待ち人来る、喜びあり。
菜月はその声に驚いて振り返ると、心拍数が上がり、胸の鼓動を数えられる程だった。もう一輝の事を、数有るお客様の中のひとりとして見る事は出来なくなっていた――
「あっ、田中様……まだレジを閉めていませんので大丈夫です……よ」
「あぁ良かった、間に合ったぁ、助かります」
注文の書籍の確認をして、お会計を済ませると、菜月が手渡した本を満面の笑みで受け取った――
「どうも有難うっ! 閉店間際にすみませんでしたね、それでは。おやすみなさい」
菜月は何かを言おうとしたが何も言えず、只、見送るしかなかった。そして「はぁ」と溜息を吐いた次の瞬間、大きな物音がした――
〝 バァ――ンッ! ”
「痛たたたたっ……」
「大丈夫ですかっ! お怪我は有りませんか?」
半分下げたシャッターに強く頭を打ち、しゃがみ込む一輝に駆け寄ると、手を差し伸べた――
「あぁ全然、大丈夫です。いやぁ、ボクとした事が……恥ずかしいなぁ」
「でも、たん瘤になってますよ……」
「本当だっ! あははは、ははははっ」
「うふふふふふっ、あはははっ」
「笑って貰えて良かった。それでは」
立ち去ろうとする一輝に、今しかチャンスが無いと思い、菜月は勇気を振り絞った――
「あのっ! 無理なんです、私……」
「えっ! ……そうですかぁ。ずっと思い続けて居たのですけど……やっぱり駄目でしたか。そうですよね……仕方ありません、綺麗サッパリ諦めます」
「私なんかが……偉そうに、御免なさい……」
「いいえ、此方こそ、御無理を言ってすみませんでした。では」
菜月は店内に戻り、レジを閉めると、連絡ボードに自分で書いた「田中一輝様が注文の本を取りに来ていません」という文字を見つめていた。そして、溜息を吐くと一気に消して、タイムカードを押した――
「お疲れさまでした」
「黒田さん、今日は有難う。助かったよ、明日は十時迄で良いからっ! 気を付けて帰ってね」
「はい。失礼します」
こっそり張り込みを続けていためぐみは、仕事を終え帰宅する菜月の背中を見送ると安堵した――
「待ち人来る、喜びあり。良い縁談じゃないの、ふふふっ。でも神官が『心を隠した二人』って言っていたのが引っ掛かるのよね……」
菜月は帰宅すると確りと食事をして、充分な睡眠をとるつもりでいたが、気が付くとお見合い写真を見ていた――
「はぁ、お見合いかぁ……彼氏とデートとか一度もした事が無いし、だからこそ神頼みに……あっ! 良いご縁って、まさかっ? その御利益で、こんな良いお話が舞い込んで来たのだとしたら……でも、私の家族に会えば破談確定だし、神様って意地悪だなぁ。あーぁ、写真とお見合いしても仕方が無いよ。寝なくちゃ」
――翌朝
「ピンポーン、ピンポーン」
「もう、こんなに朝早くから何なのよ……」
「お早う御座います。大森です。菜月さん起きてらっしゃる?」
「うわっ、寝過ぎた、ヤバい」
菜月は目覚まし時計を見て飛び起きると、パジャマのまま慌ててドアを開けた――
「お早う御座います。あの、先日は有難う御座いました。何か御用でしょうか?」
「何か御用って、決まっているじゃない、この間の良い話の続きよっ!」
「あぁ、ちょっと寝坊して、今は時間が……」
文子は寝ぼけ眼の菜月を押しのけて部屋に上がり込むと、朝食の準備を始めた――
「早く顔を洗って支度しなさい。朝食は直ぐ用意しますからね」
冷蔵庫から残っていた卵焼きと海老真薯を取り出してホットサンドを作り、シーザーサラダと野菜のスープを作り、コーヒーを淹れると、部屋の中が良い香りで一杯になった――
菜月のお腹が「ぐうぅ――っ」と鳴った――
「頂きます」
「どうぞ、召し上がれ。食べながら聞いて貰いたいのだけれど、ねぇ、菜月さん。お見合い写真は見て頂けたかしら? お見合いしてみない? お見合い写真を撮りに行きましょうよ。ねっ」
「あの、文子さん……ご親切にして頂いて、本当に感謝してます。でも、私、お見合いなんて無理です」
「あら、どうして? 気に入らなかったの?」
「いえっ、気に入らないなんてとんでも無いです、私には勿体無い人ですよ」
「気に入らないなら仕方が有りませんけど、私には勿体無いなんて常套句は通用しませんよ。本当の事を言いなさいな」
寝起きにいきなり現れ、胃袋を掴まれてしまい、菜月は言い訳すら考える事が出来なかった――
「私、異性と交際をした事も有りませんし、いきなりお見合いと言われても……縁談って、家族同士の縁を結ぶ事ですよね……実は家庭に問題が有るんです。だから無理です、恥ずかしくて、出来ません……」
「あらやだ。本当に世間知らずのお嬢さんねぇ、おーっほっほ。家族や親戚に問題の無いお宅なんて、この世の中に有りませんよ。それよりもあなたっ! あなた自身の人生の方が大切なのよ。どんな問題が有るのか言って御覧なさいよ。おばさんが力になってあげるから。ねっ」
「はぁ、あのぉ……私の父は繊維製品の卸問屋で収入は人並み以上に有ったのですけど、ギャンブルが好きで借金を作り、取り引き先の信用を失ってしまい、大幅に収入が減って……母には大学に進学する時『実家から通える大学に行かないのなら、援助はしません』って言われて……振り切って東京の大学に進学したら、父の事も有って、今度はお金の無心をする様になって……結局、毎月仕送りをする羽目になってしまって」
「ふーん、事情は分かりました。菜月さん、その程度の事は何処にでも有る事よ。お父さんがギャンブルに嵌まったのもお母さんのせいでしょう? まぁ、中程度の毒親ね。そんな事でお見合いを諦めるなんて、人生を諦めるのと一緒よ」
「でも、田中さんのご家庭は市議でもあるし……」
「諦める必要は有りませんっ! あなたの御両親には、私から話をしておくから、安心なさい」
菜月は文子に言われるまま、麻実の美容室に連れて行かれ、半年振りに髪の毛を切り、セットをしてメイクをすると見違えるようになり、直ぐに馴染みの写真館に連れて行かれた――
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次回もお楽しみに。