お人好しは人が良い。
滝沢沙織は今年の春で二十三歳になる。その短い生涯で、幾度となく人に騙され、裏切られたか分からない程の、お人好しである。唯一の救いは、騙したり裏切ったりした相手に対しても親切で、怒りに任せて攻撃したりする事も無ければ、ましてや恨むなんて事は心の片隅にも無い、泣き虫だがポジティブなお人好しだった事である――
「ただいま」
「おや? 何処をほっつき歩いていたんだい。無職なんだから家事ぐらいしなさい。こんな『御札』なんか邪魔だよ。サッサと片付けなさいっ!」
「母さん、その御札は有り難い『御札』なんだよ? 滅多な事をしたら、天罰が下るんだからっ!」
「何だい、この子は。親に説教しようってのかい? こんな物を持ち込むから、天罰なんかに怯えるんだよっ! 全く災難じゃないか。だから、あたしは宗教なんてぇ物は嫌いなんだよっ! 結局、金を巻き上げるだけっ! 慈悲なんて物が有るもんかいっ!」
「はぁ——ん、残念でしたぁ。この御札のお陰で、私は就職が決まったよっ!」
「何だって? そりゃぁ、本当かい? 良かったじゃないかぁ……」
「母さんは、占いや神様を信じるなんて、馬鹿げていると思っているでしょうけど、信じる者は救われるんですよぉ」
「ふーん、まぁ、そう云う事なら、あたしも、手を合わせておこうかしらねぇ」
「現金ねぇ。でも、母さんにも良い事が有ると良いね」
そこへ、七歳年下の弟の良太が、学校から帰って来た――
「ただいま。腹減ったぁ、夕飯はまだ?」
「何だい、口を開けば飯、飯、飯って。何人前喰えば気が済むんだい」
「しょうがないだろ? 育ち盛りなんだからさぁ。お腹が空いて、死にそうなんだよぉ」
「全く、だんだん、父ちゃんに似て来たねぇ。ウチはねぇ、長男の、お前だけが頼りなんだ。お前だけは、父ちゃんみたいになって欲しく無いんだよ。だから、しっかり勉強しておくれよ……」
「だからさぁ。勉強するにも『腹が減っては戦は出来ぬ』って言っているのっ!」
「分かったわよぉっ! サッサと着替えて、父ちゃんを呼んで来なっ!」
「はぁ——いっ!」
沙織里の家は、滝本工業と云う、小さな小さな工場だった。かつては、好景気に後押しされ、工場を拡張し、社員、従業員も二十人以上居て、順風満帆だった。しかし、時代の流れで、安い海外製品との価格競争に負け、拡張した工場の土地も、建屋も工作機械も手放す事になり、今では、自宅の駐車場だった場所にプレハブの作業場を場を作り、何とか工場の体裁を保っているに過ぎなかった――
「父さんっ!」
「うわぁあっ! 何だ良太かぁ……ビックリさせるなよ。『倒産』は禁句だって言っているだろう………」
「だって、父さんは、父さんなんだからさぁ。それより早く、夕飯だよ」
「夕飯? まだ、五時になっていないじゃないかぁ」
「もう、お腹が空いて死にそうなんだよ、可愛い息子に、ひもじい思いはさせたくないだろ? 早くぅ」
「分かった、分かった。キリの良い所までやるから、先にな」
「うんっ!」
仕事を切り上げ食卓に着くと、毎度の事だが、格差が酷かった。良太は特大のメンチカツにチキン・サラダとコーンスープ、冷や奴に納豆と香の物。父親の実はと云えば、メザシが二本に、切り干し大根と具無しの味噌汁だった――
「おいおい、またメザシかい?」
「贅沢、言うんじゃないよっ! 誰のお陰で、おまんまが食えるんだいっ!」
「いやぁ、俺だって……働いて、稼いでいるじゃないか……」
「先々月は五十万、コレは良い。でも先月は八万円、今月だって、入って来やしないだろ?」
「そんな事、言わないでおくれよ……」
「あんたのせいで、家族は皆、苦しい思いをしているんだよ? 少しは、反省しやがれってんだっ!」
「母さん、夕飯の時くらい、静かにしてよ。お父さんだって、一生懸命働いているんだから」
「沙織。大の男が、一生懸命働いて、雀の涙ってのはどうなんだい? 危険だろ? 年金生活者並みの収入で、家族四人が、やって行けると思うのかい?」
「私が働いて、少しでも、家計の足しになる様にするからさぁ……」
「お姉ちゃん、無職じゃん」
「フッフッフ。良太。お姉ちゃんは明日から、社員なんだよ」
「えぇっ! 就職、決まったの?」
「えっへん。まぁねぇ」
「何だ、良かったじゃないか。そりゃあ、良かった。でも、沙織には沙織の人生が有るんだから。家の事は気にしないで、確り蓄えておきなさい」
「よくもまぁ。そんな事を言えた義理かい? あんたが確りしてりゃぁ、結婚資金の心配だって、する事は無いんだよっ! 全部、あんたのせいだよっ!」
「もう、止めてって。こうやって、家族揃って、皆で、夕飯を食べられるだけだって、幸せじゃない?」
「そうだなぁ。世の中には、もっと、苦しい立場の人だって、沢山居るもんなぁ……」
「ふんっ! もっと、もっと、豊かな暮らしをしている人の方が、遥かに、多いですけどねっ!」
喜多美神社は神聖な空気と静寂に包まれていた――
「さぁてと。仕事も終わったし、多摩川でショーティと遊んで、帰ろうっと」
めぐみは、持ち物の点検を始めた――
「え――っと、おやつ持った、スコップ持った。除菌消臭スプレーに、ポリ袋持った。テニス・ボールとスリスビーも持った。良しっ! これで完璧ね」
皆に帰りの挨拶をして参道に出ると、再び、伊邪那美に出会した――――
「うわっ! お疲れです……失礼しまぁ―――すっ」
伊邪那美は、スルーして立ち去ろうとする、めぐみを呼び止めた――
「待てえ――いっ!」
「ひいっ、な、何か御用でしょうか……?」
「その方、帰りに道草する気じゃな?}
「道草って、犬と散歩して、遊んであげないと。可哀想なので……」
「可哀想などと、嘘を申すな。その方が、遊びたいだけじゃ……」
「あぁ…はい」
「その方の飼い犬の事は、存じておる」
「あら? そうなんですか?」
「その犬は、糞はせぬ故、持ち物は無用じゃ。ところで、その方。飼い犬の名前の由来を知っておるのかぇ?」
「名前の由来ですか? いやぁ……出会った時に『僕はジャック・ラッセル・テリアのショーティだよ』って。由来なんて、考えた事も有りませんけど?」
「ふむ。そうか……知らぬのかぁ……まぁ、それも良いであろう。フッフッフッフッフ。ハッハッハッハ、ハ―――ッハッハ、うっぷす、げっぷ、げっぷ」
めぐみは、マウントを取り、知ったかぶりで、偉そうに言うのかと思えば「それも良いであろう」と、答えずに含みを持たせた言い方で腹を擦りながら、高笑いをして本殿に帰って行く伊邪那美に、イラっとしていた――
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