『冥府の時間』はお静かに。
由紀恵の顔色は土気色で死相が出ていた。めぐみが由紀恵の手をしっかりと握りしめて声を掛けると、ほんの少しだが体温が戻った。だが、既に事切れる寸前だった――
「あわわわ、大変、由紀恵さんが死んじゃうよ……とにかく、クロノ・ウォッチで時を戻そうっ!」
めぐみは二十四時間前へ時を戻そうと試みたが、クロノ・ウォッチの秒針がクルクルと回って、時間の設定が出来なかった――
「こんな馬鹿なっ! 一体どう云う事!?」
‶ カ―――ン カ―――ン カ―――ン コッツ。 カ――ン カ――ン カ――ン コッツ。 カ―ン カ―ン カ―ン コッツ ″
「足音が近付いてくる……あのゆっくりとしたゼンマイ仕掛けの様な足音は、あの男だっ!」
‶ カ―ン カ―ン カ―ン カン カン カン カン カン カン、コツッ! ″
足音は322号室の前で止まった。そして、ドアノブが音立てて回った――
‶ ガチャッ、ギイィィ―――――――――ィッ ″
「やぁ。また会えて嬉しいよ……」
「やっぱり、あなたね。私は嬉しくなんか無い。あなたは一体何者なの?」
「私は、冥府からの使者。まぁ、人間は私の事を『死神』と呼ぶがね……」
「死神!? これは、あなたの仕業なのね。お願い、由紀恵さんを助けてっ! クロノ・ウォッチを元に戻してっ!」
「お嬢さん、そうは行きませんよ。中俣由紀恵さんは死者の名簿に記されていますからね……」
「死者の名簿? だったら、あなたは何故、私を病室に案内したの?」
「答える義務も無ければ、答える必要も無い質問です……」
「私は由紀恵さんを助けに来たのっ! あなたの思い通りにはさせないわっ!」
「フッ。お嬢さん、最後の別れです。あなたは中俣由紀恵さんを看取る事が出来たのです。私に感謝しても罰は当たりませんよ」
「残念でしたぁ、私は罰を当てるの方なのよっ!」
「もちろん知っていますよ。あなたは神様。だからこそ、此処へ案内したのです」
「えっ?」
めぐみは、悪夢を見させたのも、風呂場に良仁が出て来たのも、この男の仕業だと思った。そして、由紀恵を救うため、ブライト・ソードを抜いた――
‶ ビイッシュ――――――――――ンッ! ブゥォオ―――――――ンッ ″
男はブライト・ソードの光を直視しない様にマントで顔を隠して背中を向けた――
「お嬢さん、私を殺す事は出来ませんよ。私も一応……神様なのですから。さぁ、どうか、そんな物騒な物は仕舞って下さい」
「仕舞っても良いけど、だったら由紀恵さんを助け……」
めぐみの話の途中で、男は突然、頭巾とマントを脱ぎ捨てると、向き直ってめぐみに正対した。男は背中を丸めていたせいで中肉中背に見えたが、実は立派な体躯の大男で、目には保護用のゴーグルを装着していた――
「お嬢さん、無駄な事です。由紀恵さんがどうなっても知りませんよ……仕舞いなさい」
めぐみは由紀恵の命には代えられないので、ブライト・ソードを静かに納刀した――
「どうなっても知らないって? あなたは、由紀恵さんの命を奪いに来たの……」
男は固く口を閉ざしたまま、めぐみの心に直接話し掛けた――
‶ お嬢さん。先程「私は『時』を気にしません」そう言いましたね? あなたのクロノ・ウォッチが使用出来ないのは『冥府の時間』が動いているからなのです。だからあなたは死神よりも早く動く事なのです。そして、その時に決して音を立ててはいけません。声を出さないで! 心で語り掛けるのです ″
めぐみは深呼吸をして丹田に力を入れて心で語り掛けた――
‶ つまり、あなたは由紀恵さんを助けようとしているの? 連れて逃げろと言っているのね? でも、どうして? ″
‶ お嬢さん。由紀恵さんの名を死者の名簿に記したのは良仁さんなのです。天の国を脱走した事も大問題ですが、冥府に侵入して、勝手に人の生死をコントロールした事は空前絶後の重大な事件なのです ″
‶ 天の国も良い加減ねぇ……そして、簡単に侵入される冥府も大概だわ ″
‶ お嬢さん。あなたの仰る通りだが、今はそんな事はどうでも良い事です。あなたの力で由紀恵さんを助け出した事にすれば、全ては丸く収まります ″
‶ 丸く収まるかしら? 何だか私が天の国からも冥府からも責任追及されそうだけど…… ″
‶ ならば、由紀恵さんの御命を頂戴するまでです ″
‶ それはダメっ! ″
‶ はっはっは。安心して下さい。天の国も冥府も、自らの過ちを公言する様な意味の無い事はしませんよ ″
‶ そうね、分かったわ。どうすれば良いの? ″
‶ 『落ち着いて、ゆっくりと歩く事です……そうすれば、全て上手く行きますよ』そう、申し上げたでは有りませんか。私は、この病院内の数名を冥府に連れて行きます。私がゆっくりと他の病室を回っている間に……由紀恵さんを連れ出して下さい。そして『冥府の時間』が終わり、あなたのクロノ・ウォッチが正常に動き出したら、それが成功の合図です。さぁ、早く……時間が有りません ″
めぐみは点滴の管を抜き、私物を纏めてバッグに入れた。そして、由紀恵を抱き起しておんぶさせると立ち上がり、ゆっくりと歩いて出て行った――
「ふぅ。由紀恵さんが、まるで死人の様で……重たいよぉ……此処は三階の一番奥なのにぃ……エレベータは使っちゃダメっ! とか? 音を立てたら一発で終わりとか? まるで罰ゲームなんですけどぉ」
めぐみが階段の踊り場に向かう途中で、おんぶした由紀恵の足が観葉植物に触れて倒れそうになるのを必死で止めて支えると、自動販売機の横のゴミ箱にぶつかり、缶とペットボトルを撒き散らしそうになって肝を冷やした――
「ふぅ。勘弁してよ……そう云えば、クロノ・ウォッチが正常に動き出すのが成功の合図ですって言っていたけど……失敗したらどうなるんだろう? 聞いておけば良かったなぁ……」
めぐみは、由紀恵をおんぶして三階から一階まで、ゆっくりと静かに音を立てずに階段を降りると、膝が笑ってしまい泣きそうになったが、無事に病院からの脱出に成功した――
お読み頂き有難う御座います。
気に入って頂けたなら
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援と
ブックマークも頂けると嬉しいです。
次回もお楽しみに。