88_父の名は
「ちょっと待った」
俺は断腸の思いで彼女の肩を両手で抑え、それ以上の接近を拒んだ。開いた彼女の目は丸くなっていた。
「どったん? もしかして、口臭かった?」
彼女は口の前で手を開き、そこに息を吹きかけ口臭を確認し始めた。無論、俺は相手のブレスケア不足を指摘するために彼女を止めたわけじゃない。
「違うよ。部屋に入ってからいい匂いしっぱなしだよ」
「よかったー。めっちゃびびったー。でも、それじゃあなんであーしのこと拒否ったん? あーし、おにーさんのことマッポに売ったりしないよ?」
「それを聞いて安心した。じゃなくて」
俺は肩を掴む手に少し力を込め、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「東大目指してる奴が、こんな馬鹿な事するなよ」
風俗に来て嬢に説教をかます。それは家族連れで賑わう休日のフードコートに独りで行って、四人席に独りで座って、スマホをいじりながら寂しくうどんを啜るくらい厄介な行為。人間としての品位を損なう行為。
それでも言わずにはいられなかった。
俺は既に終わっているから、これ以上終わりようがないから、良いのだ。これから始まる彼女の役に立てるなら本望だ。
「見たんだ」彼女の口調は非難するでも軽蔑するでもなかった。
「うん。ごめん」
「それ、この前遊びに来た委員長が忘れていったやつ」
「え、嘘」
「うそ」彼女は口の端を上げた。そして、四つん這いから膝立ちに姿勢を変えた。
「やっぱり部屋の掃除はこまめにやらんとダメだねー。でも、この部屋あんまり収納スペースないんだよねー」彼女は顔を回し室内を見る。
「たぶん、あそこに押し入れあるよ」
俺は右の壁を指さす。俺の部屋と同じ間取りなら、すごく分かりにくい押し入れがあそこにあるはずだ。
「マジ?」
彼女は立ち上がると押し入れを求め、壁を探り始めた。そして、あった、と小さく漏らすと右から左へ壁をスライドさせた。女の子の部屋には似合わない真っ暗な空洞が現れた。
「えーー!! マジじゃん!! 知らんかったーー。おにーさんありがとう!!」
押し入れに上半身を突っ込みながら彼女は言った。いえいえ、と俺は返した。
「おにーさんはさ、笑わないんだね。その、さっきの見ても」
彼女は俺に背中を向けたまま尋ねた。声色が少し暗い。
「笑うかよ。努力してるやつを笑ったら、努力してない人間として終わりだよ」
「何それ」
「俺にも良く分からん」
ふふっ、と肩を揺らし彼女が振り向く。
視線がぶつかり、無言が続く。根競べのような時間が続き、先に彼女がぷっと吹き出し、あははと笑い声をあげた。俺もつられて笑う。
「あーおかしー。あーし、いろんな人と寝てきたけど、おにーさんみたいな変な人は初めてだよ」
ギャルが目をこすりながら言った。褒められてるのか?
「隣、座ってもいい?」
うん、と頷く。彼女は女の子の座りで隣に腰を下ろした。二人っきりなのに互いの視界には誰もいない。夜の様に真っ暗な押し入れがあるだけ。
「あーし、小さい時からお父さんっこで、『パパ大好きー絶対パパと結婚するー』って、本気で誓う位、すごく好きだったんだ。でも、中学二年の時、パパが家に帰ってこなくなっちゃって。ママに聞いたら『パパの事は忘れなさい』って。すごく悲しそうな顔だったからそれ以上は聞けなくて。あーし、すごく寂しかったけど、ママはもっと辛いだろうから、ママの前では良い子でいた。絶対泣かなかった」
相槌を打つのすら躊躇われる程、悲しい過去だった。いや、彼女にとってはまだ現在の話か。
「そして一年くらい経って、パパの居ない毎日にも慣れて来て、寂しいけど頑張って生きてこう、って思ってた頃に、突然、あいつが、あいつがやって来て」
声が潤んだ、と思ってから泣き出すまでは、あっという間だった。彼女は嗚咽を漏らしながら両手で涙を拭っている。弱弱しいその姿に、肩を掴んで胸に抱き寄せたい衝動に駆られた。そうすべきだとも思った。
でも、俺は気づけば、きょろきょろと箱ティッシュを探していた。
「これ、どうぞ」
箱ティッシュから数枚抜き取り彼女に渡した。彼女はそれで涙を拭いたり鼻をかんだりした。
「パパはね。大学の教授やってて今は東大にいるんだって。ママからパパに会うのは禁止されてるけど、たまたま通う大学にパパがいたらそれは仕方ないよね?」
彼女が赤くなった眼で俺を見る。ね? ね? 私、間違ってないよね? と、甘える様な駄々をこねるような眼差しだった。
「それは仕方ないな。うん。たまたま居たんなら仕方ない。勉強の方はどう?」
母を訪ねて三千里歩くのと父を求めて東大に合格するのとは、果たしてどちらが大変なのだろう。
「今のところ大丈夫そう。学校の先生にもこのまま行けば十分狙えるって」
「おおー。それはすごい。毎日どれくらい勉強してるの?」
違う。
「大体、二時間かな」
「二時間って、テスト前の俺より勉強してないじゃん!! それで東大って。地頭が良いんだね」
違うだろ。
「だって、パパの娘ですから」彼女は軽く胸を張って見せた。
「ははっ。きっとお父さんも鼻が高いよ」
言いたい事はそんな事じゃないだろ。
一旦、飲み物でも飲んで決意を固めよう。
テーブルの上には二つコップがあったが、どちらも空っぽ。計画は破綻した。
こうなれば破れかぶれだ。とどのつまり、人生とは勢いなのだ。
「でも、今の君を見たら、きっと悲しむよ。その、可愛い娘が、素人売春なんて」
そう。
それだ。
よく言った。
きっとみんながお前を褒めているぞ。
「そう、だよね。分かってるんだけどね・・・」
彼女は沈痛な面持ちで零した。東大志望なんだから自分の行いが道徳に反しているか否か。分からないはずがない。
「そんなにお金に困ってるのか? 家賃とか生活費を自分で稼いでるのか?」
「ううん。全部ママが払ってくれてる」
それを聞いて少し安心した。この子の母親にもまだ親としての良心があったんだ。
「ならどうして。あ、学費か? 東大に入るための入学費用とか学費のために売ってるのか?」
将来のために泣く泣く春を売る。親の借金返済のために風呂に沈む。
これぞ日本の売春のスタンダード。遊ぶ金欲しさなんてのはもっての外。品がない。
売春には因果な過去が、巫女さんには処女性が必要不可欠だ。
「ううん。大学に進学した時の学費もママが払ってくれる予定」
これも外れた。いや、外れて何よりなのだが謎は深まるばかり。ギャルの涙で母親を大悪党に認定していたのだが、早とちりだったか?
