70_ヒナは空へ羽ばたき、人は前へ進む
ある日、たぶん午前中。PCの壁紙になりそうなほど晴れ渡った空の下、俺はわなわなと全身を震わせていた。
「い、今なんて・・・」先ほどの言葉を受け入れられない俺は縋るように聞き返した。
「ん、もう来なくていいよって」彼女の答えは同じだった。その顔には申し訳なさとか後ろめたさといった相手を思いやる気持ちは微塵もなかった。
「彩、今なんて言った?」
霧景大宅前の廊下で俺と彩は向かい合っている。手を伸ばせば彩の胸にタッチできる距離にいるのに、なぜかとても遠くに感じた。
「だから、もう来なくていいって」冷徹な槌は寸分 違わず、同じ箇所に打ち下ろされた。二人の気持ちはもう、対岸にあるんだな。
「わかった。彩。もう、そういう時期なんだな。思えば長く続いた方だよ。最後に、理由を教えてもらえるか?」
俺は彩の瞳をまっすぐに見つめる。その少し濁った瞳にはこれまでの思い出が乱反射していた。
「だーかーらー、これからは受験勉強に専念するからって、さっきから言ってるでしょ!! おじさんとゲームとかしてた時間はみゆきちゃん達と勉強する時間にするの!!」ずびしっと、彩が人差し指で俺を指さす。
「そんなこと言って、本当は俺のことが嫌いになったんだろ!! 『そりゃあ毎日来いと言ったけど本当に毎日毎日午前中から来るやつがあるか。言葉の裏をよめよ律儀かよ重いよ』って思ったんだろ!! あれだろ、くっつきすぎると逆に冷めちゃうあの感情だろ!! 明日からは違う男呼ぶんでしょ!!」
「呼ばないって。本当に受験勉強のためだって。今から本格的に始めないと間に合わないんだよ」彩はうんざりした表情で肩を落とす。
「きいぃぃぃぃぃぃぃっ!! 嘘っ嘘っ!! 嘘を吐くこの口が憎いっ!! 捨てないでっ!!」俺は彩の口に両方の人差し指を挿入し、くぱぁの要領で外側に引っ張った。そして、
「学級文庫と言ってみろ」低音で発した。
「ふぇ?」
「学級文庫と言ってみろ」
「がっきゅううんこ」
「机の上の文鎮」
「つくふぇのうえのうんち」
「いい日旅立ち」
「いい日旅立ち」
「よしっ」俺は彩の口から指を抜き、鼻の下に軽くこすりつけた。これでいつでも彩のことを感じられる。秋の並木も冬の街並みでもいつでも一緒だ。
目をつむり、軽く鼻から息を吸う。
くさっ。
反射的に目が開いた。
えっ、なにこれ超臭い。一日つけてたマスクより臭いんですけど。
悪臭を払うため両手を顔の前で何度も振るも一向に匂いは立ち退かない。息を吸うたび不快なにおいが鼻孔に攻め入る。
「わっ、もっ、ちょっ!! やだ!! やだあああああああ!!」
手を払い、腕を払い、体をよじり、足踏みをして逃れようとするも悪魔はしっかりまとわりついてきた。呼吸が荒くなる。息を吸えば吸うほど悪魔の色が強くなる。
こうなったらもう逃げるしかない。走るしかない。
「いやあああああああ!! いやあああああああ!!」
体を、腕を振りながら走りだそうとした時、足がもつれぐらりと体が傾いた。
やばっ。
反射的に右足を強くついて踏ん張るも、両手をぶんぶん振り回しているのでバランスが全然取れない。倒れそうになるたびに踏ん張るがすぐにまた倒れそうになる。
腕が踊る。
体が回る。
視界も回る。
「いやあああああああああああああ!!」
地面が消えた。
そう思った次の瞬間、全身で地面を感じていた。
□
おじさんが叫びながらくるくる回って階段から落ちた。
□
彩からの解雇通告を受けたことにより、一日の九割が空白になってしまった。
明日からは『今日も何もしなかった』という罪悪感を独り背負わなければならない。俺はその事実を自室で畳にごろんたしながら受け止めていた。
もう、一緒にゲームで遊んだり、一緒に朝の情報番組を見たり、一緒に雲の形を言い合ったりできないんだな。あの日々にはもう戻れないんだな。
一緒に手作り将棋を打ったり、無限じゃんけんしたり・・・。
数年後には彩の海馬から、俺と過ごした日々の記憶だけごっそり喪失してそう。
それはそれで健全か。
前途ある若者と職のない大人、といえば聞こえはいいが、事実だけを剥き出せば「未成年の女の子と無職の男」夕方のニュース風に言えば『入浴週二回未成年少女と無職無趣味成人男性(無職)』
本来なら関わることすら許されない。少女のためを思うならこれくらいの距離をとるべきだ
入浴週二回未成年少女 無職無趣味成人男性(無職)
もうちょっと近くてもいいかもしれない
入浴週二回未成年少女 無職無趣味成人男性(無職)
もうちょっといいだろう。
入浴週二回未成年少女 無職無趣味成人男性(無職)
入浴週二回未成年少女 無職無趣味成人男性(無職)
\キャーーー/ \アヤタンアソビニキタオ‼/
入浴週二未成年少女無職無趣味成人男性(無職)
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| |無職| |無趣味| |成人男性(無職)| |
| | アヤタンドウシテ・・・ | |
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↑豚箱
すん、と浅く鼻呼吸。もうあの匂いはしない。
左に寝返りを打つ。古く、薄い、ウエハースのような壁が広がっている。
もう、この向こうから罵詈雑言や奇声や呪詛や、姉が妹を殴った時のような鈍い音が聞こえることはなくなるんだな。
こんな薄い壁なのに。俺はもうその向こう側へは行けないんだな。
