山の神がやって来た。
―― 二月十六日 仏滅 庚子
朝、めぐみが目を覚ますと、レミが朝食を準備していた――
「あれ? レミさん、朝食作ってるの?」
「勿論よ。昨日、あなたが遅かったから、七海ちゃんの焼き立てのパンを食べ損なったでしょう? だから総菜パンはリベイクしてサラダと南瓜のポタージュと一緒に。それと、バケットはフレンチ・トーストにしたから」
「あぁ、気が利かなくて、すみません」
「わぁお。作った甲斐が有ったお。レミさん、あんがと。顔洗ってくるお」
三人で朝食を済ませると、めぐみと七海は仕事へ向かう準備をした――
「ねえ、レミさん。合鍵はここに置いて行くお」
「七海ちゃん。今日は、私も出掛けるから、合鍵は必要ないわ」
「そうなん? でも……」
「帰りが遅くなると思うから。夕飯も用意しなくて結構よ。じゃあね」
「あぁ……行ってらっしゃい」
レミはサッサと着替えて出掛けて行った――
「レミさんは、何処へ行くんだろう?」
「昨日はアジトに行ったって」
「アジト? そんな物があるんだ?」
「らしいお」
「まぁ、私よりも先に地上で活動していた訳だし、行く所が有って当然よね」
喜多美神社は神聖な空気と熱気に包まれていた――
「皆さん。いよいよ明日は祈年祭です。全国の神社が、その年の五穀豊穣を祈願し、人間の生命の糧を恵んでくださるようにと、お祈りする大切なお祭りです。したがって、一粒の米にも神さまの御霊が宿ると考えられています。祈年祭では、稲だけでなく五穀の豊穣と国の繁栄、そして皇室の安泰や国民の幸福なども祈願されます。この日は、宮中の賢所においても祭典が行われるのです。気を引き締めて粗相の無い様にお願いしますね」
「はぁいっ!」
「はいっ!」
「はいっ!」
「それでは皆さん、持ち場に戻って仕事を続けて下さい」
典子は何時に無く神妙な面持ちで、その表情からは緊張感が伺えた――
「紗耶香さん、典子さん何時もと違って冗談のひとつも言えない感じでしたね」
「典子さんはぁ、神事をエンタメ化し過ぎた事をぉ、反省しているんですよぉ」
「あら? でも、神社的には経営が安定したはずけど?」
「めぐみさん。経営的に苦しくてぇ、ケツに火が付いた状態からぁ、なりふり構わず利益を追求してぇ、経営が安定してぇ、冷静になって振り返るとぉ『やり過ぎじゃね?』って、なるんですよぉ」
「あぁ、なるほど……」
「反省会がぁ、お通夜状態だったとぉ、神職の誰かが言っているをぉ、聞いちゃったんですよぉ。何時もぉ、反動が凄いんですよぉ。明日の祈年祭からぁ、夏越しの大祓まではぁ、ひとり謹慎状態なんですよぉ」
「それでなのね……でも、厳粛な感じがして良いですよ」
「めぐみ姐さん。お取り込み中、恐縮ですが、ちょっと良いですか?」
「あ、うん」
めぐみとピースケは参道脇の竹林で話をする事にした――
「ピースケちゃん、話って何よ?」
「めぐみ姐さん、明日、山が動くらしいですよ」
「はぁ? 山が動くってどう云う事?」
「萌絵ちゃんと美世さんの富士・浅間姉妹が珠美と合流するそうなんです」
「あら? 姉妹で喧嘩にならなければ良いんじゃね? 珠美も間に入って上手くやるでしょう」
「そうなら良いんですけどねぇ……」
「何よ?」
‶ ゴォゴォ――ゴォ、ゴゴゴォ――――――――ッ! ″
「きゃっ! 地震っ!」
「めぐみ姐さん、周りを見て下さい。典子さんも紗耶香さんも全く感じていませんよ。僕達しか感じ無い地震。それは……」
「もしや?」
「神の騒めきを意味しています」
するとその時、参道を一人の男が歩いて来た。中肉中背、丸顔でフランス製のクラウン・パントの眼鏡を掛けて大きな鼻としっかりと肉付きの良い唇で、旅行用のキャリー・ケースを引いていた――
「こんにちは。あの、お尋ねしたいのですが、此方に鯉乃めぐみさんはいらっしゃいますか?」
「はい。私ですけど……どちら様でしょうか?」
「あぁ、あなたが。やっぱりねぇ。申し遅れましたが、私はこう云う者です」
男が差し出した名刺には大谷松実と書いて有った――
「ん? 大谷さん……」
「いやいや、そうじゃなくて。ほら、超有名な。知らない人が居ない」
「超有名な? 大谷さん……って事は、オータニサンっ!? メジャーリーグの? えッ! 親戚の方ですか?」
「違うってっ! オータニじゃなくて、オ・オ・ヤ。日本の神様の中で知らぬ者が居ない、いるはずがない、あの超有名な、ほれ」
「誰?」
「だから、山の神よ。ほれ」
「山の神! 箱根駅伝で有名な?」
「大山津見神っ! 皆まで言わせんなっ!」
「あぁ、地上名が大谷松実なのね?」
「そうそう、そうなんだよ。やっと分かってくれたねぇ」
「その大谷さんが私に何か?」
「何かって何よ。もうちょっと、ビビるとか、驚くとか? もう、リアクションが薄くてガッカリだよっ!」
「さーせん」
「いや、誤らなくても良いんだよぉ。むしろ『娘達がお世話になっております』って、礼が言いたかったんだ」
「あぁ、そうだったんですね」
「美世が、明日は此処に来て祈年祭を楽しむんだって、嬉しそうに言うものだからね、それなら挨拶に行こうって思ったんだよ」
「あぁ。まぁ、美世さんは出来たお人なのでねぇ、何にも問題は無いのですが……」
「やっぱり、木花咲耶姫が問題なんですかねぇ……」
「いや、萌絵ちゃんも、明日は大丈夫だと思いますよ」
「も、萌絵ちゃん??」
「あ。御存知ではないのですね? 木花咲耶姫に佐倉萌絵と名付けたのは私なんですよ」
「本当ですか? それは有難う御座います。私が、どんな名前を付けても気に入らないと言いましてね……『死んでやる』って脅されていたんですよ」
「まぁ、私も脅されて名付けましたので。お互い苦労しますね。うふふふ」
「娘が御迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
「いやぁ、もう良いんですよ。済んだ事ですから。あの、でも、日常的に私を虐めに来るので、それを何とかして頂きたいのですが?」
「日常的に? うーむ、夫婦仲が悪いものですからねぇ。どうしても八つ当たりをするんですよ。他の神様に迷惑を掛けるなんて、情けない」
「あぁ、そういえば西野木誠も今、東京を『ノー・ハラ』にしているんですよ」
「はい。承知しております」
大谷は旅行用のキャリー・ケースを、めぐみに差し出した――
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