第2話「一ノ瀬レン」
俺は生まれつき一度、聞いたものや見たものを忘れることができなかった。
通称カメラアイ。サヴァン症候群の一種だ。
科学国際ウイルス研究所で准教授していた父さんの問題研究。偏差値の高い大学レベルの数式。解読も解答も小学生二年の時には完全に解けてしまった。同じ研究所で働く母さんもその事実に驚愕し、八歳でIQを測定。IQ一八〇を超えると診断され両親に喜ばれると思いきや逆の反応だった。俺を研究対象で拘束、もしくは普通の子どもとは違う世界でこの能力を利用されることを恐れたからだ。両親は念の為、姉の一ノ瀬美紅にも測定させたが結果はごく普通。
俺は稀にみる瞬間記憶能力の天才だったらしい。
化け物。いつか、そう呼ばれるかもしれないと恐れた両親は、姉にさえこの事実を隠蔽すると告白した。父さんはかつてそう呼ばれ、綱渡りの精神状態だったからだ。
天才はさぞ何でも出来て楽しいだろう、その言葉を何も知らないクラスメイトが発した時、憎悪で五臓六腑がねじ切れそうだった。何でも出来るということは達成感も感動もないということだ。喜びも嬉しさも、情動が起こらない虚無のような人生に俺は辟易していた。
俺を少しでも夢中にさせるものがあるとすれば、それはコンピュータの分析、解読だけだった。目新しい記号が羅列し、システムを構築するコンピュータの世界は問題が多い分、退屈しのぎに打って付けだ。高度なゲームを創る。新セキュリティシステムを構築する。新しいデバイスやアプリもこの世界は無限に創造できてしまう。俺はまだこの世に存在しない何かを創ってみたくなり初めて情動が湧いた。
だがある日、ある国際ニュースが目に飛び込んだ。世界各地にサーバーウイルスをばら撒き、数多くの企業の核となるシステムダウンを成功させたブラックハッカーの記事だ。未だ犯人が特定できず経済効果に大きな打撃が走っている、という内容だった。俺は匿名で、もちろん父さんにも内緒で退屈しのぎに、そのサーバーウイルスについて調べた。各地で寄せられる開示された情報を元に俺は3日でブラックハッカーを特定。サイバー犯罪課に匿名で通報すると、想像以上に大ニュースになり両親の前で嘘をつく羽目になった。目立つ行動はしない。これが唯一、両親と交わした約束だったからだ。
だが中三の冬、俺を揺るがす事件が起きた。
二月末日、両親の車が崖から転落。死因は自殺と判断されたのだ。奇妙なことに遺体は母さんの左腕だけ見つからなかった。
ひどく車が炎上した為だと警察は言っていた。だが母さんが欠かさず付けている時計はチタン製で、その残骸が見つからないのは不可解だった。その頃からだ。ハッカー破りのハッカーが噂で広まったのは。俺は別の界隈で目眩しを作りつつ、足跡をつけないよう事故報告データをハッキング。そこにはお粗末な報告書だけが記されていた。
俺は両親が自殺したとは到底思えなかった。安全ドライバーだった父さんは誰よりも準備を怠らない真面目な性格だ。時刻は午後三時。視線を遮る陽光もミラーもなく、対向車もない。道路は若干上り坂。事故死だと不自然が揃う。俺が事故現場を視察すると僅かだがブレーキ跡が見えた。自殺する人間がブレーキなど踏むはずがない。ましてや上り坂。午後の三時という点も違和感がある。俺は車体に何かの細工があったと確信した。つまり他殺だ。それに、俺にしか知らない父さんとの約束があった。父さんはこれまで約束を破ったことがない。自殺するはずがないと思った。
「レン、来月のホワイトデー、二人でショートケーキ作らないか? 実は母さんと美紅に、大きなケーキを作って驚かせたいんだ、レンは料理うまいから、一緒に作ってくれると父さん助かる」
「いいよ、じゃぁレシピ本買っといてよ。どんなものでも楽勝だから」
「おお、頼のむぞ、レン!」
その約束をしたのは二月十五日、両親が死亡する二週間前だ。
さらに父さんの書斎からレシピ本を発見。挟んであるレシートから本屋、周囲の監視カメラをハッキング。怪しい人影は無かったものの自殺を考えているような様相などひとつもない。
さらに不可解なのは父さんの研究データのファイルだ。事故当日、誰かの手によって一部のデータが削除されていた。自殺にしたかったのは保険があるからだろう。事故の保険金は別の調査が入る。ということは両親を殺害した犯人は会社関係の人間と思って間違いない。
しかし何故、何のために?
