追い駆けて多摩川 ―探偵ごっことスパイ。
めぐみは目標のマンションに到着すると、須藤玲子の位置確認を行い、張り込みを開始した――
時刻は六時二〇分、ちょっと早過ぎた。
早朝は犬の散歩やウォーキングの人が多く、皆、顔見知りで「おはようございます」と朝の挨拶を交わしていて、植え込みや建物の物陰に隠れる事が不自然で出来ないため自転車を降りたばかりなのにウォーキングをする羽目になった。
暫く歩き回っているとケータイのアラートが鳴った――
「来たっ!」
めぐみが大急ぎで現場に急行すると、玲子は既に車に乗り込もうとしていた――
「待って、玲子さんっ!」
「バタンッ!」
無情にもドアの音で声が掻き消されてしまい、玲子はエンジンを掛けて走り出した。
めぐみは慌てて自転車に乗り追い駆けた――
運が良いのか悪いのか。通勤ラッシュで渋滞をしていて直ぐに追い着き追い越した。しかし、多摩川を渡ると信号が無い川沿いを走る玲子を土手を走って必死で追いかける事となった――
そして、中央研究所に到着すると玲子は正門に吸い込まれる様に入って行き、めぐみも一緒に吸い込まれたのだが、警備員に止められた。
――そして詰問された。
「あの車に用が有るの、須藤玲子さんに会いに来たの!」
警備員は仕方なく内線で呼び出した――
少しの間、待っていると白衣姿でポケットに手を突っ込んで玲子がやって来た。警備員に会釈をすると、視線の先にはトラック・スーツ姿で自転車の横に立っているめぐみが居た。
「んッ? あなたは昨日の……? 一体、私に何の用かしら?」
「鯉乃めぐみと申します。昨日の事を謝りに来たのです」
「昨日の事って……えっ! 私が言った事? ふっふふふ、そんな事で? わざわざ職場まで来るなんて馬鹿ねぇ、気にしなくて良いのに。あははは、面白い人ね、あなたって。ねぇ、朝食はまだでしょう? 御馳走するわよ着いて来て。そこで話をしましょう」
玲子は警備員から入門証を受け取ると、めぐみに渡して社員食堂に案内した――
「私は何時も此処で朝食を摂るの。何でも好きな物をどうぞ」
めぐみはサンドウィッチとフレッシュ・ジュースをふたつトレーに乗せて席に着いた――
「ゴッキュッ、ゴックン」
喉を鳴らして一気飲みをするのを見て玲子は尋ねた――
「あなた……どうして此処が分かったの? お家は近所なの?」
めぐみはサンドウィッチを頬張っていた――
「稲城市で……声を掛けたのですが……多摩川をっ、追いかけて来たんです」
「えぇっ! 驚いた。五キロ以上も走って来たの、凄いわね……でも、私が言った事はそんなに気にする事かしら?」
めぐみは頬張っていたサンドウィッチをゆっくりと飲み込み、本題に入った――
「昨日の事をどうしても謝りたかったのです。お許し下さい、本当に申し訳ありませんでした」
起立して、深々と頭を下げるめぐみを見て玲子は恐縮していた――
「そんなに謝らないで、さっき言った通りよ。気にしなくて良いの。あなたの若さに嫉妬したのも有るけど…… 私、無神論者なのよ。科学で証明出来ない事を信じてなんかいないの。だから、神頼みをした事を後悔している。あなたにはその事を見透かされている様で、恥ずかしくなったのよ。でも、却ってあなたを傷つけてしまった様ね。ごめんなさい」
めぐみは返す言葉が無かった。
玲子はベーグルを食べ終わると、見送るために社員食堂を出た――
正門に着くと、めぐみから入門証を受け取った――
「もう忘れましょう。楽しかった、気を付けて帰ってね。さようなら」
めぐみの瞳の奥がキラリと光った――
「玲子さん。神頼みを後悔はさせません!」
すると、辺りの空気が一変して冷たくなり「どうっ」と風が吹いた。
めぐみを見送り警備員に入門証を返却をした。すると警備員が心配して尋ねた――
「須藤さん、本当にお繋ぎして良かったのでしょうか?」
「はい。どうして?」
「制止を振り切ろうとしたので、取り押さえると『あの車に用が有る!』と言い張るので……最近、不審者も多いですからね。警察を呼ぼうとしたら『須藤玲子さん会いに来た!』とお名前を知っていたので、それで、一応お繋ぎしたのですが問題にならないかと思いまして……」
「ご心配なさらないで下さい。喜多美神社の巫女さんです。スパイでは有りませんから」
玲子はそう告げると研究室に向う道すがら考えていた――
「私の住所と名前を知っていたのは何故?」
厳重なセキュリティ・チェックの先に研究室は有った――
まだ誰も出社していない静かな研究室でパソコンを点検したが不正アクセスは無い。
「昨日、通りすがりに出会った巫女さんが個人情報を盗む事なんて出来る訳無いし……あり得ない……」
すると、ドアが開いて研究員が続々と入って来た――
「おはようございます! 早いですね。今日は一番乗りだと思ったのに残念!」
既に出社の時間になっていた――
玲子はめぐみの事を忘れ、いつも通り研究に没頭していた。ライブラリーから微生物を持って来て顕微鏡を覗いた時だった。顕微鏡の向こう側のめぐみと目が合った。
「キャァ―――――――――――ッ!」
思わず悲鳴を上げると、研究員達が驚いて振り向き注視した――
「室長! どうかしましたか?」
「何でもないの、問題無いのよ。私とした事が驚かせてごめんなさい。あははは……」
笑って誤魔化したが、心中穏やかでは無く心臓の鼓動を感じる程、動揺していた――
「私の個人情報を明かしたのは神社で神頼みをした、あの時だけ……」
玲子は「何か」を感じていた。
めぐみは遅番で、神社に着くと普段と変わらずに働いていた。そして、お昼休みに今朝の出来事を話した。
「嘘でしょっ! あんな事でわざわざ会いに行ったの?」
「めぐみさん、流石ですぅ! いい話ですねぇー、それに比べて……少しは見習って下さいよぉ」
「私がそんな事したら、ストーカと間違えられるかも知れないじゃないですかっ!」
「ストーカーどころか『痴漢! 変態!』って通報されていたかもね。うん、拗れるだけだからダメ、ゼッタイ!」
神職は涙目でめぐみに訴えた――
「どう思います、この人達の態度っ!」
「あははは、まあまあ。私だって『警察を呼ぶぞっ!』て警備員の人に言われましたからね。でも、あんな大きな研究所で働いている人だけに、冷静に話が出来て良かったです」
「高学歴で高収入なおひとり様なら、今の時代、男なんて要らないわね」
めぐみの眼光が鋭くなった――
「いいえ。神頼みは後悔させません。私の使命ですから」
喜多美神社は静寂と神聖な空気に包まれていた――