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迷える子羊は狼なのだっ。

 それは―― 午前中から三十度を超えた暑い夏の日だった。


 ひとりの男が喜多美神社を訪れた。


 美しい髪と、ロマンスを想起させる憂いを帯びた瞳……少女の様な柔らかい唇――

 

 男は鳥居をくぐる前に一礼をし、参道を静かに歩いた――


 手水舎で手と口を清めると、鈴を鳴らし、お賽銭を納め、二礼二拍手一礼でお参りを済ませた。


 典子と紗耶香は恋の予感にときめいていたが、翻訳アプリで祈りを解読しためぐみは怒りに打ち震えていた。


「やあっ、君は此処の巫女さんだろ? 神道に興味が有るんだ。話がしたいんだけど、仕事終わったら僕とデートしない?」


 突然ロック・オンされた紗耶香は頬を赤く染めた――


「困りますぅ……そう言うのぉ」


「どうして困るの? 君、可愛いね。僕がデートしてあげるって言ったの、返事は?」


 ニッコリ笑うと男のホワイトニングした白い歯がキラリと光った――


「神社でぇ、巫女である以上、私、そう言うのぉ、お断りしているんですぅ……」


「周りの人が気になるの? 恥ずかしがらなくて良いんだよ、僕だけを見つめてごらん」


「………………」


 男は伏し目がちにしている紗耶香の耳元に顔を近づけて言った――


「今夜君をマーメイドにしてあげるよ。僕だけのマーメイドに……」


 紗耶香は妄想して、顔が真っ赤になり俯いて黙り込んだ―――


 男が御神木に壁ドンの様に手を突き、口説き落とそうとした。紗耶香の顔を上げさせようと顎に人差し指と親指を添えた瞬間だった――


 めぐみが御神木に突いた手を小手返しにし、地面に倒し腕を締め上げると、片膝で頸動脈を圧迫して押さえ付けた――


「えぇ―――――いっ! 出合え出合え―――――っ! 曲者で御座る!」


 めぐみの声に神職の者達が社務所から木刀やバットを持って出て来た――


「何事ですかっ! 曲者は此奴ですね!」


「息が出来ない……助けてくれ……」


 めぐみが解放すると男は立ち上がり、抗議した――


「誤解です、僕は何もしていませんよ。ふぅ、こんな乱暴な巫女さん、有り得ないですよ! どうかしていますよ、参拝客に暴力を振るうなんて!」


「ん? どういうことですか? 誰か説明をして下さい」


 典子が怒って吐き捨てる様に言った――


「どうかしているのはあなたの方でしょっ! 神聖な神社の御神木に壁ドンしたでしょ! 紗耶香さんが大人しくしているからって調子に乗るんじゃないのっ! 神域でナンパをするなんて言語道断よ! 最低っ!」


「フッ、嫌だなぁ、勘違いですよ。心外だなぁー、チョッとお話しをしただけですよ。痴漢みたいな言い方は止めて下さい」


 神職の者達が顔を見合わせた――


「紗耶香さん、典子さん、流石に……ナンパ位では……警察も呼べませんし……誤解が有ったと云う事で……終わりにしましょう、ねっ」


 そう言うと、神職の者たちは社務所に引き揚げて行った――


「典子さんって言うの、君。紗耶香さんを口説いたから嫉妬しているのかなぁー? 可愛いねっ」


「はぁ? 馬っ鹿じゃないの、自意識過剰よっ!」


「気を悪くしないで。怒ると美人が台無しだよ。フッ、女性同士の嫉妬って凄いからさぁー。ねぇ、そっちの乱暴者の君は? 名前教えてよ、良いだろ?」


「戯け者に名を名乗る必要など無い!」


「アハハ! 綺麗な薔薇には棘が有るって言うけど……まさに君だね!」


「神域で巫女を口説くのは御法度だ。直ちに立ち去れ!」


「ありがとう。それって、神域でなければ良いって事だよね? 逆に誘っているって……理解で良いのかなぁー? 仕事が終わってからなら文句は言わせないよー。君は神社には不似合いな薔薇だからねっ! それから、その侍言葉もやめた方が良いと思うよ。フッ」


「根拠の無い自信も、ナンパが趣味も結構。だが、巫女は無理だ。諦めるが良い」


「フッ、照れなくても良いよ。僕の前では肩の力抜いて良いんだよ? じゃあ、仕事が終わる頃、迎えに来るからね。Catch you later――」


 男は人差し指と中指をこめかみに当て、その手でめぐみを指さし、ポーズを決めると去って行った―――


「でもぉ、ああ云うコテコテのぉ、ワザとらしい事をぉ、堂々とやられるとぉ、グッと来ちゃったりなんかしてぇ……てへっ」


「へこたれない、押しの強い男って……最近少ないって言うか、絶滅危惧種とも言えるわねぇ……」


「典子さん、紗耶香さん。ふたりとも男を見る目が無いと言うか、免疫が無さ過ぎですよっ!」


「だってぇー、神社でナンパされたの初めてだしぃー」


「私も沙耶さんに嫉妬したのは事実なのよね……でも、その後『君、可愛いねー、美人が台無し』だって。って事はよ、私が美人だって認めたって事でしょう? きゃはっ」


「…………けっ、穢れておるっ! 身も心も清めよっ!」 



 日が暮れた喜多見神社は神聖な空気と……カナカナカナカナカナカナ…、カナカナカナ… キキキキキキキキッキッキッ。


「やあ、お待たせ! フッ、約束通り迎えに来たよ。僕の薔薇……」


「私はめぐみって言うのっ! 約束などしていないし、僕のでは無いし、待ってねぇーしっ!」


「アーン、めぐみさんていうんだね。オッケー! 僕は木村、木村克也って言うんだ。よろしくねっ! じゃ、行こっか。フッ」



 丁度、七海がやって来て、すれ違い様にふたりが去って行く姿を見送っていた―――


「あぁ……めぐみ姉ちゃん、行っちゃったよー」


 七海は巫女装束のままのめぐみの様子を不審に思い、典子と紗耶香の元へ行き事情を聞いた――


「ねぇ、あの男誰?」


 めぐみは典子と紗耶香に「七海ちゃんが来たら、巫女の任務だと伝えて下さい」と言い残していた―― 


「ふーん。任務かぁ……なら、しゃーない、しゃーない。でも、ホッとひと安心だお。あんな野郎にナンパされてお持ち帰りされたのかと思ってさぁー、めぐみ姉ちゃんも男を見る目が無ぇっつーか、免疫無ぇのかと思って、あっシは心配しちゃったよー、良かったぁー」



 典子と紗耶香は顔が真っ赤になった。それは、まるでペンキで塗った様な赤だった――






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