この事実を警察に報告しても無駄と分かっていた。巧妙な自殺に見せかけた事故。証拠がない限り警察は動けない。もしかしたら警察に仲間がいるかもしれない。安易には動けなかった。それに姉さんに言ったら俺の能力の話以前に、両親を失ったショックで情緒不安定になったのだと余計な心配をかける。それこそ姉さんにさらなる負担を負わせるので絶対に出来なかった。
「お前がハッカー破りのハッカーだろ? 一ノ瀬レン、まさか高校生とはな」
半年前、そう言ってきたのは左目に包帯をした背の高い男だった。名前は蜘蛛神壱千。三十代手前ってとこか。とにかく人間とは思えない感の鋭さ、洞察力、俊敏な動き、抗えない覇気のようなものが俺の体を縛り上げた。
「そうだよ、だったら何?」
降参するつもりもないが抵抗しても無駄。事情があるとはいえ不正アクセス禁止法に触れた俺は姉さんにどう説明しようかだけ考えた。
だが、その男は警察のくせに俺を逮捕するどころか協力して欲しい仕事があると言ってきた。しかもこれまでの罪は帳消し、報酬も文句のない高額で。壱千という男は誘拐された親戚をずっと探しているらしく、どうしても俺の力が必要だと懇願したのだ。
数分後、俺たちは喫茶店で向かい合わせに座っていた。俺は猜疑心が強いほうだが、この男は人を籠絡するような人間には見えなかった。警察バッジも細工なし。親族を探している話は本当のようだ。
「蜘蛛神ってさ、あの蜘蛛神神社のひと?」
「おお、そうだ。だが神社の後継者は弟な。だから苗字で呼ぶなよ」
サイバー犯罪対策課の中で政府公認、極秘で追っている組織がいくつかあるそうだ。人事売買、麻薬組織、自殺、暴力関連の闇サイト、金のある組織は高度なセキュリティまたは巧妙な手口で特定できないようになっているため相当な能力の持ち主でないと犯人を見付けるのは至難の業。父さんの言っていた通り、目立つことをしたせいで俺は目を付けられたというわけだ。
「でも、どうして分かったの? 俺がハッカー破りのハッカーだって」
「ああ、それな。随分前に世界的ニュースになったブラックハッカーを特定して匿名で電話してきたの、お前だろ?」
やはりそれか、と俺は顔色ひとつ変えないで返した。
「そうだよ」
「あの電話でたの、俺なんだよ。その時、直ぐにお前を探した」
やはりあの頃から目をつけられていたのかと嘆息を漏らした。しかし、おかしいな。足跡は完璧に消したはずなのに。
「でも、どうやって? あの時だって俺を探せないはずなのに」
「確かに探せなかった。お前は完璧だったよ。こんな逸材はそういない。だから俺は、ある特殊な能力を使ってお前を探した。人間にはない力だ」
「ふーん」
こいつ中二病か? と思ったが、ゆらり光る男の金眼に嘘はみえなかった。霊的なものは信じないがどうして正体を特定できたのか、今後のために確認しておく必要があるな。
「なら、次もその能力を使えばブラックを直ぐ特定できるんじゃないの? 俺は用無しでしょ」
「出来ねぇから頼んでだろうが。お前探すのにどんな苦労したと思ってんだよ」
「ふーん」なるほど。俺が以前の通報者と同一人物か一か八で今、確認したわけか。俺がハッカー破りのハッカーを目眩しとして演出したのは、研究所に目を着けられないだめだった。どの企業にもハッキングする、ただの通り魔にしておかないと時間を稼げないからな。
「なら俺のも協力してよ。それが条件だね」
「あ? 協力って?」
「一年前、両親が他殺された。でも警察は自殺と判定。俺は証拠を掴みたい」
「勝算はあるのか?」
「当然だろ。必ず見つけるさ。俺の全能力をかけて絶対、真相を炙り出してみせる」
「そんな危ない組織を嗅ぎまわったら、今度はお前が命狙われっぞ」
「別にいいよ。だけど……」
「だけど?」
「姉さんとある女だけは守りたい」
「ある女? 彼女か?」
「いや、ただの幼馴染」
「へぇ、幼馴染ねぇ。そんなに魅力的な子なんだ」
「別に。見ていて飽きない生物なだけ」
「よし。俺に力を貸してくれんなら勿論、協力するぜ。その女も護衛対象になるから名前教えろ」そう言って男は携帯のメモ機能を立ち上げた。
「佐野アリア」
「ん? なんか聞いたことある名前だな」
「ああ、モデルやってるんだよね。まったく目立つから困るんだけど」
「有名人か、ちょい面倒だなぁ」
「まぁね」
「ま、お前の惚れた女なら仕方ねぇか。無愛想なのに意外と可愛いとこあんだな」
