お日様の匂い。
—— 三月七日 大安 甲子
恭一の朝は、慌ただしかった。やっとの思いで、社内の問題を取り纏めたその矢先、綾香が父親と共に訪問し、日本光学と山之内精機のこれからについて、話し合いをしていたのだった――
「若。同席を」
「断る」
「それは、非礼と言う物」
「非礼でも良いじゃないですか? どうせ社員の事など、微塵も考えていないのですから」
「若、そんな風に言うものでは有りません」
「では、どんな風に? 言い方を変えるだけ時間の無駄ですよ。本当の事ですからね」
「しかし……」
「何もかも、出来レース。結果ありきで、後は、どうやって納得させるかでしょう? そのために、討論をして見せたり、時には喧嘩をして見せたり。相手が騙されるまで続く演劇です。茶番ですよ」
「…………」
‶ コンコンッ! ″
「どうぞ」
「社長、綾香様がお見えです」
恭一は、綾香と聞いてウンザリした――
「恭一さん、こんにちは」
「綾香さん、こんにちは。もう、終わったのですか?」
「終わると、都合が悪いみたいな口振りね」
「いや、何時も会食をして、のんびり午後迄でしょう?」
「恭一さんは、随分と、お忙しいのね?」
「無駄な事に時間を費やすのは誰だって嫌でしょう?」
「無駄だなんて……」
「パパに言い付けますか? どうぞご勝手に」
「そんな言い方って無いわ」
「はいはい。今日は、言い方の注意ばかりだ。本当の事を言う人間は嫌われる運命ですからね。受け入れますよ」
「私は、嫌ってなど居ないわ」
「そうですか」
「他人事ね」
「えぇ。僕には、自分なんてものは有りませんから」
「だったら、私は?」
「親の決めた婚約者。只、それだけですよ」
「私の事、愛していなんですか?」
「えぇ、勿論。会社の都合ですから。日本光学と山之内精機が合併するなり何なり……互いに、WIN・WINの関係を構築するためですから」
「随分と……ハッキリと、仰るのね?」
「言わせたのは、君じゃないか。分かり切っている事だ。言葉にするだけ時間の無駄だね。君だって、僕の事を愛してなんかいやしない」
「そんな事、どうして、分かるのかしら?」
「偏差値の高い女性ほど、自己評価ではなく、他者評価で自分のパートナーを決めるものですから」
「私は、恭一さんの事を、愛してます」
「はっはっは。嘘を吐くのは、よしてくれ。君にとって僕は……ペットかアクセサリーみたいな物だ。自己演出の道具に過ぎない。これからの予定は、結婚をして、おしどり夫婦を演じて、世間を安心させるのが僕等の仕事だよ。もう、良いだろう? まだ、他に何か用が有るのかい?」
「用が無ければ、来てはいけないのかしら」
「ふん。君だって、他にする事が有るだろう? 君の暇潰し役なら御免だね。さぁ、出て行ってくれ」
綾香は、追い払おうとする恭一に噛み付いた――
「恭一さん。あの女の事、御存知?」
「あの女とは?」
「ほら、あそこのガーデン」
「彼女の事なら、『外注先の社員』以上の事は知らない。知る必要も無いからね」
「彼女は風俗で働いていたのよ。そんな女を、雇うなんて……如何な物かしら」
「そんな風には見えないね。何かの間違いだろう」
「私、興信所を使って調べたのよ?」
綾香は、ハンド・バッグから調査報告書を取り出して恭一に突き付けた――
「こんな事をするなんて……呆れたね」
「元風俗嬢だなんて、驚いたでしょう? あんな女、雇っていて良いのかしら?」
「彼女が、過去に何をしていようが関係ないね。今は此処で働いている。只、それだけの事じゃないか?」
「本当にそうかしら?」
「何か?」
「『君には分かるまい』って、言ったわよね。あの女と、どう云う関係なの?」
「関係?『外注先の社員』以上の事は、何も知らないと言っているだろ。何度も同じ事を言わせないでくれ」
「酷いわ、心配をしてるのに。それに、フィアンセが嫉妬をして、何が悪いの?」
「嫉妬と云うのは、人間の一番、醜い感情だよ。日々、不平不満、心配事を探して自分を怖がらせ、自分の無力さに自己憐憫をしている様な連中は、不思議な事に何の準備もしていない癖に、準備を整え、行動する人間の妨害をするんだよ、嫉妬からね。君が、僕を愛しているなら、嫉妬も可愛い物さ。だが、君のは嫉妬なんかじゃない、邪推だよ」
「そうかしら? 『女の感』は当たるって、言うでしょう?」
「『女の感』なんてモノは、当たる時だけ申告されるインチキだよ。仮に、嫉妬だとしても、君の嫉妬は僕に対する物じゃない、彼女に対する嫉妬だ。過去や出自を暴いて何になるんだ? 自分を傷付けるだけだよ」
「あんな、作業着を着た、薄汚い女の何処が良いのかしら?」
「君には、元風俗嬢の底辺労働者にしか見えないのだろう? 君が嗅ぎ取れるのは、労働者の汗と粉塵の臭いだけさ。それが不快なの? なら、それで良いじゃないか? 誰も咎めやしないよ」
恭一の突き放す様な言い方に、綾香は不安になった――
「あなたは?」
「僕は、お日様の匂いしか感じなかったけどね」
「そうなのね……」
「手に入れたい物は、誰かが用意して差し出してくれるお嬢様の君が、彼女と同じ境遇だったらどうする? 生きるために選択した事が、何であろうと、他人にガタガタいわれる筋合いじゃないさ」
「あの女を、庇うのね」
「違うね。会社の人事に、口出しをするなと言っているんだよっ! もう、好い加減にしてくれないか? 僕には、自分なんて物は無いと言っているだろ? 恋愛感情なんて物は、持ち合わせていないんだよっ!」
「…………」
「だろ? つまり、そう云う事さ」
綾香は、恭一の冷酷さに言葉を失った。だが、普段は口数も少なく、短い言葉を棒で返す恭一が、理路整然と長文で言い返す熱量に、嫉妬は確信に変わっていた。そして、確信が憎しみに変わるのに時間は掛からなかった。恭一はと言えば、その事には全く気付かず、只、やり過ごすだけの毎日に、辟易していた――
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