第一話:転生したら猫でした①
今日は暑い一日になりそうだ。
果てしなくどこまでも続く青い空。
気持ち良さげに浮かぶ白い雲。
ギラギラと輝く太陽は満面の笑みを浮かべている。
その瞳は眼下に広がる大地を見渡していた。
燦燦と降り注がれるまばゆい光線。
そして一輪の花を抱えながら宙を羽ばたく天使。
その体はジリジリと太陽に照らされていた。
そんな天使においてけぼりにされた地上の影。
時折ゆらめきながら引き離されまいと慌てて追いかける。
――埼玉県川口市――
今年も梅雨が明けた。
例年通りの暑い夏を予感させる6月末。
正午になり昼食を求めて街中に人々が繰り出し始める。
厳しい日差しを避けようとビルの陰を多くの人が歩いた。
それはいつもの日常。
そこへヤツらは何の前触れもなく突然現れた。
そして、テレビやネットの報道番組でしか観る事のない光景を生み出した。
その結果、見慣れたものと違う景色が目の前に広がっていった。
川口駅の周辺に建っていた多くのショッピングセンターやビルは跡形もなく崩れ落ちる。
あっという間に瓦礫の塊となった。
元の姿を思い出せないほど破壊された。
何本もの薄気味悪い黒煙が立ち上がっているのが目に入る。
あちらこちらで蝉のざわめきに似た悲鳴や泣き喚く声が響き渡る。
まさに阿鼻叫喚。
大量の爆弾が雨のように降り注ぐ戦争が起きたのか。
数百年に一度の大災害が発生したのか。
否、戦争でも災害でもない。
人類はその長い歴史の中で一度も遭遇したことのないほどの最悪で最凶の存在。
終わりの始まり、または最後の審判、または世界の浄化。
後にそのように語られる、未曽有の災厄に直面していた。
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体の震えが止まらない。
バケモノがワタシ達に近付いてくる。
一歩、また一歩。
ゆっくり近付いてくる。
アレは何。何なの。
ワタシ達より遥かに大きい。
お父さんの二倍はあるんじゃないかというくらい背丈の大きなカマキリ。
十四年生きてきて、こんな生物に会った事は一度もない。
そのボディは色素の欠片すら見当たらないほど白い。
だけど空に浮かぶ雲の色とは全く異なる。
不健康で病的な印象を受ける白さ。
それがゆらりゆらりと左右に体を揺らしながら歩いて近付いてくるのだ。
その度に焦点の合ってない呆けたオジサンとオバサンの顔も大きく揺れる。
そう、本来カマキリの目があるだろう箇所に人間の顔が付いていた。
ワタシから見て左目側にはお父さんより年上だろう人。
会った事もないオジサンが呆けた顔で口を半開きにしている。
右目側の髪の長いオバサンは金魚のように唇をパクパクと開閉させる。
時折見せる薄ら笑いが気持ち悪い。
怖い。
不快。
気持ち悪い。
早く逃げたい。
ここから逃げ出したい。
負の感情がぐるぐる回る。
ぐるぐる、ぐるぐる。
ワタシの隣で6歳の弟が声を殺して泣いていた。
余程怖いのだろう。
体は小刻みに震えて顔は青ざめている。
そんな弟に何度声を掛けても、一向にここから動こうとしない。
まるで地中深くに根を張った大樹のように微動だにしない。
そして怯えている弟の両目は、その視線の先にいる不気味なバケモノを捉えたまま離れようとしなかった。
似たバケモノをネットで観た事はあったけど実物から感じる衝撃というか嫌悪感はちょっと半端ない。
何だろう、ぞわぞわして鳥肌が立つ。
生理的に受け付けられない。
脚の沢山生えた気持ち悪い虫を見つけた。
そんな時みたいな感じ。
理由なく嫌いになれる。最悪な気分。
だけど嫌がってばかりじゃダメ。
嫌な事をグチグチ考えているだけじゃ今の状況から何も進めない。
それに今の状況がかなりマズイって事は分かる。
このままじゃ二人とも間違いなくバケモノに殺されちゃう。
なのに弟は動こうとしないし、でも弟を置いて逃げる事は出来ないし。
もう、分かんない。分かんないよー。
どうしたら良いのか考えが整理されるより先に、カマキリに似たバケモノはその前脚に備わった鎌の届く範囲までワタシ達との距離を詰めてきた。
そして次の瞬間、気付いた時には鎌が伸びてワタシ達に向かっていた。
必中の間合い。
あっという間。
何が起きたのか理解出来ないほどのスピード。
ヤバい。ヤバい、ヤバい、ヤバい。
嫌だ、死にたくない。
やりたい事が沢山あった。
やり残した事が沢山あった。
叶えたい夢がある。
そう、ワタシには夢がある。
だけどワタシの体は自分の命よりも弟の命を守る為に動いた。
あっ、弟が危ない!
……!!
ダメ!!
弟に覆いかぶさるようにワタシは鎌に向かって体をひねった。
だが、容赦なくその鋭い鎌はワタシ達をまとめて捕えようとしていた。
しかし、ズドンと大きな音の響きとともにバケモノの体は黒い粒子となって飛び散る。
そのまま大気の中へ溶け込むように跡形もなく消えてしまった。
何が起きたのか分からない。
あまりに突然の出来事だった。
いなくなったバケモノの代わりに一人の女性が立っていた。
どこからともなく現れたその女性は荒野に咲いた一輪の向日葵のよう。
背筋が真っ直ぐで堂々とした雰囲気。
そして、まばゆい輝きを放っているように思えた。
バケモノと真逆。
人間としての圧倒的な存在感。体全体から生命力が溢れているみたい。
それにしても、すごく端正な顔立ちの人。
神話の時代に地上へ降り立った女神がいたとしたら、こんな綺麗な顔をしていたんだろうなあ。
ワタシはたまらず大きく息を吐き、膝から崩れ落ちるように地面にへたり込む。
緊張感が一気に解き放たれた。足に力が入らない。
危なかった。死ぬかと思った。
この女性が助けれくれた?