「んーーーーー」一度伸びをしてがばっと上半身を起こす。
「別にいいもんねーーーー!! 俺っちには頼もしい沈殿仲間がいるもんねー!! 絶対に浮上しないお墨、もとい重し付きだもんねー!!」
ぴょんと飛び上がり、ぴょーんぴょーんと月面の足取りで自室を飛び出す。足取りそのまま一二三と進んでドアを開けば
「マリアナ海溝にとうちゃーく!! 蒼の蒼は水深10911mの蒼ーー!! そこに来る俺はさしずめプラナリア~!!」
家具はピンク、壁紙は新聞記事と雑誌記事。部屋の隅には茶色い祭壇。
何度見ても違和感が薄れない部屋。正常ではない部屋。
ただ、その空間で一番の異質を放っていたのは他でもない蒼自身だった。
彼女はあろうことか、リクルートスーツに身をつつみ、姿見で鼻を膨らましピンセットで鼻毛を整えていた。俺の方は見向きもしない。
「透さんこんにちはー。いきなりどうしたんすか?」
「それはこっちのセリフだよ。どうしたんだよその恰好」
「実はコールセンターでの仕事が決まったんですよ。しかも、バイトじゃなくて契約社員!! 福利厚生しっかり完備で正社員登用のおまけつき!! 座って働けるって最高!!」
ぶちっという音とともに蒼が振り返りブイサインをする。握られたピンセットには数本の太い鼻毛が咲いていた。
俺は舐めるように黒タイツ先から頭のてっぺんまで観察してから、蒼に一言。
「脱げ」
「え」
「脱ぎなさい」
「え、でもこれから初出勤で」
「いいから脱ぎなさい!!」
「は、はい!!」俺の鋭い語気に飲まれて蒼が急いでスーツを脱ぐ。
「そこに座りなさい!! 正座で!!」
「こうっすか」ピンクの下着姿になった蒼は小鹿のように恐る恐る俺の目の前に正座した。
「いいですか。これからあなたの進出しようとしている社会は自分の強みを生かさなきゃ生きていけない過酷な戦場ですよ? そんな死地に赴こうって時に、自分の武器をしまう奴がどこにいますか!! 社会なめとんのか!! お前の一番の長所を言ってみろ!!」
「長所は・・・そうですね・・・・」蒼は顔を傾け思案する。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「ないっすね」儚い笑顔だった。
「それは違うそれは違うよ!! 長所がないなんてそれは蒼の思い過ごしだよ!! 蒼、お前にはとても良い所があるじゃないか!! ほら今も視覚的にも物理的にも秀でているところがあるじゃないか?」
俺は視線で訴える。蒼がその視線を追い、ある一点で止まった。そして、あー、と納得の声をあげた。
「胸ですか?」
「ご明察。その立派な巨乳は人一人の人生を狂わすほどには強力なんだから、それを活かさなない手ははない。それなのにさっきのお前ときたら野暮ったいスーツを着ちゃってその武器を自ら封じてしまっていた。しかも、よりによってパンツスタイル。そういった思想か? 偏っているのか?」
「それは会社の規定で・・・。それにあれじゃないですか、能ある鷹は爪を隠すって昔から言いますし」
「能がねーからせめて胸出せって言ってんだよ!! 親心を分かれ!! たわけ!!」
パチンっと蒼の頬を張るつもりが、誤って胸を張っていた。あまりにもデカ過ぎて間違っちゃったわ。あはは。
「俺が言いたいのはそれだけだ。今後は胸と太ももが開けた服装ができる職業を選ぶように。それと、正社員登用制度を使って正社員になれる確率は、今からVtubar始めて登録者数100万人突破するよりも低いから覚えておくように。稼ぎたいならFC2アダルトに行け」
俺は蒼に手を差し出す。蒼は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに俺の手を握った。俺は握りあった手を引くように腕を後ろに戻し、蒼を立たせる。
もう一度、蒼の全体を見る。
胸:◎
くびれ:〇
脚:◎
顔:priceless
「蒼って最終学歴、専門卒?」
「いいえ。高卒っす。女子高っす」
「五百点。五百点満点中五百点」うんうんと、俺はうなづく。
こんなにいい女に彼氏がいないなんて。世の中、まだまだ捨てたもんじゃないな。
「よく分からないけどありがとうございます。ところで透さん」
「なんだ? 大卒の俺に万葉集の紐解き方を教えてほしいのか?」
「いえ。そろそろ出勤するんで、出てってください」
「あい」
俺の説得は蒼の心に響かなかった。
自分でも割と序盤から何言ってるのか分からなかったから仕方ない。
帰ろうと玄関へ体を向ける際、壁に貼られた一つの太い文字が目に入った。
異星人の誘惑か!? 恋の三角海域SOS!!
「なぁ蒼」
「なんすか。食べ物ならありませんよ」
「不思議探索はもういいのか?」
俺には何が良いのか分からないが、蒼は不思議やオカルトが好きで将来はこっち系の雑誌を作りたいと言っていた。それが生きる意味だったはずだ。
「・・・仕方ないっすよ。だって、このままだと生活できませんから」
「そうか」
便利な言葉だった。
□
蒼の部屋から退出し、後ろ手にドアを閉める。ぼんやりと二階からの景色を眺める。
彩も蒼も少しづつだが変わろうとしている。前に進もうとしている。いくら居心地が良くても同じ場所にはとどまり続けることはできない。
人生は絶えず流れている。
「ぼちぼちやらんとなぁ」最近ナーロとも気まずいし。
のどかな景色に溶けない様に、遠くに遠くに言葉を飛ばした。
ここから小さく見える、田んぼに挟まれた向日葵畑は、この前よりも茶色が目立っていた。