夢で逢うならホラーな気分!
大家は帰宅をして、何時もの様にひとりで晩酌をしていると、妻の声が聞こえた。
妻の葉子は、たまに家に戻って、自分の部屋の掃除や、調べ物をしたり、趣味の手芸でミシンなどを踏んでいたが、何時もお互いに目も合わせず口も聞かなかったのに「声が聞こえた」と思ったせいなのか、立ち上がって玄関に出迎えに行くと、そこに葉子の姿は無かった――
「気のせいか? 年は取りたくないなぁ……」そう呟くと、ダイニングへ戻って、晩酌をしながら葉子と愛菜未の事を思い出していた。そして、お風呂でゆっくりと湯船に浸かって疲れを取り、床に就く事にした――
布団に入って、すーっと眠りに落ちそうになった時だった、何か物音が聞こえて意識が戻り、目を覚ましてしまった。普段は寝つきが良く、寝入りばなに起きる事など無かった――
「何の音だろう」
大家は起き上がってリビングに向い、周囲の確認をした――
「何かが倒れたり、落ちた形跡もないし、戸閉もしてあるなぁ。台所でもないし……」
その時、風呂場の方から物音が聞こえた――
「そうか、うっかり蛇口を締め切っていなかったか……」
洗面台の蛇口の確認をして、風呂場のドアを開けると、水を抜いた浴槽の中に愛菜未がいた――
「愛菜未? どうしたんだい? こんな夜中に、こんな所にいたら風邪を引くよ。さぁ、早く出なさい」
愛菜未は何も言わないで俯いていた。大家は浴槽から出るのに手を貸そうと肩を掴んだが、愛菜未は動こうとしない――
「愛菜未! 何をしているんだ、出なさい!」
愛菜未が顔を上げると、涙を流し目を泣き腫らしていた――
驚いて目を覚まし、夢だと気付いた――
「はぁ、夢かぁ……なんて、嫌な夢だ……」
大家はそれから毎晩、同じ夢を見た。しかし、同じでは無い事が、ひとつだけ有った。それは、愛菜未の涙が浴槽に溜まり、日を追う毎に増えていたのだ。そして、その涙に愛菜未は肩まで浸かっていて、大家は不安で恐ろしく感じていた――
「今夜、同じ夢を見たのなら、愛菜未の涙が浴槽から溢れているだろう……嫌な夢だ……」
あの日から、ずっと朝の清掃の時にも、夜の集金の時にも、めぐみとは会わなかった――
大家は、真直ぐ家に帰る事が出来ず、馴染みの居酒屋に寄り、大将や常連の客達から「娘を立派に育て上げた事」を誉められ「別居中の奥さんにも、分かって貰える日が来るよ」と慰められて、機嫌良く家路に就いた――
そして就寝すると、風呂場から「ザアーッ」と排水の音が聞こえて目を覚ました――
「又、同じ夢だ――」
そう呟いて、風呂場に行きドアを開けた瞬間、戦慄が走った――
浴槽は涙で一杯になり、溢れていた。そして、そこには愛菜未が水死体の様に沈んでいた――
「愛菜未! しっかりしろ!」
大家は全力で浴槽から愛菜引き上げ上げると、廊下まで引き摺り出した――
「息もしている、心臓の鼓動も、脈も有る。救急車!」
大慌てで、受話器を取ると反応が無い。そして、ケータイを取り出して画面を見ると全く反応が無かった。
「そうだ、これは夢だ! 夢なんだ!」
そう思って振り返ると、愛菜未は意識を失い目を閉じたまま涙を流していた。大家は愛娘のその姿に胸が押し潰されそうになった――
「早く助けなければ、表通りでタクシーを捕まえて病院まで連れて行こう! この悪夢に決着を付けてやる!」
大家は意を決して、玄関から表に飛び出した――
だが、そこには白い小袖の上に千早を羽織り、頭には前天冠を着け、長い黒髪を後ろで絵元結にしためぐみが、小烏丸造の太刀を携えて立っていた――
大家は驚いて息を飲んだ――
「めぐみさん? 貴方は、巫女さんなのか…… あっ、今はそれどころでは無い! 愛菜未が倒れて意識が無いんだ、頼む、救急車を呼んでくれ!」
「それには及ばない―― これは夢、この夢を終わらせるには、お主の狷介固陋の頑固頭を成敗せねばならぬ!」
「何を言っているんだ! 頑固頭など関係ない! 一体何者なんだ、愛菜未にもしもの事が有ったらどうする気だ!」
「愛菜未の涙は親を思う子の涙。どんな時でも、自分の事は後にして家族のために働いて来た父を思えば、言いたい事は何も言えずに、ひたすら我慢をしているのだ。いや、お主が強いているのだっ!」
「分かった様な口を聞くなっ! 家族のために必死で頑張って来た私が、我慢なんてさせるはずが無い!」
「お主は愛されている! 何故その事に気付かぬのだっ! 妻の葉子も愛菜未もお主を愛すればこそ、何も言えないのだ! 自分が愛されている事も分からず、一方的に愛情を押し付け満足し、ふたりを傷つけ苦しめている事から目を背けている。目を覚ませ! この戯け者!」
大家は涙が溢れて、言い返す言葉が見つからず、耐え切れなくなった――
「うるさい! どけっ!」
そう言って、立ち塞がるめぐみを突き飛ばそうとした次の瞬間、めぐみは体を躱して太刀を抜くと、大家の首を音も無く「スパっ」と打ち落とした――
大家の首は歩道から車道へ「ころころころっ」と転がって行き、それに合わせて景色が回った。
九十度傾いた視界に映ったのは、天へ上るめぐみと首の無い自分の身体だった――
痛みも無く血も流れない不思議な感覚に「これは夢なんだ……」そう思った次の瞬間、走って来たトラックが頭を「ペチャっ」と踏み潰した――