「は? 惚れてないし。っていうか、あんたの大事なデータ、ハッキングされたくなかったら茶化すのやめてくれる?」
「茶化してるつもりねぇし! でもひとつ忠告しておくぞ。どんな関係になっても、お前の仕事は絶対明かすな。極秘任務だからな」
「ああ、分かってるよ」
それから数ヶ月後、この蜘蛛神壱千との出会いによって俺は両親を殺害した人間がウイルス研究所の人物だという証拠を掴んだ。それは両親が亡くなる前に起きたある事故と関係している。ウイルス感染によって研究員がひとり死亡しているのだ。だが会社が事実を隠蔽。推測だが父さんはそれを知ったのだろう。その感染した人物は父さんの元直属の部下で独身、両親もいない天涯孤独の人物だ。会社にとってこんな都合のいい人間はいない。実験か何かの対象になって事故死したと考えられる。これが公になれば会社は倒産どころか多額の損害賠償、さらに界隈にも大きな亀裂が入り世界的なニュースになることは間違いないだろう。まぁ会社がどうなろうと俺にはどうでもいい。俺の大切な両親を奪った罰と報い……最高のステージでうけてもらうぞ。
仕事は割とハードだった。本部で管轄している事件とは別に研究所の事件を嗅ぎ回る。あともう少しでというところで、俺は高熱が出てデスクに倒れた。
「レンどうしたの? 今、すごい音したよ?」
姉さんの声にハッとしてモニターの電源を全て消す。「あけるよ」そう言って入ってきた姉さんは倒れている俺を見て驚愕していた。
「やだ、ひどい熱じゃない! 救急車!」
「ダメだ」
俺は咄嗟に姉さんの腕を掴んだ。
「お願い、目立つことはしたくない。絶対呼ばないで」
「で、でも……」
「大丈夫だよ。ちゃんと寝てなかっただけ。心配しなくていいから」
「寝ないで、またゲームばかりしてたの?」
「そうだよ。楽しくてさ……やめられなくて……」
「こんな体調悪くなるまで……ほどほどにしなさいよ」
心配して泣く姉さんに俺は心の中でもう一度謝った。嘘ついて、ごめん。
「うん……」
「明日、定食屋休むからレンはお薬飲んで安静にして」
「いいって、もう子どもじゃないんだし、食って寝てりゃ治るから仕事はいって」
「でも、もしレンに何かあったら」
家族がひとりもいなくなる。そう言いたそうに姉さんは涙を吹きながら口を窄めた。
「熱くらいで大袈裟だし。何もないから、心配しないで。でないと俺が困る」
「わ、わかった。じゃぁ沢山お粥作っておくからね」
「うん、あと飴も」
「ふふ、レンは小さい頃からチュッパチャップスばかりだね」
好きというか、それが俺の薬だった。俺は糖分が切れると頭がくらくらする特殊な体質だった。低血糖で起こる症状ではあるが別に糖尿病患者ではない。糖分を摂取するとアドレナリンという脳内ホルモンが活性化し頭の回転が異常に早くなる。同時にベータエンドルフィンも分泌され心が落ち着くのだ。血圧も血糖値も問題はなく至って健康。面倒なのは虫歯の管理だけだった。
※
翌朝、ベッドから起きると熱は随分下がっていた。シャワーを浴びに行って戻ると俺の部屋にアリアがいるのが分かった。熱心にタイトルを凝視しているところを見ると、如何わしいものでも見つけてやろうという企みが窺える。相変わらずバカな女。そんなところにあるわけないだろ。
「随分、熱心だな」
そう声をかけると、案の定、声を上げて驚愕していた。そんなに男の部屋が珍しいかと訊ねると、は? あんた男だったの? とキャンキャン吠えるところが犬みたいだ。俺の風邪がうつるといけないから早く帰れと言ったが、髪が濡れてるだの、自分は俺より頭が良いだの、相変わらず頓狂な発言が続く。まぁいつものことだが、と飴を咥えながらデスクに腰をかけると「あんた童貞?」と脈略のない質問に俺は一驚しすぎて椅子からズリ落ちそうになった。
「は?」
お前はすごいよ、佐野アリア。普段、情動が起こらない俺をここまで動揺させるとは。だけど、そんな事聞いてどうするの? ホント、お前は無意味な発言と行動が多すぎるな。
でも顔を真っ赤にしているこいつの顔がやけに面白くて、つい、からかってしまった。これほどのモニターがあるから二次元女子しか興味がないだの、リアル女子に興味がないだの、勝手な憶測で妄想が爆走しているようだが、この数台のモニターは全て業務関連で部署ともリンクしているから、お前が想像しているようなアダルトは入ってないぞ。第一ハッキングされる困るものは残さない主義だからな。
