誰も知らない海。
一方、その頃。何も知らない駿は、丸川書店の内村と打ち合わせをしていた――
「それで、お話とは?」
「先生、 新作の『あの日、君と見た流星』は順調です」
「あぁ、有難う御座います。でも、それ程……読まれているとは、言えませんよね?」
「はい。それが何か?」
「いえ、内村さんの機嫌が良いから、ちょっと……」
「そりゃぁ、まぁ、300万部を突破した前作と比べれば、それ程でも有りませんがねぇ。しかし、世代を超えて読まれているのです。読者の幅を広げた事は値千金ですよ。人気作家の階段を着実に登っている証明ですからね」
「そうですか。僕は、てっきり方向転換やテコ入れの話かと思っていましたよ」
「うむ。この作品は、意外にも主婦層が読んでいるんですよ。小学生から大学生までの若年層以外の読者を獲得した訳ですから、編集部も今後に期待をしているんですよ」
「はぁ。次回作の話ですか?」
「はい」
「一応、内村さんのアドバイス通りにプロットを書いて、少し書いてみたのですが……」
「私の『アドバイス』って、何か言いましたっけ?」
「ほら、子供の頃の思い出とか、家族の愛情物語みたいな、優しい心温まる作品のリクエストをしたじゃないですか?」
「えぇ? そんな事、言いましたっけ?」
「覚えていないんですか? 飲み会の時、編集長と一緒に肩を組んで」
「あぁっ! あの時の? あれは、そのぉ、勢いで言ってしまったんです。申し訳ありません」
「そうですか。もしかしたら、ノリで言っただけじゃないかと、僕も思っていたんですよ。はぁ、良かった」
「良かった?」
「えぇ。正直な話……ちょっと、違う感じになってしまったものですから、見せなくて済むなら、その方が良いですから」
「ちょっと、待ったっ! 先生。原稿が有る以上、読まない訳には参りませんよ」
「えぇ。勿論、読んで頂くのは構いませんよ。まぁ、只、読むだけでしょうから、此方も気が楽です。あはは」
駿は、書斎から書きかけの原稿を持ってくると、内村に差し出した――
「ほほぅ。結構な量ですな。どれどれ……タイトルは『誰も知らない海』ですか……」
あの夏 強い日差しの中で 僕は海を眺めていた
僕が見ている海は、皆が知っている海とは違う
僕は 誰も知らない海を見ている
「……うん、良いですね」
僕は 母を知らない それは 愛を知らないと云う事
僕は 父を知らない それは 勇気を知らないと云う事
「……嫌いじゃないですよ」
内村は、駿の描く世界にぐんぐんと引き込まれ、一気に読み込んでいた――
僕は 生まれると 母を殺した
僕は 生まれると 父に殺された
火の海に生まれ 火の海に死んだ
愛されなければ 愛を知る事は出来ない
愛されることで 初めて愛を知る
狂おしい愛の世界は 戻る事の出来ない 遠い道
帰る家の無い 旅路
内村は、読み終えると黙り込んだ――
「う―――んっ」
「随分、熱心にお読みですが……まぁ、忘れて下さい」
「いや、忘れる事など出来ませんよ。この作品はダメだっ! ダメだけど良いんですよ」
「えぇ? 僕は、てっきり内村さんが怒ると思っていたのに……」
「心外ですな。怒ったりしませんよ。良いんですよ、とっても……だから、ダメなんだなぁ……」
内村は頭を掻き毟って、歯ぎしりをした――
「ん? どう云う事ですか?」
「先生、御存知ですよね? 出版業界は風前の灯だと云う事を」
「はぁ」
「それは、つまり、売れる物しか出さないからと云うのが、私の考えなのですよ」
「はぁ……?」
「一攫千金、メガ・ヒットばかりを狙って、大渋滞を起こした結果と言えます」
「まぁ、競争の中で、埋もれて行くのは、仕方が無い事だと思いますけど?」
「勿論、競争相手は出版業界のみならず、沢山、居ますがねぇ。競争の中で心を失い、何時の間にか置き去りにされた……忘れられた人達の事を、誰も語らなくなってしまった。競争社会の中で存在を消された、名も無き人にそっと寄り添い、スポット・ライトを当てる……そんな作品が、僕は好きだなぁ……」
「内村さん。今日は、ちょっと変ですよ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよっ! 熱なんか有りませんよ、先生は私がマーケティングの事ばかりで、売れない作品はダメ、金にならない文章は無駄だと。きっと、そう言うと思っていたのでしょう?」
「えぇ。小一時間、説教をされそうな予感さえしていました」
「あははは。まぁ、無理も有りません……」
内村は、何時ものアールグレイを一口飲み、ふぅっと一息吐いて話し始めた――
「先生、昔は本屋に行くと、入り口には小学一年生とか、その隣には漫画本と週刊誌にエロ本。奥へ踏み入ると、専門書や学術書が有って、何気なく手に取って見ると、こんなに難しい本を書く人と理解出来る人が世の中に居る事に、感心したり呆れたり、自分の無知さに恐怖さえ抱いたものです。子供ながらに社会勉強になっていたんだと思います。しかし、今は違いますねぇ。本屋は同じ様な顔をしていても、人が見向きもしなくなったのは、広告に占領され、チラシに成り下がったからだと、私は思っているんです」
「はぁ」
「文学は智慧の宝庫です。しかし、本屋の魅力はそこじゃないんですよ。その傍で『此処に居るよ』と囁きかけて来る様な、誰一人として手に取らなそうな本が、静かに呼吸をしている……そんな出会いが有ったものです。それが今では、世の中の人の八割がボンクラだと言いながら、その八割のボンクラ相手に利益を出す事に躍起になっている……馬鹿げていますよ。本屋は一割のエリートの利益のために存在している分けじゃないんですっ! そりゃあ、市井の片隅に生きる小市民の生活を書いても、売れませんよ。分かっていますよ。でもね、誰かがそれを書かなければ、熱量を持って、それを描かなければ、何時しか、心の声は蓋をされ、葬り去られ、存在すらしていない……無いのと同じなんですよ。売れなくても、ナンセンスでも良いじゃないですか。私は、肩を並べていて欲しんですよ、生きているんだってね」
駿は、売れないと言うだけで、切り捨てられていく書籍の数々を人間に置き換えればリストラであり、利益ばかりを追求した事で利益を失い、心まで失ってしまった出版業界を嘆く内村の心情を理解した――
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