じた。
レオナード氏が目を見開いてこちらを見ているなんて気付きもせずに、オレは再び眠りについた。
この話の続きが読みたいと思って頂いた方は、ブックマークや広告の下にある評価をして頂けると大変嬉しいです。今後のモチベーションアップに繋がりますので宜しくお願いします。