「お母さんとは仲いい?」
「うん。ママのことは好きだよ。パパほどじゃないけど」
ギャルはあっけらかんと述べ、俺の大前提を崩壊させた。
「なら、お母さんと一緒に住めばよくね? 家賃とかもったいなくね?」
貧乏性により論点が少しずれた。
「それはムリ」
「なんで?」
一人暮らしする事でどれだけの金が飛ぶのか理解しているのか? 理由がしょうもなかったら許さんぞ。小娘が。
「だって、ママ、ギャル嫌いだから」
シンプルな回答だった。けれど、一つも腑に落ちなかった。
「詳しく聞こうか」詳しく聞くしかなかった。
「私がギャルになったのは、パパがギャル好きだったからなんだよね。パパをママから奪ったのもギャル。だから、あーしもギャルになって今度はギャルからパパを取り返すの。またみんなで仲良く過ごすの。でも、ママにとってギャルは不俱戴天の敵だから、あーしがギャルするのに拒否反応だしてて、『ギャルになるなら家から出ていなさい』って、ここに追い出された」
そうだったのか。この娘のギャルスタイルには家族愛の復活、という命題が込められていたのか。やっぱり東大目指す奴はどっかおかしいんだな。
様々な感情に襲われ俺は言葉を失っていた。
「あーー。いろいろ話せてすっきりした。おにーさん、聞いてくれてありがとう。こんな話、友達にはできないからさ」彼女はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「役に立ててたのならよかった。これからも気楽に頼ってくれ。君のお父さんほど立派じゃないけど、俺も男。君の力になりたい」
言ってて凄く恥ずかしかった。けれど、彼女から目を逸らさなかった。そんな自分を俺は褒めたい。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、それはすぐに柔らかい笑顔に変わった。
「ありがとう。めっちゃ嬉しい。んでさ、早速なんだけど、一つお願い聞いてくれる?」
「なんだ? なんでも言ってみなさい」
「おにーさんじゃなくて、パパって呼んでいい?」
今度は彼女が恥ずかしそうな顔をした。爆発直前のボム兵の様に真っ赤になっていた。
そうか。俺もついにそう呼ばれる時期が来たか。
「うむ。今日から俺のことはパパと呼びなさい。ただ人前ではやめなさい」
「ありがとう。えっとその・・・パパ」
初々しい反応。ギャルメイクとのギャップでその威力は臨界点を突破していた。思えばやっと年相応の彼女を見れた気がする。
彼女が肩に寄りかかる。その表情は安らぎに満ちており、体だけでなく心まで相手に委ねていることが分かった。俺は左手で彼女の頭を撫でた。父親ならこうしたんじゃないだろうか。
「君の髪の毛、さらさらだね」
「君じゃない」
「え?」
寄りかかっていた体が離れる。彼女は不機嫌そうな顔をして
「春って呼んで。城陏 春」
「それが君の名前なの?」
「うん。離婚する前の私の名前。私はやっぱりこっちの苗字が好き。パパとママと楽しい時間を過ごしたこっちの苗字が」
彼女は寂しそうに言った。俺は代わりにもならない、お茶を濁すだけだろう。
それでも、ほんのわずかでも彼女の憂鬱さを濁せるなら。
「城陏、春ちゃん」
「はい。パパっ!! やっぱり牡丹 春よりもそっちが好き」
春が俺の肩に頬ずりする。なぜ娘を娘と呼ぶのか少し理解できた。
ギャルと言えども十代の女の子。まだ親に甘えたいよな。
よしよし、と彼女の頭を撫でる。
空いたほうの手で、彼女の現在の名字を記憶した海馬の一部を脳細胞ごと消し潰した。
「あ、どうしよう」
何かやらかした時の発声で彼女が零した。その顔は少し深刻だった。
「どうした?」俺にパパは早すぎたか?
「お願い事、ふたつしちゃった」
なんだこいつ可愛すぎだろう
「いくつでもいいよ~春の頼みなら何でも聞いちゃう!!」
「本当!? じゃあ、春、お医者さんごっこしたい。昔みたいに」
「よし、やるか!! お父さんは医学部なのかい?」
「ううん。教育学部」
「そうか」
日本の将来、大丈夫か?
俺は開きかけた蓋をそっと閉じた。