ありがとうってお礼を言わなくちゃー。
お礼を言わなくちゃいけないんだけど……。
何だろう、声を掛けて良いのかな。
んー……。
声を掛けちゃいけない雰囲気というか。
着ている服がちょっと……。
いやー、これって。
たぶん、おそらく、そう。
あー……。
うん、アニメに出てくる魔法少女ですよねー。
恩人だろう相手に対して、ワタシの心の扉は閉まりそうになったが何とか頑張って堪えた。
ワイヤーが入っているのかというくらい膨らみのあるボリューミーなスカート。
カラーは爽やかなレモン色で裾に鮮やかなオレンジ色のフリルが付いている。
袖にもフリルがあった。
そして胸元に付いているオレンジ色のとても大きなリボンは見る者の目を引く。
女性は膝ほどの長さのマントを風になびかせる。
切れ長の目でワタシに微笑みかけた。
クールで凛とした表情が印象的だった。
「よく頑張ったね、怖かったでしょ。そんな状態でも弟君を一生懸命守ろうとしたんだねー。エライエライ、エライぞー。うん、もう大丈夫、大丈夫だよ。ここからはウチが皆を護るから」
ワタシ達から少し離れた崩れ落ちたビルのそばでバケモノの群れに襲われそうになっている人たちが悲鳴を上げた。
綺麗なお姉さんはそちらに目線を向けると黄色のマントをひるがえす。
そして人々を救う為に驚異的な跳躍力で瞬く間にバケモノの群れの前に立ち塞がった。
「麻理亜さーん」
不意に声が聞こえワタシは空を見上げた。
男の人が白鳥のように大きく美しい翼をはためかせる。
そのままゆっくり下降してくるのが見えた。
男の人の背後から太陽の光がさしている。
とても眩しい。
逆光に照らされて顔は良く見えない。
だけどその逆光も相まって、ワタシにとって大きな翼の羽ばたきはまるで天使が地上に舞い降りる時の神聖な所作のように感じられた。
そして先程呼んでいた名前、マリアというのはあの綺麗なお姉さんの名前だろうか。
「あー、あらあらあらー……。いやー、別に良いのだけど、良いのだけど、やっぱりいつもの“ウチはムテキ”が出ちゃったなー……。いくら身体強化しているとはいえ、あの高さから落下しようとは普通思わないよなー。なんとかなるっしょって言いながら落ちていったけど、いやー、そうは言ってもポジティブな気持ちで落ちれるような高さじゃなかろうに……。本当に怖いもの知らずというか、目の前の事に一生懸命すぎるんだよなー」
ワタシの隣りに着地すると同時に男の人が愚痴をこぼすのが聞こえてきた。
そしてワタシと目が合う。
「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。弟と二人でどうしたらいいか分からなくて……」
助けに来てくれただろう相手にワタシは感謝を述べた。
こっちの男性は大丈夫。
うん、大丈夫。
翼があるけどコスプレじゃなさそうだし、たぶん例の能力者。
表情をこわばらせた弟はワタシにギュッと抱き付いたまま離れようとしなかった。
だけど先程までの震えは今はない。
そんなワタシたちに男の人は優しい笑みを浮かべてこう告げた。
「さっきの独り言聞こえてた? ごめんねー、癖になっててさー。何か変な事言ってた?」
え? この男性突然何の話を始めたの?
いきなりそんな事を語られてもどう返して良いのか……。
何だか会話が嚙み合わないなー。
ワタシは何と言えず曖昧な感じで「どうですかね」と首を傾げた。
こっちの男性も大丈夫じゃなかったかも……。
「そうだよね、まあ、その反応が正しいよね。いきなりこんな事を聞かれても困るよね」
彼はバケモノを次々と倒している麻理亜さんの方向へ歩みかけたがすぐに足を止めた。
振り返ってワタシと弟の顔を交互に見つめる。
「んー、君の名前を教えてくれるかい」
「……宮澤咲耶」
「オレの名前は八久舎。サクヤちゃん、君はやりたい事や叶えたい夢はあるかい」
「……はい」
「そっか。じゃあさ、君がその望みを叶える為には今日のこの災厄を乗り越えて生き抜かないといけないね。そうだねー、人っていうのは願望や欲望を糧に生きるエネルギーを生み出すんだよ。ただしネガティブな思考で生み出される願望や欲望は悪い結果になりがちでさ。たいていは他人や自分を傷付けて終わる事が多いというか。だからこそポジティブな思考でやりたい事や夢に挑戦してほしいとオレは思うわけだ」
この人は何が言いたいの?
ワタシは思わず顔をしかめてしまった。
「まあ、オレの言っている事を今は理解してもらえないと思うけど、サクヤちゃんはポジティブに前向きに未来へ向かって走ってほしいとオレは願っているのよ。麻理亜さんみたいに『ウチはムテキ』って言いながら困難を乗り越えてほしいと思うわけさ。日々を一生懸命に生きて生きて生き抜いて、その先にある未来を掴み取って。何となくだけど、そんな事を君に言わなくちゃいけない気がしてさ。いやー、ごめんね。本当、オレは何を言いたいのか……」
彼は自分でも不思議そうな表情をしていた。
何故そんな事を言ったのか、本当に自分でも分かっていないようだった。
そして、ごめんね、と何度か謝ったのち、「麻理亜さーん」と叫んで彼女の方へ羽ばたいていった。
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