だけど、随分、俺を誤解しているようなので三次元に興味あると返しておいた。驚いた顔をしていたが、いや普通だろ。そこ驚く所か? お前を理解するのはホント至難の業だな。
お前は? 処女なの? そう聞いて、どんな反応するのか見てやろうと思ったが、想像通りの返しがきた。見え張ってんの丸わかり。これまで彼氏がいたことも、男とデートしたこともないくせに。バレてないと思ってんの? だけどアリアは本当にバカだから、今後が心配になった。
だから少し勉強させてやろうとベッドに押し倒した。今にも折れそうなほど細くて白い腕。サラサラした長い髪と大きな潤んだ瞳。アリアの柔らかい肢体が俺の至る所に触れ、体重を浮かすのに苦労した。アリアが動くと思いのほか俺のほうが長くは持ちそうになかったので俺はすぐアリアから離れた。
だがまたキャンキャン吠え始めるアリア。暫く鑑賞していたら、そのまま怒って出て言った。変な奴。俺がどんな女の画像を持っているか知りたかったようだけど、残念だったな。俺はお前が毎日やってくるから、別に女の画像なんていらなかった。
※
二日後、学校にくるとクラスメイトが大騒ぎしているのを一瞥しながら俺は席についた。「佐野アリアが高熱で休みだってよ」そのセリフにさすがの俺も嘆息をもらした。
「はぁ……やっぱりか」
「やっぱりって?」
そう声をかけてきたのは富豪タケル。学校で毎日絡んでくるクラスメイトだ。こいつこそアニメオタクで二次元女子意外興味なし。両親は不動産関係と国内に有数のホテルを持つ財閥のひとり息子で大富豪。俺の能力、正体ともに勿論知らない。人懐っこくてバカな所はアリアと共通しているな。
「アリアだよ。俺の熱がうつった」
「おやーっ? まさか付き合ってないとか言って、チューとかしちゃったんじゃないの? このこのっ色男!」
「一回、死ね」
「冗談ですぅー! もう、ほんと冷たい! でも羨ましいなぁ、あの佐野アリアと幼馴染だなんて! アニメのウバちゃんにそっくりなんだよねアリアちゃん! お尻ぷりぷりの水着着せたら絶対似合うし、お前もギュン! ってなるぞ!」
「いいから早く死ねよ」
「もう何でそんな怖いこと言うの! 僕、死にたくないから! あ、そういえばアリアちゃん、さっきツイッカー投稿してたぜ。三九度以上、熱あるんだって」
そんなにあるのか? っていうか熱ある時くらいSNSやめろよ。そう思って携帯を一瞥すると姉さんからメッセージが入っていた。アリアの両親は昨日から海外出張らしく学校帰りに様子を見に行けという内容だ。俺の熱がうつった事、姉さんも気にしているようだな。
「なぁ放課後、時間ある?」
「ない」
「また一刀両断かよー」
「当然だ」一日たった二十四時間しかない。どこでゲームオーバーになるか分からない仕事を抱えているんだ。お前みたいに遊んでいる暇はない。
帰り道、コンビニでサクランボの缶詰が売ってなかったので俺はスーパーに立ち寄ってからアリアの家を訪れた。この家の合鍵はアリアの両親が俺たちに託しているものだ。ちなみに防犯カメラもオジサンの頼みで俺が管理している。父さんの親友だったアリアの父さんは、俺が父さんにそっくりだと、両親がいない今でも本当の家族のように慕ってくれていた。誕生日がアリアと同じなのも母親同士の策略だったらしい。お陰で幼稚園も習い事も週末家族時間もずっと一緒だった。
俺は玄関を開けるとすぐ、目の前にある螺旋階段をのぼり二階の直ぐ手前にあるアリアの部屋へ直行した。
アリアの部屋には幼い頃、何度も遊びにきたことがある。家族で集まるのはだいたいこの家だったからだ。片付けできない、料理下手。はっきり言ってゴミ屋敷になっているんじゃないのか? とドアを開けると意外とアリアの部屋は綺麗に掃除されていた。
「ふーん」と俺は久々にアリアの部屋を見渡した。二十畳ある広さの洋室には無駄にでかいピンク色のベッドが中央に配置されている。同色の淡い桃色の絨毯とデスク、羽のブランケットがかかったソファ。まるで洋画に出てくる部屋は実にアリアらしい。アリアは白のレースであしらった天蓋カーテンの中で背中を丸めて眠っていた。俺が近づくと呼吸が苦しそうだったので「薬飲んだのか?」と声をかけた。「う……あれ? レン?」と少し寝ぼけた顔で目を擦っていた。