表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
97/471

おふくろの味って、これなんだ!

 刃を上に向け、包丁の顎から切っ先を片目で見る姿に、菜月は鳥肌が立った――


「ねぇ、菜月さん。本刃付けはしていないけど、御自分で出来るの?」


「本刃付け? ですか……」


「出荷時や運搬時に刃欠けを防ぐ為に、鈍角に刃が付いているの。プロは好みが有るでしょう? だから、包丁を鋭角で、切れ味が良いものに研ぎ直す事を本刃付けと言うのよ」


「あぁ……そうなんですか? 知りませんでした……」


「そうでしょ? 御存知無いわよねぇ、だと思った。よしっ! おばさんが研いであげるから。砥石は有るの?」


「はい。シャープナーなら台所に有ります」


「駄目よ、こんなヤスリは、ステンレスの両刃包丁用なんだから」


 文子は直ぐにケータイを取り出すと御用聞きに連絡した――


「あー、もしもし、大森です。あのねぇ、御無理を言って申し訳ないですけど、砥石が欲しいの。荒砥から仕上げまで……あっ、ちょっと待って」


 台所の点検をしながら、更に注文を続けた――


「お醤油は有るわね……三河の本みりんと、黒砂糖と御酢にお酒、お米を三十キロ。えぇ? コシピカリでも夢ピリカでもピカピカので良いわよ。それから、味噌ね。赤と白に合わせも頂いておこうかしら。後は……バルサミコ酢と白ワインビネガー、オリーブ・オイルは良いのを頂戴ね。ゴメンねぇー、お使い増やしちゃって。あっ、違うのよー、自宅じゃなくて、メゾン・モリタの203号室。そう、四丁目の。よろしくね」


「あの、そんなに買われても……私、困ります」


「支払いなら良いのよ。おばさんが立替ておくから、気にしないで。それより、大変! もう、こんな時間じゃないの、早くアルバイトに行きなさい。杉山さんが心配して居るから。あっ、鍵はポストの中に貼っておくから。さあさあ、行ってらっしゃい」


 菜月は文子のペースに嵌まり、何時の間にか抵抗が出来なくなっていた――



「杉山社長、ご心配をおかけして、すみませんでした」


「黒田さん、考え直してくれて有難う! 大森さんにもお礼を言わなければ。いやぁ、良かった、良かった、助かるよぉ」


 上機嫌な社長とは裏腹に、菜月は複雑な心境だった――


「あぁ、結局、何ひとつ出来なかった馬鹿な私……あの日、神社でお賽銭を躊躇ったりしたから神様の罰が当たったのかしら……はぁ」


 菜月は酷く落ち込んでしまい、天の神のお陰で命拾いをした事に、気が付かないまま帰宅した――


 アパートに着くと、ポストの鍵を取って階段を上り、鍵を差し込みドアを開けると、誰も居ない部屋が何時もとは違う、温かい家庭のぬくもりに包まれていた――


「こんなに遅くまで、おばさんが居たのかしら?」


 照明を点けると、テーブルの上に書き置きが有った――


〝 冷蔵庫の中にまぐろと真鯛の柵取りした物と、洗い米が二合ザルに上げて有りますから、炊き立てを召し上がって下さい。タッパーに煮物と焼き物が入っていますから食べたいだけ温めて下さい。御出汁はペットボトル入っていますから、お好みの味噌と具材で作って下さい。漬物はおばさん家のぬか床を持って来ました。しっかりとした食事と充分な睡眠をとって下さいね。そうすれば元気が出ますよ。文子 ″


「こんなに沢山……飛竜頭ひりょうずの煮物に筑前煮と肉じゃが……卵焼きに海老真薯まで……凄いなぁ。柵取りしたまぐろと真鯛って……これを切るのかなぁ?」


 ガソリンを入れるはずだったペットボトルには御出汁が入り、めった刺しにする為の柳刃は見事に研がれていた。そして、まな板の上のマグロと真鯛に包丁を入れると、何の抵抗も無くすっと刃が入り、その切れ味に驚き、美しい艶の有る断面に感嘆の息を漏らした――


「素晴らしい包丁……私、一体なんてことを考えていたの……」


 テーブルの上に料理が並び、炊き立てのご飯を茶碗によそうと、いただきますをして、御出汁を使った味噌汁をひと口飲んだ――


「はぁー、お味噌汁ってこんなに美味しいのかぁ、ふぅふぅ。煮物も美味しい。お刺身も……こんなに高級なマグロ食べた事が無いよぉ、うーん、糠漬けが旨いっ! なんだろう……何なんだろう? 生き返る感じがする」


 貧乏故、まともな食事は殆ど出来ず、酷い時は駄菓子と水で空腹を満たしていた。菜月はすっかりテロの事など忘れていた――


「こう云うのが家庭の味なのかなぁ……贅沢。はぁ、おふくろの味って良いなぁ」


 菜月は自分の家庭環境を思い出して涙が溢れた。そして、涙を拭いベッドに腰を下ろした時に、机の上に綺麗な和紙の包みが有る事に気付いた――


「あれ? これは何だろう……」


 文子の置いて行った包みを手に取って開けると、それは、お見合い写真だった。そして、その写真の主は見覚えの有る、何時も夜遅くに本を買いに来るお客さんだった――


「あっ! この人はっ! なんで? どうして? えぇっ? こんな事が有るなんて……」


 プロフィールには何時も注文票に書いていた、見覚えの有る田中一輝の名が有った――

お読み頂き有難う御座いました。


次回もお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