枯死
開いていただきありがとうございます。
ここ2ヶ月ほど話らしい話が思いつかず、いよいよ苦しさが募ったために即興で書きました。
「私は枯れました。もう、何も書けはしません。」
便箋の頭に震えた文字で書かれたその言葉は、重かった。
その後にも、その心中の、深い嘆きの告白が綴られていた。
私は枯れました。今、こうして筆を執り、紙面と向かい合っている今、余計にそれを実感してなりません。少し前まで溢れるほどだった発想も、語彙も、殆ど、消えてなくなってしまいました。今までに学んだことは、なんだったのか。今までに重ねてきた努力は、なんだったのか。分からなくなりました。
いえ、恐らくは、分かった気になっていただけだったのでしょう。それでも、私は、この苦心が、何年かの後に実を結ぶ、やがて咲く花の、その礎となるのだと、そう思ってなりませんでした。
しかし、そんなものは、ただの都合のいい幻想でしかなかったようです。
私の才は、枯れました。まるで空に浮かぶ雲のように、呆気なく吹き散らされてしまったようなのです。今は僅かな断片のみが、私の中を駆け回っています。
しかし、こんなものでは、到底足りないのです。私はもっと、もっと高まって、そうしてやがて一時代を築く、そう自分の姿を夢想しては、それを深く深く信じていました。
実際に、それを叶えるだけの才はあったのです。そのはずなのです。
しかし、先述の通り、才は吹き散らされてしまいました。一日中、ただ空虚に、紙との睨み合いをしているばかりです。そんなことでは、いつまで経っても、以前のように書くことはできません。
何か、何か一つ、どんなに短い話でもいい。何か筆を進められれば、ここまでは追いつめられはしなかったでしょう。
ですが、実際の今の私は、何一つ書けません。一つの文字すら、浮かばないのです。
それでも、不思議なもので、こうして手紙をしたためるにあたってだけは、私の僅かに残った才の欠片が手を貸してくれているようで、私は今のこの、恐ろしい不安を、悔しさを、憤りを、伝えることができるのです。
私の書きたいものは、決して手紙ではありません。
しかし、今の私は、ただ一つ、手紙だけが書けるのです。
これでは、何の意味もない。いよいよ、意味がない。
元より、書けるからこそ、わざわざこんな醜悪な生に縋り、しがみついていたのです。
それがないのなら、最早、生きる意味などありません。
いずれは、吹き散らされた才がそっくり戻るかもしれない。
しかし、それは果たして、一体何年の歳月を要するのか、それを考えると、少なくとも当分は今までのような暮らしは無理なのではと、そう思います。
それならば、いっそここで、これまでの浅ましくしがみついてきた生を手放し、潔く落ち着くべきだと、そう思いました。
この手紙がそちらに届く頃には、私はこの世を去っているでしょう。
これまで、お世話になりました。
手紙はそこで一旦、終わっていた。
同封されていたもう1枚の便箋の端に、小さく書かれた言葉があった。
「今の私は果たして、作家「山茶花 享楽」なのか、それとも、ただの凡人の「荒櫛幸太郎」なのか、どちらか判断致し兼ねたために、手紙に名を書けずにいたことを、お詫び申し上げます。 荒櫛幸太郎より」
枯れた作家の編集は、全てを読み終えると、珈琲を一服した。
そして、熱を孕んだ息を吐く。
「お疲れ様でした。」
そう言うと、嘆くでも哀しむでもなく、静かに目を瞑り、黙祷したのだった。
前書きで述べた通り、書くための発想に困窮している次第です。
半年程前までは昼夜を問わず、色々な発想が浮かんでは頭の中を飛び交っていたのですが、今は見る影もありません。
多くの考えに触れようと本を読んでも、新たな構想に繋がらず、考えようとしている時間そのものが若さと時間の空費にしかなっていない無為なものだとさえ感じています。
再び良い考えが浮かべば良いのですが...