恋が電車に乗って来た。
玲子は研究に没頭出来なくなっていた――
「あの巫女さん『神頼みを後悔させません』と言っていたけど……私の願いを知っているの? 神通力でも有るのかしら……まさか、そんな事……有り得ない」
気が付くと退社する時間を過ぎて残業になっていた。研究データの更新と保存を行い帰宅する事にした。ところが、駐車場に着いて車に乗り込むと、エンジンが掛からない――
「何て事、買い替えたばかりなのに……新車特有の不具合かしら? 困ったわ……」
ディーラーに連絡をすると、サービスマンが駆け付けたが原因が分からず、結局、レッカー車で引き取られて行った。コンピューターの初期不良で直ぐに治ると判断し、夜も遅いので代車の手配の申し出も断り、電車で帰宅をする事にした――
暗い夜道を歩き駅に到着すると、丁度、電車が入って来たので乗車すると、車内は乗客も疎らで入口の手摺の有る座席に着いた。明るい車内から暗い夜の景色に眼をやると、窓ガラスにめぐみが映り込んで、玲子は声を上げそうになった――
「ルルルルルルルー!」「ピーッ!ピッ」
発車のチャイムが鳴り響きドアが閉まる瞬間、ひとりの男性が駆け込み乗車をして乗り込んで来た――
〝 駆け込み乗車は大変、危険ですのでお止め下さいっ! ″と怒りのアナウンスが車内に響いた――
男性はバツが悪そうに、周囲の乗客に「スイマセン」と頭を下げていた。そして、玲子の向かいの席にドッカと腰を下ろし、息を切らせている。
玲子はその男性に気付き息が止まりそうになった――
「憧れの先輩が目の前に座るなんて、こんな日に出会いたくなかった!」
車で職場とマンションを往復するだけで、職場では常に白衣を着ているため、お世辞にもお洒落とは言えなかった――
いや、本当に見苦しいダサい格好っだった。
玲子は目を逸らし、下を向いて気が付かないフリをした――
「先輩は確か調布に住んで居るから……きっとこの先で私鉄に乗り換えるはず、そこまで気が付きませんように……」
玲子の祈りは呆気なく却下された――
「玲子さん? 須藤玲子さんだろ! 僕だよ、覚えてないかな? サークルで一緒だった。ほら、美咲さんと一緒にダンスをしていた村山達也だよ!」
玲子はもう逃げられないと諦めた――
「あぁっ、先輩。お久し振りです、お元気そうで何よりです……」
達也は嬉しそう笑った――
「いやぁ、本当に久し振りだね。こんな所で出会うなんて驚いたよ! 今、どうしているの?」
「中央研究所で働いています。今日は車が故障して、それで、仕方なく電車で帰る事になって、こんなダサい格好で先輩に会うなんて恥ずかしいなぁ……」
「中央研究所! 凄いじゃないか、やっぱりなぁ……玲子さんはレベルが違ったからな。でも、僕の方がよっぽど恥ずかしいよ『駆け込み乗車はお止めください!』って、顔から火が出るとはこの事だね、あははは、今日は国立で特別なレッスンが有って、谷保まで歩いたほうが早いだろうと思ったら、結構遠くて……参ったよ、あっははは」
ふたりの笑い声が車内に響いた――
玲子は大声を出して笑うのも久しぶりだった。お互いに顔を見合わせ「しぃーっ」と言って周りに配慮したが、笑いを堪えれば堪えるほど可笑しくなった。
そして、ふたりを乗せた電車は次の駅を出発した――
「先輩、調布でしたよね? 次で乗り換えですよ」
「いや、引っ越したんだ。僕は矢野口。玲子さんは?」
「私は南多摩で降ります……」
「それなら一緒だね! 僕も南多摩で降りるんだ。二十四時間営業のジムに寄ってから帰るのが日課なんだ」
玲子は胸の高鳴りを感じていた――
「先輩は今は何をしているのですか?」
「あっ、言い忘れていたけど、ずっとダンスを続けているんだよ。今、立川で社交ダンスの教室をやっているんだ。玲子さんも遊びにおいでよ」
そう言って、名刺を差し出した。
「先輩は全日本クラスだから、私なんかとはレベルが違うもの……練習に付いていけないわ」
「いやいや、と言っても、ベスト・エイト入りが最上位だったからね。まぁ、まだ諦めてはいないけどさ」
「美咲さんはどうしていますか? お元気ですか?」
「元気なんて物じゃ無いよ! 子供を三人も出産して、旦那さんとドイツで暮らしているんだ。良いお母さんをしているよ」
「えッ、先輩、美咲さんと結婚したと思っていましたけど……」
「結婚? 美咲さんと? あははは、只のダンス・パートナーだよ。そんな風に見られていたんだ僕達。今度、美咲さんにメールしておくよ、あははははっ。僕は本当は玲子さんと組みたかったんだけどね。でも、年齢的な事と技術面から言って美咲さんが兆戦する最後の年だったから。上位入賞が出来たのも、今もダンスを続けられているのも美咲さんのお陰だから。感謝しているよ」
玲子は頭がぼーっとしていた――
「それじゃあ、またね。本当に一度、遊びに来なよっ!」
南多摩駅に着くと達也は駅前のジムに向った。玲子は普段ならタクシーで帰るのだが、長い坂道を歩いて帰る事にした。
半月の夜――
坂道をゆっくりと登りながら「玲子さんと組みたかった……」と言った達也を思っていた。
「私みたいなブスと組みたかったなんて……私なんかじゃ無理、笑い者になるだけよ」
玲子は自分の恋心を憎んでいた――
胸が高鳴ると必ず過去の失恋を思い出して前に進めなくなる持病が有った。
高校生の頃に友人に背中を押され、始めての告白をした相手に笑われ馬鹿にされた事、そして背中を押してくれた友人とクラスメイト全員からも笑われた事が心の深い傷になっていた。その後、入学前、夏休み、入社前と何度も整形手術をしようと思ったがタイミグを外してしまい、社会人になってからは研究が忙しかった事がそれをさせなかった。
マンションに帰り着くと、自分の車の無い駐車場を眺めながら中へ入って行った――
忘れようとすればするほど達也の事を、生まれて初めて異性からの好意を感じた瞬間を思い出してしまい、胸が苦しくなった。
玲子は就寝前に歯を磨きながら、鏡に映る自分の顔を見ていた――
「無い、無い、絶対、無いから。間に受けたら大変、勘違いは身を亡ぼすだけだ……もう、忘れましょう」そう心の中で呟くと――
「玲子さん。『神頼み』を後悔はさせません!」
洗面所にめぐみの声が響いた――