初めまして、丸山麗華と申します。
―― 十二月二十八日 大安 庚戌
二十二日の深夜に駆け落ちをして一週間、康平と麗華の生活も落ち着いては来ていたが、未だに挨拶が出来ない隣人がいた――
〝 ピンポーン、ピンポーンッ! ピンポーン、ピンポーンッ! ピンポーン、ピンポーンッ! ″
「やっぱり今日もお留守なのね……困ったわぁ……」
〝 ガチャッ! ″
「あっ!」
「うっせぇなぁ。留守じゃ無いんだよ、居るよぉ。この時間はいつも寝てるんだ。起こさないでよぅ、もうっ!」
「お早う御座います……御就寝中とは存じませんでした。知らぬ事とは言え、どうかお許し下さい。出直して参りますので、どうぞ、ごゆっくりお休み下さい。それでは失礼いたします」
「ちょとぉ、叩き起こされたんだからさぁ、サッサと用事を済ませてよっ! 何の用?」
「はい。この度、隣りに引っ越して参りましたので、その御挨拶に参りました。初めまして、丸山麗華と申します。これからなにかとお世話になりますので、よろしくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます。どうぞ此方をお納めください」
「あぁ、そんな事。御丁寧にサンキュ。あたしさぁ、蕎麦は嫌いなんだよねぇ……あっ! パスタじゃん。ソースも付いてる、アラビアータにカルボナーラにボンゴレまで。お洒落……気が利いてるーぅ、ラッキー!」
隣人の女は、麗華の頭のてっぺんからつま先までジロジロ見た――
「ふーん、隣の大工の奥さんかぁ。アイツ結婚したんだぁ……」
「彼奴?」
「フッフ。心配してんの? あたしさぁ、キャバ嬢なんだ。何度も誘ったけど店に来なかったからさぁ。『おいら、酒は一滴もやらねンだ。手元が狂ったら仕事になンねぇ』とか言っちゃってさぁ……てっきり女に興味無いのかと思っていたけど……ヤル事ヤってんジャン……」
麗華はキャバ嬢がエロおやじが如く、ジロジロ嘗め回す様に見ていたので不愉快だと思った。だが『失礼だ』と注意をして、康平の顔に泥を塗る様な事になってもいけないので黙っていた――
「だけど、あんた。良い女だねぇ……大工の女房なんて勿体ないよ。あたし、今は歌舞伎町なんだけどぉ、あんたなら銀座でナンバー・ワンになれるよ。コレねッ」
キャバ嬢はお店の名刺を渡した――
「いもっ娘クラブの柿木杏さん?」
「ちげ―よ、ウケるーぅ! それ源氏名。あたしの本名はぁ、竹中文乃でぇ――すっ。はじょろっ!」
「竹中文乃さん……はじょろっ?」
「初めまして、ヨロシクお願いしますを略してはじヨロ。それをネイティブっぽく言って『はじょろ』なの。分かるっしょ?」
「あぁ……はい」
「でも、本当に余計なお世話だけどさぁ、あんたなら銀座でナンバー・ワンから玉の輿コースも夢じゃ無いって。金持ちの愛人なら余裕だよ……いや、何人か掛け持ちありだから。こんなボロアパートで大工の嫁なんてさぁ……似合わないよ。貧乏暮らしに飽きたら私に言って。力になるからさぁ」
「有難う御座います。それでは私これで失礼します。お休みの所、起こして申し訳ありませんでした」
「ねぇ、あのさぁ。このアパート合体すると揺れるし、壁薄いからモロ聞こえだからね。私は気にしないけど、隣の受験生を喜ばすだけだから、ラブホ行った方が良いよ。まーたまた余計なお世話でゴメンね。パスタ、サンキュ。じゃあね」
〝 バタンッ! ″
麗華は文乃に「銀座で豪遊する超大金持ちのお歴々」は、ほぼほぼ父の知り合いだとは言えなかった――
「さて、お正月も近いし、買い出しに行かなくてはいけないわ。聞いた話では業スーと云うとても良心的価格のスーパーが有ると……康ちゃんのお給料では質素倹約しか出来ない。大工の女房は我慢と忍耐が不可欠です」
麗華は気合を入れてスーパーへ向かった――
〝 いらっしゃいませー、いらっしゃいませー、本日の特売は国産鶏もも肉1㎏が300円です。お見逃し、お買い逃し無く、お願い申し上げまぁーすっ! ″
「まぁ、混んでいますね。活気と云うより殺気が有るわ。あら、お安い事。キャベツの大玉が168円なんて……この露骨な陳列とスタッフを安く扱き使う事で安さを実現しているのかしら……」
麗華はお買い物を楽しもうと店内に入って行った。その姿を食い入るように見ている者が居た――
―― バックヤード 警備室
「不審だな」
「先輩、綺麗な人だからって、言い訳しなくて良いですよ」
「バカモーン! あんな上品なお嬢様が、こんな場末の、貧乏人と乞食と生活保護の不正受給者の吹き溜まりの様な業スーに来ること自体が異常。チェック!」
「は、はい。でも……」
「デモもテロもねぇーんだよっ! 俺ほどのベテランになると感で分かるんだよ。ほらほら、特売のマイク入れてんのに精肉・鮮魚はガン無視だぁ。日配品も素通りして冷蔵品の前で足を止めたぞ。チェック!」
「それにしても破格の安さね。これが庶民の味方と云うのね。かまぼこひとつの値段で伊達巻に栗きんとん。全てが買い揃える事が出来るなんて信じられない」
〝 あなたは素直で良い子です……でも、人を信じ易いのが難点ね ″
「はっ! 今、母上の声が……」
麗華は庶民気分で買い物をしていたが、その声に覚醒し、籠に入れた商品の表示を注視するとカゴから戻して、売り場の全ての食品表示を見て回った――
「ほらほら、見てみろ。怪しい何てぇモンじゃあ無いね。戻すフリしてカバンの中に入れたに違いないっ! チェック!」
「確かに、栗きんとんがひとつ少ない様な……あぁ、万引きGメンなんて、因果な仕事ですね。あんな綺麗な人が……」
結局、麗華は何も買わずにカゴを戻し、店外へ出た所で声を掛けられた――
「あの、チョッと。お客様、清算のお済でない商品が御座いませんか?」
「は? 何も購入しておりませんが。何か?」
「見ていましたよ。さぁ、事務所まで同行して貰いましょう」
「誤解をしているようですが、良いでしょう事務所まで参りましょう。私、何もやましい事は御座いません」
万引きGメンはその堂々とした態度と、毎度の常習犯の常套句に手ごたえを感じていた――
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